会いたいと思えば多分、いつだって会える関係。
夜通し一緒にいるとか、お金を貯めたら旅行だって、きっと言えばいくらでもできる。
欲しいものなんて別に、今のままで十分叶う。
だからこのままでいい、このままがいいって思っていた。
「……38.7度……」
はあ、と吐く自分の息が熱い。
高熱を表示する体温計を脇に置いて、天井を仰いだ。
今は何時だろう。スマホを見る気力もなくて、学校に電話し終わってから時間が分からない。
そもそもそんなに鳴る頻度が高くないからスマホは見ないし、チャットの通知も基本オフにしている。
今の学校に入ったばっかりの時、やけに知らない女子生徒から連絡先を聞かれたけど、たぶんマメに返せないから全部断った。
片岡とかクラスのやつはなぜかそれに怒ってたけど、連絡先の何がそんなに大事なのかあんまり分かっていない。
……それに。
ピコピコと軽快な電子音が続く。
電話の受信音だ。
画面を特に見ないまま、応答のマークをタップする。
あいつだと思ったから。
───あいつがいいと、思ったから。
『おい黒瀬、おまえな! 一言くらい返せよ! 生きてんのか』
想像通りの声が聞こえて、そっと目を閉じた。
片岡は、こうしてチャットどころか電話で無理やり連絡してくる。
だからずっと、通知はいらなかった。
『……何度あんだよ、今』
「……38」
『バカおまえ、死ぬぞそんなん』
「生きてる」
『生きてないだろ、その声。飯は?』
「……覚えてねえ」
『やっぱ死んでんじゃねーか、バカか待ってろ』
ぶつっと通信が切られて、そのまま滑るみたいにスマホを下ろす。
あいつに『待ってろ』って言われると、つい本当に待ちたくなる。
なんでだよ、とか、俺の勝手だろ、とか。
結構色んな場面で思うけど、あいつの言葉だと受け入れるのに迷ったことがない。
のどが乾ききった時に飲むスポドリみたいな、そういう感じだ。
だからたぶん、俺自身が、欲してるんだと思う。
あいつの頼み事も、わがままも、文句も。言われること、全部。
「……ろせ。黒瀬。生きてるか」
「……かたおか」
電話を切って少しと経たないうちに、見慣れた顔がのぞきこんできた。
……すげえ久々に、顔を見た気がする。
「おまえ食ってないどころかほとんど飲んでねーだろ! これスポドリな、あと姉ちゃんに冷えピタもらってきた。デコ出せ」
「……」
「うし、貼ったぞ。あとはゼリー食え、プロテインのやつ。あとチンするスープな、仕方ねーから温めてやるよ。食える?」
「…………学校は」
「とっくに終わってるわ。今16時だぞ」
「部活は」
「俺のことばっかりかよ、おまえ。休んできたわ、1日くらい」
がさがさと袋から色んなものを取り出す片岡。
どう説明したらいいかわからないけど、落ち着くと思った。
人に過剰に構われるのは好きじゃない。
けど、こいつのそれは心地いい。
通知だってうるさいのが嫌で切った。
けど、こいつが無理やり鳴らしてくる着信音は考えるより先に気づいたら受け取ってた。
「……なんで、来てくれんの」
「……なんでとか、聞きてーの俺の方だわ」
電話をしてくるのが、片岡ならいいと思った。
けど、俺に夢で好きだって言われて、あれだけ困る片岡を見たら。
同じくらい、もう近づいたら駄目だと思った。
思ったのに。
「理由もなしに言うなよ、関わんねーとか」
顔を見たら、また、そばにいてほしくなる。
「俺が意識すんの、そんな嫌だったのかよ」
「……は?」
「ならもう忘れるから、おまえも忘れろよ」
目が合わないまま投げられる言葉を、うまくかみ砕けない。
……意識? 誰が誰を。俺が片岡を?
頭が回っていない。
「おまえさ、」
いつから好きなのかなんて、もう分からない。
気づいたらそうだった気がするし、最初からずっとそうな気もする。
「作れよ、彼女」
───脈拍に合わせて、頭の奥が痛んだ。
「黒瀬、全然甘えねえじゃん。こういう時。そういうのもさ、丸ごと受け入れてくれる? みたいな。包容力あるさ」
がさがさ、心地よかった音が、急激に歪み始める。
「おまえ、分かりにくいけど良いやつだし。絶対困ってるやつは助けんじゃん。だから助けて助けられてさ、そういうのできる相手見つけ……」
「……らねえ……げほっ」
言葉をしぼり出そうとして、のどの痛みに押し込められた。
乾燥してるからか、少しも思い通りに声が出せない。
「おまえな、だから水分摂れって……あーほら、スポドリ!」
数度咳き込みながら、差し出されるペットボトルを受け取る。
頭痛を通り越して、目の奥が痛い。
頭がぐらぐらして不安定だ。
自分が今、息を吸ってんのか吐いてんのかも分からない。
「黒瀬? 大丈夫か、ってうわ熱っ! これ38超えてねえ?」
一瞬触れた片岡の手。
首筋に広がったその冷たい感触が、やけに残って思考を奪う。
「体温計貸せ、おまえちゃんと測って───」
パシ。俺の手元に向かって伸びて来た手を掴んだ。
勢い任せに引っ張れば、俺の足元に片岡の上半身が倒れ込む。
「は、おい、黒……っ」
覆いかぶさるように頭の横に手をついて、もう片方の手で、片岡の口元を塞ぐ。
「───」
手のひら越しに、キスをした。
今この瞬間に残せる、最大限の理性。
回らない頭の片隅で考えられる、最小限の傷つけ方。
困らせたくない。
片岡が望むなら、よく分かってないけど、なんだって全部忘れる。
けど。
「……お前だけでいい」
他の奴を好きになることだけは、お前にだけは薦められたくない。
「は、」
「お前がいい、片岡」
カサついた声で、必死にしぼり出す。
陽に透けそうな色素の薄い目が、俺を映す。
「っ……ふざけんなよ!」
首元が締め付けられて、胸ぐらをつかまれているんだと分かった。
「いい加減にしろよ、なんなんだよ。意識したっつったらもう関わらないとか言ったくせに、なんでこんなことすんだよ。誰のために忘れようとしてると思ってんだよ」
「……片」
「振り向かねーなら、これ以上好きにさせんな!!」
静かな部屋に響く片岡の叫び。
思考が、止まる。
「……好きって、何が」
「はあ?」
「俺の夢見て、引いたんじゃねえの」
「は? 言ってないだろ、そんなこと」
「俺見て逃げたろ」
「……あれはだから、意識したって言ってんだろ。人の話聞けよ、おまえ」
「……誰が誰を」
「俺が黒瀬をだろ、なんなんだよ、おまえ」
「…………」
日本語は分かるのに一個も意味が頭に入ってこなくて、仰向けの片岡の顔の横に、頭を埋める。
「……好きって、何が」
「っ、ふざけてんのか、分かってんだろ」
「分かんねえ」
頭に熱が登る。
「……嬉しすぎて、これが夢じゃなきゃ、意味わかんねえ」
───このままでいい、このままがいいって思っていた。
叶うものじゃない、叶えるべきものじゃない。
気持ちよりも正解かどうかの方が俺には重くて、でもそれ以上に、片岡って人間を自分の周りから失うことが怖かった。
想像すらしてなかった。しないようにしていた。
今近くにいる以上の片岡を欲しがったら、多分もう、止められなくなるから。
「……何言ってんだよ、黒瀬だろ、俺を避けたがったのは」
「……違う」
「違わねーわ! 誰だよ、もう関わんねーって送ってきたの」
「送ったけど、お前と会えないのは、耐えられなかった」
「は」
たった二日だ。
たったそれだけ会わなかっただけで、不足して仕方なかった。
「……拒絶されると思った。だから、距離を取ろうと思った。でもお前がそばにいないのは、嫌だ」
「っ……お、おまえなん、なんなんだよ!! 俺のこと大好きみたいになってんだろ!!」
「すげえ好きだ、ずっと」
「っっ……!! やめろバカ!! 耳元で言うな!」
至近距離で騒がれて、声は頭に響く。けど、その音が不快じゃない。
肩を押されて、抗う力もなくそのまま横に倒れ込む。
「っておまえ、あっつ、測れ!! 熱!!」
「……べつによゆう」
「余裕じゃねーわ、呂律回ってねーし!」
さっきからキャラ変がすぎるだろ、とかなんとか怒ってる声を聞いてたら、視界がぼんやりしてきて。
けど強制的に片岡に起こされて、スポドリだけ無理やり飲まされた。
「……おまえ、こんだけ人を動揺させといて、起きたら全部忘れてるとか無しだからな」
「……全部覚えてる、片岡のことなら」
「っそういうのもいいから!! 寝ろ!!」
布団に押し込められて、頭まで掛け布団をかぶせられる。
「……片岡」
「なんだよ、まだ起きてんのか」
「起きるまで、ここ居て」
切れる息の合間に伝える願い。
起きたら全部、消えてそうな気がした。
「……あたりまえだろ」
ぼす。
布団の上から、俺の腹のあたりに頭を沈める片岡。
顔を傾けて、隙間からのぞくみたいにこっちを向く。
「俺だってそばにいてーわ、バカ」
「っ」
「おまえだけだと思ってんなよ」
───これだから、いつまでも俺は片岡に適わない。
「おい、黒瀬?」
聞いてんのか、って声に返す余裕が無くて、顔を覆うように腕を乗せた。
ずっとそうだった。
こいつの真っすぐな言葉に、ずっと俺は、何度も心臓の奥を揺り動かされてきた。
「黒瀬? おい、黒瀬! おまえ冷やせ頭! 熱湯だぞもはや!!」
慌てる片岡の姿と声が段々遠のいて、ぼやけていく。
片岡に言ったら怒られそうだけど。
寿命の終わりに見る光景は、これがいいと思った。