休み明けの学校で、今一番に凛は空き教室へと走った。
いつメッセージを書いたとしても返事が来るのが早まるわけではないものの、すぐにでもこのぐちゃぐちゃになった思いを消化したかったのだ。
「えっ……?」
空き教室に足を踏み入れた瞬間。
凛の動きは凍りついたように固まる。そこには既に雪花という先客がいたのだから。
目元は休日も夜通し泣いていたことが分かるほどに、真っ赤に腫れていて表情は心配になるほどに仄暗い。彼は床にへたりこんで、何かに向かって文字を書きなぐっていた。
「かと、く……ん」
凛の存在に気づいた雪花は限界を迎えたように、只でさえか細い声を限界まで絞り出す。
元気のない枯れ果てた姿は目を逸らしたくなるほど痛々しくて、強く胸が締め付けられてしまう。
けれども、そんな彼の手元には凛と匿名しか知らないはずのノートがあった。
そこにははっきりと、
『たすけて』
という震えた文字が、見開きのページを丸々と使って、大きく記されていたのである。
「君が、匿名……だったのか?」
この状況で思い浮かぶ推測は一つしかない。凛は表情を歪めて、ただ問いかける。
月曜日に返事をするのを忘れて、凛がノートを取りに来る前に書こうとしたのか。返事はしたものの辛くなって文字を書き足そうとしたのか。
答えは見つからなくても、彼が凛からの拒絶で、一人では抱えきれないくらいにボロボロになっているのは目の前にある事実。
「ごめん。加藤くんの、気持ち、考えずに、自分の言いたいことだけいって、ごめん」
自分の文字が書かれたページをぐちゃっと思い切り掴むと、彼は縋るように謝罪の言葉を述べた。
凛が恋した感情的にならない、いつだって寡黙な彼が周りが見えなくなるくらいに情緒を掻き乱されている。
それもそのはず、雪花は好きな人である凛だけには、何を失ってでも嫌われたくなかったのだ。
どんなに人形のように綺麗な姿をしている人でも弟のように、ちゃんとした人間で傷つくことも、間違えることも、笑うことだってある。
そんな当たり前のことを忘れてしまっていたことに気づき、凛は負い目を感じて、彼の側に駆け寄っていく。
「ちがう、違うんだ。僕が素直に君の言葉を受け入れられなかったから……。僕こそ、 粧くんを泣かせてしまってごめん」
また溢れ出た涙を止めることに必死になっている彼の背中をそっと撫でる。
彼を傷つけてしまった以上。すべては自分に原因があり決して彼は悪くないことと、あの言動に至った理由を包み隠さず明かさなければならない。
凛はそう思う。
「──よかったら、僕の話を聞いてくれないか。『匿名』として僕の話を聞いてほしいんだ」
傷つけられた『粧雪花』としては話を聞かなくてもいいから、今までノートの中で互いの話を聞きあったときのように知らない人の話として、今から聞くことを受け流してほしい、と。
そう言う凛の表情がやけに真剣だったことから、彼の中には提案を拒む選択肢はなかった。
「う、ん。その後に、俺の話もきいてほしい。『名無しさん』として」
無理だと言って拒否してもいいのにも関わらず、彼が肯定して答えてくれたことに、凛は安堵する。
それから、二人は窓際の壁に持たれて並んで座った。凛はぽつりぽつりと話を始めていく。
ところどころ言葉に詰まりつつも、不器用ながら『匿名』に会おうとしなかった理由と自分の醜形恐怖症について誤魔化さずに全て明かす。
彼は顔色を変えることなく、凛の過去を黙って聞いていた。されども当然、心の中では感情が二転三転し、渦になっている。
話を聞いているだけでも、凛に感情移入しては苦痛を感じるのに。それを真っ向から経験した凛は一体どれだけの痛みを負ってきたというのか。
今までそれを知らずに彼の傷の隠された表面だけを見て勝手に盛り上がり、手を差し伸べることをしなかった自分に嫌悪感がした。
続けて、雪花も過去のトラウマや自分の容姿へのコンプレックスについて明かす。
重い過去を告げられたあとに、一部自分の言葉足らずさが原因で引き起こされた過去を話すのは気が引けた。が、凛はそれに対して自分の過去のように辛そうな顔をしている。何度も雪花の今を気遣う言葉を挟んでは、寄り添うように相槌を打つ。
そのときの姿がいつも取り留めのない話にも丁寧に読み込んでは長い文章で返事をくれる『名無しさん』の姿と重なる。ふと『名無しさん』の正体が凛であることを再認識した。
二人が話し終えたとき、凛が来たときには六時半頃だった時計も七時半を過ぎている。
五十センチほどの間をあけたところには、遠い存在だったはずの好きな人がいて。
その五十センチの近いようで遠い距離は、彼らの心の距離を表していたのであろうが、今の二人にはそれで充分だった。
「やり取りの始まり方も偶然の産物だったし。俺たち似た者同士なんだね」
彼は相手の話を聞いて、自分の話をした後に、うっかりと言葉をこぼしたようにそんなことを言う。
感情を荒ぶらせた余韻がまだ少し、呼吸の浅さとして残っていた。
凛はその意見に同意することしかできない。声を出さないで、忍びやかに頷く。
「そういえば、手に持ってるのなに?」
思えば、彼はペンで文字を書きなぐっているときも、ページを片手でぐちゃぐちゃにさせたときも。
反対の手には何か別のプリントのようなものを持っていた。
さすがにそろそろ物の正体が気になったのか、違和感を口にしながら指をさす。
「あ。これここ来る前にセンセにもらった。文化祭の有志の募集だって。やりたい人が歌歌ったりパフォーマンスするやつ」
彼も手に持っていたプリントの存在を、凛に問われるまでは忘れていたようだ。
教師からすれば、こんな朝早い時間に明らかに様子のおかしい雪花を見たら心配になる。
きっと、プリントを渡す行為自体にこれといった意味はない。
教師なりに最悪の事態を防ぐためには声かけが必要だと思い、試行錯誤した結果、唯一浮かんだ手段だったのだと思う。
「へえ、そうなのか……」
美術部員が描いたアニメ風のイラストが載ったプリント。去年、クラスメイトの中では、陽キャ二人組が漫才を披露していたなということを思い出す。
たいてい学校の中でもノリがよく、目立つ人たちが文化祭を盛り上げるために率先して行うようなイベントだ。
住む世界の違う自分には縁がない話──と凛は最初こそは考えた。
「……なあ、よかったら、僕たちの持つ殻を破るために、一緒に文化祭で"さくらさくら"の日本舞踊を披露しないか?」
ふと、そんなことが思い浮かび、知らぬ間に声に出してしまう。
己の言っていることの突拍子のなさに気づいたのは全てを話しきった後だった。
文化祭のステージというのは当然たくさんの人が見に来ることになる。ということは、たった一回成長を意識してたくさんの人に注目されれば、自分の容姿に向かう視線も気にならなくなるのでは。
それに、二人が多く生活を送る場所は学校の中であり、周りの生徒との交友関係もステージに立ったことで変化が望める気がしたのだ。
彼はその提案を聞いてしばらくは何かを考えている。
「……いいよ。加藤くんの提案のるよ。けど、条件がある」
さほど狼狽えずに提案を飲んでくれたかと思いきや、まさか条件つきだなんて。
もうやり取りはやめようとか、自分の目の前から消えてくれ、とか。
自分にとってデメリットすぎる条件だったらどうしようと不安が込み上げて来る。
凛は雪花の口元が動く姿を、緊張しい状態でじっと見つめていた。
「主役の日舞じゃなくて、加藤くんの魅力を最大限に活かすために、俺は箏を演奏させてほしい。小学生の頃から習っているんだ」
彼は今まで自分が箏を習ってきたのは、このときのためだったのだ、と感じる。
凛の過去や価値観について聞いたとき、凛を苦しめた人への途轍もない怒りと出来事の辛さから伝わる切なさと共に、本人が自分の良さを知らないのは凄くもったいないという感情があった。
凛の美しさを、その本人にこそ理解してほしい。
そのためには凛のことを一番に愛している自分が本人の納得がいくような状況を創り出すのが、一番だと考えたのである。
「わかった。言いたいことはあるけど。まあ、条件なら仕方ないな」
彼と日本舞踊ができないのは残念だが、彼の思いを尊重することの方が凛には大切だった。
否定することなく、その提案を受け入れる。
「でもなんで、現代のポップスとかじゃなくて箏曲の"さくらさくら"なの?」
純粋に選曲の理由が分からずに、彼は質問した。
まず、日本舞踊は様々なものがあり、創作舞踊というジャンルもある。
例えば、今流行りの曲や人気のJ-POPでも振りを考えさえすれば日本舞踊として披露できるのだ。
若い世代の高校生にとって、そういう聞き馴染みのある曲のパフォーマンスの方が需要があるのではないか、と思ったのだろう。
「うーん……。その曲が僕にとって大切で、思い出の曲だからかな」
朗らかに微笑んで、多くを語らずに言葉を返す。
どうして大切な曲であるかということは、彼には述べなかった。
彼の中にある大きな疑問は残ったままなため、その返事を聞いても、首を傾げて眉をひそめ続けている。
── 粧くんに一目惚れしたときに、 粧くんが練習してた曲だから、なんてさすがに言えないけど。
彼のふわふわとした表情を愛しく思いながら、凛は心の中で答えを口にした。
そう、実は雪花が見た凛の最初の日本舞踊が『さくらさくら』だったというだけでない。
凛が初めてみた彼の日本舞踊も、彼が凛に影響を受けて『さくらさくら』を舞っている姿。
彼らは互いに一目惚れしたときに、相手が披露していた曲を好きになり、思い出として大切にしていたのである。
まだ、鈍感な二人は相手の好きな人が自分だとは気づいていなかった。本当の想いを秘めたままこれからは親友として接することになる。
しかし、夏休み中毎日のように練習を重ね、距離が縮まることで、親友ではなく、恋人として彼の側にいたいと感じていくのだ。
以前は見ているだけでいい、と思っていた気持ちに訪れた新しい変化で……。
君といると『これ以上』を望むようになってしまう。
その贅沢な望みも二人にとってかけがえのない感情の一つだった。
いつメッセージを書いたとしても返事が来るのが早まるわけではないものの、すぐにでもこのぐちゃぐちゃになった思いを消化したかったのだ。
「えっ……?」
空き教室に足を踏み入れた瞬間。
凛の動きは凍りついたように固まる。そこには既に雪花という先客がいたのだから。
目元は休日も夜通し泣いていたことが分かるほどに、真っ赤に腫れていて表情は心配になるほどに仄暗い。彼は床にへたりこんで、何かに向かって文字を書きなぐっていた。
「かと、く……ん」
凛の存在に気づいた雪花は限界を迎えたように、只でさえか細い声を限界まで絞り出す。
元気のない枯れ果てた姿は目を逸らしたくなるほど痛々しくて、強く胸が締め付けられてしまう。
けれども、そんな彼の手元には凛と匿名しか知らないはずのノートがあった。
そこにははっきりと、
『たすけて』
という震えた文字が、見開きのページを丸々と使って、大きく記されていたのである。
「君が、匿名……だったのか?」
この状況で思い浮かぶ推測は一つしかない。凛は表情を歪めて、ただ問いかける。
月曜日に返事をするのを忘れて、凛がノートを取りに来る前に書こうとしたのか。返事はしたものの辛くなって文字を書き足そうとしたのか。
答えは見つからなくても、彼が凛からの拒絶で、一人では抱えきれないくらいにボロボロになっているのは目の前にある事実。
「ごめん。加藤くんの、気持ち、考えずに、自分の言いたいことだけいって、ごめん」
自分の文字が書かれたページをぐちゃっと思い切り掴むと、彼は縋るように謝罪の言葉を述べた。
凛が恋した感情的にならない、いつだって寡黙な彼が周りが見えなくなるくらいに情緒を掻き乱されている。
それもそのはず、雪花は好きな人である凛だけには、何を失ってでも嫌われたくなかったのだ。
どんなに人形のように綺麗な姿をしている人でも弟のように、ちゃんとした人間で傷つくことも、間違えることも、笑うことだってある。
そんな当たり前のことを忘れてしまっていたことに気づき、凛は負い目を感じて、彼の側に駆け寄っていく。
「ちがう、違うんだ。僕が素直に君の言葉を受け入れられなかったから……。僕こそ、 粧くんを泣かせてしまってごめん」
また溢れ出た涙を止めることに必死になっている彼の背中をそっと撫でる。
彼を傷つけてしまった以上。すべては自分に原因があり決して彼は悪くないことと、あの言動に至った理由を包み隠さず明かさなければならない。
凛はそう思う。
「──よかったら、僕の話を聞いてくれないか。『匿名』として僕の話を聞いてほしいんだ」
傷つけられた『粧雪花』としては話を聞かなくてもいいから、今までノートの中で互いの話を聞きあったときのように知らない人の話として、今から聞くことを受け流してほしい、と。
そう言う凛の表情がやけに真剣だったことから、彼の中には提案を拒む選択肢はなかった。
「う、ん。その後に、俺の話もきいてほしい。『名無しさん』として」
無理だと言って拒否してもいいのにも関わらず、彼が肯定して答えてくれたことに、凛は安堵する。
それから、二人は窓際の壁に持たれて並んで座った。凛はぽつりぽつりと話を始めていく。
ところどころ言葉に詰まりつつも、不器用ながら『匿名』に会おうとしなかった理由と自分の醜形恐怖症について誤魔化さずに全て明かす。
彼は顔色を変えることなく、凛の過去を黙って聞いていた。されども当然、心の中では感情が二転三転し、渦になっている。
話を聞いているだけでも、凛に感情移入しては苦痛を感じるのに。それを真っ向から経験した凛は一体どれだけの痛みを負ってきたというのか。
今までそれを知らずに彼の傷の隠された表面だけを見て勝手に盛り上がり、手を差し伸べることをしなかった自分に嫌悪感がした。
続けて、雪花も過去のトラウマや自分の容姿へのコンプレックスについて明かす。
重い過去を告げられたあとに、一部自分の言葉足らずさが原因で引き起こされた過去を話すのは気が引けた。が、凛はそれに対して自分の過去のように辛そうな顔をしている。何度も雪花の今を気遣う言葉を挟んでは、寄り添うように相槌を打つ。
そのときの姿がいつも取り留めのない話にも丁寧に読み込んでは長い文章で返事をくれる『名無しさん』の姿と重なる。ふと『名無しさん』の正体が凛であることを再認識した。
二人が話し終えたとき、凛が来たときには六時半頃だった時計も七時半を過ぎている。
五十センチほどの間をあけたところには、遠い存在だったはずの好きな人がいて。
その五十センチの近いようで遠い距離は、彼らの心の距離を表していたのであろうが、今の二人にはそれで充分だった。
「やり取りの始まり方も偶然の産物だったし。俺たち似た者同士なんだね」
彼は相手の話を聞いて、自分の話をした後に、うっかりと言葉をこぼしたようにそんなことを言う。
感情を荒ぶらせた余韻がまだ少し、呼吸の浅さとして残っていた。
凛はその意見に同意することしかできない。声を出さないで、忍びやかに頷く。
「そういえば、手に持ってるのなに?」
思えば、彼はペンで文字を書きなぐっているときも、ページを片手でぐちゃぐちゃにさせたときも。
反対の手には何か別のプリントのようなものを持っていた。
さすがにそろそろ物の正体が気になったのか、違和感を口にしながら指をさす。
「あ。これここ来る前にセンセにもらった。文化祭の有志の募集だって。やりたい人が歌歌ったりパフォーマンスするやつ」
彼も手に持っていたプリントの存在を、凛に問われるまでは忘れていたようだ。
教師からすれば、こんな朝早い時間に明らかに様子のおかしい雪花を見たら心配になる。
きっと、プリントを渡す行為自体にこれといった意味はない。
教師なりに最悪の事態を防ぐためには声かけが必要だと思い、試行錯誤した結果、唯一浮かんだ手段だったのだと思う。
「へえ、そうなのか……」
美術部員が描いたアニメ風のイラストが載ったプリント。去年、クラスメイトの中では、陽キャ二人組が漫才を披露していたなということを思い出す。
たいてい学校の中でもノリがよく、目立つ人たちが文化祭を盛り上げるために率先して行うようなイベントだ。
住む世界の違う自分には縁がない話──と凛は最初こそは考えた。
「……なあ、よかったら、僕たちの持つ殻を破るために、一緒に文化祭で"さくらさくら"の日本舞踊を披露しないか?」
ふと、そんなことが思い浮かび、知らぬ間に声に出してしまう。
己の言っていることの突拍子のなさに気づいたのは全てを話しきった後だった。
文化祭のステージというのは当然たくさんの人が見に来ることになる。ということは、たった一回成長を意識してたくさんの人に注目されれば、自分の容姿に向かう視線も気にならなくなるのでは。
それに、二人が多く生活を送る場所は学校の中であり、周りの生徒との交友関係もステージに立ったことで変化が望める気がしたのだ。
彼はその提案を聞いてしばらくは何かを考えている。
「……いいよ。加藤くんの提案のるよ。けど、条件がある」
さほど狼狽えずに提案を飲んでくれたかと思いきや、まさか条件つきだなんて。
もうやり取りはやめようとか、自分の目の前から消えてくれ、とか。
自分にとってデメリットすぎる条件だったらどうしようと不安が込み上げて来る。
凛は雪花の口元が動く姿を、緊張しい状態でじっと見つめていた。
「主役の日舞じゃなくて、加藤くんの魅力を最大限に活かすために、俺は箏を演奏させてほしい。小学生の頃から習っているんだ」
彼は今まで自分が箏を習ってきたのは、このときのためだったのだ、と感じる。
凛の過去や価値観について聞いたとき、凛を苦しめた人への途轍もない怒りと出来事の辛さから伝わる切なさと共に、本人が自分の良さを知らないのは凄くもったいないという感情があった。
凛の美しさを、その本人にこそ理解してほしい。
そのためには凛のことを一番に愛している自分が本人の納得がいくような状況を創り出すのが、一番だと考えたのである。
「わかった。言いたいことはあるけど。まあ、条件なら仕方ないな」
彼と日本舞踊ができないのは残念だが、彼の思いを尊重することの方が凛には大切だった。
否定することなく、その提案を受け入れる。
「でもなんで、現代のポップスとかじゃなくて箏曲の"さくらさくら"なの?」
純粋に選曲の理由が分からずに、彼は質問した。
まず、日本舞踊は様々なものがあり、創作舞踊というジャンルもある。
例えば、今流行りの曲や人気のJ-POPでも振りを考えさえすれば日本舞踊として披露できるのだ。
若い世代の高校生にとって、そういう聞き馴染みのある曲のパフォーマンスの方が需要があるのではないか、と思ったのだろう。
「うーん……。その曲が僕にとって大切で、思い出の曲だからかな」
朗らかに微笑んで、多くを語らずに言葉を返す。
どうして大切な曲であるかということは、彼には述べなかった。
彼の中にある大きな疑問は残ったままなため、その返事を聞いても、首を傾げて眉をひそめ続けている。
── 粧くんに一目惚れしたときに、 粧くんが練習してた曲だから、なんてさすがに言えないけど。
彼のふわふわとした表情を愛しく思いながら、凛は心の中で答えを口にした。
そう、実は雪花が見た凛の最初の日本舞踊が『さくらさくら』だったというだけでない。
凛が初めてみた彼の日本舞踊も、彼が凛に影響を受けて『さくらさくら』を舞っている姿。
彼らは互いに一目惚れしたときに、相手が披露していた曲を好きになり、思い出として大切にしていたのである。
まだ、鈍感な二人は相手の好きな人が自分だとは気づいていなかった。本当の想いを秘めたままこれからは親友として接することになる。
しかし、夏休み中毎日のように練習を重ね、距離が縮まることで、親友ではなく、恋人として彼の側にいたいと感じていくのだ。
以前は見ているだけでいい、と思っていた気持ちに訪れた新しい変化で……。
君といると『これ以上』を望むようになってしまう。
その贅沢な望みも二人にとってかけがえのない感情の一つだった。