「っは──」

 快活な学校のチャイムの音により、目を覚ます。
 嫌な過去を思い出してしまった。どうやら、朝の出来事で体力を消耗し、一限目が始まって直ぐに居眠りをしていたようだ。
 悪夢をみたことで、制服の中は不快な汗で滲んでいた。

「早く行かないと遅刻するぞー」
「いいんじゃね。まだ五分もあるんだし」

 クラスメイトは教室の中で他愛も雑談を交えている。
 今日は二時限目が選択授業の音楽の為、特別教室へ移動をする必要があった。
 他の人とは違い、凛は友達すらいないのだから、教室を出るときに誰かを待つ必要なんてない。
 せっせと必要な用具を用意し、教室から出ようとする。
 
「あ、加藤」

 どういうわけか珍しくクラスメイトから呼び止められた。クラス替えして間もない為、他人に興味がない凛にとっては名前も知らないような人だ。
 困惑しつつも、顔色一つ変えずに目と目を合わせる。目が合うとクラスメイトは、無意識に苦笑しながら口を開く。

「授業始まる前に先週の課題回収したいから、もらってもいい? 残り提出してないの加藤だけでさ。一応LI○Eグループで提出日呼び掛けてたんだけど……」

 一度合った目をわざわざ逸らしながら問われ、内心複雑な気持ちだ。
 凛は暫くクラスメイトを見てモヤモヤとしていたが、我にかえり、鞄から課題のノートを取り出す。
 次いで、何も言葉を発さずに手渡した。

「あざす」

 そう言って、男子生徒は友達のグループの元へと颯爽と去っていく。
 少しでも早く凛の元から逃げたい気持ちでいっぱいだったのが、ひしひしと伝わってきた。

 ──僕、LI○Eグループ入ってないや……まあ、いいか。

 重要なことを思い出すも、後から呼び止めたら迷惑になるだろう、と凛は席を立つ。
 廊下へと出る瞬間、先程の男子生徒のグループの会話が聞こえてしまう。

「はあ~怖かった。威圧感ハンパねー」
「お前よく話しかけたな」

 男子生徒の頭をよしよしと手のひらで撫でるその友達。凛は同時に唇をぎゅっと歪ませた。

「アイツ表情見えないから、何考えてるかわかんないし、冷たいし、なんか話しかけづらいよな」

 思いを汲み取った対応に、怖かったよ、と甘えて男子生徒の胸の中で空泣きをしている姿。それを見ると、凛がまるで何かの加害者だと言っているようなものではないか。
 けれども、凛はそれ以上に男同士がゼロ距離で抱き合う姿に酷く苛立ちをおぼえている様子だ。

 ──だから聞こえてるっつうの。そんなに、冷たい態度とってたのか? それにさっきは言葉が足りなさすぎたから気をつけないと。このままじゃ、嫌われる……。

 一歩教室から出ると、息苦しさで無意識に浅いため息をついた。
 本人がいる場であれだけのことを言われているのだから、自分がいなくなった後にはもっと酷いことを言われているのではいか、と勘繰ってしまう。
 窓の外で堂々と咲き誇る桜に反して、凛の心は既に枯れきっていて憂鬱だった。

 ──いやだめだ、マイナスなことは考えないようにって医者にも言われてんだった。平常心、平常心。

 心の中で自分にエールを送るガッツポーズをしてから、留まっていた重い足を運ぶ。
 当然、誰かがこんな心境でも、無頓着なことに楽しげで賑やかなままの隣のクラスの光景。誰よりも先に、とある男の姿が目に入り、図らずも表情が明るくなる。

「ぁ……」

 外見のイケている一軍グループの中でも、飛び抜けて秀でた容姿をした美青年。
 日本人とはかけ離れた、目鼻立ちのはっきりとした顔だ。色素が薄い色の抜けた髪や瞳は触れることは決して許されないと思ってしまうくらいに、清涼で余計な混じりけがないように思える。
 小顔で手足の長いスタイルも、周りの人が劣って見えてしまうほどに凌駕していた。

「…… (よそい)雪花(せつか)くん」

 その華々しさから、ゆくりなく彼のフルネームを呟いてしまう。名前も清らかで美々しいだけではなく、全く持って名前負けしていない。

 次に、自分の名前の書かれたノートを見つめると、持っていた用具を握るように強い力でまとめて抱え直した。
 黒々した感情が浮かびかけるも、再度彼の姿を見れば、根本から吹き飛んでしまう。

 ──同じ人間とは思えないくらいに綺麗なんだよな。

 目の奥を輝かせながら凛は心の中で自分に肯く。
 こんなにも美しいと、人より遥かに劣った容姿を持つ自分でも嫉妬心すらわかない、と。
 自身の体の奥が徐々に熱を帯びていることに、凛は気付かないふりをした。

 ──わかってる。僕は粧くんを好きになることすら赦されないんだって。

 スクールカースト上位で人気者の雪花と、根暗で悪い意味でクラスから浮いている凛。
 中学校から同じ学校ではあるものの、同じクラスになったのは数回だけで、更にはきちんとした会話すらもしたことがない。誰だって凛が雪花を好きだとは分からないだろう。

 当面の間、心を癒やすために彼のことをぼんやりと眺めていた。
 すると、彼が友達の煩さにため息をついて、常に無表情な顔に仄暗い色を足す。
 普通の人がやれば、周りを不愉快にさせてしまうであろう冷然たる態度も、凛に心地よい感情を与える。
 
 "あのとき"彼をひと目見た瞬間から、凛は雪花に自分さえも受け入れることのできない恋心を抱いていた。
 住む世界が違うからこそ、彼がどう笑うかも、好きな色も、食べ物も知らない。
 そんな正反対の二人でも既に世界を見放したようなドライな性格と、身体から切り離すことのできない性別だけはお揃いだった。
 付き合うことも仲良くなることも望まないから、どうか影で恋をすることだけは赦させてほしい。
 そんな感情も凛にとってはわがままで、彼を好きでい続けることへの後ろめたさが心にこびりついて落ちなかった。

 次々と燃え上がる、彼に対する行き場のない感情を必死に堪えながら足を止めずに歩いていく。
 彼の姿が視界から消える一瞬は、何だかもどかしささえ感じるのだ。

 いつも通り、出来るだけ人の目に入らない窓際の後ろの席に座るのと併せて、担当の教師が教室へ入ってきた。
 もう直ぐ授業が始まるのにも関わらず、生徒は未だに複数人で集まって駄弁っている。
 それもその筈、この高校はあまり芸術科目の教育に熱心ではなく、スポーツや主要科目の教育に重きを置いていた。生徒の音楽への探究心や興味も高くない。
 普段は真面目に芸術科目の授業を受けている凛さえも今日はミュージカルを見るだけの退屈な内容だと分かったので、暇潰しにと、事に無関係なノートを取り出す。

 ──我ながら、高校生にもなってこんなことやってんの女々しいよな。

 小っ恥ずかしさから顔を赤らめながらも、凛はパラパラとびっしりと字の書かれたノートを捲る。
 簡単に内容を振り返ると少し前の出来事も、ああ、こんなこともあったな、と凛は何だか最近のことのように懐かしく思えてしまう。

 不意に、いくつかの文章が目に止まった。
 『どうして友達にもなれない雲の上のような人を好きになってしまったんだろう』『せめて相手が異性であれば』という恋愛感情に向けられたマイナスな想いの数々。
 恋愛と好きな人を理由に、生きる世界に意味を得られると思って書き溜めているのに、いざ想いを吐き出そうとすると、暗い感情ばかりが浮かんでいた。

 そう、表紙に書いてある数学という文字はカモフラージュに過ぎず、中身は想い人に向けた吐き出せない想いを書き連ねた日記なのだ。

 ──このノート平日暇なときに書いてて、もう何冊目だっけ。

 実のところ、もう日記は小学生の頃から授業が退屈なとき等に暇潰しに書き続けている。
 容姿を貶められ、家にも学校にも居場所のない退屈な日々。しかし、好きな人の存在を思い出せば、そんな鬱憤も一瞬にして晴れてしまうのだ。
 男子校で同性への恋愛感情が包み隠さず明かされたノートをむやみに持ち歩くのはよくないと思いつつも、凛はお守りのように四六時中大事にしていた。
 念の為、日記の中で雪花の名前は出さないようにはしているが、勘のいい人なら顔がいいという一文だけで気付いてしまうのではなかろうか。

 ──えっと、『朝から嫌な出来事があって憂鬱だった。けど、今日も好きな人が綺麗だったから、頑張ろうって思えた』……。

 最も直近の日記の次のページに、凛は今日の出来事を何となく綴っていく。幼い頃から書道を習わされているので、高校生にしては達筆な字。
 とは言っても、一日はまだ始まったばかりなのだが。
 しかし、斉しく凛はあることを悟った。

 ──今日も合わせて、今まで書いた日記、粧くんの好きなとことか、 粧くんのこと、容姿の話しかしていなくないか……?

 試しに一ページ前の日の出来事を見てみるが『教室から見えた体育の授業で汗を流すところが、神々しくて腰を抜かしそうになった』といった内容しか書いていない。
 その前の日も、前の前の日も、同じようなことばかり書かれていた。
 凛は机に顔を埋めて、落胆する。

 ──これじゃあ、今朝家の前でたむろってた女たちと一緒じゃん。アイツらも自分も、好きな人の顔だけを好きで囃し立ててるわけだし。

 何だか、自分の恋愛感情が酷く無粋なものに感じられた。
 気持ちを落ち着かせる為に癖のないストレートの髪をくしゃくしゃとさせるが、今すぐにでも何かしらの言葉を吐露したくて結局唸りそうになる。

 ──なんか、あの女の人たちのこと、心の中で蔑んでたけど悪いことしたな。

 好きな人に対する想いの熱量や年季は違っても、同じく人の容姿を見たときに"衝撃"を受けて、胸を鷲掴みにされた者と考えたら無下にはできない。
 凛としては、あれは本当に嘗て味わったことのない衝撃的な感情の芽生えだったのだ。
 始めて比喩ではない、息を呑むという場面を体験し、無色の世界に色がつく瞬間を目撃した。
 一生忘れられない、いや忘れさせてくれない体験。
 凛はページを捲って過去の気持ちを掘り起こしながら、あの日のことを頭の中で思い出していった。