収録が終わり、栞は奈緒さんと一緒に帰り、俺はひとりで家に戻った。
 玄関のドアを開けると、会社の明るさとは対照的に家の中はひんやりしていて、暗かった。
 足音がフローリングに響くと、廊下の奥から扉が静かに開き、淡い光が漏れてきた。
 母さんが顔を覗かせる。

「おかえり。遅かったわね、またお店?」

 まったくもう、といった表情だ。笑顔はない。父さんの仕事をどう思っているのか、表情一つでわかる。
 髪は短く整えられ、上品なカーディガンを羽織っているが、そんな姿を見ても俺の苛立ちは収まらない。これだって全部、父さんが築いたものだろうに。

「悪い?」と反抗的に言い返すと、母さんは肩をすくめて、「悪いなんて言ってないわ」とため息混じりに言う。
 言葉の一つひとつが引っかかる。まだ父さんの成功を認めないのか、と思うと苛立ちがさらに募る。

「ご飯は?」
「あっちで食べた」
「ラーメンばっかりじゃ体壊すわよ。たまには家でちゃんとした食事をしなさい」

〝ちゃんとした〟って何だよ。チーラボのラーメンが〝ちゃんとしてない〟って言いたいんだろ。

「サラダも食べてるし。もういいって、いちいちさ……」

 文句を返そうとしたが、話しているだけでイライラする。
 もう無視することに決め、母さんを横目に見ながら階段を上がり、二階の自分の部屋へ向かった。

 廊下に差し掛かると、パジャマ姿の妹、彩絢と鉢合わせた。
 短い髪に切れ長の目は、母さんを高校生にしたような顔つきだが、彩絢は俺を露骨に嫌っている。その冷たい視線は、母さんのそれよりも鋭かった。
 収録で感じていた高揚感が一気に萎え、苛立ちがじわじわと込み上げてきた。

「なんだよ」思わず吐き捨てるように言った。

 彩絢は冷たい目を向け、軽く背を反らせる。

「別に。浮かれてておめでたいなって思っただけ」
「は? 喧嘩売ってんのか?」
「売ってない。感想言っただけ。それに、あんたの連れがわたしの友達に絡んできて迷惑してるんだけど?」

 奏のことか。あいつが彩絢の友達にちょっかいを出しているという噂は聞いていたが、俺には関係ない話だ。

「それで怒ってんのか? 知らねえよ。文句があるなら奏に言え。て、お前、何様だよ?」
「そんなことで怒ってないし。お母さん、毎日ご飯作ってるのに、あんたが食べないから無駄になってるのにムカついてんの」

 彩絢は顔をしかめ、その生意気な口調にカッときた俺はすぐに言い返す。

「母さんが勝手に趣味でやってるだけだろ。やることねえんだから」
「バカにしてんの? お母さん、家事だけじゃなくてデザイナーの仕事もしてる」

 俺は鼻で笑った。

「それもただの趣味だろ。結局、父さんの事業のおかげで余裕があるんだ。それがなきゃデザイナーなんてできねえよ」

 彩絢は目を細め、俺を軽蔑するように見上げる。

「それ、完全にブーメラン。お父さんは確かに成功してるけど、あんたが経営ごっこできてんのも余裕があるからでしょ? 今日の撮影だって、乙黒栞を自慢したいだけなんでしょ」

 片方の口角を上げて、皮肉な笑いを浮かべる。薄暗い廊下にその笑いが消えていく。
 このやろう……!
 頭に血がのぼり、こめかみがピキッと痛んだ。

「おい、お前! 痛い目に遭いたいのか?」

 すると、下にいたはずの母さんが現れた。

「二人とも、やめなさい!」

 母さんの冷たい目が俺たちを見据える。彩絢はうつむき、小さくつぶやいた。

「でも……お母さんのご飯、いつも捨てられちゃうじゃん」

 勢いが消え、彩絢は下を向いたままだ。
 母さんは深いため息をつき、「もういいから」と宥めるように言った。

「英斗も早くお風呂に入って、休みなさい」

 不満を押し殺し、渋々応じた。

「俺が悪いわけじゃねえし。こいつが喧嘩売ってきただけだろ」

 ふてくされたように言い返し、彩絢を睨む。

「なあ、彩絢。今度お前、父さんにケチつけたら、この家出てけよ」

 彩絢は母さんを見上げたが、何も言わず唇を噛んだままだった。