由奈はホテルの前にある船着き場に腰掛けていた。

「寒いね」

 声をかけ、隣に腰を下ろす。由奈はふっと顔をあげてから「うん」と頷いた。

「先生が心配してたよ」
「だろうね」

 言いながら、由奈は足をぶらぶらとさせる。その真下では海が微かに波打っていた。夜の海は怖かった。まるで深い闇を纏ったゼリー状の大きな化け物が、由奈の足元で動いているみたいにみえた。一度でもそれに触れてしまえば、二度と陸には上がれない。なんだかそんな気持ちに駆られて、視線を持ち上げた。この辺りは船着き場を囲むようにして幾つかのホテルがあり、海を挟んだ
向かいの対岸には煌びやかなホテルがみえる。

「あっちのホテルも綺麗だよね。いつか泊まってみたいな。今度、先生にお願いしてみよっか」

 今は少しでも由奈の気を紛らわせてあげようと思い、私達の間に静寂が降りかける度に言葉を紡いだ。そんな私を察してか「沙結はさ」と対岸にみえるホテルをみながら今度は由奈が言葉を紡いだ。

「家族のこと心配じゃないの?」
「心配だよ」

 私に兄弟はいない。だけど、お父さんとお母さんがいる。一人娘だったこともあり、そのせいで少々過保護が過ぎるなと思ったこともあったけれど、二人からは抱えきれない程の愛を貰った。

「……先生はどうにも出来ないって」

 由奈の洟を啜る音が鼓膜に触れた。胸元まで流れた髪が、潮風に優しく揺られてる。

「そう言ったんだよ? それってさ、私達だけじゃなくて家族も危ないかもしれないってことじゃん。私は自分の家族だけじゃないよ。皆の家族だって心配なの。特に沙結のお母さんなんか何回も会ったことあるし、今どうしてるかなって考えるよ」

 それが、嘘ではなく、由奈の本心であることが私には分かった。ずっと、友達だったから。人は、それぞれ目を向けられる範囲に限りがあるという。自分の家族だけでなく、友達の家族まで。今の私達のように、このような状況に身を置かれていながら他人の家族にまで目を向けられる人はこの世界にどれくらいいるんだろう。少なくとも私は、そこまで考えていられなかったように思う。いや、それどころか自分の家族ですらも意識の外側へと追いやろうとしていたのかもしれない。時折、お父さんとお母さんの顔を思い浮かべることはある。でも、それはいつも遠い過去の記憶の断片ばかりで、今現在二人が何をしているのかまでは考えられなかった。そこに意識を向けると、胸の奥底にあるつめたい何かが這い上がってくる気がするのだ。

「ねぇ、こんな風に考えたことない?」

 ふいに、由奈が言った。遠くの方で汽笛が聴こえる。

「もしあの日、しし座流星群を観に行かなったら」
「うん」
「もしあの日、星雲を見なかったら」
「うん」

 夜の海に、ひかりの塊が浮いている。それが少しずつ大きくなってきていた。

「私達の人生はこんな風に闇の底に堕ちてなかったんじゃないかって、そう思ったことない?」
「………何度もあるよ」

 夜の海にみえたひかりの塊は、大きな客船だった。どうやらこの港に入ろうとしているようで、少しずつ闇がひかりに染められて、波がちゃぷちゃぷと音を立てる。その波音に溶けるようなちいさな声だった。由奈は私の瞳の中心を捉えながら言った。

「私はさ、あの日沙結がしし座流星群を観に行こうなんて言わなかったら、こんな事になって無かったんじゃないかって考えちゃうんだよね。駄目なことだって分かってるけど、どうしても考えちゃう。今回の手紙の件についてもそうじゃん。私達の人生を狂わせたのってさ、沙結じゃない?」

 由奈は誰よりも優しかった。そして、由奈は時折こんな風にオブラートに包むことなく、思ったことを直接的な物言いでしてくることも知っている。ずっと友達だったから。

「私も、ずっとそう思って生きてきた。この十五年間」

 目の前にはひかりを纏う船がある。豪華な装飾の施された、大きな客船だった。夜の海はそのひかりを反射し、水面(みなも)に逆さまのそれを映してる。その目に映る全てが滲んでみえた。