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 六月の終わり、俺は奈緒さんと一緒に、父さんが運転する車に乗っていた。
 国道を北へ進むと、街の景色は消え、田畑と山が広がってくる。坂道が続き、山に近づいていく感覚が強くなる。

「奥星囲まで、あと一時間くらいか」と父さんがつぶやいた。
 道端には「落石注意」の看板が並び、木々がどんどん濃くなっていく。
「奥星囲って本当に山奥なんだな」と、俺はぼんやりと言葉を漏らした。
「ここでパンクしたら、レスキューだな」と冗談を飛ばす父さん。けど俺は全然笑えなかった。

 奈緒さんが「クスッ」と笑った。その笑い声が妙に耳に残ったけど、気にしないようにした。
 窓の外には、谷底が見え始めた。細い川が流れていて、急な斜面が続いている。
 車がカーブを切るたび、谷に落ちそうな感覚に襲われる。
 道端には「動物飛び出し注意」の看板も見えた。
 鹿や猪、熊まで出るらしい。
 
 車道の脇にはカラスの群れが集まっていた。
 何かをついばんでいるのが見えたけど、車はそのままカーブを何度も抜けていった。
 カラスの姿が妙に不気味に頭に残ったまま、車は山道を進んでいく。
 やがて、視界が広がり、『ほしかこい牧場』と書かれた看板が見えた。広大な草地に牛がのんびりと草を食んでいる。

 車を降りると、父さんが「やっぱりいい場所だな」とつぶやいた。

 俺も頷きながら、あたりを見渡す。牛舎と広がる放牧地では、牛が草を食べていて、緑が鮮やかに映えている。

 これが父さんの仕事の一部なんだと、少し実感が湧いてきた。
 ふと、一頭の牛が足を引きずっているのが目に入る。

 父さんは前を歩きながら、ぼそっと言った。

「あれは蹄病だな。早めに手を打てば治るけど、放っておけば動けなくなる」
「へぇ」と俺はぼんやりその牛を見ていた。

 蛇沼も動けなくなればいい、死ねばいい――そんな考えが自然と頭に浮かんでくる。
 背中に奈緒さんの視線を感じた気がして、背筋が少し冷たくなった。
 だけど、俺は何も言わずに牛を見続けた。

「社長、そろそろ商談の時間です」と奈緒さんが静かに声をかけた。
 事務所に入ると、白髪の年配の男がにこやかに出迎えてくれた。
「ようこそ、社長」と挨拶するその男が場長だった。
 俺も父さんに続いて軽く頭を下げたけど、場違いな気分で落ち着かなかった。
「ユーチューブ見たよ」と場長が俺の肩を軽く叩いた。
 少し嬉しくて、思わず笑みが浮かんだ。

 商談が始まると、場長が父さんに提案を持ちかけた。

 二人はじいちゃんの代から続く長い付き合いだという。じいちゃんはもう亡くなったけど、その縁が今も続いているのが不思議に思えた。

 牧場と隣のスカイリゾートは後継者不足に悩んでいて、父さんの飲食事業の成功や資金力に期待しているらしい。牧場とリゾートの発展に協力してほしい、という話だ。

 父さんはじっと話を聞いていた。奈緒さんがタブレットを開き、父さんに資料を見せる。
「少し検討させてください。銀行との調整が必要ですから」と父さんが言う。

「もちろん、急ぎません。お待ちしています」と場長は一瞬、不安そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。

 父さんが「祖父の代から大切にしてきた地域だから、思い入れはありますよ」と言うと、場長は深くお辞儀をし、「ありがとうございます。期待しています」と手を差し出す。父さんはその手を軽く握った。
「それでは今日はこれで」と父さんが締めて商談は終わった。

 車に戻ると、奈緒さんが「うまくいきそうですね」と微笑んだ。

 帰り道は奈緒さんが運転していた。

 父さんは助手席で外を見つめながら、「まだ詰めるところが多い」と少し厳しい口調でつぶやいた。
 車は山道に入り、険しいカーブが続く。父さんがぼそっと言った。

「星囲と奥星囲、両方手中に収めて上場できたら最高なんだけどな」
「上場するの?」

 思わず前のめりになった俺に、父さんは首を振って小さく笑った。

「目標だよ。でも、もし上場できたら、果歩子も彩絢も認めてくれるだろう」
「……どうかな。あの二人、感謝してるようには見えないけど」
「それでも、惚れた女だからな。果歩子が英斗と彩絢を産んでくれたことには感謝してるよ」

 父さんは一途すぎる。もし母さんが奈緒さんみたいな人だったら、事業はもっと大きくなっていたかもしれない。
 そんな俺の思いも知らず、父さんは続ける。

「果歩子の名義で、500万を仮想通貨に突っ込んでるんだ。上場か、仮想通貨が暴騰すれば、果歩子も見直してくれるかもな……」

 頼りない笑みを浮かべた直後、カーブに差し掛かり、車が大きく揺れた。
 強い揺れが体を押し付け、エンジンが唸り、タイヤがアスファルトをかきむしる音が響く。窓の外には深い谷底が広がり、吸い込まれそうな感覚に体が硬直した。

「ちょっと! 飛ばしすぎじゃないか?」

 父さんが声を上げた。
 ブレーキ音が響き、エンジンが静かになった。奈緒さんが「すみません、社長」と短く謝る。
 ハンドルを握る手がかすかに震えていたが、すぐにその動きは消えた。
 ルームミラーに映った奈緒さんの目が、一瞬鋭く光ったように見えたが、気のせいかもしれない。
 谷底が続き、黒い細い川が流れている。崖の端が見えるたび、底知れない暗さが車内に押し寄せてくるようだった。
 しばらく沈黙が続いたが、奈緒さんが口を開いた。

「社長、少し提案があります」
「ん? 何だ?」
「牧場とスカイリゾートの件です。地域一体化の発展を目指しているとおっしゃっていましたが、星囲にはチーラボ、奥星囲、そして『子どもホスピス』があります。例えば、ホスピスの子どもたちをスカイリゾートに一日無償で招待する取り組みを始めるのはどうでしょう。慈善事業として、地域に根ざした活動ができると思います」

 俺は驚いたが、黙って聞いていた。

「ホスピスの子どもたちを、リゾートに?」
「はい。スカイリゾートの自然は、病気の子どもたちにとって貴重な経験となるはずです。親御さんを含め、病状が安定した子どもたちを対象にすれば、安全面も問題ありません。地方創生としても評価され、補助金の対象にもなる可能性があります。また、ユーチューブでの注目を活かせば、事業の知名度向上も見込めます。今後、M&Aや提携を進める前に、この取り組みでどれだけ事業に貢献できるかを確認する価値があります」

 父さんは頷きながらタブレットを操作していた。どうやら奈緒さんが事前に準備していたらしい。

「確かに、補助金が受けられれば負担も軽くなるし、悪くないな」
「感動を与える活動は、いつの時代も人の心を動かします。特に、難病や余命をテーマにした物語は根強い人気があります。チーラボやスカイリゾートもこの〝感動搾取〟の物語に乗せれば、発展に大きく貢献できるはずです」
「〝感動搾取〟か……」

 父さんが顎に指を当て、つぶやいた。
 そのとき、行きでカラスが群がっていた場所が目に入った。何かの死骸が転がっている。

 肉はほとんど削がれ、白い骨が見えていた。ところどころに赤黒い肉片がまだ残っている。

 黒い影がその周りを飛び回り、血の乾いたような肉をついばんでいた。
 奈緒さんがちらりと視線を送る。口元がわずかに歪んだように見えたが、すぐに前を向いた。
 谷底には暗い影、削げた骨、残った肉片――不気味な光景が頭に焼きつく。胸の奥がずしりと重くなった。