「余裕ある振りをしてたけど、自信がなかった、だって、誰かが『恋だよそれは』って私たちに言ってくれる時代じゃなかったし、誰かに相談する人間じゃ、私がなかったし。だからこそブレーキかけようとも思わずに済んだんだろうけど」
「はい……」
 お約束じゃない本心は、発するのに特別な力を要する。
 取り繕いたい気分とか、言葉の解釈の主導権を渡す怖さとか、ばかだと思われたくない見栄とか、全部ないことにして、骨だけの言葉をさらし者にする。体が、ちょっとだけ震える。
 その、覚悟と恐怖が、見えない電気になるのかもしれない。
 甘くない、どころか、失礼なことを言っていても、一佳は耳を傾けてくれる。
「……ずっと予感はあったよ、いろんな破片が突き刺さっててさ。いつも目を奪われて。好きだな、かわいいと、思いはしてたよ。〈好きになった理由〉って名前の大きな絵じゃなくても」
「ふむ」
 一目惚れは、良いものを特等席で見る、その予約のために、直感が告げてくれたのではないか。
 この欠けらは、きっと良いものだぞ、と。
「パズルのピースを一枚一枚拾って、ようやく……なの、かな。元の大きな一枚を、あの時、見られた気がする。――ああ、だから好きになれたんだ、あんなに薄情だった私が、人を、って」
「…………」
「かっこよかったもの。一佳。体に染みついていたのか、練習し直したのかわからないけど、一朝一夕にはあんなふうに動けない。私は真面目にスポーツやったことないけど、積み重ねることができる人には、尊敬の気持ちが生まれるよ。しこりがあったかもしれないところを、相手チームの人をしっかり見て、フェアプレーで背中がまっすぐ伸びた、綺麗な選手。十五やそこらなのに」
「十五やそこら、でしたね」
 薄闇の向こうで、笑う気配がする。
 彼女には、もう過去の過去、とっくに終わったことなのだ。
「自慢に思った。私の彼女、いいだろ! って」
「ろくに、仕返し、できなかったんです。気が弱いので……」
「よく言う! 試合見て、やっぱ、気、強い子だな、って確信したよ、どれだけ睨まれても、涼しい顔で、スパスパ、ゴール決めちゃって! ……時間をかけた、勝ち方が好きだった。スッキリした。一佳が一番輝いてた。あ、試合で負けたとしても、だよ」
 彼女はあのクラスマッチの日に、うまくいかなかった二年間の屈託を、彼女なりのやり方で清算したのだと思う。
 その頃から、寛子への依存も減り、雰囲気もどこか柔らかくなった。
 そのやり方は、自分のケースをいじめと言われたくない、と訴えていた彼女らしく。
「勝ちましたよ。二十二対十九で」
「そういうところも! すごく好き!」
 ――覚えてんじゃん、と思えば、立派すぎなくて、やはり、かわいい。
 と思う寛子の価値観は、二十年以上経っても変わっていなくて、思い出しただけでときめきがこみあげてくる。
 ――あの頃の一佳も、再会後の一佳も、今同居している一佳も。
 今ここから、改めて恋をするくらい魅力的だ。
 変わったところもある。その変化まで。
「私、完璧じゃないから、人生も舗装された一本道にはならない。後から、ああここが繋がるんだ、って工事したり、橋を架けたり、穴を埋めたりして……思い通りにならない現実を編集しすぎると、どこかでシワ寄せが来るって恐怖はあるけどね。でも、幸せな瞬間をつないで、機転をきかせて、なんとかやってこれてる。ここ何年かの大変さを、一佳と乗り切れたことも、ちょっと自信になった」
「不安定な時代ですからね」
「そう、でも、知ってた。みんなどうかわからないけど、ずっとその、予感はあったんだよ。今みたいなことが起こらなくても、私にはそこそこ将来の苦労が見えてた。……あなたもそれを知っている人に思えた、あの学校で一人だけ……」
「…………」
「だからこそ私は、一佳がいいんだ。世渡り下手で、弱くて、違うところが強くて、いつも新鮮な気持ちで、きちんとしようと思う。わかりあえるし、放っておけない。あなたと最後まで生きるっていうのが、すごく、今の最強の目標」
「……私もです」
「ほんとに?」
「ほんとう、です」
 言葉で説明して欲しがる彼女は、実際のところ、語り掛ける言葉を多くは持たない。
 だけど、それで、いいと思う。
「そっか」
 寛子は彼女の短い言葉で、不安になったことはほとんどない。
 ――そりゃ、レアな愛の言葉を耳にしたい、欲はあるけれど。
 愛情が足りないと思ったり、他に好きな人がいるのかな、などとやきもきしたことはない。寛子の気質もあるけれど、一佳の普段の言動がそうさせてくれるのだ。
「……色々思い出しました。昔の私、生意気だったな……こんな私を好きと言ってくれて、ありがとう、寛子さん」
「いえいえ、こちらこそ」
「たくさん人間関係で痛い目見たし、あんなに怖いもの知らずには二度と戻れないけど。でも、そう、落ち着けばいいのかな」
「そうだよ。気が強い一佳、完全には消えないよ」
「……どうかな。でも……役立つかわからないけど、この前のお休み、図書館で、本を見ていたんです。悩み相談とか、心理学の……読みもの」
「へえ」
「少しずつ読んでみようと思ってます。親といるとしんどいの、私だけじゃないんだなって思えたから。私が読んでもいい本が、きっと、あると思うから」
「あるよ、絶対」
 ――なんだかんだ、私たちはしぶとい。心配は、いらない。
 きっと彼女は、こつこつ、また新しい大きな絵を積み上げていけるだろう。
 今日も、明日も、次の日も、笑って、泣いて、傷ついて、自分の欠けらを集めたり、捨てたり、確かめたり、拾い直したりしながら、真理を明らかにする日々が続いていく。 


 ……というのが本稿の結論となるが、より二人で永くしあわせに生きるためには、細かな問題点の洗い出しと再検討が必要となるであろうと思われる。
 それを今後の課題として、『生物実験室の彼女』、その中間発表をここで終えたいと思う。

 ――なんてね。