「……さっきのとこ。結構、良い会社そうだったんだよね。忙しそうだったし、こんな時間に電話かけてくるくらいだから、ブラックの可能性は高いけど、本社だし。上場企業じゃないけど、面接で行った時、働いている若い人の顔が明るかったし。挨拶もしてくれた。社屋もきれいだった」
「良いじゃ、ないですか」
「うん。……残業はほとんどない、とか、有休がしっかりある、とか。……詐欺だよな、って思いながら聞いてたんだけど。良い話すぎて怪しいって」
「そのへんは実際入ってみないとわからないですけど……」
「そう。決めつけるのはおかしいよね。だけど……」
「…………」
「ずるいでしょ、って、思ってしまった。面接で、結婚予定や出産予定も聞かれずに――趣味も牽制されずに。女であるってこととは無関係の質問ばかりされて。大学名で嫌味も言われず。教師を諦めた理由とか、前の職場をやめた理由は聞かれたけど、値踏みされるようなことはなくて、どこも色々ありますからね、ってむしろ共感するように言われた……。面接官ってわざと優しくしておいて落とす、とも聞くし、甘いところほど入った後しんどいとも聞くけど、……意地悪じゃなかったんだよね。査定して、攻撃して、弱ったら気に入ったのだけ採ってやっても良い、みたいな感じが全然なかった。お互い気に入ればいいですねって、圧が柔らかで」
「はい」
「そんな会社、受けたことなかったからさぁー」
「…………」
「何十社って、受けてきたのに」
「大都会ですからね」
「一佳が誘ってくれたから、そっか、東京かって……今までろくに東京の求人なんて見たことなかったけど……行ってみようかって思って、何も考えなかったけど。それで今思考停止しちゃってたけどさあ……なんというか。偏見じみた感じになるから言えないけど」
「わかりますよ。わかります。私だって、地元で一度は就活した」
「……東京に行く、行けば人生が変わる、って。人から聞くたび、ばかみたいって思ってたのにな……」
 親を捨てるわけではない、そう言い聞かせるけれど。
 関西の比ではなく、遠くに、離れて。
「ばかみたいですよ。だけど、実際に人で溢れるのは、そういうことだったんだって、腑に落ちることも確かにあって。……いずれ歪みにも淘汰があるとは思うけれど、それは、今じゃない。……だから、せんぱいを誘いました」
「なんで?」
「…………」
「なんで、一佳、私を誘ってくれたの」
「わからないですか?」
「…………」
「息のできるところ、わけてくれたじゃないですか。中学生の時。だからその恩返しです」
「鶴?」
「亀かな?」
「なんで?」
「鶴はいなかった。私たちの、生物実験室」
 寛子は懐かしさに目を細めた。
 教室の隅、水槽で飼われていた、亀とメダカ。
 狭い場所で限りなく閉じた、静かな生に思いを馳せながら、寛子はゆっくり、一佳の言わんとするところを咀嚼する。
 亀の、恩返し。――小さな頃に、絵本で読んだ。
「――ああ。りゅうぐうじょうかあ……」
「そう。タイやヒラメが舞い踊り」
「陸に戻ったら、玉手箱の力で婆さんになっちゃうんでしょ」
「人脈も地縁もない、地元を良く知らない婆さんに」
「こわい――ねえ――……」
「だけど、首長竜は、地元には来てくれない」
「…………」
 その言葉で、寛子が思い浮かべたのは、「かはく」の竜ではなかった。ぼんやりと、一週間眺め続けたビルの森、ひとときも開発のやまない大都会の風景のことを、思う。
 新しく建造途中のビルの上にたたずむ、鉄骨の首長竜。
 長寿のかれが、ゆったりと睥睨していた眠らない大都市は、自分たちのりゅうぐうじょうと成り得るだろうか。
 ……木造建築が傾き、鉄骨の団地が黒ずみ、商店の看板が煤けていくばかりの、懐かしい陸を離れて?
「交換しませんか。チケット」
「チケット?」
 寛子は首を傾げる。少し考えてから、財布を取り出し、札入れに入れていたバスのチケットを差し出した。
 すかさず、一佳もパンツのポケットから、小さなオレンジ色の切符を取り出す。
 東京という文字と、運賃だけが大きく書かれていて、それは当然、JRの切符。――なのだろうけど。
 その切符でどこまで行けるものか、田舎者の寛子にはわかりようがなかった。
「はい。乗り換え」
 一佳はくい、と、指に挟んだ切符を動かして、取れ、と合図する。
 仕方なく、寛子が左手を出して受け取ると、代わりのようにバスのチケットを引っこ抜かれた。
「これは私が、もらいますから」
「一佳……」
「幸せになって良いんですよ。せんぱいは」
 ――なれるのだろうか。
 自己責任の挙句で、今、こうなっているだけなのに?
 きゅ、っと締まった心臓の痛みに、寛子は俯く。
 何に怯えているのかも、もうよくわからない。多分、なにかを奪われてしまったのだ。それで、もうなにかよくわからない弱さにずっと、卑屈でしかいられなくなっている。
 ――誰が。なんのために。
 などと聞いても、みんな、自分の知らない道を尋ねられたかのように困った顔で距離を取り、きっと教えてはくれないのだろう。
 ――あるいは、この子だけは、違うのかもしれないけれど。
「この切符は、なに?」
「今日はうちに泊まってください」
 一佳の家の最寄り駅までの、切符、ということか。
 カプセルホテルに行く、という言葉は、華麗にスルーされていたけれど、考えることにひどく疲れていた。
 あまり良くない傾向、とはわかっている。
 一人で立つ、ということに、こだわりも自負もあって、だから、ブレーキがかかる。
 頼る、ことに。
「……せんぱい、台風が来た時帰れなくて、うちに避難したじゃないですか。あれと一緒だと思ってください」
「……あれは。迷惑かけたねえ。……子どもだったんだよ」
 懐かしいことを思い出し、ふふっ、と笑ってしまう。
 無敵な「せんぱい」は、一佳の家にずかずかとあがりこみ、お茶を出してもらって、ふんぞり返っていられた。
 だけど、今はそれとは違う生き物なのだ。
「来てください。私の、お願いでも、だめですか」
「優しいね、一佳は。でも大丈夫だよ」
「優しさじゃないです。もう、この人は……」
 めんどくさい、と聞こえた気がしたが、声になっていたかどうかはわからない。
 一佳は唇を噛んでいた。
 以前の彼女なら毒舌をもって、ひらひらと誘いを躱す寛子を責めたかもしれない。
 でも、彼女もきっと、別の生き物になったのだ。
 人間の幼生は愚かだから、疑う力が弱くて、信じる力が強くて――色々なことができた。
 大人になった今では不可能となってしまったことも。――幸せになることも、簡単で。
 でもやっぱり、とても、難しかった気もするけれど。
 正しくなさに、折れてはあげられない。大人になってしまったら。
 だから。
「せんぱいは、私のこと、嫌いになって別れましたか?」
「……こんなところで……」
「今離したら、もう近付いてこない気でしょう。めんどくさい人。わかってる。だから離しません」
「…………」
「私はずっと好きでしたから」
「…………。一佳」
「今でも、好きです」
 好き、と言う。
 それが、唯一知っている、他人に使える捕縛の呪文だからか。
 使う。