その後、凛と雪花の生活はまたたく間に好転していくことになった。
これは断じて日本舞踊の舞台が優れていたおかげではない。舞台をきっかけに二人が周りと自分自身に大きく歩み寄ったことにより、それぞれ変わっていく決心ができたことが大きいのだと思う。
弟のストーカー事件の女の子とは相手方の弁護士との交渉の末、示談が成立したらしい。
家庭裁判所の調査終了後、今回の傷害事件は未遂で終わったこともあり、彼女は保護観察処分となった。これからようやく自宅に戻され、普通の日常生活を送ることになる。
何度か彼女やその両親から謝罪の手紙が来ていたものの、凛は事件自体、既に固執していない。
ことを大きくすることを望んでいなかったため、特に返事はせず必要以上に咎めることもなかった。
彼女に伝えることはないが、正直に言えば、この事件が弟との長年の居心地の悪さを解消するきっかけになったのもある。凛は少しばかり感謝してしまう。
「加藤。LI○Eグループで言ってた期限今日だから。課題、提出してほしいんだけど……」
凛が次の授業の準備をしていると、クラスメイトがさり気なく声をかけてきた。
一見、前と変わらない日常に見えるが、確かに何かが変わっている日常。凛のことを怖がったり話しかけることに躊躇したりする様子はない。
「あ、うん。遅れてごめん」
以前と同じように、凛は課題のノートを手渡す。
でも、それでいいのだろうか。確かに生徒たちは凛のことを怖がらなくなり、過剰に距離を取ることもなくなった。
周りが変わったとしても自らが行動を改めなくては、今、生み出された変化をただの変化として受け流すことになってしまうのでは、と。
変わらなければいけなかったのは周りだけではない。自分自身も変わらなければいけない者のうちの一人であることを思い出した。
「あと……僕、そのグループ入ってないかも」
背中を見せてこの場を去ろうとしたクラスメイトの制服の袖を掴む。意を決して、声をかけた。
人それぞれ歩くときの歩幅が違うように。
誰かにとっては変わりない日常で、些細な一言かもしれないことも、凛にとっては大きすぎる一歩。
額に嫌な汗が滲んだ。袖を掴んでいる手は、どうしようもなく震えている。
「えぇ?! 嘘だろ。気づかなかった、ごめんな! LI○E持ってる?」
とても不思議な話で。
反対に、自分には大きすぎると思っていた一歩さえも。実際に行動に起こしてみれば、案外自分にとっても大したことがなかったり、何を躊躇する必要があったんだろうと思ったりすることもある。
生徒は凛の言葉に驚くことはなく、あまりにもあっけらかんとしていた。
ただ、この一歩を大きなものと思っていた自分のことを責めてはならない。その一歩で凛が既に成長遂げたからこそ、今では過去の一歩が底が知れたものに思えるだけなのだから。
「ガラケーだからスマホもってない」
平然と対応してくれたことにより、然程緊張することなく言葉を返す。今時珍しいが、加藤家ではなぜかスマホを与えられておらず弟も両親もガラケーを使用していた。
「マジで!? どうやって連絡しよー」
話していた男子は単に焦って頭を抱えている。
これでは放課後に授業の課題や持ち物について訂正があった場合も伝えることができない。
そんな中、凛は今まで自分が口頭以外でどうやって情報を共有していたのか思い浮かべた。
「──交換日記とか、文通とか?」
かといって、日頃からほとんど誰かと言葉を交わすことがなかった凛。
浮かべた日常の会話の中でもっともそれらしいことは、ノートでの雪花とのやり取りだった。
突拍子もないことだとわかっていても、凛には文字を通したやり取りしか代案の心当たりがない。
「いや……! わざわざ文字でやり取りするくらいなら、顔合わせて直接伝えたほうが早いだろ! 自分が顔を合わせたくないって思ってても、相手は自分の顔を見て伝えたいって思ってるかもしれないだろ?」
生徒は耳を疑うような提案を耳にしたことで、反射的にノリツッコミをする。
そんな変哲もない指摘がどういうわけか、凛の胸に深く刺さった。
──確かにそうだよな。なんで今までそんなことに気が付かなかったんだろう。
今まで自分の容姿を理由に、ノートでやり取りをしている相手と対面することを拒んできたが、万が一、雪花の方は自分と会いたがっていたとしたら。
拒んだ理由は相手の為を思っているわけではなく、幻滅されたくないというわがままでしかなかったとも取れる。
ノートで吐き出していた想いも直接声にして伝えたほうが本人に気持ちが伝わるのはもちろん、より時間をかけずスムーズに伝えることができたのだ。
過去が駄目だというわけではなく、これからは直接雪花に想いを伝えられる、と考えればそのことに気づけてよかった、と。幸せな気分になれる。
「加藤もそんな冗談言うんだな〜とりあえず、メアド交換しよーぜ! 重要なことあったら連絡する」
ポケットからスマホを取り出して、クラスメイトは設定画面から自分のメールアドレスを見せた。
初めて友達にメアドを交換してもらったことが、凛は嬉しくて堪らない様子。
「ありがとう」
と。きちんと顔を見せて礼をしようと視界を開くために前髪を避け、マスクを外すのと同時に。
話を聞いていた生徒たちが近くに集まっていく。
急に人が増えたことで、緊張してしまい、凛の表情は一気に強張った。
「おーい〜! 加藤に話しかけて、アピールですかぁ?」
中でも特にお調子者のように見える男子生徒が、凛とメアドを交換した生徒を揶揄っている。
以前、凛から課題を回収したこの生徒に対して『お前よく話しかけたな』と話しかけた人だった。何かを馬鹿にされるのではないか、と縁起でもないことを想像してしまい、眉を顰めてしまう。
「ちょっ、何言ってるんだよ」
「こいつ文化祭の舞台みてから、加藤のこと気になってんだってよー」
ケラケラとしながら冗談っぽく生徒は言う。
課題を回収しにくるクラスメイトの態度が以前のり円やかだとは思っていたが、それが理由だったとはさすがに悟れなかった。凛はハッとする。
その言い回しだと、生徒が凛に対して恋愛感情を抱いているようにも受け取れるのでは。気付いたのは、彼とイジられている生徒もほぼ同時である。
「おれはただ、友達になりたいと思って!」
まるで、顔から火が出てしまうのではないかと疑いたくなるほどに、赤面している男子生徒。
どっちにしろ、自分に対して好意を持って接してくれているというわけだ。
他人から冷たい態度を取られることが多かった凛には、とても喜ばしいことだった。
「ツンデレだな! 可愛いやつめ〜!」
そういって生徒の胸元に飛び込むと、愛おしそうに頭を思いっきり撫でる。
撫でられた生徒は大胆なふれあいにこっ恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうな笑みをみせていた。
きっと、仲睦まじくお互いのことを友達として信頼しているのだろう。
「……ふはっ」
なんてことない。これは生徒たちにとっては、いつもの日常で当たり前のことなのだ。
小さないじりも、それに対して顔を赤くして答えるのも、お互いが悪意を持っていない末梢的な雑談だと理解しているからこそ楽しくて。
誰も傷ついていないことを知ると、何だか気が抜けて、声に出して笑っていた。
すると、急に男子生徒たちが黙り込む。
少し遅れて辺りが静まり返ったことに気が付き、各々の顔を見渡すと、なぜだか皆は放心しているようだった。
何か間違った行動したのではないか、と。
急に不安な気持ちに陥るが、そんなことをする必要もなかったみたいだ。
「加藤ってさ。笑った顔、なんていうか、すげえいいな! おれたちが笑わせるからもっと笑おうぜ」
途端に目頭が熱くなっていく。
初めてクラスメイトの温かさに触れたことで、じわじわと感慨深さが感じられた。ずっと他人にどう思われるのかが不安で顔を隠してきたのにも関わらず。皆んなはそれをもっと見ていたいと褒めてくれている。
今まで他者との接触を塞ぎ込んできた突っぱねてきた時間がもったいないとさえ思う。
こんなにも世界が目が眩むほどに、さまざまな彩りで満ち足りていて。かつ、人情味にあふれているということを。
何も色を持たない透明で澄み切った雪花と共に、想いを文字にして紡ぎ、彼らの恋心を示唆する舞踊を舞うことで、知ったのだ。
これは断じて日本舞踊の舞台が優れていたおかげではない。舞台をきっかけに二人が周りと自分自身に大きく歩み寄ったことにより、それぞれ変わっていく決心ができたことが大きいのだと思う。
弟のストーカー事件の女の子とは相手方の弁護士との交渉の末、示談が成立したらしい。
家庭裁判所の調査終了後、今回の傷害事件は未遂で終わったこともあり、彼女は保護観察処分となった。これからようやく自宅に戻され、普通の日常生活を送ることになる。
何度か彼女やその両親から謝罪の手紙が来ていたものの、凛は事件自体、既に固執していない。
ことを大きくすることを望んでいなかったため、特に返事はせず必要以上に咎めることもなかった。
彼女に伝えることはないが、正直に言えば、この事件が弟との長年の居心地の悪さを解消するきっかけになったのもある。凛は少しばかり感謝してしまう。
「加藤。LI○Eグループで言ってた期限今日だから。課題、提出してほしいんだけど……」
凛が次の授業の準備をしていると、クラスメイトがさり気なく声をかけてきた。
一見、前と変わらない日常に見えるが、確かに何かが変わっている日常。凛のことを怖がったり話しかけることに躊躇したりする様子はない。
「あ、うん。遅れてごめん」
以前と同じように、凛は課題のノートを手渡す。
でも、それでいいのだろうか。確かに生徒たちは凛のことを怖がらなくなり、過剰に距離を取ることもなくなった。
周りが変わったとしても自らが行動を改めなくては、今、生み出された変化をただの変化として受け流すことになってしまうのでは、と。
変わらなければいけなかったのは周りだけではない。自分自身も変わらなければいけない者のうちの一人であることを思い出した。
「あと……僕、そのグループ入ってないかも」
背中を見せてこの場を去ろうとしたクラスメイトの制服の袖を掴む。意を決して、声をかけた。
人それぞれ歩くときの歩幅が違うように。
誰かにとっては変わりない日常で、些細な一言かもしれないことも、凛にとっては大きすぎる一歩。
額に嫌な汗が滲んだ。袖を掴んでいる手は、どうしようもなく震えている。
「えぇ?! 嘘だろ。気づかなかった、ごめんな! LI○E持ってる?」
とても不思議な話で。
反対に、自分には大きすぎると思っていた一歩さえも。実際に行動に起こしてみれば、案外自分にとっても大したことがなかったり、何を躊躇する必要があったんだろうと思ったりすることもある。
生徒は凛の言葉に驚くことはなく、あまりにもあっけらかんとしていた。
ただ、この一歩を大きなものと思っていた自分のことを責めてはならない。その一歩で凛が既に成長遂げたからこそ、今では過去の一歩が底が知れたものに思えるだけなのだから。
「ガラケーだからスマホもってない」
平然と対応してくれたことにより、然程緊張することなく言葉を返す。今時珍しいが、加藤家ではなぜかスマホを与えられておらず弟も両親もガラケーを使用していた。
「マジで!? どうやって連絡しよー」
話していた男子は単に焦って頭を抱えている。
これでは放課後に授業の課題や持ち物について訂正があった場合も伝えることができない。
そんな中、凛は今まで自分が口頭以外でどうやって情報を共有していたのか思い浮かべた。
「──交換日記とか、文通とか?」
かといって、日頃からほとんど誰かと言葉を交わすことがなかった凛。
浮かべた日常の会話の中でもっともそれらしいことは、ノートでの雪花とのやり取りだった。
突拍子もないことだとわかっていても、凛には文字を通したやり取りしか代案の心当たりがない。
「いや……! わざわざ文字でやり取りするくらいなら、顔合わせて直接伝えたほうが早いだろ! 自分が顔を合わせたくないって思ってても、相手は自分の顔を見て伝えたいって思ってるかもしれないだろ?」
生徒は耳を疑うような提案を耳にしたことで、反射的にノリツッコミをする。
そんな変哲もない指摘がどういうわけか、凛の胸に深く刺さった。
──確かにそうだよな。なんで今までそんなことに気が付かなかったんだろう。
今まで自分の容姿を理由に、ノートでやり取りをしている相手と対面することを拒んできたが、万が一、雪花の方は自分と会いたがっていたとしたら。
拒んだ理由は相手の為を思っているわけではなく、幻滅されたくないというわがままでしかなかったとも取れる。
ノートで吐き出していた想いも直接声にして伝えたほうが本人に気持ちが伝わるのはもちろん、より時間をかけずスムーズに伝えることができたのだ。
過去が駄目だというわけではなく、これからは直接雪花に想いを伝えられる、と考えればそのことに気づけてよかった、と。幸せな気分になれる。
「加藤もそんな冗談言うんだな〜とりあえず、メアド交換しよーぜ! 重要なことあったら連絡する」
ポケットからスマホを取り出して、クラスメイトは設定画面から自分のメールアドレスを見せた。
初めて友達にメアドを交換してもらったことが、凛は嬉しくて堪らない様子。
「ありがとう」
と。きちんと顔を見せて礼をしようと視界を開くために前髪を避け、マスクを外すのと同時に。
話を聞いていた生徒たちが近くに集まっていく。
急に人が増えたことで、緊張してしまい、凛の表情は一気に強張った。
「おーい〜! 加藤に話しかけて、アピールですかぁ?」
中でも特にお調子者のように見える男子生徒が、凛とメアドを交換した生徒を揶揄っている。
以前、凛から課題を回収したこの生徒に対して『お前よく話しかけたな』と話しかけた人だった。何かを馬鹿にされるのではないか、と縁起でもないことを想像してしまい、眉を顰めてしまう。
「ちょっ、何言ってるんだよ」
「こいつ文化祭の舞台みてから、加藤のこと気になってんだってよー」
ケラケラとしながら冗談っぽく生徒は言う。
課題を回収しにくるクラスメイトの態度が以前のり円やかだとは思っていたが、それが理由だったとはさすがに悟れなかった。凛はハッとする。
その言い回しだと、生徒が凛に対して恋愛感情を抱いているようにも受け取れるのでは。気付いたのは、彼とイジられている生徒もほぼ同時である。
「おれはただ、友達になりたいと思って!」
まるで、顔から火が出てしまうのではないかと疑いたくなるほどに、赤面している男子生徒。
どっちにしろ、自分に対して好意を持って接してくれているというわけだ。
他人から冷たい態度を取られることが多かった凛には、とても喜ばしいことだった。
「ツンデレだな! 可愛いやつめ〜!」
そういって生徒の胸元に飛び込むと、愛おしそうに頭を思いっきり撫でる。
撫でられた生徒は大胆なふれあいにこっ恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうな笑みをみせていた。
きっと、仲睦まじくお互いのことを友達として信頼しているのだろう。
「……ふはっ」
なんてことない。これは生徒たちにとっては、いつもの日常で当たり前のことなのだ。
小さないじりも、それに対して顔を赤くして答えるのも、お互いが悪意を持っていない末梢的な雑談だと理解しているからこそ楽しくて。
誰も傷ついていないことを知ると、何だか気が抜けて、声に出して笑っていた。
すると、急に男子生徒たちが黙り込む。
少し遅れて辺りが静まり返ったことに気が付き、各々の顔を見渡すと、なぜだか皆は放心しているようだった。
何か間違った行動したのではないか、と。
急に不安な気持ちに陥るが、そんなことをする必要もなかったみたいだ。
「加藤ってさ。笑った顔、なんていうか、すげえいいな! おれたちが笑わせるからもっと笑おうぜ」
途端に目頭が熱くなっていく。
初めてクラスメイトの温かさに触れたことで、じわじわと感慨深さが感じられた。ずっと他人にどう思われるのかが不安で顔を隠してきたのにも関わらず。皆んなはそれをもっと見ていたいと褒めてくれている。
今まで他者との接触を塞ぎ込んできた突っぱねてきた時間がもったいないとさえ思う。
こんなにも世界が目が眩むほどに、さまざまな彩りで満ち足りていて。かつ、人情味にあふれているということを。
何も色を持たない透明で澄み切った雪花と共に、想いを文字にして紡ぎ、彼らの恋心を示唆する舞踊を舞うことで、知ったのだ。