そんな一般的高校生が経験したことのない事態があったとしても。教室はまったく変わらなかった。
このまま停学になるとか、そんなことはなにひとつなかった。
移動教室で友達と歩いているとき、前から塚原先生がやってきた。
「あ、ツカちゃん、うーっす」
友達が手をあげると、塚原先生は目を細め、
「ネックレスはすんな」
と言って去っていった。
「なんだよあいつ」
塚原先生の後ろ姿を眺めながら、友達は言った。
「だからイキんなって」
ぼくは言った。
「別にいいじゃんなあ」
まったく悪びれるつもりはないらしい。あまつさえ、「やっぱあれかな、高校教師って給料たいしたことないんだろ? 結婚できない弱者男性ってやつじゃん、いつもピリついてんの。余計に彼女できねえって、なあ?」
などと勝手なことをぬかした。
塚原先生は、そんなふうに言われているがべつに嫌われているわけでもない。
まだ若いし顔がいいし、テストで出す内容を提示してくれるし、ほかの先生よりも甘い。というか生徒の悪さを黙認してくれる。
学校になにも言わなかったのも、そういうことなのかもしれない、と思う。面倒なのだ。いやいや見回りをしていたに違いない。
「塚原先生ってさあ」
ぼくもまた、塚原先生のほうを見ながら言った。「多分ぼくらのこと嫌いなんじゃない?」
「あたりまえだろ、俺だって俺のことを相手するって考えたら自殺したくなるわ。ガチで教師とかなりたくねえし」
友達は言った。「あ、アメフト軍団きた」
前からがやがやと大きな図体の集団がやってきて、ぼくらは道の脇に移動した。
一番前にいた豊がぼくのほうを一瞬見て、そのまま通り過ぎていった。
「マジであいつら、王様かなんかかよ」
やはり通り過ぎてから友達が言った。
「だって、大会出場してるし、そりゃそうだろ」
ぼくは言った。
今日は、ものすごく近づいたな、と思いながら。
結局びくつきながら、呼び出されることを恐れていたけれど、なにもなかった。
なんとなく肩透かしをくらったような気持ちで校門を出ようとしたときだった。
「よっ」
極彩色の格好の男が、僕に手刀して挨拶した。
「……秀一郎さん?」
「名前覚えてくれた? しつこく言ってたもんなあ、裕太のやつ」
くすぐられたみたいな笑みを浮かべた。しつこく言ったのは、いちいち横槍したり、ぼくに話しかけたるのを止めるためではないか、と思ったが、黙った。
「なんか、学校に用なんですか」
ぼくは警戒しながら訊ねた。
「いや、学校のなかも興味あるんだけど、案内してくれる?」
「だって関係者以外」
「関係者になっちゃったじゃん、ぼくら、昨日」
あっけらかんと言った。
「でも、たぶん許可証とかいるんじゃないですか」
「たしかに。それにあいつにばれたらことだなあ、じゃあ、一緒に駅まで歩こうよ」
見た目は悪くないけれど、格好がどう考えてもうさんくさいので、下校する生徒たちにじろじろと眺められ、ぼくは恥ずかしかった。
「で、きのうはあれなんだったの」
しばらくして秀一郎さんが切り出した。
「あれっていうのは、なんですか」
さっさとこの人と別れたかった。適当な用事を考えて、じゃ、と逃げてしまおうと思っていたときだった。
「夜に新宿をうろつくなんて、めちゃめちゃ不良じゃん。こんな、何にも知りません、みたいな顔をしているくせにさ」
「あれは、本屋さんに行って歩いていて」
「歩いていておじさんにホテルに連れこまれそうになるくらい治安悪いのか、日本。世も末だな」
秀一郎さんはおかしそうにしている。
「あれは」
なんと言ったらいいのかわからずに口ごもっていると、
「やっぱあれか、SNSか。それともマッチング?」
「そういうの、です」
もうどうとでもなれ、とぼくは白状した。
「ふーん、おじさんが群がってくるってことは、ちょっとエッチな写真とか載せちゃった?」
「いや、あんましそういうのは。普段の写真に目モザして」
「高校生ゲイとかハッシュタグ付けた? それとも裏アカ男子とか?」
「……一回だけ」
「一回やったら群がるだろそりゃ。おっさんなんてさ、だいたい自分の青春時代に悔いを残しているから、若い男の子にも同じ目に遭わせてやろうとするんだよ」
秀一郎さんは急に厳しい顔つきになった。「きみはね、わかっちゃいないんだ」
「なにがですか」
「きみにはすごく価値があるってこと」
「価値」
「そう、きみみたいな年頃って、女の子だけじゃないんだ。男の子だって、価値がある。きみのことをひどく猥褻な目で見ているやつがいっぱいいるんだ。で、そいつらは、きみの若いエキス? まあそういうのを吸ってやろうとするんだよ。どうせメシ奢ってもらったんだろ。で、頭がぼーっとなったところで、きみを抱いて、地味に一生の傷をつける。ありきたりな、散々な初体験を与えてね。で、おやじたちのほうはDKを食ったとか自分のヤリログに記憶するんだよ。最悪だよ」
まるで実体験のように、秀一郎さんはぺらぺらしゃべった。それ、経験からですか? と訊ねたらやっぱり失礼に当たるのだろうか。
「いいかい、あたりを見回してみな」
秀一郎さんは言った。
町ではいつもと同じように人が歩いている。なにも代わり映えも面白いこともない。
「はい」
「よーく見てみるんだ。かといって、凝視しちゃいけない。あくまでフラットに眺めてみて。わからない?」
「わからないです」
なにもかわりはしない。
「みんな、なにも見ちゃいない」
秀一郎さんは向き直って言った。
「いや、みんなスマホ見たりしてるし、目をつむっていたらつまずくでしょ」
「そういう意味じゃない。きみが見ている世界に、彼らはいないんだ。同じ場所にいても、彼らが見ている世界はきみの見ている世界と違う。だからみんな、だいたい目をあけていてもなにも、見えていないみたいだろ?」
そうなんだろうか? もう一度あたりを見回した。
「でもね、慎重に、きちんと眺めていると、ばちっときみと目が合って、そして自分と同じ世界にいる人ってのが必ず現れるんだ。そのひととなら、いい。そういう人と、付き合えばいい」
「いるんですか、そんな人」
「いる。俺はいた」
「それって」
なんとなく、昨日家に帰ってから考えていたことを口にしようとしたときだ。
「ツカちゃん先生のこと好き?」
と秀一郎さんが言った。
「は?」
「好き?」
念を押すように、秀一郎さんは言った。
「そんなこと、考えたこともないですよ」
たしかに学校じゃ人気あるけど、それは生徒に甘い、というか無関心で放任主義だからだ。塚原先生を魅力に思ったことなんて、ない。
「ふーん。昨日、オジさんから救ってもらったとき、目がキラキラしてたよ。王子さまが助けに来てくれた、みたいに」
「王子って」
あんな三白眼の男にどこが王子要素があるんだ。「きみみたいな年頃って、ちょっと年上のお兄さんとかにキュンとしたりするもんなんじゃないの?」
「よりによってツカちゃんなんて」
「そう? わりといい線いってないかな」
不満げに秀一郎さんは目を細める。
「年上好きじゃないです」
「じゃ、誰が好きなの?」
いきなりそんなことを言われ、虚を突かれた。
「それは」
「昨日のオジさんじゃあないわけでしょ。まあそういう世界の興味もあったんだろうけど、じゃあ、誰が好きなのさ」
「……いないですけど」
「ふーん。そう」
つまんなさそうに秀一郎さんは言った。「まあいいや、とにかく、あんなふうの野生のおっさんなんかをこますにはきみはまだ荷が重い。なにもかも話せる人が欲しいんだったら」
と胸を叩き、「ぼくがなってあげるよ」
「は?」
なにを言っているんだこの人は。目の前のおじ……お兄さんはなぜか得意満面だった。
「どうぞよろしく」
と秀一郎さんは手を伸ばした。握手を求めているらしい。
「いえ、いいです、そういうの、間に合ってるんで」
ぼくは首を高速で振った。困る。ほんとうに困る。
「いないから昨日みたいなのに引っかかるんだ。ぼくなら安心だろう。なにせ塚原の知り合いだし、変なことは一切しない。まあしたいっていうならやぶさかでもないけど、でもきみ、ぼくみたいなタイプ好きじゃないでしょ」
「一つ質問していいですか」
「なに?」
「なんで、そんな、先回りして知ってるみたいな感じで話すんですか?」
「なにせきみの倍年取っているし、人生経験豊富なもんで」
「……若いですね」
見た目は完全に若い、というか年齢不詳だ。
「まあ人生の階段踏み外してまくっているもので」
なぜか照れくさそうに笑い、頭をかいた。「なにはともあれ、きみがへんなやつに絡まれないようにしてあげるよ」
いや、あなたがへんなおじさんじゃないか。めちゃめちゃ絡まれてるよ。
「ま、また遊ぼうよ、ライン交換しよう」
ポケットからスマホを取り出し、有無を言わさずに、ぼくらは連絡先を交換した。
このまま停学になるとか、そんなことはなにひとつなかった。
移動教室で友達と歩いているとき、前から塚原先生がやってきた。
「あ、ツカちゃん、うーっす」
友達が手をあげると、塚原先生は目を細め、
「ネックレスはすんな」
と言って去っていった。
「なんだよあいつ」
塚原先生の後ろ姿を眺めながら、友達は言った。
「だからイキんなって」
ぼくは言った。
「別にいいじゃんなあ」
まったく悪びれるつもりはないらしい。あまつさえ、「やっぱあれかな、高校教師って給料たいしたことないんだろ? 結婚できない弱者男性ってやつじゃん、いつもピリついてんの。余計に彼女できねえって、なあ?」
などと勝手なことをぬかした。
塚原先生は、そんなふうに言われているがべつに嫌われているわけでもない。
まだ若いし顔がいいし、テストで出す内容を提示してくれるし、ほかの先生よりも甘い。というか生徒の悪さを黙認してくれる。
学校になにも言わなかったのも、そういうことなのかもしれない、と思う。面倒なのだ。いやいや見回りをしていたに違いない。
「塚原先生ってさあ」
ぼくもまた、塚原先生のほうを見ながら言った。「多分ぼくらのこと嫌いなんじゃない?」
「あたりまえだろ、俺だって俺のことを相手するって考えたら自殺したくなるわ。ガチで教師とかなりたくねえし」
友達は言った。「あ、アメフト軍団きた」
前からがやがやと大きな図体の集団がやってきて、ぼくらは道の脇に移動した。
一番前にいた豊がぼくのほうを一瞬見て、そのまま通り過ぎていった。
「マジであいつら、王様かなんかかよ」
やはり通り過ぎてから友達が言った。
「だって、大会出場してるし、そりゃそうだろ」
ぼくは言った。
今日は、ものすごく近づいたな、と思いながら。
結局びくつきながら、呼び出されることを恐れていたけれど、なにもなかった。
なんとなく肩透かしをくらったような気持ちで校門を出ようとしたときだった。
「よっ」
極彩色の格好の男が、僕に手刀して挨拶した。
「……秀一郎さん?」
「名前覚えてくれた? しつこく言ってたもんなあ、裕太のやつ」
くすぐられたみたいな笑みを浮かべた。しつこく言ったのは、いちいち横槍したり、ぼくに話しかけたるのを止めるためではないか、と思ったが、黙った。
「なんか、学校に用なんですか」
ぼくは警戒しながら訊ねた。
「いや、学校のなかも興味あるんだけど、案内してくれる?」
「だって関係者以外」
「関係者になっちゃったじゃん、ぼくら、昨日」
あっけらかんと言った。
「でも、たぶん許可証とかいるんじゃないですか」
「たしかに。それにあいつにばれたらことだなあ、じゃあ、一緒に駅まで歩こうよ」
見た目は悪くないけれど、格好がどう考えてもうさんくさいので、下校する生徒たちにじろじろと眺められ、ぼくは恥ずかしかった。
「で、きのうはあれなんだったの」
しばらくして秀一郎さんが切り出した。
「あれっていうのは、なんですか」
さっさとこの人と別れたかった。適当な用事を考えて、じゃ、と逃げてしまおうと思っていたときだった。
「夜に新宿をうろつくなんて、めちゃめちゃ不良じゃん。こんな、何にも知りません、みたいな顔をしているくせにさ」
「あれは、本屋さんに行って歩いていて」
「歩いていておじさんにホテルに連れこまれそうになるくらい治安悪いのか、日本。世も末だな」
秀一郎さんはおかしそうにしている。
「あれは」
なんと言ったらいいのかわからずに口ごもっていると、
「やっぱあれか、SNSか。それともマッチング?」
「そういうの、です」
もうどうとでもなれ、とぼくは白状した。
「ふーん、おじさんが群がってくるってことは、ちょっとエッチな写真とか載せちゃった?」
「いや、あんましそういうのは。普段の写真に目モザして」
「高校生ゲイとかハッシュタグ付けた? それとも裏アカ男子とか?」
「……一回だけ」
「一回やったら群がるだろそりゃ。おっさんなんてさ、だいたい自分の青春時代に悔いを残しているから、若い男の子にも同じ目に遭わせてやろうとするんだよ」
秀一郎さんは急に厳しい顔つきになった。「きみはね、わかっちゃいないんだ」
「なにがですか」
「きみにはすごく価値があるってこと」
「価値」
「そう、きみみたいな年頃って、女の子だけじゃないんだ。男の子だって、価値がある。きみのことをひどく猥褻な目で見ているやつがいっぱいいるんだ。で、そいつらは、きみの若いエキス? まあそういうのを吸ってやろうとするんだよ。どうせメシ奢ってもらったんだろ。で、頭がぼーっとなったところで、きみを抱いて、地味に一生の傷をつける。ありきたりな、散々な初体験を与えてね。で、おやじたちのほうはDKを食ったとか自分のヤリログに記憶するんだよ。最悪だよ」
まるで実体験のように、秀一郎さんはぺらぺらしゃべった。それ、経験からですか? と訊ねたらやっぱり失礼に当たるのだろうか。
「いいかい、あたりを見回してみな」
秀一郎さんは言った。
町ではいつもと同じように人が歩いている。なにも代わり映えも面白いこともない。
「はい」
「よーく見てみるんだ。かといって、凝視しちゃいけない。あくまでフラットに眺めてみて。わからない?」
「わからないです」
なにもかわりはしない。
「みんな、なにも見ちゃいない」
秀一郎さんは向き直って言った。
「いや、みんなスマホ見たりしてるし、目をつむっていたらつまずくでしょ」
「そういう意味じゃない。きみが見ている世界に、彼らはいないんだ。同じ場所にいても、彼らが見ている世界はきみの見ている世界と違う。だからみんな、だいたい目をあけていてもなにも、見えていないみたいだろ?」
そうなんだろうか? もう一度あたりを見回した。
「でもね、慎重に、きちんと眺めていると、ばちっときみと目が合って、そして自分と同じ世界にいる人ってのが必ず現れるんだ。そのひととなら、いい。そういう人と、付き合えばいい」
「いるんですか、そんな人」
「いる。俺はいた」
「それって」
なんとなく、昨日家に帰ってから考えていたことを口にしようとしたときだ。
「ツカちゃん先生のこと好き?」
と秀一郎さんが言った。
「は?」
「好き?」
念を押すように、秀一郎さんは言った。
「そんなこと、考えたこともないですよ」
たしかに学校じゃ人気あるけど、それは生徒に甘い、というか無関心で放任主義だからだ。塚原先生を魅力に思ったことなんて、ない。
「ふーん。昨日、オジさんから救ってもらったとき、目がキラキラしてたよ。王子さまが助けに来てくれた、みたいに」
「王子って」
あんな三白眼の男にどこが王子要素があるんだ。「きみみたいな年頃って、ちょっと年上のお兄さんとかにキュンとしたりするもんなんじゃないの?」
「よりによってツカちゃんなんて」
「そう? わりといい線いってないかな」
不満げに秀一郎さんは目を細める。
「年上好きじゃないです」
「じゃ、誰が好きなの?」
いきなりそんなことを言われ、虚を突かれた。
「それは」
「昨日のオジさんじゃあないわけでしょ。まあそういう世界の興味もあったんだろうけど、じゃあ、誰が好きなのさ」
「……いないですけど」
「ふーん。そう」
つまんなさそうに秀一郎さんは言った。「まあいいや、とにかく、あんなふうの野生のおっさんなんかをこますにはきみはまだ荷が重い。なにもかも話せる人が欲しいんだったら」
と胸を叩き、「ぼくがなってあげるよ」
「は?」
なにを言っているんだこの人は。目の前のおじ……お兄さんはなぜか得意満面だった。
「どうぞよろしく」
と秀一郎さんは手を伸ばした。握手を求めているらしい。
「いえ、いいです、そういうの、間に合ってるんで」
ぼくは首を高速で振った。困る。ほんとうに困る。
「いないから昨日みたいなのに引っかかるんだ。ぼくなら安心だろう。なにせ塚原の知り合いだし、変なことは一切しない。まあしたいっていうならやぶさかでもないけど、でもきみ、ぼくみたいなタイプ好きじゃないでしょ」
「一つ質問していいですか」
「なに?」
「なんで、そんな、先回りして知ってるみたいな感じで話すんですか?」
「なにせきみの倍年取っているし、人生経験豊富なもんで」
「……若いですね」
見た目は完全に若い、というか年齢不詳だ。
「まあ人生の階段踏み外してまくっているもので」
なぜか照れくさそうに笑い、頭をかいた。「なにはともあれ、きみがへんなやつに絡まれないようにしてあげるよ」
いや、あなたがへんなおじさんじゃないか。めちゃめちゃ絡まれてるよ。
「ま、また遊ぼうよ、ライン交換しよう」
ポケットからスマホを取り出し、有無を言わさずに、ぼくらは連絡先を交換した。