文化祭二日目。
 彼らがステージで日本舞踊と箏を披露する日がやってきた。一日目は最終確認のリハーサルのため、ほとんど露店を楽しむ余裕もなく。
 でも、舞台への不安を考える暇ができなかったので逆にありがたくも思った。
 稽古のときの着物とは異なり、発表会など特別な日しか纏わない高貴な着物を二人は纏う。
 互いの姿が鮮やかできらびやか。終いには心から麗しく思えて、魂を座れるほどに見惚れている。
 今回、日本舞踊の舞台にする白塗りの化粧はしないという選択肢を選んだ。
 白塗りの化粧を敢えて外すということは、何も着飾っていない素の自分と真っ向から向き合うことを表していたのだから。

 騒がしい観客席とは異なり、舞台袖は真夜中の路地裏のように酷く静かだった。
 刻一刻と二人の出番が近付いていくにつれて、手足はか細く震え、額にじんわりと嫌な汗が滲む。
 控えめに言って偉い人が来る大きな公演よりも凛は緊張していた。
 何も失敗することを恐れていたのではなかった。ここで日舞を披露することは、二人の中で何かが変わることを意味していると思っているから。
 それは身に付く自信かもしれない。
 更に優れたパフォーマンスの能力かもしれない。
 たくさん思い浮かぶ変化の中で、とくに気に留めていたのは凛が思う醜い自分との決別だ。
 ずっと最近の流行りとは違う地味な容姿が綺麗だと思えなくて。自らの容姿に対する中傷も罵倒も全て記憶の中では黒い染みとして残っている。
 成長した姿は今と同じ凛だと言えるのだろうか。寂しさは感じなくても、まだ見ぬ未知に対する漠然とした恐怖が胸奥深くに渦めいていた。

 そして、それは雪花にとっても等しく。
 大勢に容姿が晒されるのは、自分に嫌悪感を抱いていては、到底成し遂げられないことなのだから。舞台に立つことが決まった今、必然的に考え方に変化を促すことが約束される。
 なぜなら、舞台の上で矛盾は起こり得ない。
 今後、ありのままの自分を肯定することで、間接的に過去の自分を否定することに繋がってしまう。一度成長したらもう二度と成長する前に戻ることが許されないような気に陥っていく。

 考え事をしていると、波のような拍手の音が耳に届いた。ひとまず、気持ちを落ち着かせるために深呼吸をしよう。
 前の人がパフォーマンスを終え、二人に会釈をしながら舞台袖から外に捌ける。
 彼らの新たな人生の始まりは、目の前にあった。

「──続いて、有志の二年生、粧雪花くんと、加藤凛くんの箏曲と日本舞踊です。どうぞ、お楽しみください」

 部位袖からステージに立った途端、辺りの眩しさに目を細める。
 公演に比べて狭い板の上は、ライトの熱が篭り、近くによると埃が散っているのが見えた。
 箏を運び、中央から少し端に寄った場所に設置する実行委員会によるスタッフの生徒たち。
 スタッフが舞台から捌けたのを確認してから、雪花は箏がある位置の少し斜めに腰をかける。
 凛は既にステージで一番目立つ中央に立っていて再び深呼吸をしていた。
 各々の準備が整うと、二人は目配せして気持ちのネジを巻き直す。緊張で強張っていた表情が即座にして、きりりとした真剣なものへと変わった。

 始まりの一音が凛の鼓膜に焼き付く。

 波に乗っているイントロを彼が奏で始めた。
 空気が張り詰める中、美麗で艷やかな音色だけが広々とした体育館に響き渡る。
 彼が弦を弾くと楽器は、凛としたしとやかな声で歌う。五感を揺さぶるほどに心地よいそれは、観客を彼らの世界におもむろに誘い込む。
 指先をぴんと張り、更に力強く琴爪で手前に向かってスクイ爪をさせた。一つ一つの動きが丁寧でしなやかだ。彼らしさが表れていて、より心に響かせるものがある。節が変わっても、演奏の美しさと優雅さはそのままだった。
 一方で、凛は身体の全体を使いながら、曲に込められた意味を完膚なきまでに再現している。袖を手のひらを隠すように口元にあてた。
 男らしさを拭った上品な仕草だが、一瞬たりとも凛が"青年"であることを忘れさせない。妖美で魅惑的な動きの柔らかさも、少しもいやらしさを感じさせず、澱みのない心の無垢を物語っている。いまや触れることすら叶わない高貴さが、凛のことをこの場で唯一異質な存在にさせてしまう。
 扇子を音にあわせて、桜の花びらに見立てながらゆっくりと動かしていく。

 ──あぁ、こわいな。怖いけど、どうしようもないくらいに、愉しい……。

 自分を俯瞰して見ているような気分だ。
 まだ演技をしている最中なのに、意識は集中しているのに、凛は頭の中で言葉を呟く余裕があった。
 日本舞踊は爪先や指先、首の動きだけでなく、目線の動かし方さえ、振りの一部である。
 そのため観客席までを視野に入れる余裕はないものの、人々が見ているという視線が彼らを怖じ気させた。でも、それを愉しみたいと思うくらいに、想い人が側にいてくれるという事実が大きい。
 
 ほどほどに緊張も溶け、凛の舞と雪花の奏でる音は段々と一体感を持ち、リズムに乗っていく。
 ここからが日本舞踊の一番の見せ場。
 しかし、くるりと身体を回転をさせたとき、床に脚がもっていかれてしまい躓きかける。
 『あ、こける』とうっかり観客席の最善にいる誰かがぽつりと呟いた。
 そのまま身体は床に倒れることはなく、軽やかに新たなステップを踏む。その前屈みになった身体を利用し、更に過剰に大きく身を乗り出すと、やがて元の位置にぐっと引っ張るように手繰る。
 しかし、その動きを終えた途端、彼の表現したかったものが、鮮明に頭の中に浮かぶ。
 これは断じて、たまたま起きた失敗を利用した転化ではない。

 ──アレンジっ……!?

 ここまで力強い動きは元の振り付けにはなかったはず。彼は凛の動きを最も近くで追っていたため、いち早くそれに気付いた。
 ダイナミックに揺れて、はんなりと元の位置に戻ったその一節の動きは、桜の木が"春一番"に吹かれている姿の幻影を雪花たちに見せたのだ。
 観客が目をこすって再確認しても、そこに桜の木などあるわけがない。桜のように繊細に微笑う凛が見えない春風に揺られているだけなのだから。
 春に似合う音色を広きに知らせる雪花と、淡いピンク色の花びらが舞う姿を浮かべる凛はそこに取り込まれた観客に気付かず、二人だけの世界にいた。

 ──ほんとうに、綺麗だ。

 その言葉が凛の呟いたものなのか、雪花が呟いたものなのかは分からない。
 どうも須臾の際に、お互いがお互いのことを愛おしそうな目で見つめていたのである。
 そのありったけの小さな小さな光を掻き集め、汗が流れ込んで潤んだ瞳。それぞれが相手の美しさを引き立てていて、自分の想い人が世界で一番うつくしいことを主張していた。
 こんなに健気な表情で見つめているのが、その感情が偽りなはずはない。自分が君の世界の見るなら綺麗でいられることを嫌でも分からされてしまう。

「加藤っていつも俯いててマスクつけてるから表情見えなくて怖いとか言ってたけどさ。おれが、ちゃんと見ようとしてなかっただけだったんだな……」

 クラスメイトの一人は、独り言をいうように囁く。舞台から少し離れた場所でパフォーマンスを観ていた。
 最初はただ良さの分からないものを馬鹿にするつもり来ていたのに。いつの間にか目を惹かれ、瞬刻に心まで奪われていたのだ。
 生徒たちは初めて凛の素顔と彼らの隠されていた本当の姿を目の当たりにして、その圧巻さに立ち尽くしている。

「マスクの奥はこうだって勝手に決めつけて、本当はどうかなんて確かめたこともなかった」

 喋り続けていないのと、またもや彼らの演奏に飲み込まれてしまう気がして。
 既に荒ぶっている気持ちに必死に蓋をする。
 今まで、怖い、冷たいと避けていたものが素敵なものだと気づいたとき、抱いた感情は途轍もない惨めさだった。無意識のうちに自分が正義ではなく悪だったと示された気がして胸が痛む。
 何より自分が凛にしてきたことに対しての罪悪感が消えなかった。

「なにぃ? おまえ加藤のこと好きなん」

 隣にいた生徒がしんみりとした空気をあたたかいものに変えるためにそう問いかける。
 罪悪感を抱いていたのは声をかけた生徒も同じ。いくらこれまでしてきたことに償う必要があることを悟っても友達が心苦しそうにしている姿を見るのは嫌だった。
 謝るのは過去の自分ではなく、心無い言葉で傷を負った凛だ。当人がここにいない今は反省している姿を見せただけで、十分だと思う。
 何よりこの一生心に残るであろう光景を悪い思い出として昇華させたくはない。

「そうじゃないけど! 今見ると、あいつのことすげぇ綺麗だって思うんだよ。表情とか佇まいとか。まさに名前通り"凛"って感じで」

 遠くから見ても、凛の姿だけはっきりと目に映るくらいに見目良いとこの場にいる誰もが感じた。
 特別な感情にはならなくても、凛、そして雪花の存在は惑うことなく特別で。
 反対に、尺八すらもない箏と日本舞踊だけの文字だけで見れば侘しいパフォーマンスを『未完成』だと『寂しい』と思う人は誰もいなかった。

「まあ、たしかにきれーな名前してんのに負けてねーよなあ」

 友達の言葉に自分だけが見栄を張って嘘を付くこともできず、同意する。
 年子の男子高校生の言う『綺麗』という言葉は、軽く言われるだけの『綺麗』よりも何倍もの意味を持っているのではないか。
 けれども、きっと凛と雪花にとっては好きな人から告げられる『綺麗』がこれ以上ないくらいに特別で一番心の深いところに届くのだろう。

「はあ……はぁ……」

 その瞬間、最後の音が止み、凛の動きも止まる。
 彼らの中でもっとも大きくて特別な『さくらさくら』が完成した。静寂の中、凛が呼吸を整える音だけが、辺りに響いている。
 度肝を抜かれて、唖然としていた客も。一人が拍手を始めるとまた一人もう一人と次第に大きな輪になった。舞台の明るさと観客席の暗さから生まれたコントラストが気にならないくらいに、観客席から生まれる盛大な笑顔と熱気。
 今まで、白く色を喪っていたモノクロの景色が、鮮やかなものに変わっていることに気付く。
 なぜこの世界の美しさに気づくことができなかったのだろう、と二人は思った。
 熱い照明に当たり続けたことによる生理的な涙だか。この光景に感動しているのか。
 それとも、過去の自分との決別を寂しく思っていのかは分からない。
 ただ一筋だけ、右目から涙が伝う。
 泣きたいというよりも、叫び出したい気分だった。これまで溜め込んできた思いを全部全部吐き捨ててすっきりしてやりたいと。
 けど、そんなことをする必要がもうないことは彼らも分かっているのだ。
 
 舞台袖に捌けても、拍手は鳴り止まなかった。
 観客の歓声、二人の気を切らす声、声援、アンコールの所望。全てが鮮明に耳に入って来る。

「 粧くん……!」

 先に舞台袖に捌けた彼の背中を追って、凛はすぐに彼の名前を大きな声で呼ぶ。
 つい数ヶ月前に初めて呼ばれた名前がこんなにも耳に馴染むとは思っていなかった。
 思いがけず振り返ると、額には汗を滲ませて暑さから頬の紅潮させた凛が佇んでいる。
 二人は目と目を合わせた。

「僕は君と一緒にいるときが、一番綺麗な自分でいられる」

 気持ちを堪えきれず、泣きそうな顔で告げる。
 本音からでた想いだった。舞台の上で日本舞踊を舞っている最中に目があったとき、彼があまりにも自分のことを愛おしそうに美しい顔で見つめるものだから。そう思えてしまったのだ。
 まだ、自分のことを綺麗とは思えないけれども。
 彼と一緒にいるときだけは、彼の見る世界を共有しているから、綺麗なのかもしれない、と。

「──加藤くん」

 あのとき伝えたかった自分の想いが今度こそはちゃんと伝わり、雪花も泣きそうになっていた。
 今すぐにでも君にこの気持ちを伝えたいと、彼らは思ってしまう。

「僕っ」
「俺は」

 二人とも口にしたのはほぼ同時だ。
 けれども、相手に話す隙を与えることなく、言葉を続けるために口を開く。

「「君が好きだ」」

 声、そして、彼らの想いが初めて重なりあった。
 十数年も心の中に秘めていた想い人への様々感情がすべてその一言に詰まっている。
 二人は、互いの気持ちを確かめ合うようにぎゅっと抱き寄せた。

「ああ……ノートに想いを吐き出すほどに、君が想っている相手も僕だったんだな」

 彼らはとうとう相手がやり取りをしていた相手だと気づいたのである。
 身長差のため、一生懸命背伸びをして彼の肩に顔を埋めた。汗で湿っていると思った彼の肩が自分の涙で濡れていると気付くのには時間を要する。
 雪花はただ優しく笑い、凛のことを穏やかに包み込む。止めどなく涙が溢れていて、必死に目の前にある温もりに縋っている凛を愛おしんでいるのだ。

「そっちこそ、数年書き溜めた盛大なラブレターをどうもありがと」

「家に書き終えたのがもっとあるけどな」

 その間もずっと彼らは互いの身体を手放すことはしない。
 自信満々に目を輝かせて言う姿は、何だか子供っぽくて、誰よりも大人びいていると思った第一印象とは全く違うもの。
 でも、間違えなく自らが一目惚れした凛自身であのときから何も変わっていないと彼は感じた。

「ほんとに? ふははっ、俺のこと好きすぎ」

 眉をへの字に曲げて、困ったように咲う彼の姿を見るのは初めてだ。
 このときの凛はこれからの人生で幾度もこういう彼の満面の笑顔を見ることになるとは、想像もしていない。彼の見たことのない新たな姿を発見するたびにまたその美麗さに恋に落ちるのであろう。

「君が好きになれないところは、君が好きになれないぶん、僕が愛すよ。 僕は粧くんと、友人以上の関係になりたい」

 背伸びをやめて、彼の胸に頭を置く。
 二人の見ている未来にはいつだって、側に好きな人がいた。
 激しい心臓の音を耳にすると、本当に彼は自分と同じ気持ちなのだ、と嬉しくなる。

「──俺も……君と"恋人"になりたい。加藤くんの容姿も、内面も、日本舞踊も、すべてを愛してる」

 彼は凛の告白に再び愛を告げると、より強く身体を抱きしめ返す。
 高校二年生、もう直ぐ秋が訪れるというころ。
 彼らは想い人が内面だけではなく、自身の嫌いな外面でさえも、自分の代わりに心から愛おしんでくれる存在なのだと知った。