そして、自分でも意外だったのだが、そのことにひどく、浮ついた気持ちになっている。
 ――餌付け、か。なるほど、こういう。悪くないじゃん。
 もっとつつきたい。構いたい。
 甘やかしてもみたい。反応が見たい。
 彼女にとって「初めて」のことを、善し悪しは別にして、ひとつひとつ全部教えてみたい――。
 年少者への保護欲に、良からぬ気持ちまで加わって、それは寛子が今まで知らなかった高揚へと化学変化するのだった。
 寛子がそんなことを考えているとは、つゆほども想像していないのだろう彼女は、教諭の机が密集している部屋の左奥には行かず、入り口付近に戻りながら、コーヒーを飲んでいた。
 誰か来ないか、心配なのかもしれない。
 そっと横に立つと、彼女は先ほどまでよりずっと気を許したような表情で、寛子を見た。
「この棚も、せんぱいは開けられるんですか?」
 ……見上げた、とならないのは、悲しいかな身長差のせいで、寛子は態度に反比例して身長が低く、一年生の大半より――
 では、なく。
 目の前の鍵つきの棚の中には、硫酸や塩酸といった、取り扱い要注意の劇薬ばかりが入っている。
 寛子の密かな興奮は、氷水をかけられたように引いていった。
「……さすがに、ここは」
「ですよね」
 敢えて重く受け止めずに返答すると、彼女はさらりと納得する。
 食い下がることもなかったので、それ以上突っ込んで話を聞くこともできない。
 ――開けられる、と答えたら、どうする気だったのか。
 詳しく聞き出した方が良かったかも、とも思いつつ、自分に扱い切れないものには触れない方がいい気がして、寛子は黙ってコーヒーを啜った。
 飲むのが遅い彼女を待って、ビーカーを洗い、準備室を出る。
 準備室の鍵を閉める時は、思わずいつもよりも慎重に、施錠できているか確認してしまった。
 寛子のそばに立つことに、もう緊張しなくなったらしい彼女が、離れざまに言い残す。
「ここで自習していきます。部活動の邪魔はしませんから」
「……好きにすれば」
 その権利が自分にあると疑わない様子の彼女と、これ以上やり合う気はなかった。何より、寛子はこの夏休みに研究をひと段落させており、内部進学なので受験も、部活引退もない。
 つまりはとても退屈な日々を過ごしていて、新しい観察対象ができるのは大歓迎なのだった。


 彼女はそれから、放課後の生物実験室に顔を出すようになった。
 週に三度、多い時は四度。来ると器具棚の横、自分の定位置に座り、授業の復習や予習に精を出し、六時のチャイムと共に片付けをして帰る。
 勉強中はほとんど物音も立てないお行儀の良さは、寛子の気に入った。
 寛子はつかず離れず、注意深く彼女に接した。
 踏み込み過ぎると、彼女は手負いのケモノのように、わかりやすく警戒信号を発する。
 そんな頑なさを、寛子はかわいい、と感じてもいたから、危うさに触れない範囲で、ウザがられない程度にちょっかいを出す。
 しばらく彼女が勉強に集中した後、ひと息つきたくなった頃合いを見計らって。
 あるいは行き詰ったことを見取って、菓子を持って近づく。そして彼女がそれを摘まんでいる間に、ノートに視線を落とす。あくまでさりげなく。
「お、一次方程式だ。懐かしい」
「…………」
「そのノートの取らせ方、イッキシでしょ」
「…………? 田島先生ですけど」
「あの先生、xのこと『イッキシッ!』って言わない?」
 寛子が田島教諭の声真似をすると、彼女はくしゃりと笑み崩れた。
「言う! ふふっ……あ、すみません、すごく似てます」
「最初は、しゃっくりか何かだと思うんだよね。『イッキシ!』『イッキシッ!』って何度も聞こえるから、先生風邪かな? って隣の席の子と顔を見合わせて。でも、授業のたびに、『イッキシッ』が……」
「ふっ……! も……やめ……。次の授業で、私だけ笑っちゃうからっ」
 ウケたのが嬉しかったので、寛子は調子に乗って繰り返す。
 ツボに入ったらしい彼女はお腹を押さえるようにして、息も絶え絶えになるまで笑ってくれた。
「ふふふっ……はぁ……く、苦しいので……そのくらいに……」
「こらぁ、遊んでないでまじめに勉強しな! 後輩」
「もー……せんぱいのせいでどこまで解いたかわかんなくなりましたよ……」
 そんな風にじゃれ合って過ごす日もあれば、自分も教科書を開いて、まったく話しかけない日もあった。
 しつこく構って、嫌われたくなかったのだ。
 彼女が居合わせた日は、めだかの餌やりを任せてやることもあった。念願叶った彼女は、
「わー、食べてる食べてる」
と、嬉々として仕事を果たしたものだ。
「餌あげるの、そんなに楽しい?」
「はい、楽しいです」
「だよね。あ、今日もコーヒー飲む?」
「いただきます。……あれ?」
 彼女は間髪おかずに返事をした後、ふと首を捻る。
「せんぱい、私、餌付けされてません?」
「気のせい、気のせい」
 寛子は笑って準備室に向かう。
 彼女は憮然としながらも、何も言わない。


 お行儀が良く、寛子がどれだけ特別扱いしても、一線を引いた態度を崩さない――。
 それが彼女だったが、ある日は、生物実験室に現れた時から、雰囲気がおかしかった。
「……せんぱいも」
 珍しくシャーペンが動かない様子の彼女を覗きに行くと、あの罅の入っていそうな黒い瞳に、ふいに覗き返される。
「……ん? 何?」
「せんぱいって、私に興味ないですよね」
 寛子にとっては、心外の一言だった。
 見る目がない。それとも、外から見ると、寛子はそんなに分かりづらいのだろうか。
 気に入りでなければ、他人をこれほど近くに寄らせたりしない。
 寛子の性格をまだよく知らないから、言える台詞だ。
「……そんなことないよ?」
「あります」
 彼女は妙に確信めいて言い切る。
 間違いだらけの視野。打ち砕いてあげたくなる。そうすれば、もっと寛子のことが眼中に入るようになるだろうか。
「そうかなぁ。どうしてそう思ったの、長良(ながら)ちゃんは」
「だって名前すら、……え」
 思い付きで、初めて名字を呼んでみた。
 無意識の計算以上に、タイミングがてきめんにはまった。
 彼女の唇が、はくはくと動く。眉間がきゅっと絞られる。
 普段、表情に乏しい顔が「信じられない」という色に染まってゆくさまを、至近距離でつぶさに眺めることができ、寛子は眼福だった。
「なん……、で、私の、名前……?」
「ね。何でそう思った?」
 呼吸が浅い彼女は、会話の主導権をすぐに寛子に持って行かれてしまう。
 アドリブに弱い。
 彼女の中では、寛子を問い詰めるための話の組み立てが、既にできていたのだろう。その立ち上げを寛子のまぐれに挫かれて、ずたぼろになっている。
 自分の勝ち筋を見失った彼女は、ただの無力な一年生だった。
「何で、って……。だって、私のこと、何も……名前は知ってた、みたいですけどっ。せんぱい、訊かないじゃないですか、毎日、何しに来るんだ、とか」
「自習、でしょ? 最初に宣言してたじゃん」
「そう、ですけどっ……。ここ、自習用の部屋じゃないし」
「生物実験室だねぇ」
 ――よく知っていますとも。
 寛子は満面の笑みで応じる。