とはいえ、実際のところ凛は想い人である雪花ときちんと会話をしたことがないわけだ。
 正直に言えば彼の人となりや事情も深く知らなかった。
 今、彼について知っている情報は全てクラスメイトがしていた会話の盗み聞きだったり、以前教室で繰り広げられる本人の雑談の中で拾い上げたものだったりする。雪花と顔見知りの者ならば、誰もが知っているようなことばかり。
 でも、友達のいない凛からしたら自分ではない他人の事情に詳しくないことは至極当たり前で、そんな些細なことは問題とすら認識していない。

 ところが、それが『匿名』との出逢いで一変してしまう。
 アウトドアよりもインドア派なこと。
 祖父母の影響で小さい頃から海外の文化よりも日本文化に興味があり、楽器ではお琴を習っていること。
 家族構成は姉三人と両親の六人家族なこと。
 姉はたちの性格は苦手だが、家族中は至って良好なこと。
 友人と運動部に入っているけれど、本当は直ぐにでもやめたいということ。
 日に日に好きな人よりも匿名についての知識が増えていくことには、何となく変な気持ちをおぼえるのだった。

 ゆくりなく、青嵐が目いっぱいの万緑の間を吹き抜けら。
 やがてシャツ一枚で過ごすのがちょうどいいくらいの快適な気候を迎え、匿名とのやり取りもついに七巡目。
 ノートの回収にもようやく慣れてきたところで、今日も始業前に保管場所からノートを受け取った。
 凛は退屈な座学の授業中にそれを読むのが最近の日課になっている。もっとも、その日のメッセージの内容はいつもと少し毛色が違ったのだけれども。

『そういえば、気になってると思うから今回は俺の好きな人について話そうと思います』

 平然と綴られていたのは、なんと匿名の好きな人についての話だったのだ。
 見慣れない『好き』というたった二文字の単語に戸惑い、何度もその文章だけを読み返す。

「──っすッッッ!!??」

 単語の意味をきちんと理解したとき、凛は意図せずに驚きから大声を上げてしまった。
 その瞬間、教師の解説に隠れた雑談の声が疎らに聞こえた教室もしんと静まり返る。
 恐る恐る顔を上げれば、皆んなの視線が一斉に凛の方へと突き刺さっていることに気づいた。改めて己のしでかしたことを認識し、急激に背筋が寒くなる。

「……ぁ。す、すみません……」

 羞恥心からさぞかし顔が真っ赤になっていたことだろう。瞳にじわじわと涙が溜まる。身体はまるで凍りついたように動かないのに顔だけは酷く火照り、汗で前髪が湿った。
 小さく謝罪の言葉を述べたあとは、再びその場で俯いていることしかできない。只々、先程の生徒たちの怪訝な顔が脳裏に深く焼き付いている。
 とりあえず、嫌な出来事を頭の中でリロードし続けるのは精神的にはそれほど良くないことだと凛は思う。
 一度大きな息を吐いて気持ちを切り替えると、ノートにまた目を通すことにした。

 ──そうだった。僕らはあくまでお互いの好きな人に対する想いを吐き出したり、相談したりするためにやり取りを始めたんだ。

 初めて友達ができたと言っても良いくらいの凛にとっては、たまらなく匿名との他愛もない会話が楽しかったため、すっかり本質を忘れていたのだ。
 しかし、いつでも雪花への想いを誰かに聞いてもらえるのだという選択肢ができたことで、日記に想いを書き留める欲求が減った気がした。
 もちろん、良い意味である。
 今来、日記に想いを書き留めることは彼を好きになるのに葛藤があるということを示している。
 つまり自分の想いを間接的に否定するものだったのだから。
 
『彼との出逢いは小学生で、学校ではないところだ。俺の語彙力じゃ上手く伝えられないんだけど、どうしようもなく彼の姿が美しくて一目惚れだった』

 よもや匿名が恋をするきっかけも一目惚れだなんて思いもしていなかった。
 今日に至るまでは、匿名とは相違点ばかりが多く見つかっていたものの今度は共通点だ。
 正反対なことに何かしらの失意を抱いたことがあるわけではないが、同じ目線で匿名と語り合えることがある事実はなかなか興奮する。

『当時はガキだったから、綺麗とかそういう言葉を言うのは女々しいことだって勘違いしてたんですよ。だから、人に対して美しいと思ったのはそれが初めてで』

 きっと匿名も凛みたいに衝撃的な出逢いを果たしたのかもしれない。文字に乗った色が、とても晴れやかで明るく見える。
 綺麗や美しいといった言葉を安易に吐くことができない幼少期の話だからこそ、その言葉の奥にある慥かさと重さを鮮明に物語っていた。

 ──匿名の好きな人は羨ましいな。こんなに人に綺麗だ、って思ってもらえて。

 と、柄にもないことまで思う。嫉妬はマイナスな感情だからできるだけしないように努めている凛が、思いがけず呟くのは珍しい話。
 好きな人に美しいと思ってもらうことは、一生成し遂げられないような手の届かない願望だった。
 ノートの端が曲がるくらいに強く握りしめ、唇をぎゅっと噛む。

『もちろん彼に抱く感情のうちの一つに憧れとかもあるかもしれない。けど、彼に対する一番大きな想いは他人に抱く感情とは違う、恋というもので、そのきっかけが一目惚れなんだって気づいた。そうでなくても彼との出逢いが俺には特別ですね』

 凛は匿名の言葉が琴線に触れ、知らず知らずに肯く。確かに凛の雪花への感情も全てが全て恋愛感情というわけではなかった。
 自分には無いものを持っているという羨ましさや憧れに、自分にとって無くてはならないと感じる依存心、更には彼を花を愛でるようにただ遠くで見つめていたいという気持ち。
 たとえ端から見て痛々しいものだとしても、どれもが本音からの特別で大切な思いといっても良い。それらの感情を生み出したきっかけである出逢いは言うまでもなくもっと特別な存在になる。

『それから長い付き合いな訳だけど、親しくはないし。彼は彼女とかいるんでしょうかね? 小っ恥ずかしいけど、同じ学校に通ってても話しかけたりできないんです。まあ、何か進展でもあったら君に最初に伝えると思うよ』

 匿名の抱く恋愛感情はなんて純粋なものなのだろう。
 なぜなら、匿名は好きな人との関係に何かしらの進展があることを全く望まず、挙句はそれを受け入れているのだ。恐らく彼女がいるのなら彼女いてもいいとさえ思っている。
 もちろん、彼を好きになることさえ許されないのは自覚しているし、彼との関係性の進展を深くは望んでいない。けれども、彼と付き合ってみたいか、と聞かれればNOとは答えられなかった。
 半ば諦めているから望んでいないのであって、もし好きな人と両思いになれるなら凛だってなりたいのである。
 匿名の考え方と比べ、あわよくばを望む考え方は下心が見え透いていた。不躾で卑しく不誠実極まりないとさえ凛は思ってしまう。

 授業の終わりを告げるチャイムの音。
 言うなれば、その思いを肯定されているようでどうしたものか凛はちょっぴりやるせなかった。