そして、放課後。
 乱雑に机の上に荷物を広げ、切羽詰まった様子の凛がいた。
 まず一つ一つ鞄に入っていたノートを確認すると、ロッカーの中、机の中、机の下などをくまなく荒らしていく。
 マスク越しでも分かるほどに顔色は青褪め、かなりパニックになっていることが伝わる。
 教師に何か探しているのか、と問われても、何も答えずに自力で探すことを試みていた。

 ── 粧くんのことを書いたノートがない。

 そう、なんと凛は雪花への気持ちが包み隠さず書かれたあの日記を無くしてしまったのだ。
 仮に色恋に飢えた男子校でこんな乙女脳の生徒の日記が見つかったと考えてみよう。
 恐らく男子生徒の間で日記がたらい回しにされ、面白がって日記の持ち主探しにまで話が発展することはやむを得ない。
 凛は誰かに見つかる前に一刻でも早く、ノートを探し出すべきである。

 ──まさか、あのとき……。

 一つ思い当たる点があった。
 それは、音楽室で日記を書いていたときだ。理由も何も凛はこのとき以外にノートを鞄から出しておらず、何より授業後にきちんと仕舞った記憶がなかった。

 ──くそっ、早く取りにいかないと。確か放課後は吹奏楽部が音楽室を使うから、鍵は開いているはず。

 廊下を走ってはいけない、という校則を破り、教室から全速力で音楽室へ走っていく。
 幸運なことに凛の予測通り、音楽室の鍵は開いていた。
 けれども、部員が熱心に練習に取り込んでいる最中だ。割り込んでまで忘れ物を取りに行くのは、水をさすようで少し気が重い。
 凛は恐る恐る教室の中を覗いた。

「誰も……いない?」

 しんと静まり帰った鍵のかかっていない教室に、少し不気味さを感じる。
 何気なく音楽室の窓から外の様子を伺うと、吹奏楽部の部員は走り込みをしているようだった。
 彼らが帰ってくる前に、と。急いで授業中に座っていた机の中を確認する。

「あ〜〜あったぁ」

 やはりノートは机の中に置き忘れていたみたいだ。凛はついつい独り言を呟いてまで、安堵のため息を漏らす。
 見た目は以前と同様で特に変わった様子は見られない。

 ──一応、中確認しておこう。

 もしかしたら、男を好きだと確信のできるページが抜き取られていたり、誰かがノートを見た痕跡が残っていたりするかもしれない。
 芸術科目では音楽を履修している人が多く、一から五組までの生徒が、A、B、Cの三クラスに分かれて授業を行っている。凛はBクラスで、確か今日はCクラスが四時限目に音楽室を使っていた筈だ。

「へ?」

 予想打にしていないことが起きたからか、つい声が裏返ってしまう。
 なんと、今日の出来事が書かれたページに見覚えのない文が付け足されていたのだ。
 よく目を凝らして読んでみると、それが見知らぬ第三者からのメッセージだとわかる。

 ──うわ、これって脅されたりとかするやつ……?

 凛は怖気づきながらも、読まないわけにはいかないと、その文章を読み進めていく。
 されど心配する必要もないくらいに、そのメッセージは意外な内容だった。

『はじめまして、Cクラスのものです。勝手にノートを読んでしまい、すみません。表紙に数学って書いてあったので、筆跡を確認しようとして中を見てしまいました』

 忘れたのは自分なのにも関わらず、始めに丁寧な謝罪が書かれていたことに凛は驚愕する。
 ここまで誠実な人だと、他人にノートを見せびらかしてはいないだろう。
 今後の高校生活が崩壊する可能性がなくなったことに、ホッとした。
 凛は再び、続きの文書に目を通す。

『でも中身は数学のノートではなく日記で、気になって全部読んじゃったんです。そしたら、日記には君が同性愛者だということと、片思いについて書いてあってびっくりしました』

 まさか中身を隅々まで見られていたなんて。凛は焦燥から冷や汗をかく。
 馬鹿にされたり、同情されるようなことを書かれていたら何を思えば、と不安を浮き彫りにさせる。
 読むことを再開する前に一度、深呼吸をした。

『実は俺もゲイで、男に片思いしてるんです。昔は男子校なら一人くらい同類いるかなって思ってた。でも実際はゲイを嘲るノリしかなくありませんか? 始めて同じ人がいると知れて嬉しいです』

 『俺も』という他愛もない単語が、凛の目を見開かせる。匿名の彼が喜んでいることに自分も嬉しくなってしまう。
 周りには誰もいないとは分かりつつも、一応確認してから、マスクの中で顔をニヤつかせていた。
 こんな身近に自分と"同類"がいるだなんて思いもしていなかったのだ。凛は子どものように心の中で燥いでしまう。
 ここまで来てしまえば、もう怖いものなんてない。文章を読み進める勢いが止まらなかった。

『そこで提案があるんだけど、同じ仲間として意見交換というか、相談のったりとかしたいです。よかったら、これで交換ノートしません? 大丈夫だったら返事をかいて、一組の隣にある空き教室、一番左の一番下のロッカーにノートを入れてください。そこなら誰にも見つからないと思います』

 驚くべき提案だった。
 今やスマホがあれば匿名で利用できる様々なコミュニケーションツールがある。そんな渦中で交換ノートを提案されたことはもちろん、ただノートを教室に置き忘れただけで、ここまで話が大きくなるなんて。

 ──交換ノート……?

 見ず知らずの他人とやり取りをするのは、迷いが生じる。
 実際は既にCクラス中で日記を読まれていた挙句、凛の様子を伺うために同性愛者のふりをしてみよう、といった提案がされ、筆者がそれに従って遊んでいるだけという可能性が少しでもあるからだ。

 ──お互い好きな人は別にいるけど、ひょっとしたら、生涯におけるいい友達になれるかもしれない……。この顔も、見せなくていいんだし……。

 リスクがあったとしても、仲の良い友達が一人もおらず、同性に恋をしていることさえ誰にも明かせてこなかった凛だ。どうやら同類の親友ができるチャンスは甘い蜜だったらしい。
 帰宅する前に簡単な返事を書き、指定の場所へノートを隠す。
 空き教室は清掃を担当する人もいないのか、ロッカーや端に寄せられた机は埃をかぶっていた。ただ、ひらけた床と大きな姿見だけが不自然に磨かれているのだ。
 壁に立てかけられた姿見を見つめると、自身の醜い容姿が鮮明に写り凛は自ずと不快な気持ちになっていく。
 それでも、季節は花冷えの終わりを告げようとしていた。雪で凍りついた彼らの心を溶かすよう。
 凛と顔も知らない誰かによる、秘密のやり取りが始まった。