「そのお家には、お父さんとお母さんと、『リョウヤくん』っていう男の子が居て……生まれながらの野良だったぼくは、ちょうど今みたいにその辺で野垂れ死にそうだったところを、リョウヤくんに拾われたんだ……」
目蓋を閉じれば今でも鮮明に思い出せる、リョウヤくんの屈託のない笑顔。はじめて人の温もりを知った、月ヶ瀬家で過ごしたあのかけがえのない愛しい時間。
何も持っていなかったぼくが、温かな彼の手によって救い上げられ、何不自由ない暮らしを与えられて、満たされた日々の中で永遠の幸せを夢見たあの頃。
ぼくの傍にはいつもリョウヤくんが居て、お父さんとお母さんもたまに遊んでくれて、兄弟のように育つぼくたちを見守ってくれる。
家族団欒の部屋の中、みんなが笑っていてくれる。それだけで、いつだって心がぽかぽかと満たされていた。
リョウヤくんと一緒に眠るお布団が、世界一幸せな場所だった。
ぼくはずっとここで暮らすのだと、信じて疑わなかった。
それが変わりはじめたのは、ぼくが拾われてから二年程過ぎた頃。
「ねぇ、聞いてシャハル! ボクね、もうすぐお兄ちゃんになるんだよ!」
「お兄ちゃん……?」
「ふふ。そしたらシャハルもお兄ちゃんだね。ふたりで赤ちゃんを守ろうね!」
「赤ちゃん……」
気付けばお母さんのお腹が大きくなって、その中には赤ちゃんが居るのだとリョウヤくんに教えてもらった。
大切な家族に、新しい小さな命が増えるのだ。
ぼくは、まだ生まれていないその命を、精一杯慈しもうと決めた。
生まれてすぐに死んでいった、本当の兄弟を思い出したのもある。
ぼくを拾い、育ててくれた恩返しだというのもある。
けれどそれ以上に、家族の一員として、その赤ちゃんのお兄ちゃんとなれるのが嬉しかった。
「お母さん、お腹大丈夫? 痛くない?」
「あらハルちゃん、また赤ちゃんにご挨拶に来たの?」
「うん。お腹、あったかくしよう。赤ちゃん寒いの可哀想だから」
それからぼくは、毎日お母さんのお腹に擦り寄って、その中に居る子に「元気に生まれてきてね」と語りかけた。時折お腹を蹴って、返事をしてくれるのが嬉しかった。
リョウヤくんは、その頃にはぼくを拾ってくれた時より背も伸びて、声もなんだか低くなった。
日に日に大人になる彼は、きっと立派なお兄ちゃんになるだろう。ぼくも小さな身体で、何か出来ることがないかと考えた。
「あ、そうだ……!」
リョウヤくんはよく、ぼくのふわふわの黒い毛を撫でて「気持ちいい」と笑うし、お父さんも仕事終わりにぼくのお腹に顔を埋めて深呼吸したりするから、この自慢のもふもふで赤ちゃんに寄り添えばきっと喜んでもらえるだろう。
もしも赤ちゃんにしっぽやひげを引っ張られても、我慢する。お気に入りのオモチャや、美味しいおやつだって、赤ちゃんのために何だってあげよう。なんたってぼくはリョウヤくんのような『お兄ちゃん』になるのだから。
「……ぼく、素敵なお兄ちゃんになるからね」
いつか出会うその子との時間を、たくさん想像した。
そして、そのうちお母さんが、出産のためにとしばらく家から居なくなった。
いつ帰ってくるのか、無事生まれてくるのか、落ち着かない日々の中、ある日突然「生まれたよ!」なんて、リョウヤくんとお父さんに教えてもらった時は驚いた。
そんな素晴らしい瞬間にぼくだけお留守だったなんて寂しかったけど、にこにことした二人の顔を見たら、まあいいかと思えた。
それよりも、早く会いたい気持ちの方が強かった。
「ただいまー、シャハル。お母さんと赤ちゃん帰ってきたよ!」
「おかえり、リョウヤくん! ……えっ、ほんと!?」
そして、何日かしてリョウヤくんとお父さんに連れられて帰ってきたお母さんの腕の中には、ほんのりミルクの匂いがする小さな赤ちゃんが抱かれていた。
出迎えた玄関先で、お腹のすっきりしたお母さんは久しぶりに会うぼくの頭を撫でて、おくるみの中で眠る赤ちゃんを見せてくれる。
「ただいま、ハルちゃん。良い子にしてた? ほら……妹の瑠幸よ、仲良くしてあげてね」
「……いもうと。ぼくの、妹……よろしくね、ルシアちゃん」
その瞬間のことは、鮮明に覚えている。柔らかそうなほっぺたに、ぼくの肉球くらい小さい手。爪のひとつでも立てれば壊してしまいそうな気がして、ぼくは自分から近付けなかった。
けれど、ルシアちゃんはぱっちりと目を開けて、笑顔を浮かべながらぼくの耳に触れたのだ。
「……あら、瑠幸ったら。ハルちゃんのこと気に入ったのね。こんなに笑ってるの初めて見たわ!」
「えっ、なにそれずるい! じゃなくて、ちょっと写真撮るからそのまま!」
「瑠幸、あんまり引っ張ったらシャハルが痛い痛いだよ。こっちのお兄ちゃんの手ならいくらでも掴んでいいから! ほら、良夜兄ちゃんだよー!」
小さい手にも関わらず、思いの外力強い。容赦のない仕草で引っ張られて、正直耳が千切れるかと思った。けれど、ルシアちゃんの笑顔や家族の喜ぶ姿を見ると、離れようという気にもなれなかった。
「……ルシアちゃんは、みんなに幸せを運んでくれるんだね」
はじめて会うはずなのに、こんなにも愛しい。みんなの笑顔が集まって、とても温かい。ルシアちゃんを中心にして、幸せが溢れるみたいだ。
これが家族というものなのだと、ぼくは改めて実感した。
そしてぼくはこれからも、この月ヶ瀬家でずっと幸せに生きていくんだと、その時はまだ信じていた。
その永遠が崩れることを知ったのは、ルシアちゃんが家に来てからしばらくしてのことだった。
「ねえあなた、どうしましょう……瑠幸、もしかしたら猫アレルギーかもしれないの……」
「……なんだって?」
ルシアちゃんは、ぼくが傍に居るとくしゃみをすることが多かった。目が痒いのか擦ることもあった。
それでも偶然だと、ぼくのせいじゃないと思いたかった。だって、拾われてからのぼくは、汚れっぱなしの野良猫時代と比べて、ずいぶんと綺麗になったのだ。
ふわふわで柔らかな毛並みも、お星様みたいな金の瞳も、いつもみんなに可愛いね、綺麗だねと褒められた。
それでも、ぼくはルシアちゃんの傍には居られなかった。家族だなんだと宣っても、所詮猫は、人間と同じにはなれないのだ。
「ぼくは……どうして猫なんだろう」
リョウヤくんは変わらず接してくれたけれど、お父さんとお母さんは、ぼくをルシアちゃんにあまり近付けなくなった。
ぼくに触ったあと、みんなは汚いものを触ったみたいにすぐに手を洗うようになった。
あれだけ褒めてくれたふわふわの毛一本許さないとばかりに家の掃除を念入りにして、ぼくの出入りできる部屋を区切るようにもした。
寂しかったけれど、それでも捨てられないだけましだと思った。ぼくの居場所を残そうとしてくれる、みんなの優しさが嬉しかった。それなのに。
「やだ、瑠幸どうしたのこれ……! 蕁麻疹!?」
「えっ、どうしたの……何これ!? 大丈夫!?」
「アレルギーかも……良夜、お母さん瑠幸を病院に連れて行くから、お留守お願い!」
「わ、わかった! 気を付けてね!」
ある日、家族の努力もむなしく、ルシアちゃんのアレルギー症状が悪化した。
あの日はじめてルシアちゃんを出迎えた時とは違う、ばたばたとした玄関先。
近付かないよう少し離れた場所からちらりと覗くぼくを見たお母さんの視線はひどく冷たくて、大切なルシアちゃんの身を危険に晒すものが、紛れもなくぼくなのだと理解した。
「……っ!」
「え……? シャハル!? 待って、シャハル……っ!」
そしてぼくは衝動的に、玄関の扉が閉じ切る前に、その狭い隙間から逃げるようにして月ヶ瀬家を飛び出した。
守りたかった小さな妹を自分のせいで危険に晒してまで、ぼくはあの家に居座ることなんて出来なかった。
「シャハル……!!」
ぼくの名前を必死に呼ぶリョウヤくんにお別れを言うことも、驚いたお母さんが立ち尽くすのに対して「早く病院に行って」と伝えることも、拾い育ててくれた家族にこれまでの感謝を伝えることも、苦しい思いをさせたルシアちゃんに謝ることも、なにひとつ出来なかった。
それでも、これで良かったんだと何度も自分に言い聞かせた。
そうしてぼくは、再び野良猫に戻ったんだ。
「……さようなら。ぼくの家族」
かつて過ごしたはずの野良暮らしは、温もりを知る前よりも寒く感じて、苦しくて、寂しくて、辛かった。
それならいっそ、幸せなんて知らずに居られたら良かったなんて、心にもないことを呟いたりもした。
あてもなく彷徨って、這うようにして辿り着いた路地裏で、失った幸せを夢の中で反芻しながら眠る日々だった。
いつしか自慢のふわふわの毛並みは見る影もないくらい汚れて、星のようだと言われた瞳は虚ろになり、柔らかかった肉球は固くひび割れた。
そうして、ぼくは暗い夜に迷う内、自分の限界が近付いていることに気付いた。
そして死ぬ前に一目「リョウヤくんに会いたい」と、自分勝手な願いが込み上げてきた。
お父さんとお母さんは、きっとぼくが居なくなって安心しているだろう。ぼくの居ない家では、大事な娘が苦しむことなく健やかに育つのだ。
ルシアちゃんには、会う資格がない。ぼくと会えばまた辛い思いをさせてしまう。それでは家を出てきた意味がない。
けれどそんな配慮と同時に、ルシアちゃんのことを考えると別の気持ちも湧き上がってきた。
ルシアちゃんのことは大好きなのに、大切にしたいのは本当なのに「あの子さえ来なければ、ぼくはずっとあの家に居られたのに」と、ぼくの居ないあの家で幸せな暮らしをするあの子に会った瞬間、恨んでしまいそうで怖かった。
そしてそんな風に感じてしまう自分が、心底嫌だった。
「リョウヤくん……」
ぼくの名前を呼んだリョウヤくんの声が、耳の奥に残っている。
一緒に過ごした日々の温もりが、魂に染み込んでぼくをここまで生かしてくれた。
きっと、こんなにぼろぼろになったぼくのことは、今見てもきっとあの時のシャハルだと気付かないだろう。だけど、それでいい。
「でも、最後に……一目会いたいなぁ」
今はもうあの頃より大きく育ったであろうリョウヤくんの姿を、最後までぼくを家族で居させてくれた彼の顔を、どこか遠くからでも一目見られたら、それだけで満足だった。
そんなささやかな願いさえ遂げられないまま彷徨っていた、凍えそうな暗闇の中。
ひとりぼっちで死んでしまうと覚悟したこの星のない夜に、ぼくはリョウヤくんと同じくらい優しい人たちに、再び温かな優しさを与えられたのだ。
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