同じ学校に通いながら、寛子と一佳は、なんとなく居心地が良さそうな場所として、同じ生物実験室を選んだだけあって、休日に出かけたいような場所も似通っていた。地方都市ゆえの、選択肢の狭さというものはあるが、ともかくなにかと距離を縮めやすい同級生たちを差し置いて、毎週末、誘い合って出かける仲になるまで、時間はかからなかった。
 当時の寛子は、気楽さを優先して、固定の所属から逃げ回るように、気ままに同級生たちのグループや部活動仲間の間を泳ぎ回っていた。
 一佳の方は、もう少し人間関係に対して不器用だったが、そんなところが愛しくて、もっと知りたいと思った。
 行動を共にすることが増え、むき出しの言葉を気軽に交わしていたら、あっさり信じられないくらい近くまで、寄ることができた。
 互いの間に、障害物のようなものがなく、つまづきがなかった。――それがどんなに稀有なことか、人生経験が少ない頃だから、
 わからなかったのだ。
 なくしたら、もう簡単に手に入らないものだとわかっていたら、どうしただろう。そんなことを、考えても遅い。
「せんぱいは、今、何しているんですか?」
「無職だよー。色々あって、ちょっとのんびりしてる」
 彼女固有の会話のテンポを自分の舌が思い出すと、するするする、と、言葉が出て来る。スムーズに過ぎるほど、ほとんど思考を介さずに発された言葉は、当時の無遠慮な色を滲ませていた。
 ――そんなことを前触れなく明かされても、一佳がコメントに困るだろう。
 そう遅れて悔やんだものの、彼女はもちろんもう中学生ではないので、器用にするりと地雷を跨いでみせた。
「……のんびり。それは、良いですね。ご実家ですか?」
「まあね。一佳はいつまでこっちに?」
「明日には帰らないと。正月休み、短いんです」
 一佳はいわゆる、丸の内OLというやつらしい。
 ――協調性のなかったあの子がよく、就活をかいくぐって……。
 後輩の成長を寿ぐ気持ちはあったが、無職の寛子が上から目線で褒めて良いこととも思えず、結局、スムーズに会話を流すことに努めるのみだった。
「そりゃあ、大変だ」
「はい。また新幹線やらなにやら、四時間、缶詰です」
「お疲れさんだ」
「せんぱい、遊びに来ませんか?」
「……いつ?」
「いつでも」
「そりゃあ……良いね。けど、無職の身で遊び歩くのも、実家の目が、さ。親はそろそろ、定年が見えてきてるし。早く仕事見つけろ、ってうるさいから」
「……そうですか」
 きっかけがなければ、また、自然消滅するだけだろう。大人の暇が噛み合う瞬間というのは、奇跡でも起こらない限り、めったにあるものではない。
 これで永劫のお別れ、と思えば、少しさびしい気もした。しかし、一度ほどけた糸のしっぽは、容易には手の中に戻らないものだ。
 ひょろり、ひゅるり、相手と自分の間を横切る糸。さあ、いつまでそこにあってくれるものか。別のものに気を取られた瞬間、波間に潜って二度と帰らない、それは未練の影か――。
 会話の何かの拍子に、寛子は努めて明るく、あははっ、と笑ってのけた。繊細な糸を脅かす、ざわめきの泡。だってあれは、いつまでも追っていても仕方のない影。実りのないただの楽しさだから。
 ――さあ、せめて再会は楽しく、思い出は愛おしく。
 形良くやり過ごそうと思った寛子の目の前で、一佳はバッグを探り、スマートフォンを取り出した。
「チャットアプリ入れてます?」
「ああ……あれね、前の職場で使ってた」
 寛子は導入時以来、連絡先を新しく入れるということをしていなかったので、少し手間取りつつも、ふるふると互いの端末を揺らすことで、相手の連絡先を小さな箱に閉じ込める。
 そのすぐ後、マイクの拾う、こつんこつんという雑音が、会場に広がった。壇上を見れば、マイクの前にはいかにも偉そうな来賓が、長い話を始めそうな雰囲気で立っている。
「テーブルに戻った方が、良さそうですね」
「そうだね。じゃあ、一佳。ばいばい、……また」
 一佳も、せっかく遠くから来て、寛子とばかり話しているわけにはいかないだろう。寛子も後で、顔なじみの先生に挨拶しに行こうと思っている。大勢、人がいる会場で、きっと、このまま入れ違いになってしまう可能性が高いだろうことは、予測がついた。
 ――約束してたわけじゃないんだから。
 偶然とは言え、ばったり会えて、久しぶりに顔が見られたことを喜ぶべきなのだろう。自分の体が火照るように熱く、この不意の出来事に驚き興奮しているらしいことはわかったが、どういう感情によるものかは説明しようがなく――ひらひらひら。なんとか軽やかに手を振って、笑みを送る。
 一佳の方も同じものを返してきたら、それでしまいの筈だった。
 しかし。
「せんぱい」
 一佳はひらひらと手を振り返しながら、寛子の息が止まるようなことを言ってのけた。
「せんぱい、東京で転職するのは、なしですか?」
 ――……なんだって?
「……え? えー……。良いけど、なんで……東京?」
「私がいます」
「…………」
 どういう意味だと問い返したいのを、見栄で堪えていると、一佳は顔色一つ変えずに言うのだった。
「面接受けにいらっしゃるなら、家にお泊めしようと思って。お金、浮きますよ。連泊だとばかにならないでしょう。使ってください。日程決まったら、連絡くださいね。じゃ」
 言いたいことは言った、とばかりに踵を返した一佳の、すっと伸びた背中は、未練の端もひらつかせることなく人の波へと消えて行った。
 ――どういうこと……。いきなり、東京って……?
 一緒に東京の大学を受けようね、というような、ある種気軽で無責任な学生同士の約束とは、違う。もう互いに生活が――地に根付いたそれが、ある筈だ。ある程度、スタイルだって固まっている。たとえ職がない状態だって、様々な縁が絡まり、そうっと寛子を縛っている。そういうものだ。
 東京……。
 寛子は呆然と、遠くにある首都のことを、思った。
 一佳以外には知り合いもいない。親戚がいるという話を聞いたこともない。土地勘もゼロだ。理由もなく東京に憧れる友人たちも、高校、大学とそれぞれいたことにはいたが、はっきりとしないながらも、おそらく理由は彼女たちの中に存在した筈だ。流行りの店があるとか、服が買えるとか――。
 ただ、その希望をある程度叶えてくれる都会としては、関西の方が距離的に近かった。化け物じみた巨大さ、どこか機械的な冷たさを感じさせる東京よりは、大阪の方が心理的に親近感も持てる。大学時代を関西で過ごしたので、土地勘もあり、困った時に頼れる知人もいる。
 そちらで転職というのならともかく――。一佳がいるという理由だけで乗り込むには、あまりに説得力に欠ける誘惑だ、と結論付けて、寛子は自分の中に舞う澱をなだめた。あまりに説得力に欠ける、筈なのに、そんなことをあの聡明な子がわからない筈はないのに、と思えば、理屈に合わない気がして、余計に気にかかってしまうのかもしれなかった。
 結局、その日はそれきり一佳と話をしなかった。遠目に、元担任と話している彼女を見かけて、邪魔をしないように距離を取った、それが最後だ。