流行に流されない、クールな一佳の顔には、「よほど暇なんですね」と書いてあるようだったが、苦笑でも、心を動かして笑ってくれるなら、そうでないよりずっとましだと思った。
 道化になる、という励まし方しかできない自分が少し情けなかったが、家の中でなかなかシリアスに悩めないことに気付いた一佳は、この厳しい時代にさっと再就職先を勝ち得、転職してしまった。
 ――真面目な子、やっぱ、強い。
 寛子は感心するばかりだったが、一佳の方では、あの時の寛子の「エンタメ料理」群に謎の対抗意識――もとい、お返しの気持ちが芽生えたらしく、寛子の通勤日で、自分の帰宅が早い日に、キッチンに立ちたがることが増えている。
 出来栄えに関しては、今日もまだまだ納得がいかない顔だが、
「ああっ。にんじんが花の形になってるじゃん! こんなんできたの? 一佳、腕あげたね」
「……簡単なやつなんで……」
 一番手がかかっていそうなところをちゃんと見つけてあげられると、少し嬉しそうにする。
「風流ぅ。料亭じゃん。もはや、ここは博多と同じでは……?」
 寛子が無邪気に楽しんでいると、一佳もそのうちすべてがどうでも良くなるのだろうか。完璧主義の匙を投げて、目尻を緩ませ、雑談に興じてくれる。
「明太子と言えば、やっぱり博多が浮かびますよね。昔、工場見学に行ったことあります」
「えっ、いいなぁ」
 誰にでも合わせる子ではないから、なお、嬉しい。
 ――愛されてる。
 そう思う。
「それはそうと、寛子さん、何か落ち込むことがあったのでは?」
「……ああ。えーと、忘れちゃった」
「……寛子さん……」
 あきれた声を出す一佳のとんすいが空になっているのが目に入る。ん、と掌を見せると、彼女は反射のように、黙ってとんすいを寄越した。
 言葉がなくても、通じ合える。
 いわゆる老夫婦みたいな信頼関係。
 でも別に夫婦でなくとも、三十代でも、元「先輩」と「後輩」で、友人同士ですらなくとも、女同士でも、気遣いに必要な注意力と行動力、行動学習と、愛と感謝があれば、問題なくできることだと、わかった。
 寛子は一佳の器に、豆腐、しめじ、鶏肉とぶりの大きいの、お花のにんじんを入れる。
 少しのつゆを足してから、まだ崩れていない、山芋と明太子の地層をすくってかけ、一番上に三つ葉をトッピング。
 同居人のためにきれいに盛り付けしようとする集中と、くつくつと湯気を立てる鍋の芳香、胃にものが入った時の、わかりやすく空虚が満ちる感覚。
 しあわせの前に、帰宅時今にも弾けそうだったイライラは、どこかに隠れてしまったようだった。
 いっそ、空腹だから気が立っていただけのような気さえしてくる。
 ――私、生き物だなぁ。
 そして、ごはんは偉大だ。
「まあ、いつもの課長なんだけどさ」
「ああ。課長さん。また?」
「そうなんだよ。今日はそれがさぁ、もう、聞いてよ……!」
 これまでにも、困った部署長の愚痴は、さんざん一佳に聞いてもらってきていたので、どうにも吐き出さずにはいられない、という状態ではなくなっていたが、話題の一つとして、聞いてもらうことにする。
「……と、まあ、そんな感じ。古いやり方に全員を巻き込まなきゃ気が済まないんだから、かまってちゃんで、うっとおしい! しかも、定時近くなってから爆発するから、勘弁して欲しい! ……というので、いい加減堪忍袋の緒が切れて、憤慨してたのでした。まる」
 こうやって俯瞰で見れば小さなことだし、カリカリするようなことでもないような気がしてくるのだが、積み重ねとタイミング、そして言いたいことが言えない環境だと、溜まって、いつか爆発しかねない。
 自分一人しかいなかったら、きっとコンビニで味のきつい食べ物と缶チューハイかなにかを買って帰って、暴飲暴食でごまかしていた。
 そう思うと、そばに人がいてくれるありがたみが、しみじみ沁みるのだった。
 特に今は、友達とどこかに飲みに行ったり、カラオケに行ったりして憂さ晴らしすることが難しいので、尚更だ。
「お疲れ様でした、寛子さん」
「いやあ、もう、すべての悩みは、人間関係に通ず、よね。結局、職場でも何でも、苦労するのは、人間関係」
 しみじみと嘆息する寛子の中に、もう、本気のイライラや怒りがないことを感じ取ってか、一佳はどこか感じ入ったように呟いた。
「……だいぶ、寛子さんも、人間らしいことを言うようになりましたよね」
「何をぅ⁉ ……と言いたいところだけど、確かにね。学生の頃は、周りのことなんて、本当にどうでも良かったんだなぁ、私。何にも知らなかった」
「そうとは言いませんけど」
「正直に言っていいよ。争うのは生物だから、しょうがない、みたいなこと、昔えらそうに一佳に言っちゃってたもんね。しかし、生物だから、って思おうとしても、どうしようもなく腹立つやつはいるもんだ」
「わかって頂けて、何よりです」
「生存競争だって、人間の場合、そんな、単純なものじゃなかったじゃん?」
「ふんふん?」
「あ、一佳、シメどうする?」
「いや、もう、いっぱいです」
「だよね。明太子があると、ごはんが進んじゃって……じゃあもう鍋の中、さらっちゃうね」
 寛子は、箸を置いた一佳のぶんまで鍋の具をさらって平らげる。
 なんとか胃の隙間をこじ開け、詰め込むことに意識を傾けていると、一佳が話を戻した。
「……で? 生存競争が、なんですか? 寛子さん」
「あー……。えっとね。私、中高の教員を目指してたじゃない?」
 ――初めて、この子に、この話をする。
 と思いながら、寛子は箸を置き、口を開いた。
「はい。詳しく知りませんけど」
「うん、あの、大学四年生の時に、県の採用試験を受けたんだけど、二次試験で落ちちゃって」
「それは、だって、あの頃、教員の採用数、数人とかじゃないですか」
「そうそう。それで、もう企業の採用もほとんど終わっちゃってた頃だし、急に将来のことが不安になってさ。遅ぇよ、って感じなんだけど。それで、卒業前の、お正月だったかな、年末かも――に、小学校の同窓会があったから行ったのね。ちょうど帰省してた時期だったし、皆、就職、どうするんだろうと思って」
「小学校の……」
「そう、地元の、公立。で、まあ、就職、決まってる人も決まってない人もいたんだけど。来てくれた当時の担任の先生が、小学校の教諭目指してるけど採用が決まらなかったって子に、『もう、もっと早く相談してよ。ちょっと、連絡先残していって? 先生、がんばってみるから』って話しているのが、聞こえちゃってさ」
「……なんだろう」
「そう。なんだろう、って、ずっと思ってて。早くに相談していたら、どうなってたんだろう、その後、あの子はどうなったんだろう、って。結局、私と同じ、臨採のクチかもしれないけどさ。なんかでも、先生の口ぶりからして……。なんか、なあ、結局どうなったか知らないけど、そういうことか~って、ちょっと、思ったよね。世の中、こういう動き方か~って」
「なにかしら、コネをお持ちの先生だったのか……」