小学五年生のある冬の出来事だ。
 その年は寒波の影響で激しい冷え込みに見舞われ、都内でも雪がひらひらと降り積もっていた。
 加藤家の敷地内も寒さで草木は枯れ、辺りは一面真っ白である。

 今日も稽古をする為に、母親と共に本館から別館への渡り廊下を通っていく。
 暖房がついていても冷えきった廊下は、歩く度に靴下越しに肌がじんと痛む。
 日本舞踊の稽古に使う、古き良き音色の音源が、廊下にまで響き渡り、空気を張り詰めさせている。
 
「そういえば、つい最近ね。貴方と同い年の男の子が稽古を受けたいってお教室に入ったの」

 母がハッとしたように優しい口調で語りかけた。先程まで家族という関係にしては似つかわしくないほどに緊張感が漂っていた二人の間も、雪が溶けるように淡く和み始める。

「へぇ、男の子が入るのはめずらしいですね」

 耳に髪をかけながら言う。凛の髪は癖をつけるのには柔らかすぎたようで、きちんとかかることなく、はらりと元の位置に戻っていった。
 まさに興味がないと言ったような口調だ。
 日常会話をしている間も、体重をかけると木造の床は軋んでいる。

「ええ。何事も真面目に取り組んでくれるのはもちろん、上達が早くて教え甲斐があるわ」

 その言葉に凛は何も返さない。
 貴方が家の跡を継ぐのはもう決まっていることなのだから、もっと真面目に練習してちょうだいね、と言われている気分になったから。

「ほら、今そこの部屋で自主練習をしているわよ」
 
 別館の廊下を少し歩くと、母は稽古に使われている一室を指差し、声を弾ませた。
 この年で日本舞踊を習うなんてきっと、軽い気持ちに違いない。挨拶をしても母の厳しい指導を受けていれば、直ぐにでも辞めていくだろう、そんな邪推なことを思っていた。
 
「えっ……」

 しかし教室を見れば、須臾にして、時が止まったような感覚をおぼえ、凛は微かに声を漏らす。
 その場に勢いのある風が吹いたような気がした。

 ──こんなきれいな、ひと……初めて、みた。
 
 ぼんやりとした水色の着物を纏い、光を当てれば金色に煌めく髪をふわりと揺らす姿。
 睫毛は瞬きする度にはためき、彼はどんな角度で見ても、絵になり見目良いままだった。
 全体的に彩度が低く濁りのない容姿は、彼の線を柔らかく見せ、いつの間にか消えてしまいそうなほどに弱々しい。
 それでも、男性特有の仕草や雰囲気は凛々しく、強い芯があるようにも感じる。

 足し算をし続けたように派手で華やかすぎる容姿と、人に新たな華を与える絢爛とした日本舞踊。
 これらは単体で映える力を持つ存在であるからこそ、互いが互いの魅力を殺しあってしまい、あまりにも趣とはほど遠い光景だ。

 ところが、凛にとっては、彼が自分の心を鷲掴みにするくらいに酷く綺麗なものに思えた。
 雪のように冷たく色のなかった世界に、唯一、色を与えた美しい彼。
 まるで、雪の中で咲く花のようだったのだ。

 ほんの少しでも長くこの目に彼の姿を目に焼き付けようとしているのか、瞬きができない。
 身体の動きは固まって、小さく開いた口さえも閉じなかった。

「綺麗な子でしょ? けど純粋な日本人なの」

 母親が言葉を続けても、上手く頭に入らないみたいだ。
 どれだけ冷静になろうとも、鼓動は早鐘を打ち、部屋の寒さも段々と忘れてしまう。
 これまで人に恋愛感情を抱いてこなかった凛も、彼に対する感情の名前が『恋』であることを直ぐに悟った。
 所謂、一目惚れだったのだ。
 自分とは違い、美しい容姿を持つ彼の与えてくれたものは憧れや嫉妬以上に大きい味わいで。
 頭の奥で乱れた感情がかき混じっては、溢れていく。
 そして、どうしようもなく胸が踊った。

「容姿が外国の方っぽいから一部の年配の方によく思われなかったり、デリカシーがない方にいじられたりするみたいでね。誤解ではあるのだけど、一回嫌な対応されたらあの子も仲良くできないでしょう。一人の個別クラスを用意してあげてるの」

 困ったように呟く母親に、凛は疑問を抱える。
 どうして、皆はこの良さを理解できなかったのだろう、と。
 確かに日本舞踊は日本人のために作られたものであり、その本質をつく表現ができるのはそういう人だ。彼の容姿は日本舞踊の奥ゆかしさをぶち壊しているのかもしれない。
 けれども、それが周りに新たな衝撃や影響を与えるのは惑うことない事実なのだ。

「……何だか気の毒ですね」

 意図せず口から出た哀れみは、彼に向けたものではなく、彼を受け入れられない存在に向けた言葉であった。

「お名前は雪花くんっていうのよ。ご挨拶してきたら? もしかしたら将来一緒にお仕事することになるかもしれないし」

 こんな触れたら火傷してしまいそうな人と会話を交えるだなんて、考えるだけで凛は浮き足立つ。
 母がどれだけ話の逸れた雑談をしようとも、目に止まり頭に浮かぶのは彼のことばかりだった。
 次第に、初恋が同性だったということよりも、きっかけが一目惚れだったことが気恥ずかしくなり、いても立ってもいられなくなる。

「遠慮させていただきます」

 凛は食い気味にそう言って、瞬時に彼の目の前から逃げ出した。
 雪花が廊下に騒がしさを感じ、ふと、凛のことを見たという事実にさえ気づいていない。

「──え、ちょ。凛くん?」

 母親の動揺も遮り、必死に走る、走る。
 これ以上彼を見てると、心臓が爆発して死んでしまうと思ったからだ。
 額から頬に汗を流す。おまけに顔は紅葉が咲いたように紅潮し、誰にも見せられないくらいに、劣情で頗る乱れた顔をしていた。

 ──なに、なんなの、これ。わからない。しらない。おかしい。……変だ、こんなの。

 身体が熱くなったせいで、目には涙が滲む。
 胸元の着物の生地を思い切り掴み、心音を少しでも落ち着かせようとした。だが手を変な位置に置いたことで、身体のバランスが崩れていく。

「──っ! いっだっぁ」

 加えて、着慣れている着物も激しい動きをするには向かない。自分の部屋に着く手前で盛大に転けてしまった。
 顔から転んだことにより、鼻血がぽたぽたと地面に落ちても、状況は何も変わらない。
 身体はまだ、彼を見たときの衝撃の余韻に浸っていた。

「……なんなんだよ。これぇ」

 高校生になった今から思い出しても心臓が強く脈打つ。それくらいに、凛はあのときのことを鮮明に覚えている。
 二ヶ月に一回は彼のことを夢に見るし、夜中は感情が沸き立って寝られない。
 どうして忘れようとしても、忘れられないのだろう。
 一度白い布に色がつくと、もう誤魔化しが効かないように、たった一滴(一瞬)でさえこんなにも翻弄されてしまうのだ。もう彼を知る前には戻れない。

 更には、当時のように雪がひらひらと花弁のように降ってくる様子のことを、『雪の花』というらしい。
 ふと、空を見上げて美しい雪の花をみれば、少し心が弾んだり、心が洗われたりするように。話しかけることがてきなくても彼が週に二回、稽古に来る曜日は毎日の楽しみだ。
 凛は惹かれたのである、雪の花のような君に。
 中学生になってから、同じ学校になったと気付いたときには本当に嬉しかった。
 然しながらどれだけ思い出を塗り替えようとも、男性に一目惚れしたという事実。当時小学生の凛には、あまりにも惨めで最悪な初恋だった。