例年より開花の遅かった寒緋桜も一足先に散り、庭の辺りが濃紅色の絨毯で敷き詰まる頃。
 匿名の彼とやりとりを続け、早くも凛は日常が非日常へと色づいていくのを悟っていた。
 しかしながら、『匿名の誰か』について何か知った訳でもなく、一週間かけて一巡目に各々がノートを回収する時間、二巡目にやり取りの頻度の話をしただけである。
 話し合いの結果、凛は早朝、ノートを受け取り、夕方までに返事を書くと日付が変わる前にノートを元の場所に戻すこと。その翌日は『匿名の誰か』が早朝にノートを受け取り、夕方までには返事を書くと日付が変わる前に元の場所にノートを戻す、という一日ごとの交替制に落ち着く。

 凛は二階の渡り廊下を駆け抜け、別棟に駆けた。
 この学校は数年前に新設された本館と旧校舎の別館に別れており二年の一、二組は別館にあり、三組から五組までは本館に設置されている。三組の凛は二階にある渡り廊下を使って別棟にいく必要があるのだ。

 ──今日は、ちよっと早かったかな…。

 廊下から他クラスを覗くと、時計の針はまだ七時を指したばかりだった。
 ようやく空き教室に辿り着いたとき、ふと、違和感を覚える。
 いつもなら鍵が開いたまま扉が閉じているはずだ。今日はそれが開いている。
 まさかこんな掃除も行き届いていないような空き教室を利用している者がいたのか。
 胸騒ぎを差し置き、慎重に教室の様子を伺う。

「──っな」

 無意識に間抜けな声が出てしまい紅潮する。
 まだ白むまばゆい暁光が、教室にいた先人を包み込んでいた。
 髪の輪郭とシャツが透けて見えるのは、彼自体が光を放っているからなのだ、とさえ感じてしまう。
 事の顛末を認識できずに足だけが竦んだ。凛が思考を巡らせるより先に、彼は口を動かす。

「あ、加藤くん」

 和楽器が奏でるように繊細で心に響く声色に反して、感情を読み取れないほどに小さな抑揚。
 更には生み出すものすべてを愛おしく思わせるその姿は、疑う余地もなく想い人である雪花だった。

「……」

 ばたん、と。会釈一つせず開いていた扉を思い切り閉めた。
 あまりにも動揺していたからだ。
 凛の止まっていた時間が動き出すと、またたく間に脂汗が噴き出し、頭の中と目が回り始める。
 まさかこんなところで好きな人と会うなんて、凛は予想打にしていない。彼がひと目見ただけで加藤家の人と分かるくらいに、自分の存在を認識していたことすらも凛は衝撃的であった。

「は? ちょっと待って」

 雪花は急に拒絶されたことに焦って、凛がまだ押さえている扉を凄まじい力でこじ開ける。
 力んだことで少し息を切らす姿も綺麗で目を合わせるのも怯んでしまう。
 嫌な態度を取ったから怒られるのではないか。虞から強く目を瞑る。
 好きな人と一緒にいるのにも関わらず、今にでも逃げ出したい気分だ。

「俺、いつも部活の日以外はここで七時まで日舞の練習してるだけだから、もう教室戻る。用事あるなら入って」

 そんな不安も杞憂だった。雪花は甘味もないぶっきらぼうな態度で淡々と誤解を解いていく。
 その動揺の色を少しも見せないところが、雪花の人形みたいな無機質さを余計に助長させていた。けれども、今はなぜかそれが凛の落ち着きを取り戻してくれる。

 練習熱心なことは母親づてに知っていたものの、これほど日舞に入れこんでいるとは知らなかった。
 跡取りである凛は年に一度の日本舞踊会の大きな公演と浴衣会や新年会もあるので、朝練は必要不可欠である。
 でも彼は名取を取る予定もなく、浴衣会と新年会や数年に一度の小さな発表会しか他人に披露する場は設けていない。取っている稽古の練習量だけで十分事足りているはずだ。
 使われていない教室に実用的な姿見があったことも、床だけ妙に片付いていたことも、彼が日常的にここを利用しているからだと推測すれば納得ができる。

「あ、どうも……」

 返事を聞くと、雪花は軽く会釈して早々教室に帰っていった。心臓は荒ぶっていて、凛の汗はまだ首筋を伝っている。

 ──あぁ……緊張した……。

 廊下を出て彼がいないことを確認すると、深くため息をついた。
 空漠な部屋に独り取り残された顔を顰める。
 凛は気がかりなことがひとつあった。この空き教室を利用している人がいたという事実だ。
 この空き教室をノートの保管場所に指定したのは、誰かに見られる危険性が少ないからであり、もし一人でもこの教室を利用している者がいるのならばその危険性も高まる。即ち、保管場所を改めなければいけない可能性ができてしまう。

 ──とりあえず、ノートがあるか確認だけしておけばいいか。

 徐ろにロッカーに備え付けられている扉を開く。ノートがきちんとその場にあることを確認すると、凛はほっと胸を撫で下ろす。
 大方始業までの時間は有り余っていることだろう。
 ノートの使い方を確立させてから、文通相手との初めての日常会話だ。華やぐ心を側にその場でぺらぺらとページを捲った。

『まず改めて自己紹介から』

 新しいページに目を通すと、一番上の罫線に太字で書かれているそれが目に入る。
 次いで、視線をページ全体に流せば、長々とした文章が半ページを丸々使ってまで綴られていることに気づく。
 読みやすいけれどもどこか雑な字はこの文通相手が明白に男であることを想起させた。
 そんな他愛もないことが、とても仕合せで凛は没頭して自分宛の文章を読み始める。
 
『俺は女兄弟の末っ子として育ったからまあ、昔から女に苦手意識があったんです。それが男子校を選んだ理由の一つでもあったし、物心つく頃には俺は男と交際する方が上手くいくんだろうなってわかってた』

 男兄弟に囲まれて育ってきた長男の凛と、女兄弟に囲まれて育ってきた末っ子の文通相手は正反対の家庭環境だ。
 加えて、凛は雪花に出逢ってから同性愛者だと自覚したため元々は恋愛に無関心で異性にも同性にも興味を示していなかった。
 同じマイノリティでもこれほどまでにいきさつが違うことがあるのだ、と唖然とする。人は違うことが当たり前で自分は異端ではないと証明してくれているようで、同性を好きになることへの抵抗が少し減った気がした。

『だから、初めて男を好きになったって気づいたときにはあまり驚かなかったし、ああ、そうなんだって逆に冷静だったかな。脈無しなのもわかってるから変に付き合いたいと思うこともないですしね』

 これも二人の相違点と言える。初恋を自覚したとき凛は少なからず動揺したし、何度も自分の勘違いだと受け入れられない気持ちを誤魔化そうとした。
 でも実際は勘違いでも何でもなく。
 次第に歳を重ねて同性愛という概念を知れば、己にとって今まで異質だったものが生活に定着していったのだ。

『ただ、そういうことを思うのが、無性に虚しくなるときってあるじゃないですか』

 これまでとは違う辛気さの篭った文に、つい身体を攣縮させた。
 幼子から周囲との差異を自覚して生きてきて、自分の特色を他人事のように考えている人でも悲観的に思うことがあるのか、と。途端に香る情趣のなかった相手の人間らしさに当惑してしまう。

『相手が異性ならこういうことを考える必要もなくて。彼らは報われないのなら報われようとするために次に進もうとします。だから、環境が変われば好きな相手も自ずと変わっていく。相手に執着する必要もない』

 確かに同性愛者に共通する全ての悩みは、異性愛者には知り得ないものなのかもしれない。
 異性愛に嫉妬しているようにも、全てに怒りを感じているようにも、自分たちに対して悲しんでいるようにもみえる字体から必死に真意を読み取ろうとした。
 相手が求めているのは同じ人ならではの共感なのか、それとも凛の抱く同じ人ならではの本音の意見なのであろうか。
 自分本位ではなく相手に寄り添った答えを出したいと思うのは稀で、不可思議な気分だった。

『でも、俺たちは相手も自分も男ですよね。報われないっていうのが大前提にあるので、成就しないなら次の恋にいこうって選択肢はうまれなくて、ずっと同じ場所に囚われ続けるんだ』

 ところが凛はその二択を選ぶ須要もなかったことに気付く。実に相手の言っていることには無遠慮に納得できるからだ。
 これまで考えたことがなかったことも自分の意見かのように頭の中にすぅっと入ってきて、また新たな考えを生み出す。
 故に、文字に起こして全面的に共感してもそれは躊躇わず本音だと言い張れる。
 
『当たり前すぎて苦しいとも思わなかった。そんな感情の浮き沈みのなさを考えると、君と話すことはいい精神安定剤になるのかな』

 苦しいと思わないことは言葉通り受け取ると良いことのはずなのに、凛には苦しむこと以上に残酷で悲痛なことに思えた。
 隣の芝生は青く見えるというが、自分の恵まれているところを自覚していないと心ともなく相手の良いところばかり見つめてしまうことがある。本当は良いところの影に自分と同じだけの苦しみ影になっているのにも関わらず。
 相手は達観していてそれをよく理解しているからこそ、自分が苦しむことも当然だと思っているのだ。

『もちろん君の話も聞かせてください。いつかお互いに相手が唯一の良き理解者になれることを俺は望んでいます』

 断じて代わりに聞いてあげるというのではなく、聞かせてほしいという言葉を選べる優しさに感慨にふける。
 お互いには誰かにそのよさを話したくなるくらいに大好きな人がいて、本命になることはないという事実ゆえの親友以上の恋人未満の良き理解者という関係性だった。
 名残惜しいが、最後の短い一文に目を通す。

『最後に、簡単に名前を明かすのはわざわざ交換ノートでやる意味がなくなるので俺のことは"匿名"とでも呼んでください』

 そこでメッセージは終わっていた。
 相手からすれば凛の存在も『匿名』なのにな、と面白おかしく感じて小さく笑ってしまう。
 ただ、どうして本名を明かすのを頑なに避けようとするのだろうと思った。もしかしたら、相手はまだ凛のことを心の底から信用していないのかもしれない。
 凛は胸の内でひそかに呟く。

 ──"匿名"。

 きっと彼に対してなら世界で自分だけしか口にしていない特別な呼び名だ。今はこれ以上に喜ばしいことはないと言える。
 本来、夕方までには書けばいいはずの返事を既に熟考して、リュックの中から筆箱を取り出す。
 思いがけず、彼のメッセージの下にある余白にペンを走らせる。随分と長文になってしまったが、書き終わるまでに十分もかからなかった。
 ふと、空気を入れ替えようと錆びついた窓に手をかけるのと同時に外の様子を伺う。
 迷い鳥のようにみえるトモエガモは本館と別棟にある大きな池を泳ぎ、芝生は朝露に濡れている。
 凛はまだ、文通相手の返事をワクワクとしている自分がいることを自覚していない。