——「数値は安定しないけど歩き回れるくらいには元気! この調子だったら手術も大成功だねっ」

 手術までの二週間、言寧の容態は安定している日が続いた。
 検査結果に大幅な回復はなかったけれど、院内の中庭で少し散歩をしたり、下の階にある売店に行ったり、適度に身体を動かせているらしかった。
 
 ——「お母さんとお父さんが電話を掛けてきてくれたの! 久しぶりに家族三人で話してそれぞれ緊張してたけど、最後は昔に戻ったみたいな空気で、嬉しくなっちゃった」
 
 三年ぶりに、両親の声を聞けたと震えまじりの嬉しそうな声で僕に教えてくれた。面会ができず通話越しでの家族の時間だったけれど「手術が終わって一時退院ができたら会うって約束したんだ!」と言寧は胸を躍らせていた。言寧が子どものように無邪気に喜んでいる姿は、やっぱり僕も嬉しくて、言寧から「大袈裟だよー」と笑われてしまうくらいの熱量で「よかった……!」と言ってしまった。
 
 ——「手術はちょっと怖いけど今は未来が楽しみなんだぁ」
 
 病気のこと、家族のこと。十七年間の苦悩や我慢が報われていくように、言寧の人生は未来へ動き出している。
 そうして迎えた手術前夜、僕たちは浴衣選びのとき以来のビデオ通話をした。
 元気そうな声や表情とは対照的に、無数に繋がれた点滴の管が痛々しかったけれど、相変わらず言寧は前向きだった。
 
『ねぇ! 実はね! 術後容態が安定したら一週間の一時退院していいって言ってもらえたの……!』
「えっ、嘘……やった、よかった……!」
『それにね! 退院予定期間に私たちが好きなバンドが病院から二駅先にあるライブハウスでワンマンライブするんだって……! そんなのもう行くしかなくない!?』
 
 舞い込んできたのは、僕にとっても、言寧にとっても嬉しくてたまらないニュースだった。ある程度の外出は許容範囲とのことで、僕たちはそのライブをいちばん近い未来の目標と決めた。
 それからの時間は会場周辺のカフェを調べて地図アプリの【行きたい場所】に登録したり、それに合わせて術後の予定を共有カレンダーに記入したり、当日現地で販売される限定グッズをチェックしたり。手術前夜の夜とは思えないほど、僕たちの会話は希望に満ち溢れたもので、それがとても心地がよかった。
 そして、一瞬で過ぎ去ってしまった二十分の通話の最後には。
 
「『おやすみ』」
 
 そんな日常的な言葉を贈りあった。
 頑張ってくるね、や、待ってるね、なんて特別な言葉ではなく、当たり前のように明日が来るように、そんな想いを込めて、僕たちは当たり前に口にする言葉を交わし合って眠りについたのだ。
 
 *
 
『担任にはいい感じに理由つけといたから、文都は心置きなく辻紫さんのところ行って大丈夫だよ』
「僕が言っても信じてもらえないだろうに……創也の人望ってすごいな。ありがと、急だったのにほんと助かったよ」
『こういう時のためにも来年はちゃんと普段から出席するんだぞ? それで手術終わるのって何時だっけ?』
「夕方の六時とか、早くても五時って言われてる」
『待機し始めるの早くない!?』
「確かに、早すぎるかもな。でも目が覚めてすぐ隣にいたいんだ」
 
 手術当日、朝七時半。
 創也との通話をスピーカーにしながら、僕は病院へ向かう支度をしている。普段は寝癖なんて気にも留めずに、ネクタイすら結ばずに家を出る僕だけれど、今日はそういうわけにはいかない。
 
「なぁ創也」
『ん?』
「……ネクタイって、どうやって結ぶんだっけ」
『嘘だろ、ちょっと待って、口で説明するの難しいから動画送る』
 
 創也から送られてきた『簡単! 初めて制服を着るそこの君へ! ネクタイの結び方を伝授!』なんて高校二年目の僕へ送るにはからかっているとしか思えないタイトルの動画を見ながら、手探りで布を通しては引っ張ってを繰り返す。
 悔しいけれどわかりやすくて、少しシワのついたシャツの上では浮いてしまうくらい綺麗に結ぶことができた。髪を整え終えた僕は鏡の前を離れ、机へ向かった。
 小さなジップロックにそれぞれ入れたUSB。一つは言寧をヒロインとして描いた小説の原稿が、そしてもう一つには——。その二つを鞄の内側のポケットへ入れて、僕は鞄の口を閉めた。
 
「なぁ創也」
『なんだ? 今度は髪のセットでも聞くつもりか?』
「違うよ、もう支度は完璧だ」
『それはよかった。からかって悪かった、それでなに言おうとしたの?』
 
 あらたまって言うには恥ずかしい気持ちもあるけれど、それでも僕は素直でいたい。
 手術を乗り越えた言寧に胸を張って会うために、僕は僕の殻を破る。
 
「……あの時、小説書くの辞めるなんて卑屈になって、ごめん」
『それは別に謝ることじゃないよ』
「違うんだ、僕はあの時、創也に嘘をついたから。本当は受賞した創也が羨ましくて、なにも結果が出ない自分自身に焦って、ちゃんと心から『おめでとう』って言えなくて。でも創也に当たったりしたくなくて、投げやりに辞めるって諦めるってなっちゃって、だから……」
『文都はとことん不器用なやつだな』
「え——」
『一生懸命にやってることで自分より先に結果出したやつが目の前にいて、誰が純粋におめでとうって思えるんだよ。嘘ついた、なんて素直になりすぎなくていいのに。優しいくせに不器用すぎて心配だよ。それに、謝るのは俺のほうだ。受賞して安心しきって、嬉しくて、文都の気も考えないまま言っちゃったから。俺は文都を傷つけた。だから、ごめん』
 
 創也からの言葉に、僕は準備をする手を止めてその場で立ち尽くしてしまった。ごめんねとありがとうが、忙しなく頭を駆け巡って、あの日からの創也との記憶が鮮明に浮かび上がってくる。
 書籍化作業が忙しいだろうと通話の頻度や放課後に空き教室で執筆会をする時間を抑えていたもどかしさ、一緒に見ていたコンテストの結果発表を一人で見るときの寂しさ、原稿を交換して新作を読みあう習慣が途絶えた虚しさ。小説のこととなると、僕は無意識に創也のことを避けるようになっていた。
 もっと早く素直になれたらよかったのに、なんて悔やんでも遅い。
 そんな僕にとって今の言葉は、創也が両手を広げて僕を待ってくれているように感じて、それが言葉にならないくらい嬉しかった。
 
『文都』
「なに?」
『俺は可愛いヒロインが好きだ』
「え?」
『でもまだ心臓を撃ち抜かれるくらいのヒロインに出会ったことがない』
「創也、急にどうしたの?」
『だから文都に生み出してほしい。誰よりも大切で、好きな人をヒロインとして描いてるんだ。そんなの誰よりも可愛く、愛らしく、魅力的に描く以外ないだろ?』
 
 伝わった。創也は僕に「描き続けろ」と言っている。
 不器用なのはどっちだよ、と言いたくなるくらい遠回りな言い方に笑ってしまいそうになる。ああ、もちろんだ、僕は言寧を誰より可愛いヒロインとして描き通すさ。そしてこの手術が明けたら、僕と言寧の物語は一度終わりを迎える。
 
『そういえば前に言ってたサプライズってどうなったの?』
「順調だよ、言寧が手術から目覚めて容態が安定したら一緒にエピローグを描こうって言える状態まで話は書けてる。最後まで僕一人の言葉より、言寧も小説を書いてたし、二人のことは二人の言葉で残す方が言寧も喜ぶと思ってね」
 
 僕は、言寧が手術を乗り越えて目を覚ますことを確信して、そんなサプライズを用意していた。そして二人でエピローグを描き終えて一つの物語を終わらせたあと、また二人で新しい物語を始める。次の物語で僕と言寧は恋人役ではなく、本当の恋人としてヒロインと主人公になろう、そんな夢まで頭の中では完璧に描けてしまっていて、あとはそれをなぞるように叶えていくだけだ。
 
『それで今書いてるのコンテストには出したんだっけ?』
「まだ未完結だけど応募条件は満たしてるし出したよ。もし受賞でもして書籍化が決まったら、それこそこの世界に残せる近道だし!」
 
 僕のコンテストへの応募理由がそんな希望に満ちたものになったのは、これが初めてだった。
 
『いいねいいね、ヒロインの名前はそのまま言寧? それとも別の名前にしたの?』
「言寧にしたよ。本当は“希望“って名前も良かったんだけどね。でも物語の中だったとしても“ことね“って呼びたくてさ。いっそのこと“希望“って書いて“ことね“って名前にしようか迷ったくらいだよ」
『当て字にしても酷いな、まぁでもそれだけ意味があるってことは伝わったよ』
 
 僕は言寧を描いている時、初めて小説を書いていて楽しいと思えた。感情移入してクスッと笑ってしまったり、目の奥が熱く痛んだり、心のままを書くことができた。惰性で抱いていた夢にすら、言寧は希望を宿してくれた。本当に、どこまでも魅力的な人だ。言寧は僕の小説を読んだ時、なにを思うのだろう。間違っても平和的ではないこの物語に、どんな感想を添えるだろうか。僕は今からそれが楽しみでしかたない。どんなに偉い審査員からの好評より、言寧からの酷評の方が嬉しいと思えてしまえそうな僕だ。言寧から絶賛されたら、僕は小説に懸けてきたすべてが報われたと思えてしまうだろう。
 
「よしっ、忘れ物もないしちょっと早いけど行こうかな」
『おっ、それなら行き道に辻紫さんとの惚気でも聞かせてもらっちゃおっかなぁ』
 
 僕は今、幸せだ。言寧もきっと幸せだ。
 そしてこの幸せは、確実に繋がっていく。
 言寧が手術を乗り越えて、言い渡された余命三ヶ月なんて「生き延びちゃったね」と笑い飛ばせるくらい元気になって、一緒に生きていくんだ。終わりなんてない。
 
「いってきまーすっ!」
 
 僕はそうして家を出た。 
 ——それは、いつもなら結ばないネクタイを結んだせいかもしれない。
 ——それは、僕らしくない惚気話をしていたせいかもしれない。 
 ——それは、気持ちが逸るあまり、いつもと違う近道をとったからかもしれない。
 ——それは、言われた時間よりも、少し早く家を出てしまったからかもしれない。
 
 それは。
 それは、唐突のことだった。
 整備されているいつもの道とは違う近道。その信号のない道路を横断しようとした時。耳をつんざくようなブレーキ音が鳴り響いた。
 
『文都……?』

 創也の声が投げ出されたスマートフォンから聞こえてくる。
 
『文都……おい、文都……! 文都、聞こえてんだろ返事しろ!』

 聞こえているのに、うまく息が吸えず返事ができない。どうにか答えようとするも。
 ——っ。
 言葉の代わりに熱いなにかを吐き出した。

『今どこだ、いつものあの交差点か!?』
 
 燃えるような痛みを自覚した途端に朦朧としていく意識の中で、創也の必死な叫び声が聞こえてくる。
 どうしても応答できずにいるうちに視界は歪み、眩んで、時間の流れが緩やかに感じられてくる。
 暗転する視界の中で、それでも、創也の声は、その名前だけは、僕の脳裏にはっきりと浮かび上がった。
 
『辻紫さんが待ってるぞ……!』
 
 その一言に一瞬、僕の意識が引き戻された。
 ごめん言寧、幸せに溢れていたはずなのに僕が不幸にしちゃってごめん。
 手術成功を喜んでる顔が見たかった、よく頑張ったと抱きしめたかった、無事に一時退院を迎えて一緒にライブに行きたかった、物語の感想を聞きたかった、エピローグを一緒に書きたかった——ああ、溢れてくる、指先すら動かせないほどの身体なのに未来に託しすぎた希望が、僕の頭を埋め尽くしていく。でも、どんな望みよりも今はただ、ただ——。
 
 ——言寧に会いたい。