「……」

 ここは、何の店なのだろうか。喫茶店や飲み屋にしてはメニューも見当たらないし、席もこの一角にしかないようだ。
 濃紺と白がメインの落ち着いたカラーリングに、どこか甘い花やハーブのような植物の香りがする。間接照明で薄暗い店内は、どこか隠れ家やおしゃれカフェ的な印象だった。
 中に商品が入っているのか、ショーケースや木製の棚が壁沿いに並んでいて、置かれたステンドグラスランプのガラス越しの色鮮やかな光がほのかに一帯を照らす。
 店内のあちこちに品よく飾られたスノードームやランタン、砂時計に天秤、インテリアのひとつひとつがアンティーク調で美しく、どこか浮世離れしている。

 その中でも一際目を惹くのが、奥の戸棚だ。インテリアだろうか、そこには様々な綺麗なものが入ったガラスの小瓶が並んでいるのが遠目にも見えた。

「……あ、そうだ。ごめんなさい、申し遅れました。わたし店員の『こよる』っていいます! お名前をお伺いしてもいいですか?」

 きょろきょろと辺りを見回すあたしに気付いてか、ふと思い出したように彼女が名乗る。
 店員が下の名前で名乗るということは、もしかすると女の子を売りにしたお店なのだろうか。お店の雰囲気はそうは見えなかったものの、この愛らしい容姿ならと思わず納得した。
 彼女は女の子がかつて憧れたお人形や、絵本の中のお姫様のように愛らしい。
 見るとくるみは、そんな彼女の腕の中でゆらゆらと揺られながらうとうとしていた。あたしはそれを起こさないように小さな声で告げる。

「えっと、くるみです。まだ十ヶ月になったばかりで……」
「くるみちゃん。ふふ、可愛らしいお名前ですねぇ。……でも、すみません。今お伺いしたのはあなたのお名前で……」
「え、あたし? ……えっと、天川なずなです」
「なずなさん。素敵なお名前です……『なずな』は、寒い冬を耐えたあと早春に咲くお花ですね。……一生懸命辛い今を耐えてらっしゃるなずなさんにぴったりの、頑張り屋さんのお花です」
「……っ、あ、ありがとう……ございます……」

 そうだ。『くるみちゃんママ』じゃなくて、『天川家の嫁』じゃなくて、『お母さん』じゃなくて、あたしは『なずな』。
 忙しない日々の中、自分の名前すら忘れていたのかと、あたしはその懐かしさすら感じる響きに胸が締め付けられる。

「それから、こちらは『シャハルちゃん』です」
「にゃあ!」
「さっきの猫ちゃん……お店の飼い猫だったんですね」
「あの……今さらですし、シャハルちゃんと一緒に来られたので大丈夫かと思うんですけど……お二人とも、猫アレルギーとか大丈夫でした?」
「あ、はい……大丈夫です」
「にゃー」
「ふふ、よかったですね。シャハルちゃん!」
「にゃあ……!」

 足元の黒猫がお利口に返事をして、あたしの足元に擦り寄る。すると、ふと見下ろした先目に入った履き潰したスニーカーと汚れた服に、せっかく温まった心が少し軋んだ。

「それから……マスターは後からご紹介しますね」
「マスター……? あ、店長さん、居るんですね。ごめんなさい、まだ開店前なのにお邪魔して……」
「いいんですよ、お誘いしたのはわたしですから」

 マスターというと、バーや飲み屋の印象だ。きっとこれからお客さんにちやほやされるであろう、目の前の若くて可愛らしい女の子。
 それに引き換えあたしは、赤ちゃんの涙やよだれに汚れたぼろぼろの部屋着に、乾かす手間も惜しくて短くした手入れも出来ていない髪。
 こんな格好で傍に居るだけで、何だか無性に恥ずかしくて居たたまれない。

 そういえば、さっきすれ違った女の子たちも、地雷系だか量産型だかいう、レースとリボンが可愛らしい格好をしていた。
 爪も可愛く彩られて、スマホケースも可愛らしく、髪はピンクや赤のカラフルなインナーカラーで好きに染めて、底の高いパンプスを履いていた。
 あたしも、この子を産みさえしなければ、あんな風に可愛く着飾って、こんな夜にも友達と仲良く遊んで居られただろうか。ありきたりで細やかな悩みや苦しみを誰かと分かち合って、一人で抱え込むこともなかったのだろうか。
 そんな風に考えて、やはり母親失格だと自分をまた嫌いになる。

「……えっと、今さらなんですけど、ここ、何のお店なんですか?」
「え、あれ、ごめんなさい。お伝えしてなかったですね! ここは『薬屋 夜海月』です」
「……? 薬屋……? 飲み屋とかではなく?」
「はい。うちではなずなさんのように孤独な夜に傷付き彷徨う『夜の迷子』のお客様に、ぴったりのお薬を処方してるんですよ」
「……夜の迷子……薬……」

 一瞬、何か高額の危ない薬でも売り付けられるのかと思ったけれど、それならこんな余裕の無さそうな主婦はターゲットにしないだろうと首を振る。
 疑われ慣れているのか、こよるちゃんは穏やかな笑みのまま、すっかり眠ったくるみを返してくれた。

「……夜の底、冷たい暗闇の中でくらげのようにふわふわと漂い彷徨っているひとたちが、笑顔で朝を迎えられるようにする。それが、わたしたちのお仕事です」
「……。あたしも、笑顔で朝を迎えられるかな……」

 思わず切実な響きを孕んだ言葉に、あたしはハッとする。
 夜は気が休まらずに眠れなくて、微睡んだと思えば夜泣きに起こされる。狭い室内なのに旦那は全く起きないし、起きたと思えば「うるさい」「早く泣き止ませろ」と不機嫌になるし、あまり泣き続けると隣の部屋の壁が叩かれる。
 夜はあたしにとって苦しくて、いつも不安に溺れてしまいそうだった。

 朝を迎えたとしても、ほとんど寝ていない疲れた頭と身体で旦那の朝食やお弁当作り送り出す。くるみはバタバタとした朝にだって構わず泣くし、自分のことは全部後回し。
 何かをしようとしても泣かれると中断せざるを得なくて、時間はどんどん過ぎていく。終わらない家事も用事もたまっていくのに、あっという間に夜になってしまう。
 旦那が帰って来ると「何も終わっていない」と、何も出来なかったことを怠けていたかのように詰られる。それを義母に世間話のように伝えられて、くるみが可哀想だと責められるのだ。

「あたし……夜が嫌い、ずっと明日の来ない長い夜に閉じ込められてるみたいで……苦しい」

 誰も味方の居ない中、ひとりで立ち止まらず戦うしかないのに、歩いている先が正しいのか確かめる余裕すらない。確かにあたしは、終わらない夜の迷子だった。

「……なずなさん、少なくとも今夜は……ここに居る間は、夜はあなたの味方です」
「え……?」
「甘いホットココアも、誰にも怒られない静かな環境も、くるみちゃんの安眠も……なずなさんにぴったりのお薬も、きっとご用意しますから、今夜は肩の荷を下ろしてください」
「……ありがとう、こよるちゃん……」
「よく頑張りました……あなたは、ひとりじゃありませんからね」

 与えられる優しい言葉に、思わず涙が滲む。
 ああそうだ、あたしはずっと誰かに認めて欲しかった。誰かに寄り添って欲しかった。誰かに助けて欲しかった。誰かに気付いて欲しかったのだ。
 これが自分に都合のいい白昼夢だとさえ思えるくらいの、心が救われる感覚がした。

「……ねえ、こよるちゃん、もしまだ時間があったら……あたしの話、もう少し聞いてくれますか?」
「ええ、もちろんです。夜はまだ長いですから、ココアのおかわりをお持ちしますね」

 温くなったマグカップにおかわりを注いで貰いながら、穏やかに眠るくるみをそっと柔らかなソファーに寝かせる。広くて雲のようにふかふかのそこは、さぞ寝心地がいいだろう。
 足元に居た黒猫が、ぴょんと身軽にソファーに飛び乗って、あたしとくるみの間に身を丸くして寄り添う。
 そのふわふわの温もりは、それ以上暗闇に沈まないよう支えてくれているみたいだ。

「ふふ、シャハルちゃんはくるみちゃんがお気に入りですね」
「にゃあ」

 くるみが寝返りを打ったらすぐにわかるよう小さなお腹に手を添えながら、ふと視線を下ろすと、黒猫はまるでくるみを慈しむようにじっとその寝顔を見詰めていた。
 きっとこんな風にこの子をまっすぐに見詰めることを、今は母親のあたしですらしてあげられていない。

「あのね……あたし、母親失格なんだ……」

 敬語はやめて、ありのままの飾らない言葉で、あたしはこよるちゃんにこれまでの弱音を吐き出した。
 理想の母親でいられないもどかしさ、誰からも理解されない苦しみ、愛すべき我が子を時には恨んでしまいそうになる気持ち。

 こんな若い子相手に情けないと思いながらも、一度溢れると止まることはなく、今ならこれまで飲み込んできたすべてを話せる気がした。


☆。゜。☆゜。゜☆