目の前でさっきあったばかりのおじさんに焼肉を焼いてもらっていた。
「さあ、遠慮しないで」
 そう言って笑いかけるおじさんに、躊躇しながら、ぼくは頷いた。しかし頷いただけで、トングをもつことができなかった。
 おじさんは焼肉をとりわけ、ぼくの前に置いてくれる。
「ありがとうございます」
「エイジくん、たくさん食べるよね、追加しようか」
 この店がどんな店なのかわからない。
 待ち合わせをして、出会い頭に「さきにご飯でも食べようか」と連れてこられた。なんとなく若造りをした格好だったけれど、肌は歳をとっているな、と思った。アプリの写真は加工しているのかもしれない。
 メニューを見ることもなく、このおじさんはあれこれ注文した。「嫌いなものはある?」と聞かれて、ないです、と言ったら。
 ぼくはひとまず、箸を手に取り、肉を一口食べた。
 たしかに、これまで食べたこともない柔らかさで、口はそのうまさに唾液が溢れた。
「おいしいです」
「そう、よかった」
 当たり前だ、というような顔をして、おじさんは頷いた。
 このまま食べつづけたら、いったいいくらになるんだろうか。
 見ず知らずの会ったばかりのおじさんが、いきなり高校生にご飯を食べさせてくれることなんてない。つまり、これはこのあとの料金が含まれているのかもしれない。
 であるなら、できるだけ食べたほうがいいのではないか。
 そう思って、次々に口に肉を運んだ。
「いいねえ、いい食べっぷりだなあ」
 おじさんは満足げだ。
 なんとなくだが、その笑っている顔が芯からのものには思えない。多分、頭のなかで別のことを考えているからだろう。そういうとき、人って薄っぺらい顔をしている。たぶん、自分だってそうなんだろう。
 こういう笑顔を見たことがある気がしたけれど、思い出せなかった。
 おじさんは食事のあいだ、いろいろと質問をしてきた。
「部活はなにをやっているの?」
「ああ、水泳部なんだ。通りでいい身体をしていると思ったよ。クロール?」
「バタフライかあ、昔体育の授業でやったけれどまったくできなかった。すごいねえ。タイムは?」
 嘘をついた。なので深掘りされるとこっちが困ってしまう。
 語尾がいちいち疑問形で、答えなくてはいけない気がして焦った。そもそもこんなふうに奢って貰っているのだから、サービスをしなくてはならないのだろう。
 サービス。
 つまり、そういうことだ。この人に、ぼくはきっといま、買われているのだ。

 店を出て、おじさんについていくと、通りに入った。男の人たちばかりだ。なんとなく、みんなにちらちらと見られている気がする。どこかその視線は、判別しようと伺っていて、肌がひりつく気がした。
 さっさとおじさんが進んでいくので、あまり周りを見ることもなく歩いた。
「ここだよ」
 急におじさんが立ち止まった。
 HOTEL、と看板にある。
「さ、行こうか」
「ええと」
 急に、なんでこんなばかばかしいことをしているのだろう、と思った。
「やっぱり、時間が」
「まだ九時になったばかりだよ?」
 おじさんが、これまで見せたことのない意地悪そうな目つきをした。
「いえ、今日は」
「今日はなに?」
 やっぱり疑問形だ。あわててすぐに返事をすることができなくなってしまう。
「あの、ですね、家に帰らないと」
「ああ、タクシーで送ってあげるよ?」
 なんでもかんでも疑問形で話しかけてこないでほしい。
「そういう意味じゃなくって」
 さっきの店でいくらなのかわからなかった。カードを切ってさっさと会計を済ませていた。いま財布のなかにあるお金で半額足りるのだろうか。いや、おじさんよりも食べたし、と頭のなかで高速回転していしまった。
「まあ、こんなところじゃなんだし、さ?」
 と腕を捕まれた。
 掴んだ手が湿っていて、少し滑り、気持ちが悪かった。
 そうか、気持ちが悪いんだ。
 やっとわかった。いっちゃいけない気がして、抑えていたんだ。
「今日は、帰ります」
 と なんとか言ったときだ。
「おい、平間?」
 と背後から声がした。振り向くとそこには、
「なにをしている」
 塚原先生がいた。
「あ」
 ぼくはとんでもない場面を学校の先生に見られてしまった衝撃に、思考停止した。
「なに、知り合い?」
 おじさんが手を離した。
 いまの状況がパニックになってしまい、ぼくは口をあけたまま、なにも言えずに固まってしまった。
 目の前にはホテルに連れていこうとするおじさん、背後には、高校の歴史教師がいる。しかもここは多分、新宿二丁目、というやつだ。
 いったいこの状況を読み解くべく、どこから手を付けたらいいのか? こんな事態を対処できる高校二年生がいるだろうか。
「まあまあ、そんなふうに目をつり上げなくてもいいじゃん。頭ごなしになんて、ねえ?」
 塚原先生の隣に、男がいた。
 シャツのボタンをすべて締めている塚原先生とは対照的に、かなりラフな格好をしている。
 面白いことになった、と思っているのか、どこかにやにやしていたけれど、人を不快にさせるものではなかった。
 そうだ、やっぱり、と思った。
 この目の前の、いまからホテルに連れこもうとしてるおじさんは、やっぱ不快だ。いやだ。気持ち悪い。「どういったご関係ですか」
 塚原先生がおじさんに言った。質問しているのに、断定している。つまり、どんな返事も受けつける気はないらしい。
「いや、わたしは、彼の……エイジくんの……」
 おじさんが口ごもり、ぼくはやっとのことで、「今日会った人です」と言った。
「すみませんが、ぼくは彼の学校の教員です。見回りをしていたところでした。すみませんが、彼はこんな時間に新宿でうろついているので補導しないといけません。あなたももし彼と関係があるのなら、ご同行いただけますか」
 やはり有無を言わない口ぶりで塚原先生は言った。
「いえ、べつに、彼とはほんとうにさっき会ったばかりだったんで、なあ?」
 ぼくのほうに同意を求め、ぼくがなにか言う前に、じゃあ、失礼」
 と小走りで去っていってしまった。
 その様子を周りに立っている男たちが面白そうに眺めていた。
「で」
 塚原先生は喉を鳴らした。「どういうことだ」
 補導されるのか。そんなこと、うちの高校も見回りをしているって、あれはフカシだと思っていた。
 ぼくは項垂れ、やはりなにも答えることができなかった。
「平間」
 名字でぼくを呼んだ。
「そんなふうに理詰めで言わなくても。それにこんな場所で名字を言うのって、いまどきないでしょ。プライバシーっていうか、さ」
 塚原先生の隣にいた男が言った。「とりあえず、どっか人が少ないところで事情聴取することにしない?」
 最悪だ。
 塚原先生に肩を叩かれ、つかまれながら、ぼくは連行された。
「すごい、警察二十四時見ているみたい、違うか、なに、夜回り先生だったの? 裕太」
 と興奮気味に、男は言い、ぼくのほうを覗きこんで、「夜回り先生って知ってる?」と言ったが、ぼくは答えることができなかった。