それは確かに理来の声で、今まで理来が声を荒げたところなんて見たことも聞いたこともなかった私は、思わず固まる。
 どうしよう。仲裁に入った方がいいのだろうか。
 でも、喧嘩の理由も分からないのに、それはあまりにも空気が読めていないだろうか。
 漣が何か答えたようだったけど、その声ははっきりとは聞こえてこず、私はよくないと思いながらもマンションの廊下と理来の部屋のベランダを隔てているパーテーションの隙間に耳をくっつけた。
「だから」
 理来のさっきよりも抑えた声が聞こえてくる。
「結局好きなとこに行けって言ったのも、どこでも着いていくからってことじゃなくて、俺と別れるつもりだったからなんだろ」
――俺と別れる
 待って待って、と私は口に手を当てる。
 嘘でしょ?いつから?
 いつから付き合ってた?
「そうじゃない」
 漣の震える声がかすかに聞こえてきた。
「じゃあ、なんで一言も相談してくれなかったんだよ。お前が悩んでるのは知ってたし、北海道には行けない、悪い、とでも言ってくれれば俺だってしょうがないって思ったよ。でもお前は、今日たまたまああいった形で俺に知られなかったら、まだ黙ってるつもりだったんだろ」
「……」
「一方的に離れることを決められて、別れるつもりはないって言われても納得できねーよ」
「離れてても、付き合うことはできるって、俺は思ってる」
 そのまま沈黙が続き、私も呼吸を止めながら理来の言葉を待つ。
 漣の言うとおりだ。別に離れ離れになったって、付き合い続けることはできる。遠距離恋愛をしている人なんて山のようにいる。
 そのことは理来だって分かっているはずだ。冷静になったほうがいい。
 しかし結局理来は何も言わないままで、代わりに漣が「ただ」と再び口を開いた。
「いったん離れて、お互い冷静になる期間があったほうがいいと思ったのも、本当」
「……なんのために?」
「俺らの、気持ちが」
 漣がそこでためらうように、いったん言葉を途切れさせる。
「本当に、恋愛感情なのかを、確かめるために、とか」
「……ふざけんなよ」
「本気で言ってる。理来も……理来だって」
「俺だって、なんだよ」
「俺に対する気持ちが、昔から頼ってばかりだった俺への責任感から来てるものだって、思ったことないか」
「お前は、責任感だけでキスできんのかよ」
 マジか、と思う。いや、付き合ってるならそのくらいするだろうけど、理来と漣が、キス。
 頭の中がキャパオーバーになってきて、私はよろりとパーテーションから離れる。
 これ以上、聞くのは良くない気がする。二人にとって大事なそういう、なんだっけ、こういうの。そう、秘め事みたいなのは、二人だけのものにしておくべきだ。
「っていうかさ」
 しかし私が離れきる前に、理来は声を荒げて続けた。
「野球に影響が出るかもしんないし、ヤるのは部活引退してからって言ってさ。部活引退したら引退したで、家じゃ落ち着かないし、鈴音もいつくるか分かんないから卒業してからって言って? そんで卒業したら離れて気持ちを見直そうとかさ」
 その声が不安定に揺れて、私は思わず立ち止まる。
「キスだって触るのだっていつも俺からばっかりで、いつも俺ばっかりお前との関係を進めたがって、でもずっと断られて、でもお前の気持ちを尊重したいから我慢して、それなのにその気持ちがただの責任感じゃないのかって、それはねーだろ」
「……」
「っていうかさ、お前のほうこそ責任感で嫌々付き合ってたんじゃねーの? それなら納得できるもんな。今までの態度とかも」
「理来」
「いいよ、もう。別れよう。こんだけ付き合って信用できないとか、もう無理だろ? 俺も無理だよ」
 理来は声だけでも分かるほど、泣いていた。
 あのいつも冷静沈着な理来が、とショックを受けながら私は漣の返事を待つ。
 漣が一言、そんなことない、俺はこれからも付き合っていきたいと言えばいい。理来だって本気で別れたいわけじゃないんだから。
 しかし、そんな私の願いは呆気なく散らされた。
「分かった」
 漣ははっきりとそう答え、私は今度こそ力の入らない足を動かしてパーテーションから離れ、三階へと急いで降りる。
 案の定、それからすぐに漣が理来の家から出てきた気配がした。
 タンタンとコンクリートの階段を上っていく足音が、夜の中、リズミカルに響く。
 それが聞こえなくなったところで、私も重いため息をついて階段をのぼり、そして何気なく上を見上げてぎょっとした。
 そこでは、ベランダの手すりの上で組んだ腕に顔の下半分を埋めた理来が、こっちを見ていた。
 何を言えばいいか分からず「ども」と手を挙げると「聞いてたのか」と言われる。
「いやいや。なんのことか」
 とりあえずそう誤魔化すが、じーっと理来に見られ、観念して頷く。
「ごめん、聞いてしまった」
「そっか」
 はーっとため息をついた理来が「うち寄ってけよ。ちょっと話そう」と言ってベランダから姿を消す。
 それを見た私も急ぎ足で階段をのぼり、再び理来の家へと向かった。

*

「その野菜、漣のお母さんからだろ」
 理来が台所から持ってきたペットボトルの水を私に一本渡しながら言う。
「そう」
「漣の家行ってたのか」
「うん。専門学校がどこにあるのかだけでも聞きたいって思って。もしかしたら北海道っていう可能性もあるのかなって思ったから。そしたら理来の家に行ってるって言うから」
「それで来たのか。しかし、外から会話が聞こえるもんなんだな」
「たぶんパーテーションぎりぎりまで近寄らなければ、普通の会話とかは聞こえないけどね。理来が怒鳴ってるのが聞こえたから気になって寄ってしまった」
「だれかに見られたら不審者って通報されたかもな」
「あそこの外階段って足音がけっこう響くから、誰か来たら分かるし、そしたらすぐ逃げようって思ってた」
「まあ確かに、部屋にいても足音聞こえるときあるからな。そう思えば話し声が聞こえてもおかしくないか」
「夜で、周りも静かだと音も響きやすいしね」
 漣が階段をあがっていく音もずっと響いていたし。もしかしたら、その足音が戻ってきてくれることを願いながら、理来はベランダに出て耳をすませていたのだろうか。
 さすがにそんなことは聞けず、私はペットボトルの蓋を開け、水を飲む。
 一方の理来はペットボトルを手に持ったまま、それをぼんやりと眺めていた。
 まだその目は赤くて、少し潤んでいて、普段の理来とはちがってなんだか弱弱しい雰囲気で、見ていて切なくなってなる。
「……そんで、どっから聞いてた?」
 少しして理来がようやくそう切り出し、私は「漣に、別れるつもりだったんだろって言ってたあたりから」と正直に答える。
「そっか」
「あの、まず質問なんだけど、二人っていつから付き合って……」
「中一から」
「そんなになんの!?」
 思った以上に前からで、びっくりしてしまう。
「しかも鈴音がきっかけ」
「私!?」
 そんなきっかけ作った記憶、まったくないけど?とおもっていると、理来が遠い目をして話し出す。
「中一のバレンタインのときにさ、鈴音が友チョコ渡すからっていっぱい手作りで作っててさ。男はそういうのなくていいなって漣と言ってたら、鈴音がなんでお互いあげないの、お互い好きなんでしょって言ってきて」
「あー、あれか……」
 あのときの気まずすぎる空気を思い出してしかめ面をしていると、理来がちょっと笑った。
「俺も漣もめちゃくちゃ否定して、逆に否定しすぎて鈴音が引いてたよな」
「あれは、やらかしたって思ったもんね。幼馴染崩壊かって思ったもん」
「でも、あのあとになって漣があんなに否定するとか、結婚式までしといてひどくないかって冗談っぽく言ってきて、それはお前もだろって話から、まあなんやかんやあって、付き合うことになってさ」
 あぁ、二人とも結婚式のことはちゃんと覚えていたんだなと、少しほっとする。
「個人的には、そのなんやかんやのところが知りたいんですが」
「そこは秘密」
 また笑った理来が、はあっとため息をつく。
「で、俺はつきあってすぐに、鈴音には言った方がいいだろって漣に言ったんだけど、言わないほうがいいって反対されて。そんなこと言ったら、鈴音が気を遣って俺らと一緒にいたがらないかもしれないからって。三人で仲良くしていきたいから内緒にしようって言ってさ」
「そっか」
「まあその気持ちはわかるし、俺もいろいろ考えて、鈴音が俺らのことを知りながらずっとみんなに黙ってんのもつらいかもなって思ったから、秘密にしとくことにしたわけ」
「いくら考えなしだからって、私、信用なさすぎでしょ」
「信用はしてるけど、秘密を背負わせたくなかったってこと。例えば俺とか漣の親とかにさ、うちの子彼女いるの、とか聞かれたら、つきたくもない嘘を鈴音につかせることになるわけだし」
「なるほどなぁ」
「でもさ」
 理来は先ほどまでとは違い、自嘲気味に口をゆがめた。
「漣のほうは、もともとそこまで本気で付き合うつもりじゃなくて、だから、人に知られないようにしていただけかもな」
「そんな気持ちで五年も付き合えないと思うけど……」
「いや、今思うとそうなのかもなってことがいろいろあるわけよ」
 手の中のペットボトルをくるくると回しながら理来は淡々と続ける。
「聞こえてたか分かんないけど、まあ、なんつーか、なんでもかんでも俺からばっかだったわけ。漣のほうから来てくれることって全然なくて。それこそ付き合うことになったときだけかな。あいつのほうからきっかけ作ってくれたのって」
「うん」
「高校もさ。あいつがうちの高校で野球をやりたがってたのは本当だけど、そこまでどうしてもやりたいってほどじゃなかったと思う。でも、俺がランクを落としてうちの高校に行くってみんなに宣言して、漣もそこの野球部に行きたいらしいって周りに話して外堀埋めて、勉強させたから仕方なくって感じでさ。たぶん俺が何も言わなかったら、俺と同じところに行きたいから頑張るってことはしなかったんじゃないかな」
「そっか」
「でも、せっかく同じ高校入ったのに、やけに距離置かれてさ。他のやつらとはくっついてるのに、俺だけ近寄れないってどういうことだよって喧嘩になったこともある。だけど、変な噂が流れたらお互い大変だろって言って聞かなくて」
 その分、私がみんなから二人をキープする嫌な女扱いされていたわけだけど、と言いそうになったが、今は自分の文句を言っている場合ではないと我慢する。
「まあ、だから、俺も不安だった。ずっと。だから」
 そこまで言った理来の目にまたふわっと涙が膜を作る。
「俺、試したんだよ、あいつのこと。指定校推薦受けるけど、どこがいいって聞いたら、俺のことは気にしないで理来の行きたいところに行くべきだっていうから、本当は都内の大学と北海道の大学と迷ってたんだけど、あえて北海道を選んで。漣も驚くだろうけど、俺のことを好きなら、それでも着いてきてくれるかもって期待もしてたし、そうしたら親元から離れるわけだしもっと恋人らしく過ごせるなとか想像してた。でも、あいつ、北海道って聞いたとき、全然驚かないでただ良かったなってなんか安心したみたいな顔しててさ。あんときは、なんでほっとしてるんだろうって思ったけど、きっとこれで離れられるって思ってたんだろうな」
 理来が瞬きをし、膜になっていた涙が一つの粒となって膝に落ちる。
「でも、でもさ」
 私は必死に言う。
「私が見る限り、漣は理来のこと好きだと思うけど。北海道に行くのも、漣なりに悩んでたみたいだったよ」
「どうだかな」
「それに、好きでもないのに夏休み中、毎日理来の家に来たりしないでしょ」
「せっかく部活が終わって一緒にいれるんだから毎日会おうって俺が言ったからでしかないよ」
「でも……っていうかさ、私が連絡して理来から返事が来ないとき、漣からも返事が来なかったのって、二人でいたいから私のこと無視してたってこと?」
 急に思い出して口を尖らせると、理来が困ったような顔になった。
「いや、無視してたわけじゃなくて、まあ、俺らも一応付き合ってたわけだし、それなりにまあ、なんつーの、してたから」
「どういうこと?」
「BL読んでるんだろ。察しろよ」
「……あー、察しました」
 顔がちょっと熱くなるのを感じながら私は答える。つまり、あれやこれやしている最中に私がのんきにLIMEを送っていたということだろう。そういえば返事がなかなか来なかったときは、理来のおばちゃんが日勤で家にいないときだったような気もする。
「ってか、まさかと思うけど理来もBL読んでんの……?」
「何冊かだけどな。俺らにとっては参考書みたいなもんかもと思ったから」
「勉強熱心すぎるでしょ」
 さすがというかなんというか。でもだとすれば、私がBLを読んでいるというのもそれほど気にしなさそうだと思って安心する。
「でもさ、それならますますおかしいじゃん。漣が好きでもない人とそんなことするとは思えないけどなぁ」
「鈴音がどこまで想像してんのかは知らないけど、漣からはこっから先は無理ってけっこう明確に線を引かれてたから。いろいろ理由は言ってたけど、結局は俺とはそれ以上関係を進めるつもりはなかったんだろ」
 理来は話しているうちに段々と落ち着いてきているようだったけど、それは涙とともに感情も流れ出てしまった結果のようにも見えた。
「漣はさ。優しいんだよ」
 ぼんやりと虚空を見つめたまま理来は機械的に口を動かす。
「俺とのことをこれまではっきりと終わらせられなかったのも、俺を傷つけたくないって気持ちがあったからだろうし、あとは俺との仲が険悪になって鈴音に心配させたくなかったっていうのも絶対にあると思う。当然親同士の関係性のことだって考えただろうな。自分がある程度我慢することで周りが平和でいられるなら、そのほうがいいって考える、そういうやつなんだよ。逆に言えば、今回のことは、そんなあいつにとっては相当の覚悟でしたことなわけでさ。そこまでして俺と離れたいんだったら、もうしょうがないじゃん」
「けど、漣は離れてでも付き合えるって言ってたよ?」
「でも離れてお互い冷静に考えたいって言ってたし。どう考えても別れること前提だろ」
 理来が手に持っていたペットボトルを座卓に置き、後ろにあるベッドに寄りかかる。
「鈴音に聞こえたか分かんないけど、あいつ俺の部屋を出てくときに、自分なんかよりももっと理来のことを考えて支えてくれる人がいると思う、とか言ってさ」
 上を向いた理来の目尻からまた涙が一筋流れる。
「俺が一緒にいたいのは、俺のことを考えて支えてくれる人なんかじゃねーのにな。ほんとあいつ、なんも分かってねーの。バカだよな」
 理来の目からはそれからもゆっくりと涙が流れ続け、私は膝を抱えて、それが乾くまでそばにいた。
 帰るとき、理来は「俺らが付き合ってたこと知ったって、漣には言わないでやって。あいつ気にすると思うから」と言った。
 理来もこんなに優しいのに、なんでうまくいかないんだろうと思いながら、私は黙って頷いた。

 その次の日、三人のLIMEに【今日から別で行く】とだけ漣からメッセージが入った。
 私は【了解!】といつも通り返事をした。理来は当然何も返事をしなかった。
 それから、私は毎朝理来と二人だけで登校するようになった。
 理来は一見普通に見えたけど、せみの抜け殻のようにちょっとした力でくしゃりと潰れてしまいそうな危うさもあって、私は学校でもときどきその様子を見に行き、放課後も理来の家で勉強する頻度を上げて、理来のそばにいるようにした。
 校内では、私がついに理来を選んで付き合い出したらしいという噂が流れていると哉子に教えてもらったけど、そんなことはもうどうでも良かった。
 一方の漣は、本当に普通に見えた。校内でばったり会って、立ち話をすることもあったけど、理来と別れる前よりもずっと精神的に安定しているようにすら見えた。理来の言うとおり、本当はずっと別れたかったのかもしれないと考えると辛かった。
 でも、だとしたらあれは何だったんだろう。
 理来のかっこよさを並べ、漣もそう思っているのかと私に訊ねられて真っ赤になった顔とか。
 北海道に行くことは考えていないのかと聞かれて「分からない」と答えたときの真剣な顔だとか。
 理来の指を重ねられて耳を赤くしながら、そのままにしていたこととか。そしてそのあと、大事そうにぎゅっと握りこんでいたその手だとか。
 理来のことが好きだとしか、思えないのに。
 それなのになんで、理来と離れることを選んでしまったのだろう。
 いくら考えても理由は分からず、そのうち、私がもっと当て馬ガールとして頑張っていれば、漣も理来への気持ちをはっきり自覚することができて、こんなことにならなかったかもしれない、とすら思うようにもなった。でも一方で、そんな考えは傲慢でしかないことも分かっていて。
 結局私は、大事な幼馴染たちが、この先、決して交差することのない道をそれぞれ歩いていこうとしているのを、傍観者として見ていることしかできなかったのだ。

 やがて落ち葉が舞うようになった頃、予備校に通って自分の弱点に気付けたこと、そして理来という家庭教師を独り占めすることによって成績を伸ばした私は、先生とも話し合い、予定していたよりもランクの高い大学の経済学部に照準を合わせて勉強を進めていた。
 経済学部に決めたのは、いずれ会社勤めをするにしても経済学は学んでおいて損はないだろうというくらいの気持ちからだった。
 理来のように学びたいことがあるとか、漣のように怪我をした人を治療したいとか、そういったはっきりとした目的を持てないことが少しだけ情けなかったし、理来はもちろんのこと、漣も推薦ですでに進学が決まっているのに、自分だけが未来が決まっていないという焦燥感に苛まれることもあった。
 それでも、文学部を目指してセンターを受けるという哉子が一緒にいてくれたから、なんとか気持ちを保つことができた。哉子は、日本文学の中にBLっぽいものがいろいろあると知って文学部に行くことにしたと楽しそうに言っていて、そのぶれなさ加減に元気をもらった。
 そうして真面目に勉強を続け、受けた模試すべてで合格圏内にあることを確認できた私は、毎週土曜日に理来の家に行って勉強していたのを、一日だけ休むことにした。
 季節はいつの間にか冬になっていて、家の近くの通りではクリスマスの電飾がピカピカと輝いていた。
「休んで何すんの?」
 金曜日の勉強が終わったところで、明日は休みたいんだけど、と理来に伝えるとそう聞かれた。
「クリスマスプレゼント買いにいく」
 私はシャーペンと消しゴムを仕舞いながら答えた。
「哉子とプレゼント交換しようって話になって。お互い三千円っていう縛りで買うんだ」
「プレゼント交換なんて、子ども会でやったくらいだな」
「あー、懐かしいねぇ」
 そういえばあのとき漣がさ、と続けようとして、私は言葉をそっと喉の奥へと送り返す。
 まだ、漣の話を平気でできる雰囲気ではない。理来はだいぶ立ち直ってきたけれど、今でもたまにぼんやりとどこかを眺めていることがあって、その横顔を見るたびに私じゃとても漣の代わりは務まらないのだと感じる。
「理来も、もし暇なら一緒に買い物行く?」
 子ども会から話をそらすように訊ねると「そうだな」と理来が少し考えるような顔をした。
「たまにはいいかもな、出かけるのも」
「だよね! じゃあ明日は勉強なしのお出かけってことで」
 元気よく私は立ち上がり、以前、漣がしてくれていたように、毎回家まで律儀に送り届けてくれる理来と一緒に玄関を出る。
 どこに行こうか、と話しながら階段を上っていくと、ふと理来が足を止めて階段の先を見る。
 私もつられるように立ち止まって見上げると、そこには段ボールを抱えた漣が立っていた。
 曖昧な笑みを浮かべた漣が私たちを見ながら「あ、野菜を近所に配ってて」と小さい声で言う。
「なんかかぼちゃとかさ。重たいからあんたが行けって言われて。今、鈴音の家に行ってきたとこでちょうど理来のとこにもこれから行こうかって思ってたんだけど」
 聞かれてもいないことを、言い訳するかのように少し早口で話す漣を、理来は無表情のままじっと見ていた。
「あ、じゃあ、私ここまででいいよ」
 私はそう明るく言う。
「あと一階だけだし、さすがに大丈夫でしょ」
 本音を言えば、ここで二人きりにするのはちょっと心配だけど、だからと言って理来の家までまた私も一緒にわざわざ戻るというのは不自然すぎる。なぜなら二人は、表向きでは今まで通り仲のいい幼馴染同士でしかないからだ。
 漣からは、自分はもう推薦が決まって勉強を教えてもらう必要がなくなったから、鈴音の邪魔をしないように理来の家には行かないようにするし、朝は野球部の朝練の手伝いに借りだされているから、一緒に登校できなくなった、と言われている。学校ではもともとつるんでなかったし、そう言われれば理来と漣が一緒にいないのも確かに説明がつくので、私も素直にそれを信じるふりをして、今までと変わらない態度を心掛けている。
 二人の関係を知っていることを漣には気づかれないでほしいというのは理来の望みでもあるし、ここはしょうがないよね、と思いながら漣に向かって階段を上り始めたところで、手首をぐいっと後ろから掴まれた。
 びっくりして振り返ると「送ってく」と理来が横に並んでくる。
「漣、ちょっと待ってて。すぐだから」
 理来はそう言うと、私の手首をつかんだまま漣の横を通り過ぎ、階段を七階へ向けて上り始めた。
「……二人きりで大丈夫?」
 ぎゅっとつかんでくる理来の手が、救いを求めているようにも思えて私は訊ねる。
「大丈夫」
 真っすぐ前を見たまま静かに答えた理来は、家の前につくと「じゃあ明日」と言って私の手首をゆっくりと離した。
「うん、明日。せっかくならお昼も外で食べたいし、十一時にエントランスでいい?」
「了解」
 口元に少しだけ笑みを浮かべた理来が背を向けて階段へと向かうのを私は見送る。
 冷えた空気の中、理来につかまれた右の手首だけが熱かった。