夏の地方大会へと出場した野球部は、予想通り勝ち進んでいった。
夏休みに入ってからは、理来と私も毎試合応援に行った。漣がヒットを打ったり飛んできたボールをキャッチしたりするたびに喉が枯れるほど大騒ぎする私の隣で、理来は小さくガッツポーズをしたり手を叩いたりしながら漣の活躍を見守った。
一度だけ、エモい夏をご所望の哉子も誘い、一緒にメガホンを握って盛り上がった。タイムをとってピッチャーとキャッチャーが顔を寄せて話しているときなど、哉子だけ別の視点で一人で盛り上がっている気配もあったが、理来も一緒の手前さすがにあからさまに口にすることはなく、最後までギャルらしく元気いっぱいに応援をして楽しんでいた。
帰るときに、また応援に来たいと哉子は言っていたけど、残念ながら用事のため来られなかった翌日の準決勝で、うちの高校の野球部は負けてしまった。
泣き出すチームメイトが何人もいる中、漣は泣かずに笑顔で彼らをフォローしていた。昔は三人の中で一番泣き虫だったのに強くなったなぁと涙を拭う私の隣で、理来は静かにグラウンドを見つめていた。
その夜、私たちはいつものようにたまり場である理来の家に集合することにした。
理来のお父さんは三年前から単身赴任していて、お母さんは看護師で今日のように夜勤の日も月に何度もある。四歳上のお兄さんも、大学生になると同時に家を出た。
対して、漣と私には妹がいて、親も夜は家にいるので、いつからか理来の部屋で過ごすことが増えている。もちろん、どの親も了承済みだ。
今日も漣のお疲れ様会をしてくる、とママに言ったら、お中元で来たという美味しそうな瓶のぶどうジュースを持たせてくれた。お菓子は野球場からの帰り道に、理来とスーパーに寄って購入済みである。
外階段をジュースと携帯と鍵を持って三階分下りる。マンションの各階の両端にある家は、廊下とパーテーションで区切られたベランダがついている。理来の家も四階の端にあるので、廊下側に小さなベランダがあり、前はお兄さんが使っていたそのベランダに続く部屋を今は理来が使っている。
階段から何気なく電気のついている理来の部屋を見下ろすと、いつものように目隠し用のレースカーテンだけが閉められていて、中から灯りが漏れていた。約束の時間より少し遅くなったし、もう漣も来ているだろう。
チャイムを押すと、すぐに理来がドアを開けてくれる。
「はい、これママから」
「ぶどう?」
「ぶどう。冷えてないからとりあえず冷蔵庫入れさせて」
「おっけー」
理来がジュースを持って台所へ向かい、私は玄関を入ってすぐ左にある理来の部屋へと入る。
案の定すでに漣は来ていて、小さめの座卓の前で大きな体を縮めて体育座りをしていた。
日に焼けた顔に笑顔を浮かべてこちらを見る漣に、私も手を振る。
「おつかれさまー」
「どうもどうも」
「どう、今の気分」
「んー、なんかすっきりしてるような寂しいような微妙なとこだな」
思ったよりもあっさりとした感じで答える漣に「そっかぁ」と言いつつ、座卓の上に置いてあったお菓子の袋を開けていく。理来と一緒に選んだお菓子は、どれも漣の好物ばかりだ。
「これ、二人で買ってきてくれたの」
漣が聞いてきて、私は「そう」と頷く。
「漣の好きなものにしようって言って選んだら、これ、これ、これって感じであっという間に決まった」
私の言葉に漣が笑う。
「自分用の菓子買うときは、いっつも悩みまくるのに?」
「意外と自分が欲しいもののほうが分からなかったりするんだよねー」
「今日も、帰りになんか冷たいもん飲みたいってコーヒーショップ寄ったけど、何飲むかすげー悩んでたしな」
部屋に戻ってきた理来がそう言いながら、コーラの大きなペットボトルとコップを座卓の上に置く。
「コーヒーショップかぁ」
ぽつりと漣がつぶやく。
「俺、そういうなんかおしゃれな感じの店に行ったことないな。コンビニとかワックでバーガーとかそんなんばっか。学校からの帰りにそういうとこ寄ったりするの、青春っぽくてちょっと憧れてた」
「これから行けばいいだろ。二学期からは一緒に帰れるわけだし」
理来があっさりと言ってコップにコーラを注ぐ。
その言葉に漣は少し戸惑ったように「そっか」と答え、少しだけ三人の間に沈黙が落ちる。
「……別にいつも一緒に帰ろうって言ってるわけじゃねーし、そういうときがあってもいいだろって話」
理来が淡々と続けて、漣が「そうだね」と答えたところで、私は手を挙げた。ここは当て馬ガールの出番な気がする。
「私も一緒に学校帰りに行きたい! この先、理来とそうやって一緒にコーヒーショップに行くなんて何回できるか分かんないし」
「鈴音はいっつも原さんと一緒に帰ってるだろ」
「じゃあ哉子も一緒に四人で行けばいいじゃん。ダブルデートっぽくて楽しそう」
「ダブルデートって」
苦笑した漣に、私は笑顔で首を傾げて見せる。
「漣が私たちと行きたくないなら、理来と二人で行ってもいいな。今日も楽しかったし」
私の返しに漣の顔が少し強張った。
よし効いてる、と思っていると理来がコーラの入ったコップを漣と私の前に置きながら「あほか」と言う。
「漣が行ってみたいって言うから行こうかって話になってんのに、俺と鈴音だけで行っても意味ねーだろ」
まったくもって正論であるが、私の当て馬ガールとしての活動を邪魔しないでいただきたい。なんかちょっと漣から同情的な眼差しで見られてるし。
いや、でも、結果的に理来は私とではなく漣と一緒に行くつもりであるっていう意思表示をしたわけだから、二人の仲を深めたいという本来の目的からすれば結果オーライなのか?と一人でちょっと混乱していると、理来がコップを掲げた。
「まあ、その話はまた今度にしよう。とりあえず、漣お疲れってことで」
慌てて私もコップを持ってそれにならう。
「ほんとお疲れ! かっこよかったよ!」
「どうもどうも」
笑顔でコーラを飲んだ漣が、口からコップを離して、はぁっと大きなため息をつく。
「やっぱ、まだ終わったって実感がないわ」
「だよね。ほぼ休みなしでずっとやってきたわけだし」
「そうなんだよな。明日もグラウンドにうっかり行っちゃいそう」
冗談っぽく言った漣に向かって、理来が「それだけ頑張ってきたってことだよな」と声をかける。
「ずっと手を抜かないで努力してたの知ってるから本当にすげーと思うし、最後までマジでかっこよかった。おつかれ」
それを聞いた漣が、また笑って何か言おうとするが、口を開いたとたん声が詰まったようになり、くしゃっとその顔がゆがんだ。
理来が立ち上がって勉強机の上からティッシュを持ってきて漣の前に置き、うつむいてしまったその頭をあやすようにポンポンとする。
チームメイトを前にしても、私に声をかけられても笑顔だった漣が、理来の一言でこんな風に泣いちゃうんだな、と私は声をころして泣く漣とその姿を優しい目で見つめる理来を静かに見守った。
夜十時過ぎに、漣と私は一緒に理来の家を出た。
同じマンション内と言っても心配だから、といつも七階にある我が家まで送ってくれる漣はとても優しい。
その漣の目は少し腫れぼったくなっていたけど、もう大丈夫そうだった。
あのあと、受験モードに切り替えるためにも、とりあえず明日は参考書を買いに行って、せっかくだからコーヒーショップも行ってみようかと理来が言い、私も漣も賛成した。
それに乗っかって、私も思い出作りに夏休み中に遊園地に行ってみたいと提案してみた。そんなことしてる場合か、と言われるかと思ったけど、理来は少し考えたあと、まあ一日くらいなら気分転換にもいいかもなと頷き、漣も子供の頃以来だな、と乗り気になってくれた。
ならば、とさらに調子に乗った私が、あとは夏祭りと花火大会もいつもみたいに楽しもうね、と言ったら、鈴音の頭ん中は遊ぶことばっかか、と理来にツッコまれてしまったが、嫌とは言われなかったので付き合ってくれるのだろう。
「そういえば、原さんと夏の間遊んだりしないの?」
今日はけっこう風があるなと思いつつ、他のマンションの灯りを眺めていると、漣が聞いてくる。
「遊ぶよー。昨日も一緒に応援いってたし」
「うそ。全然気づいてなかった」
「観客席にいる人までいちいち把握できないよね」
「でも、原さん来てるって聞いたら、みんなのやる気倍増だったかもな。原さん、人気あるんだよね。うちの部で」
「そうなんだ。まあ哉子は美人だもんね」
しかし、本人はまったく彼氏を作る気がない。かっこいいと思った人がいても、自分でなくて他のいい男とくっついてくれと思ってしまうのだと言っていた。なかなかの拗らせ具合である。
「ってか、私も応援に行ってんだけど、それじゃやる気倍増になんないってこと? 失礼すぎん?」
ふざけて文句を言うと、漣が一瞬黙ったあと、答える。
「鈴音は……応援も理来といつも一緒だからさ」
「それは、漣の幼馴染だからじゃん。みんなもそれは知ってるでしょ」
「まあそうだけど、鈴音のこといいと思ったとしてもさ、いつも理来が隣にいるのに、俺が、とはなかなかならないよ。理来にはその辺の男じゃ太刀打ちできないだろ」
漣が独り言のように続ける。
「あいつすごい頭いいしさ。生徒会長をするくらい人気もあって、頼りにもなるし、かっこいいし」
「……それは、漣もそう思ってるってこと?」
私の問いに漣の顔が紅潮したのが、マンションの廊下に設置された薄暗い蛍光灯の下でもはっきりと分かった。
「思ってるって言うか、一般論で。みんなそう言ってるし、まあ、実際そうじゃん」
漣が少し早口で言い訳するように言葉を並べたところで、自宅の前につく。
私は漣に向きなおって「送ってくれてありがと」と言ったあとに続けた。
「まあ、確かに、理来はモテるしね。かっこいいと思うよ、私も」
漣は、そんな私を少しだけ見つめたあと「だよな。じゃ、おやすみ」と微笑んでまた階段のほうへと足を向けた。漣の家は一階下の六階だ。
「おやすみ」
私もその後姿に声をかけ、玄関のドアを開けて家の中に入った。
*
翌日は昼前にエントランスに集まった。制服でもジャージでもない、ちょっとおしゃれをした漣を見たのが久々で「なんかしんせーん! かっこいいじゃん。理来もそう思わない?」と言うと、「そういうこと言わなくていいから」と赤い顔をした漣に遮られてしまった。
先に駅前のワックで早めの昼食を食べたあと、電車に乗って六駅先にある大きい本屋へと行く。
参考書の棚の前に立った時点で、その数の多さにうんざりしてため息をつきたくなる私を横目に、理来は早速いくつかの参考書を引き抜いて手に取った。
今も、一応数学の参考書は持っている。二年前、国立大学に合格した従姉にすすめられた参考書で、特に使いにくいということはないが、自分のレベルに合っているのかどうかはいまいち分からないので、他のものも試してみたいと言うのは本当だ。
本当だけど、こんだけある中から自分に合うものを選ぶなんてどうすればいいのかまったく分からないし、正直めんどくさい。
「鈴音はこれかこれ」
しかし、五分も経たないうちに、背表紙を眺めるばかりの私の前に理来は二冊の参考書を差し出してきた。
「鈴音は基本の理解はできてるから、あとは数をこなしていろんなパターンの問題に慣れていくのが大事だと思う。あと、グダグダと書かれててたら読み飛ばしそうだから、ポイントをかなり絞って解説してるやつってなると、このどっちか。そこは好みでいいと思う」
「……ありがとうございます」
両手で受け取って、両方とも中を見てみる。確かに今使っている参考書と比較して、かなりすっきりとした印象だ。
「んで、漣のは――」
理来がまた棚に戻り、漣がその横にいつものように少しだけ距離をとって並んだ。
二人は、背の高さだけで言えば、理来のほうが少しだけ高い。ただ、マッチョとまではいかないが、しっかり筋肉がついている漣のほうがこう見ると大きく感じる。
それでも昔からのイメージだろうか、私の中ではいつまでも理来は大きく、漣は小さいという印象だ。幼い頃から理来はしっかりしていて、漣は泣き虫で甘えん坊だった。ちなみに私はファンタジーの世界に生きているような不思議ちゃんだったらしく、漣が頼るのは当然のように理来ばかりだった。
幼稚園の頃は、ずっと同じクラスだったこともあり、理来もそんな漣の面倒をよく見ていた。
しかし、小学校にあがったら二人はクラスが別れた。さらに漣の家では妹ちゃんが誕生したばかりだったということもあり、漣は精神的に不安定になってしまった。それでも、優しい漣は妹ちゃんのお世話で大変そうなお母さんに、文句を言えず、家ではお兄ちゃんとして頑張っていたようだ。
その分、理来がいない学校に行きたくない、理来とずっと一緒がいいと登下校のときに毎日のように泣く漣に『けっこんしたら、ずっといっしょにいられるよ』と教えたのは私だ。
『おうじさまとおひめさまは、けっこんしたら、ずっとずっといっしょにしあわせにくらすんだもん』
プリンセスが出てくる絵本が大好きだった私の力説に『それなら理来とけっこんする』と漣はすぐに言って、理来も『べつにいいけど』と照れながら答えた。
そうして三人で秘密の結婚式を挙げたあとは、泣きそうになっても、理来が『けっこんしてるからいっしょだろ。だいじょうぶ』と慰めることで漣は落ち着けるようになっていった。
あの「けっこん」という魔法の言葉は、いつまで使われていたんだろう。
小四のとき、漣のお母さんが手術が必要な病気になり、妹ちゃんが不安になるからと泣くのを我慢していた漣に『おれたち結婚してるんだから、おれの前ではがまんしなくてもいいよ。うちのお父さんがお母さんに前、そう言ってたし』と理来が言ったのが最後かもしれない。
それを聞いた漣は、爆発したように泣き出し、そんな漣を理来は抱きしめ、私はその隣で漣の頭を撫で続けた。
――あの結婚の約束は、もう理来と漣の中ではなかったことになってんのかな
両手に参考書を持ちながら、二人の背中を見ていたら、理来がくるりと振り向いた。
「鈴音も決まった?」
「あ、あ、うん。こっち」
慌てて右手に持った参考書を持ち上げる。
漣はと言えば、いつの間にか三冊の参考書を持っていた。
「そんなに買うの?」
そばに寄って漣に訊ねると、理来が代わりに答える。
「漣の場合、基礎からだからさ。俺が教えるの前提で、数学と英語をとりあえず一冊ずつと、一人でもできそうなのを一冊」
「至れり尽くせりじゃん」
「漣のお母さんにも頼まれてるしな」
肩をすくめた理来の横で、漣はなんだか複雑な表情で手の中の参考書を見つめる。大変そうだ、とでも思っているのかもしれない。
無事に参考書を手に入れた私たちは、本屋を出たあと漣を連れてコーヒーショップへと行った。昨日行ったショップと同じ系列のお店だ。
「俺、アイスコーヒーのブラックよろしく」と言った理来が席取りをしてくれている間に、漣と列に並んで、ぎりぎりまで今日も悩みながら飲み物を決める。
漣は、エクストラホイップの載った季節限定のフラペチーノを選んで嬉しそうにしていた。可愛いので受け取ったフラペチーノとのツーショットを撮ってあげる。
理来が待っている席へと行き、それぞれ一口飲んでほっとしたところで、理来が何気なく口を開いた。
「参考書買ったはいいけどさ、二人ともどこに行こうとか考えてんの」
理来の隣に座っている漣が、なぜか焦ったようにパチパチと瞬きをしたあとに「いや」と小さい声で答える。
「俺は……まだ」
「そ」
お互い顔を見ないまま言葉を交わした二人が、そのまま黙り込む。
もしや、これは私の答えは求められていない感じだろうか、と思いつつも、あえて明るい声を出す。
「私も決まってないけど、理来が北海道行くんなら、そっちで探してみようかな。理来がいるなら安心だし、北海道に行ってみたいし」
当て馬ガールとしての私の答えに、漣が驚いたように視線をあげてこっちを見た。
しかし理来は特に気にならないようで「鈴音は寒がりだから北海道無理だろ」と言ってアイスコーヒーを飲む。
「そんなことないって。北海道は寒い分、暖房がすごいしっかりしてるって言うし」
「家の中は、だろ。大学に行くときとかどうすんだよ」
「厚着で頑張る」
「原始的な方法だな」
からかうように言ってくる理来が「まあでも」と続ける。
「もちろん北海道に鈴音が行きたい大学があるって言うなら、いいと思うけど」
「そもそも私がどこに行こうと私の勝手だしね」
笑いながら答えると、ふっと理来と漣の二人ともが真顔になった。しかしそれも一瞬のことで、理来はすぐに「そうだな」と笑い、漣は黙ってフラペチーノを飲んだ。
その数日後、理来の家で三人で勉強したあと、漣が私を送りながら「鈴音は北海道に行こうと思ってんの」と改めて聞いてきた。
「決めたわけじゃないけど、選択肢の一つとしては考えてる」
「そっか」
「漣は、北海道に行こうとか思ったことないの」
「……分からない」
それは、私の質問に対する答えとしてはなんだかちぐはぐだったけど、漣の真剣な顔を見たら、それ以上何も言うことはできなかった。
夏休みに入ってからは、理来と私も毎試合応援に行った。漣がヒットを打ったり飛んできたボールをキャッチしたりするたびに喉が枯れるほど大騒ぎする私の隣で、理来は小さくガッツポーズをしたり手を叩いたりしながら漣の活躍を見守った。
一度だけ、エモい夏をご所望の哉子も誘い、一緒にメガホンを握って盛り上がった。タイムをとってピッチャーとキャッチャーが顔を寄せて話しているときなど、哉子だけ別の視点で一人で盛り上がっている気配もあったが、理来も一緒の手前さすがにあからさまに口にすることはなく、最後までギャルらしく元気いっぱいに応援をして楽しんでいた。
帰るときに、また応援に来たいと哉子は言っていたけど、残念ながら用事のため来られなかった翌日の準決勝で、うちの高校の野球部は負けてしまった。
泣き出すチームメイトが何人もいる中、漣は泣かずに笑顔で彼らをフォローしていた。昔は三人の中で一番泣き虫だったのに強くなったなぁと涙を拭う私の隣で、理来は静かにグラウンドを見つめていた。
その夜、私たちはいつものようにたまり場である理来の家に集合することにした。
理来のお父さんは三年前から単身赴任していて、お母さんは看護師で今日のように夜勤の日も月に何度もある。四歳上のお兄さんも、大学生になると同時に家を出た。
対して、漣と私には妹がいて、親も夜は家にいるので、いつからか理来の部屋で過ごすことが増えている。もちろん、どの親も了承済みだ。
今日も漣のお疲れ様会をしてくる、とママに言ったら、お中元で来たという美味しそうな瓶のぶどうジュースを持たせてくれた。お菓子は野球場からの帰り道に、理来とスーパーに寄って購入済みである。
外階段をジュースと携帯と鍵を持って三階分下りる。マンションの各階の両端にある家は、廊下とパーテーションで区切られたベランダがついている。理来の家も四階の端にあるので、廊下側に小さなベランダがあり、前はお兄さんが使っていたそのベランダに続く部屋を今は理来が使っている。
階段から何気なく電気のついている理来の部屋を見下ろすと、いつものように目隠し用のレースカーテンだけが閉められていて、中から灯りが漏れていた。約束の時間より少し遅くなったし、もう漣も来ているだろう。
チャイムを押すと、すぐに理来がドアを開けてくれる。
「はい、これママから」
「ぶどう?」
「ぶどう。冷えてないからとりあえず冷蔵庫入れさせて」
「おっけー」
理来がジュースを持って台所へ向かい、私は玄関を入ってすぐ左にある理来の部屋へと入る。
案の定すでに漣は来ていて、小さめの座卓の前で大きな体を縮めて体育座りをしていた。
日に焼けた顔に笑顔を浮かべてこちらを見る漣に、私も手を振る。
「おつかれさまー」
「どうもどうも」
「どう、今の気分」
「んー、なんかすっきりしてるような寂しいような微妙なとこだな」
思ったよりもあっさりとした感じで答える漣に「そっかぁ」と言いつつ、座卓の上に置いてあったお菓子の袋を開けていく。理来と一緒に選んだお菓子は、どれも漣の好物ばかりだ。
「これ、二人で買ってきてくれたの」
漣が聞いてきて、私は「そう」と頷く。
「漣の好きなものにしようって言って選んだら、これ、これ、これって感じであっという間に決まった」
私の言葉に漣が笑う。
「自分用の菓子買うときは、いっつも悩みまくるのに?」
「意外と自分が欲しいもののほうが分からなかったりするんだよねー」
「今日も、帰りになんか冷たいもん飲みたいってコーヒーショップ寄ったけど、何飲むかすげー悩んでたしな」
部屋に戻ってきた理来がそう言いながら、コーラの大きなペットボトルとコップを座卓の上に置く。
「コーヒーショップかぁ」
ぽつりと漣がつぶやく。
「俺、そういうなんかおしゃれな感じの店に行ったことないな。コンビニとかワックでバーガーとかそんなんばっか。学校からの帰りにそういうとこ寄ったりするの、青春っぽくてちょっと憧れてた」
「これから行けばいいだろ。二学期からは一緒に帰れるわけだし」
理来があっさりと言ってコップにコーラを注ぐ。
その言葉に漣は少し戸惑ったように「そっか」と答え、少しだけ三人の間に沈黙が落ちる。
「……別にいつも一緒に帰ろうって言ってるわけじゃねーし、そういうときがあってもいいだろって話」
理来が淡々と続けて、漣が「そうだね」と答えたところで、私は手を挙げた。ここは当て馬ガールの出番な気がする。
「私も一緒に学校帰りに行きたい! この先、理来とそうやって一緒にコーヒーショップに行くなんて何回できるか分かんないし」
「鈴音はいっつも原さんと一緒に帰ってるだろ」
「じゃあ哉子も一緒に四人で行けばいいじゃん。ダブルデートっぽくて楽しそう」
「ダブルデートって」
苦笑した漣に、私は笑顔で首を傾げて見せる。
「漣が私たちと行きたくないなら、理来と二人で行ってもいいな。今日も楽しかったし」
私の返しに漣の顔が少し強張った。
よし効いてる、と思っていると理来がコーラの入ったコップを漣と私の前に置きながら「あほか」と言う。
「漣が行ってみたいって言うから行こうかって話になってんのに、俺と鈴音だけで行っても意味ねーだろ」
まったくもって正論であるが、私の当て馬ガールとしての活動を邪魔しないでいただきたい。なんかちょっと漣から同情的な眼差しで見られてるし。
いや、でも、結果的に理来は私とではなく漣と一緒に行くつもりであるっていう意思表示をしたわけだから、二人の仲を深めたいという本来の目的からすれば結果オーライなのか?と一人でちょっと混乱していると、理来がコップを掲げた。
「まあ、その話はまた今度にしよう。とりあえず、漣お疲れってことで」
慌てて私もコップを持ってそれにならう。
「ほんとお疲れ! かっこよかったよ!」
「どうもどうも」
笑顔でコーラを飲んだ漣が、口からコップを離して、はぁっと大きなため息をつく。
「やっぱ、まだ終わったって実感がないわ」
「だよね。ほぼ休みなしでずっとやってきたわけだし」
「そうなんだよな。明日もグラウンドにうっかり行っちゃいそう」
冗談っぽく言った漣に向かって、理来が「それだけ頑張ってきたってことだよな」と声をかける。
「ずっと手を抜かないで努力してたの知ってるから本当にすげーと思うし、最後までマジでかっこよかった。おつかれ」
それを聞いた漣が、また笑って何か言おうとするが、口を開いたとたん声が詰まったようになり、くしゃっとその顔がゆがんだ。
理来が立ち上がって勉強机の上からティッシュを持ってきて漣の前に置き、うつむいてしまったその頭をあやすようにポンポンとする。
チームメイトを前にしても、私に声をかけられても笑顔だった漣が、理来の一言でこんな風に泣いちゃうんだな、と私は声をころして泣く漣とその姿を優しい目で見つめる理来を静かに見守った。
夜十時過ぎに、漣と私は一緒に理来の家を出た。
同じマンション内と言っても心配だから、といつも七階にある我が家まで送ってくれる漣はとても優しい。
その漣の目は少し腫れぼったくなっていたけど、もう大丈夫そうだった。
あのあと、受験モードに切り替えるためにも、とりあえず明日は参考書を買いに行って、せっかくだからコーヒーショップも行ってみようかと理来が言い、私も漣も賛成した。
それに乗っかって、私も思い出作りに夏休み中に遊園地に行ってみたいと提案してみた。そんなことしてる場合か、と言われるかと思ったけど、理来は少し考えたあと、まあ一日くらいなら気分転換にもいいかもなと頷き、漣も子供の頃以来だな、と乗り気になってくれた。
ならば、とさらに調子に乗った私が、あとは夏祭りと花火大会もいつもみたいに楽しもうね、と言ったら、鈴音の頭ん中は遊ぶことばっかか、と理来にツッコまれてしまったが、嫌とは言われなかったので付き合ってくれるのだろう。
「そういえば、原さんと夏の間遊んだりしないの?」
今日はけっこう風があるなと思いつつ、他のマンションの灯りを眺めていると、漣が聞いてくる。
「遊ぶよー。昨日も一緒に応援いってたし」
「うそ。全然気づいてなかった」
「観客席にいる人までいちいち把握できないよね」
「でも、原さん来てるって聞いたら、みんなのやる気倍増だったかもな。原さん、人気あるんだよね。うちの部で」
「そうなんだ。まあ哉子は美人だもんね」
しかし、本人はまったく彼氏を作る気がない。かっこいいと思った人がいても、自分でなくて他のいい男とくっついてくれと思ってしまうのだと言っていた。なかなかの拗らせ具合である。
「ってか、私も応援に行ってんだけど、それじゃやる気倍増になんないってこと? 失礼すぎん?」
ふざけて文句を言うと、漣が一瞬黙ったあと、答える。
「鈴音は……応援も理来といつも一緒だからさ」
「それは、漣の幼馴染だからじゃん。みんなもそれは知ってるでしょ」
「まあそうだけど、鈴音のこといいと思ったとしてもさ、いつも理来が隣にいるのに、俺が、とはなかなかならないよ。理来にはその辺の男じゃ太刀打ちできないだろ」
漣が独り言のように続ける。
「あいつすごい頭いいしさ。生徒会長をするくらい人気もあって、頼りにもなるし、かっこいいし」
「……それは、漣もそう思ってるってこと?」
私の問いに漣の顔が紅潮したのが、マンションの廊下に設置された薄暗い蛍光灯の下でもはっきりと分かった。
「思ってるって言うか、一般論で。みんなそう言ってるし、まあ、実際そうじゃん」
漣が少し早口で言い訳するように言葉を並べたところで、自宅の前につく。
私は漣に向きなおって「送ってくれてありがと」と言ったあとに続けた。
「まあ、確かに、理来はモテるしね。かっこいいと思うよ、私も」
漣は、そんな私を少しだけ見つめたあと「だよな。じゃ、おやすみ」と微笑んでまた階段のほうへと足を向けた。漣の家は一階下の六階だ。
「おやすみ」
私もその後姿に声をかけ、玄関のドアを開けて家の中に入った。
*
翌日は昼前にエントランスに集まった。制服でもジャージでもない、ちょっとおしゃれをした漣を見たのが久々で「なんかしんせーん! かっこいいじゃん。理来もそう思わない?」と言うと、「そういうこと言わなくていいから」と赤い顔をした漣に遮られてしまった。
先に駅前のワックで早めの昼食を食べたあと、電車に乗って六駅先にある大きい本屋へと行く。
参考書の棚の前に立った時点で、その数の多さにうんざりしてため息をつきたくなる私を横目に、理来は早速いくつかの参考書を引き抜いて手に取った。
今も、一応数学の参考書は持っている。二年前、国立大学に合格した従姉にすすめられた参考書で、特に使いにくいということはないが、自分のレベルに合っているのかどうかはいまいち分からないので、他のものも試してみたいと言うのは本当だ。
本当だけど、こんだけある中から自分に合うものを選ぶなんてどうすればいいのかまったく分からないし、正直めんどくさい。
「鈴音はこれかこれ」
しかし、五分も経たないうちに、背表紙を眺めるばかりの私の前に理来は二冊の参考書を差し出してきた。
「鈴音は基本の理解はできてるから、あとは数をこなしていろんなパターンの問題に慣れていくのが大事だと思う。あと、グダグダと書かれててたら読み飛ばしそうだから、ポイントをかなり絞って解説してるやつってなると、このどっちか。そこは好みでいいと思う」
「……ありがとうございます」
両手で受け取って、両方とも中を見てみる。確かに今使っている参考書と比較して、かなりすっきりとした印象だ。
「んで、漣のは――」
理来がまた棚に戻り、漣がその横にいつものように少しだけ距離をとって並んだ。
二人は、背の高さだけで言えば、理来のほうが少しだけ高い。ただ、マッチョとまではいかないが、しっかり筋肉がついている漣のほうがこう見ると大きく感じる。
それでも昔からのイメージだろうか、私の中ではいつまでも理来は大きく、漣は小さいという印象だ。幼い頃から理来はしっかりしていて、漣は泣き虫で甘えん坊だった。ちなみに私はファンタジーの世界に生きているような不思議ちゃんだったらしく、漣が頼るのは当然のように理来ばかりだった。
幼稚園の頃は、ずっと同じクラスだったこともあり、理来もそんな漣の面倒をよく見ていた。
しかし、小学校にあがったら二人はクラスが別れた。さらに漣の家では妹ちゃんが誕生したばかりだったということもあり、漣は精神的に不安定になってしまった。それでも、優しい漣は妹ちゃんのお世話で大変そうなお母さんに、文句を言えず、家ではお兄ちゃんとして頑張っていたようだ。
その分、理来がいない学校に行きたくない、理来とずっと一緒がいいと登下校のときに毎日のように泣く漣に『けっこんしたら、ずっといっしょにいられるよ』と教えたのは私だ。
『おうじさまとおひめさまは、けっこんしたら、ずっとずっといっしょにしあわせにくらすんだもん』
プリンセスが出てくる絵本が大好きだった私の力説に『それなら理来とけっこんする』と漣はすぐに言って、理来も『べつにいいけど』と照れながら答えた。
そうして三人で秘密の結婚式を挙げたあとは、泣きそうになっても、理来が『けっこんしてるからいっしょだろ。だいじょうぶ』と慰めることで漣は落ち着けるようになっていった。
あの「けっこん」という魔法の言葉は、いつまで使われていたんだろう。
小四のとき、漣のお母さんが手術が必要な病気になり、妹ちゃんが不安になるからと泣くのを我慢していた漣に『おれたち結婚してるんだから、おれの前ではがまんしなくてもいいよ。うちのお父さんがお母さんに前、そう言ってたし』と理来が言ったのが最後かもしれない。
それを聞いた漣は、爆発したように泣き出し、そんな漣を理来は抱きしめ、私はその隣で漣の頭を撫で続けた。
――あの結婚の約束は、もう理来と漣の中ではなかったことになってんのかな
両手に参考書を持ちながら、二人の背中を見ていたら、理来がくるりと振り向いた。
「鈴音も決まった?」
「あ、あ、うん。こっち」
慌てて右手に持った参考書を持ち上げる。
漣はと言えば、いつの間にか三冊の参考書を持っていた。
「そんなに買うの?」
そばに寄って漣に訊ねると、理来が代わりに答える。
「漣の場合、基礎からだからさ。俺が教えるの前提で、数学と英語をとりあえず一冊ずつと、一人でもできそうなのを一冊」
「至れり尽くせりじゃん」
「漣のお母さんにも頼まれてるしな」
肩をすくめた理来の横で、漣はなんだか複雑な表情で手の中の参考書を見つめる。大変そうだ、とでも思っているのかもしれない。
無事に参考書を手に入れた私たちは、本屋を出たあと漣を連れてコーヒーショップへと行った。昨日行ったショップと同じ系列のお店だ。
「俺、アイスコーヒーのブラックよろしく」と言った理来が席取りをしてくれている間に、漣と列に並んで、ぎりぎりまで今日も悩みながら飲み物を決める。
漣は、エクストラホイップの載った季節限定のフラペチーノを選んで嬉しそうにしていた。可愛いので受け取ったフラペチーノとのツーショットを撮ってあげる。
理来が待っている席へと行き、それぞれ一口飲んでほっとしたところで、理来が何気なく口を開いた。
「参考書買ったはいいけどさ、二人ともどこに行こうとか考えてんの」
理来の隣に座っている漣が、なぜか焦ったようにパチパチと瞬きをしたあとに「いや」と小さい声で答える。
「俺は……まだ」
「そ」
お互い顔を見ないまま言葉を交わした二人が、そのまま黙り込む。
もしや、これは私の答えは求められていない感じだろうか、と思いつつも、あえて明るい声を出す。
「私も決まってないけど、理来が北海道行くんなら、そっちで探してみようかな。理来がいるなら安心だし、北海道に行ってみたいし」
当て馬ガールとしての私の答えに、漣が驚いたように視線をあげてこっちを見た。
しかし理来は特に気にならないようで「鈴音は寒がりだから北海道無理だろ」と言ってアイスコーヒーを飲む。
「そんなことないって。北海道は寒い分、暖房がすごいしっかりしてるって言うし」
「家の中は、だろ。大学に行くときとかどうすんだよ」
「厚着で頑張る」
「原始的な方法だな」
からかうように言ってくる理来が「まあでも」と続ける。
「もちろん北海道に鈴音が行きたい大学があるって言うなら、いいと思うけど」
「そもそも私がどこに行こうと私の勝手だしね」
笑いながら答えると、ふっと理来と漣の二人ともが真顔になった。しかしそれも一瞬のことで、理来はすぐに「そうだな」と笑い、漣は黙ってフラペチーノを飲んだ。
その数日後、理来の家で三人で勉強したあと、漣が私を送りながら「鈴音は北海道に行こうと思ってんの」と改めて聞いてきた。
「決めたわけじゃないけど、選択肢の一つとしては考えてる」
「そっか」
「漣は、北海道に行こうとか思ったことないの」
「……分からない」
それは、私の質問に対する答えとしてはなんだかちぐはぐだったけど、漣の真剣な顔を見たら、それ以上何も言うことはできなかった。