彼女たちが初めてキスをしたのは、生物実験室だった。


 生物実験室は、私立汀野(みぎわの)大学附属中学校の四階建て校舎、その二階廊下突き当たりにあった。
 がらがらと音のする戸を横に引いて中に入ると、つん、とアンモニア、遅れてかめの水槽の匂いが鼻腔に届く。
 窓際に三つの水槽と手洗い場、反対側に人体模型や骨格標本、顕微鏡や電流計、実験器具等がおさめられた棚がある。
 奥には理科教諭用の準備室があるが、不在時は戸が閉まっていた。
 授業が終わると、寛子(ひろこ)は毎日生物実験室に行き、めだかの水槽の横に座る。日課の後は、気の向くまま読みたい本を読んだり、気がかりな宿題を片付けたりすることもあるが、大きくてすべすべした黒い机の感触が好きで、突っ伏して居眠りしてしまうことも多かった。背もたれのない、木でできた角イスを前に傾けて眠ると、起きた時にはふとももの裏側に痕がついている。
 部活の時間ではあるが、他の女子部員は屋上菜園、男子部員は顧問の目が届かない三階化学室でそれぞれ羽を伸ばしており、教諭不在時の生物実験室は、実質、寛子ひとりの城なのだった。
 平穏な放課後。
 そこに、突如入り込んできたのが、彼女だった。
 ――すごい……目立つ子。
 と言うよりは、寛子の目に特別「刺さった」と言うべきかもしれない。長身で手足が長く、集団の中で頭一つ抜けそうなスタイルではあったし、好みの顔ではあったが、印象は地味であったから。
 短く切り揃えた髪は濡れたように黒く、前髪は厚め。運動部なのか、少し日焼けしている。リップすら引いていない化粧っ気のなさだが、その割には吊り目がちの瞳が大きくてかわいかった。紺のスカート丈は規定の膝下で、プリーツには皺ひとつない。
 まじめな中学生、を絵に描いたような姿だ。
 ――あ。でも……上履きの、色が違う。
 白い布キャンバス地の、つま先と底のゴムに色がついている上履きは学校指定のものだ。色が校則で決まっているわけではないが、不文律のように女子生徒はえんじ、男子生徒はコバルトブルーを選ぶものだったので、そうではない彼女は新鮮に映った。
 こだわりだろうか。何かの事情でそうなったのだろうか。
 開口一番に訊けることではないが、気にはなった。
 ――こんな子、いたかな。一年だろうけど。
 汀野大学附属は中高一貫校だが、高校で外部生を多く迎えるため、中学は各学年に九十人程度だ。女子ならその半分。学年が違っても、下駄箱やトイレ、ロッカー室などですれ違うので、目立つ子は自然と顔や名前を覚えられる。噂話の対象にもなる。
 しかし、そもそも、寛子は他人にあまり興味がないのだった。
 彼女の方も、寛子の姿が見えていないわけではないだろうに、先輩に挨拶するでもなく、遠慮するでもなく、堂々と生物実験室を横切って、窓際の水槽を覗き込む。あまり手持ち無沙汰そうにも見えなかったのだが、寛子は部屋の「城主」として、念のため尋ねた。
「何か用? ……忘れ物でもした?」
 彼女は何も反応しない。
 エアーポンプのモーター音が、気まずく空間を埋める。
 もしかして聴こえない振りを決め込む気か、それとも聴こえないのか、と焦れを感じたところで、ようやく、彼女は振り返り、寛子を見た。
「……いいえ」
「先生に用事? 授業でわからないところがあったとか……。職員会議で、今、いないんだよね」
「……いいえ。別に」
 彼女は表情筋も、唇すらろくに動かさずに、ぼそぼそと答える。
 小さいが、その割にはよく通る声だ。だが内容は要領を得ない。
 寛子は舌打ちしたくなった。
 ――何しに来たのか、って訊いてるの、わかんないのかな。
 知らない先輩に話しかけられ、怯えて挙動不審になっている、という感じでもない。むしろ、逆だった。背中を伸ばし、愛想笑いひとつなく視線をぶつける。不遜な態度、と言えるかもしれない。
 目障りな後輩を説教し、先輩風を吹かすような同級生のことを内心軽蔑していた寛子だが、好き嫌いは当然ある。
 空気を読まず、打って響かない相手に対して親切にしてやるような度量もまた、持ち合わせていなかった。
 ――めんど。もう、放置しとこ。
 苛立ちめいた感情が、寛子の眉間の辺りにわだかまる。
 それを読み取ったのか、先ほどよりは強めに、押し出すような声で、彼女は言った。
「私が、ここにいたらいけない理由――何かあるんですか?」
 思いもよらなかった返しに、寛子は絶句した。
 理由。――理由?
 わざわざ説明しなければいけないようなこととは、寛子には思えなかった。
 しかし、疑問をぶつけられれば、回答義務がこちらにあるような気もしてくる。
 本来、疑問をぶつけたかったのは寛子なのだが……。
 ――疑問に疑問で返しちゃいけない、っていうの、常識だと思ってたけど。違ったっけ。そもそも、何で、だめなんだっけ。
 結局、「返されたら自分がムカつくから」という理由しか思いつけなかった寛子は、「その理由は駄目でしょ」と判断して、仕方なく答えた。
「……いや、だって……部室だし」
「えっ?」
 ――えっ、て何だ。
 心の中で突っ込みながら、続ける。
「夏休み明けで、入部希望もないでしょ。いや、できなくはない? できなくはないかもしれないけど、わかんない、先生に訊いて」
「入部する気はないです」
 それは半ば予測していた答えだったので、深く考えずに流す。
「ここ、科学部の部室だからさ……」
 部室は部活動のためにある。部外者は立ち入らない。
 それが「ふつう」だ、と寛子は思っていたから、ずかずかと入ってきた彼女には最初から疑問符しか浮かばなかった。
 もしかしたら、喧嘩を売られているのか? 舐められているのか? とすら思った。
 悪意を除けて考えれば、「ルールをまだ知らない」と解釈もできるのだが、それを講釈しようと思うと、「ルール」がどこまで正確なものか、自信がないことに気付く。
 科学部の、一部の活動に必要なものがここにあり、持ち出しができない。ということは、寛子はここで活動する他はない。
 と同時に授業で使う場所であり、生徒が忘れ物を取りに来たり、理科教諭に補習を求めに来たり、教諭が明日の準備をしているということはざらにある。
 その場合、寛子も特に、気に留めない。
 ――じゃあ、用がない生徒が、「いたらいけない」理由……?
 寛子は匙を投げた。
 わからない。
 部室に友達を集めてたまり場にしていたら、「まじめに部活動しなさい」と怒り出しそうな教師もいるが、彼女と面識はない。
 そして、そもそもそういうことを気に留めそうな科学部の顧問でもないのだった。
 ――問題があるなら、先生が注意するでしょ。任せよ。
 好きにしてくれ、ということを寛子が言おうとすると、彼女が先に口を開いた。
「化学室にも何人か人がいたから、活動場所、そっちかと。実験とかしている風だったし……。せんぱい、寝てましたよね?」
 ――先輩に本当のことを指摘するとは、生意気な子だ。
 と思いつつ、不躾な物言いに慣れ始めたこともあって、寛子の中に彼女への興味が芽生えつつあった。