俺は栞の手首を掴んで、無言のまま歩いた。小川沿いの古びた家並みが目に入る。
 苔むした石垣に、鬱蒼とした木々が垂れ込んでいる。栞の家だ。
 栞は一瞬足を止めたが、俺を見ずに鍵を回して扉を開けた。

 中に入ると、湿っぽい空気が肌にまとわりついてくる。風も通らず、薄暗いままだ。
 俺は電気をつけさせる余裕も与えない。額に浮かぶ汗がじわりと流れ落ちる。
 栞の手首も熱を帯びている。強く握りすぎたのか、それともただ体温が高くなっているだけなのかはわからない。
 居間に入ると、栞をじっと見つめた。栞は俺を見ず、肩が小さく震えている。
 視線はどこにも定まらず、宙を彷徨っていた。
 俺の中で何かが切れた。

 栞を畳に仰向けに押し倒し、俺は栞の足元に跨がった。膝は畳についているが、栞の体には触れていない。
 手を畳に置いて体を支え、栞の顔を見下ろす。
 ほんの少し体を動かせば触れそうな距離だが、俺の膝とスカートの間には、わずかな布がかすかに触れるだけだ。
 視線が自然と栞の体に移る。胸元が見え、唇がかすかに震えている。
 首元には汗で髪が張り付き、嫌でも目に入る艶やかさ。
 俺は息が荒くなるのを感じながら、栞を見つめているのに、こいつはあえて目を合わせようとしない。

「俺のこと嫌いなのか?」

 問いかけに、栞は体を強ばらせ、ゆっくりと首を横に振る。
 嘘だ。
 唇が小さく動くだけで、何も言わない。何かを隠している。

「なんで俺には何もさせないのに、あいつにはあんなことしてたんだ!」

 栞の二の腕を強く掴んだ。手のひらから熱が伝わってくる。
 指が食い込み、栞の顔がわずかにゆがむが、それでも目を合わせようとしない。
 胸元が張り出し、膨らみが目立つ。抑えられない。触れたい衝動がぐっとこみ上げてくる。

「我慢してたんだ! 死ぬほど触りたかったのに、ずっと耐えてたんだ!」
「……ご、ごめん……」

 かすれた声で謝るが、響くものがない。
 栞の目は遠くを見ている。

「本当に悪いと思ってるのか!」

 強く問い詰めたが、栞は答えない。
 眉がわずかに寄り、唇の端が引きつる。反応が薄い。
 心ここにあらずのような表情に、イライラがさらに募る。

「何だよ、その顔!」

 耳元で汗がじわりと浮かぶ。
 引き戸がかすかに音を立てた気がしたが、今はどうでもよかった。
 垂れた汗がぽたりと栞の首元に落ち、肌に吸い込まれていく。
 心臓がドクドクと早鐘のように打ち、視界は栞の肌に集中した。

「俺の彼女だろ! なら、やらせろよ!」

 体が小刻みに震えている。湿った感触が手に残る。
 睫毛がかすかに揺れ、栞は息を詰まらせている。何も言わない。

「同意したってことだからな!」
「……いや」

 冷たい声が空気を裂くように漏れた。
 栞は必死に体を引き寄せ、逃げようともがいている。

「認めただろ! 今さら無理だ!」

 後ろで畳を擦る音がかすかに響いたが、心臓が胸を突き破るかのように「ドン! ドン! ドン!」と暴れだし、すべての音がかき消されていく。
 手が止まらない。シャツ越しに大きく膨らんだ形がはっきりと浮かび、薄い布が張りついている。
 膨らみに沿ってシャツにかすかな皺が生まれ、指先がその皺にかかる寸前――。

「英くん、お願い! やめて!」

 奈緒さんの声が背後から響いた瞬間、心臓が止まったと思った。
 反射的に手が止まり、指先がほんのわずかに、シャツの皺から距離を残したところで固まった。
 振り返ると、奈緒さんがすぐ後ろに立ち、鋭い目で俺を見つめていた。
 俺は膝をついて栞に触れそうだったが、見えない力に押し戻されるようにあとずさる。
 さっきまで栞の二の腕を強く掴んでいて、ずっと我慢していた欲望を今こそ吐き出せるはずだったのに、奈緒さんの気迫にすべてが凍りついた。

 なぜ手を止めたのか、自分でもわからない。

 栞は無言で震えている。髪は乱れ、俺を見ようともしない。

 奈緒さんは栞にそっと手をかけ、無駄のない動きで引き離す。栞は壁際に座らされ、抱きしめられていた。

「栞が約束を破った……だから俺は……」

 声が途切れ途切れになる。頭が混乱している中、奈緒さんは冷静に見えた。

「ごめんなさい。英くんを裏切るようなこと、二度としちゃいけないのに、この子はやってしまったのね」


 胸の奥でわずかな不安が生まれたが、すぐに消えた。
 そうだ、裏切ったのは栞だ。俺は間違っていない。

「じゃあ俺も……破ってよくないっすか?」

 強い口調で抗議した。
 奈緒さんはじっと俺を見つめる。栞は奈緒さんにしがみついている。

「栞は浮気したんだ! 病人の世話をすると嘘をついて、蛇沼に膝枕して、俺のラインも無視して……ずっと!」

 歯を食いしばり、怒りをぶつけた。だが、奈緒さんは動かない。すべてを見透かしているようだ。

「……ちがう……いちゃついてたとか、そういうのじゃない……すんっ……。死ぬまでに、膝で寝てみたいって言われて……叶えてあげただけだよ……」

 栞は舌足らずな声で訴えるが、そんな説明で許せるはずがない。
 奈緒さんは栞をあやすように、同時に俺を宥めるように、落ち着いた声で問いかけた。

「どうして英くんに言わなかったの?」

「……怖かった……叩かれるかもって……」

「ラインを見なかったのはどうして?」

「……電波が悪くて……田舎だから……」

 額と首元に青筋が浮かぶ。言い訳ばかりが耳に入ってきて、俺の怒りはますます収まらなかった。

 静寂の中、奈緒さんは無言で栞に視線を向けた。息を吸う音だけが部屋に響いている。
 突然、奈緒さんが栞のスカートからスマホを取り出し、栞の指を押し付けた。

「この子が潔白かどうか、スマホで確認して」


 スマホが俺の方へ滑ってくる。ロックは解除され、栞が不安そうな目でこちらを見ている。

 奈緒さんは栞の唇に指をそっと当て、優しげに撫でたあと、俺に視線を移してさらに目を細めた。

「栞とエッチするのは、蛇沼摩夜が死ぬまで待ってくれない?」

 俺が望んでいたことを、奈緒さんは曖昧にせず、はっきりと言った。
 言葉が頭に響き、全身に広がっていく。
 瞳孔が開き、俺は栞をじっと見つめる。舌で何度も歯の裏を舐めた

「それって……」

 一瞬、言葉の重みで息が詰まるが、体はすぐに反応する。呼吸が乱れ、にやけが止まらない。
 奈緒さんは微笑んでいるが、どこか含みを感じる笑顔だ。
 だが、罠に嵌っても構わないとさえ思った。提案を受け入れたい。

「ママ!」

 甲高い叫び声が響く。栞が顔を上げ、奈緒さんにすがりつき、目を大きく見開いている。
 涙がぽたぽたと頬を伝い、唇がかすかに動く。
 奈緒さんは動かない。微笑みを浮かべたまま、俺を見つめ、続けた。

「心の準備なんて言い訳はさせないから。蛇沼摩夜が死んだら、好きにしていいのよ」

 声が少し遠く感じられる。栞を見つめながら、手で口元を押さえ、興奮を抑えようとする。

「はい、わかりました」

 当然のように頷く。栞以外のすべてがぼんやりと膨らみ、現実感が薄れていく。
 栞が一度だけ俺に視線を投げかける。
 顔は真っ赤で、泣き崩れているが、すぐに奈緒さんの胸に顔を埋めた。

「ママぁ……」

 泣き続ける声がくぐもって聞こえる。
 奈緒さんは栞の乱れた髪をゆっくり整える。その様子に違和感はあったが、同時に心地よさもあった。
 ふと、手元のスマホを思い出す。奈緒さんが「自由に見ていいわ」と促す。

 ライン、メール、通話履歴、写真……すべて確認したが、浮気の証拠はなかった。
 蛇沼摩夜に関する手がかりも、【すべてを知る者】の正体もつかめなかった。
 もう、怒りはどうでもよくなっていた。それほど気分は晴れ渡っていた。
 スマホを返し、泣き続ける栞を見下ろす。もう、かわいそうだとは思わなかった。
 俺に必要なのは、ただ待つこと。蛇沼摩夜が死ぬ日を。

 早く死ね、蛇沼摩夜……。

 心の奥で悪意が蠢いている。