境内に手水舎のせせらぎが流れ込む。雪花は中を見ることのできない、御社殿の鈴を鳴らす。
 大会が始まってはもっと練習をしてをしておけばよかったと悔やんでも仕方がない。
 後にやり残したのは神頼みだと、インターハイに向けて勝利を願い、走り梅雨の中参拝に来た。
 透明なビニール傘の表面に、雨粒が伝う。
 何もかもが雨で温もりを喪う中、雪花だけがまだ内側からの予熱を保っている。遂げられることを知らない水の紡ぐ糸は、空が抱く哀しみに共感を求めているようだと。彼は思った。

 バスケ部は順調に大会を地区予選、都道府県予選と勝ち進み、翌週にはブロック予選を行う。
 全国目前の状態でオーバーワークを控えるため全体練習の日程が調整された。
 練習時間が減った日は休息を取るべきなのだろうが、ストイックな雪花は休んでいられない。
 その間もノート間のやり取りは続いていたものの、二人の中にある溝に気付いたことで拭えない煙たさを感じている。
 また、怪我をする心配が少ないので、日本舞踊の稽古にようやく復帰することに決めたのが数日前の話だ。

「え、僕が生徒の稽古をですか……?」

 彼が鈴の音の余韻に浸っていた頃。凛は家で母親と会話を交えていた。
 動揺する声をかき消すように。襖の奥からの高周波が含まれたゆらぐ雨音が心に響いている。
 朝起きた途端に珍しく母親に声をかけられたかと思えば、頼みごとをされるとは。
 まだ眠い目がいつの間にか冴えてしまう。

「言ってなかったんだけど、日本文化の交流会とイベントが重なって数週間だけ地方に出向くことになっていたのよ。代わりに生徒さんに向けて指導してほしくて」

 申し訳なさそうに言っているが、凛に拒否権はないのだろうと思った。
 カレンダーを見て改めて確認すると、母親が家を出る日は直ぐ明日の話だ。恐らく今日中に凛以外の代役を見つけようと試みるのは難しい。
 生徒の稽古は明後日の月曜日のようだけれども、それまでに心の準備や指導内容を確認しておくのは無理がある。凛もせめて、もう少し早く伝えてほしかったのではないか。

「それは別にいいんですよ。でも、急に僕が指導なんて……! 年配の方の中には僕より長い間日舞を習っている方もいらっしゃるのに」

 自分が頼まれたことに納得がいかず、声を荒げてまで、困惑気味に伝えている。
 いくら凛が日本舞踊の家元の跡取り息子で、小さく頃から英才教育を受けていたとしてもだ。
 生徒の中には母親を越えて祖母が師範だった世代からいまだに趣味で日本舞踊を続けているほぼプロのようなもいた。
 自分の実力は自覚しつつ、そんな彼女らの上の立場になって、指導する勇気は持ち合わせていない。

「ああ、それに関しては心配しなくても大丈夫よ。団体の方の指導は祖父母に頼んでいるから。凛くんには団体の方と時間が被っちゃってて対応できない"粧雪花くん"の個別指導をお願いしたいの」

 いきなり発された好きな人の名前に息を呑む。
 刻下に彼女は一体なんと言った? 徐々に彼女の言っていたことを掘り返してみる。
 第一に個別指導ということは彼と密室の中で二人きりということ。挨拶すらしたことのない彼らが、今から二日後に会話をしなくてはならないのだ。
 無意識のうちに呼吸の仕方を忘れて、頭の中が疑念で埋め尽くされてしまう。
 明々白々に気を動転させて戦慄く姿に違和感を持たれていないか、母親の様子を伺いつつ、ひと呼吸をおいた。それでも変に目が泳ぎ、何度も口を金魚のようにぱくぱくと動かす。
 
「粧、くんの……?」

 初めて言う名前ではないのにも関わらず、凛の言い方はかなり片言だった。
 ようやく言葉を漏らしたとき、彼女が話してからどのくらいの時が経っていたのかは分からない。
 実際のところ、受け取ったものを口に出しても、脳内の処理は全く済んでいなかった。
 外ではそんな凛の心情も知らず、呑気にカエルが合唱中である。
 彼女はなぜこんなにも凛が驚いているのか理解できないため、何だか渋い顔だ。

「知っているわよね? あなたは日本舞踊を魅せる実力をもう十分に持っているから、信頼できるって親御さんからの指名よ。だからお願いね」

 圧力をかけるように強い口調で言う。
 もしかしたら、凛が彼のことを知らないから断ろうとしていると勘違いした可能性がある。
 これが雪花の母親からの指名ということで、片思いを拗らせている彼を見計らい、わざわざアシストをしてくれている姿も思い浮かぶ。
 肯定も否定もする間もなく、彼女は満足げに明日に備えて支度をしに部屋を出ていく。
 果然、彼に会ったとしてもどう行動したらいいのだ、と。凛は頭を抱えながら床にしゃがみ込む。

 ノートの中ではない。現実世界の二人の中で、彼らの停滞していた状況が移り変わるきっかけが訪れた。

 金曜日の深夜、土曜日、日曜日と──。

 時間の歩みは凛のことを待っていてはくれない。既に週が明けて月曜日を迎え、時刻は約束の十八時になっている。
 ここまで過ごしてきた時間が平日ではなく休日なことが、凛にとっては最大の痛手だった。
 一人ではこの混沌とした気持ちを抑えることができないと思うから。何とか理解者である匿名にこのことを相談して、些細なことでいいこでアドバイスをもらいたかったのだ。
 更には不幸なことに火曜日の明日もなんと高校の創立記念日で学校は休み。今日何かしら彼との間で進展があったとしても、一日はその想いを自分の中に留めておかなければならなかった。
 お互いが大きな深呼吸を一つ。

「今日はよろしく」

 稽古をする部屋に立ち入り、雪花から挨拶をする。扉を閉め切った刹那、彼らの雰囲気が息苦しいほどに引き締まった。
 彼はいつも通りの態度で緊張していないように見えるが、内心とても焦燥感に駆られている。
 少しでも凛に悪印象を持たれないようにしよう、とクールを装うことで精一杯だった。

「うっ、こちらこそ、よろしく……」

 一方で、凛は最早、動揺を隠す気がないように思えるくらいに挙動が不審だ。
 喋っていないのに口だけが動いていたり、歩くときに足と手が一緒に出たりしていた。
 そのことを理解していない彼は、その態度にもしや自分は凛に嫌われているのではないか、と疑念を抱いている。

 ──やっぱり、近くで見ると余計にきれいだな…… 粧くん。

 毎日彼のことを遠くで眺めていたが、これほど至近距離で見るのは初めてのはなし。
 水も滴るいい男、という言葉があるように明るい色の髪に水滴が伝う姿はあまりにも画になった。
 まつ毛の上にまで雨粒が乗っているのを見ると、この重量に耐えられるほどまつ毛の量が多いんだな、と自分との違いに愕然とする。
 伏し目がちの横顔に、後れ毛を耳にかける動作。
 こんな機会がめったにないことをいいことに、まじまじと見つめてしまう。

「……なに?」

 とうとう本人気づかれ、冷たい目でギロリと睨まれる。どうやら自分の顔に何かついているから凛にじっと見られていると思ったらしい。
 手で顔に触れ、仏頂面でぺたぺたと叩き始めた。
 仮に何かが顔に付いていたのなら恥でしかないので、心なしか動きがぎごちなかった。

「えっと、いつも車で来てるのに、なんで今日は雨で濡れてるんだろうって思って……!」

 大変言い訳がましいが、抱いていたの疑問は本当だ。彼は日本舞踊教室まで母親の送迎で来ている。
 生徒はここに初めて来たときや見学にきたときなど特別なとき以外は裏の駐車スペースに車を止め、そのまま裏口から建物の中に入ることが多かった。
 裏の駐車場には建物まで続いている屋根があるので、雨で濡れるようなことはまず無いと言える。
 よって、ここに来たばかりの彼が今、濡れているのは、おかしいと凛は思ったようだ。
 さり気なく、彼の交通手段を知っていることを暴露しているという失言には、二人とも気付いていない。

「ああ。放課後、大会に向けた作戦を友達と話し合ってたら時間がなくなって。急いでバスに乗ったんだけど、バス停からここまで来るとき傘がなかったから濡れた」

 彼は夕方に部活のない日も結局、部活について話しているみたいである。彼の言う友達とは恐らく例の友人のことだが、友人と彼は同じクラス。
 ホームルームが終わってすぐに部活について話し合い始めたのではないだろうか。
 日程を調節したとしても、さすがに大会前なこともあり朝練は普段通りあることが予想されるので、それが長引いていた場合、彼は放課後にノートを取りに行かなくてはならなかったはず。
 今日、きちんと凛からのノートを読み、返事は書いたのかが気になった。

「そうなのか……帰りは傘貸すよ」

 不運で濡れるしかなかった彼を気の毒に思う。
 傘のストックは家族のものを合わせれば何個もあるので、無限に渡したいくらいだ。
 彼は凛からの思いやりに「ありがと」と控えめに笑っていた。初めて見る表情に凛はトドメを撃たれて、どきまぎとしている。

 ──緊張する、どうしよう。

 まず稽古を始めるために、彼は着物を着付けなければならない。
 凛はこの家の中での私服が、着物か浴衣と決まっているため、特に着替える必要はなかった。
 彼は凛のソワソワとしている姿をよそに、平然と目の前で制服を脱ぎ始める。
 肌着はそのまま身に着けるため裸になる訳ではないが、人の露出に耐性のない凛には刺激が強い様子だ。そっぽを向いて悶々としている間に、彼は素早く着付けを済ませた。

「よ、 粧くんは今、何の曲を教えてもらってる? ごめんな、引継ぎがきちんとできていなくて」

 気持ちを切り替えると、出来るだけ気を確かにして凛は彼に問いかける。日本舞踊をしている間は全ての煩悩を捨てて集中できることもあり、一刻も早く稽古を進めようと考えていた。
 これ以上雑談を交わしていると、彼らの精神はきっと時間が終わるまでに保ちきれないと思う。

「一番上の姉が結婚式をするから。そこで披露するために、数曲は練習しておこうって。"千代の寿"をやってる」

 姉の方から彼に披露宴で日本舞踊を披露してほしいと頼んだのか。それとも、彼から姉に日本舞踊を披露したいと提案したのか。
 どちらにしても、彼の家族仲が至って良好そうで何よりである。
 『千代の寿』という曲は、長寿なことで縁起の良い二匹の鶴を主題にした長唄。中でも一部に、夫婦仲のむつまじさを表す歌詞があることから、結婚式の披露宴などの祝の場で踊ることが多い。

「千代の寿か……中学上がる前に業界の宴会のために練習させられたけど。身体が覚えてるか……」

 振りを間違えずに踊り切る確証もなく、不安げな表情を凛は見せている。
 いくら偉い人に披露するために念を入れて挑戦した曲だとしても、もう五年ほど前の話だった。
 とりあえず、正に物凄く難易度が高い訳でもないので、挑戦してみよう、と。合計では彼よりその曲を長く練習しているはずなのだ。
 そこそこの手本にくらいはなると結論づけた。

「この曲で不安な場所とかある?」

 例外として、彼があやふやな部分を自分もあやふやにしてしまえば、手本にすらならない。
 そこだけはしっかりと本人に直接確認を取る。

「正直、稽古の休みを取ってたから全体的に危ういと思う。強いて言うならば、間奏でテンポが早くなるところが苦手」

 まだ振りも覚えきれていない状態で、稽古を休むことになったのだから。
 彼は全ての箇所が不安だと主張したいだろう。
 なのに、きちんと自分が苦手になりそうな場所を理解して推測し、言語化できているところは、長年積み重ねてきた稽古の成果といえる。
 返事をするのに少しも時間を要していないくらいだった。

「確かにそこ、音に釣られて自分の動きも早くなりがちだよな。お手本として踊ってみるから後で解説するためにビデオ撮っててもらってもいい?」

 しばらくの間、振りを思い出す時間とどう曲に込められた想いを表現をするか考えた後。
 稽古に使われているビデオカメラを彼に手渡す。
 スポーツでいう"ゾーン"に入ったような感じのように見えた。先ほどとは打って変わり凛の表情は真剣で背筋がぴんと張っている。

「わかった」

 彼は凛に頼まれた通り、ビデオを回し始めてから曲をスピーカーで再生した。
 イントロが流れ始め、凛も一つ一つの動作を繕い動き始めていく。
 まるで、本物の鶴が目の前にいるように見える。
 彼らのいる場所が変哲もない部屋であることを忘れさせてしまう。あるときは天気の良い外であり、あるときは真っ白な雪の中。仕草を切り替えるごとに場面と景色が変わっているのだ。
 凛の日本舞踊は自らの世界観を作り上げるものというよりも、この曲の作者の思う世界観を表現していた。小道具の扇子を靡かせ、引き締まっているのに柔らかい。そんな表情をしている。
 それがまた、心の奥まで酔ってしまうほどに魅惑的で、多彩な美しさを放つ。
 音楽はとうとう、彼が苦手な転調の部分になる。
 二人だけの部屋を広々と使って華やかに舞う。

 ──ああ。やっぱり加藤くんのことが好きだ。

 日本舞踊を見ている中、ふと、そんなことを思っていた。初めて会ったときに日本舞踊が凛のためにあり、凛のために作られたと思ったことが間違えではなかったと感じてしまうほどに。
 美しくてこれ以上に正解はないと言える日本舞踊は彼の心をますます虜にさせるしかない。

「……どっ……どうだ。動き、思い出せた?」

 約四分ほどの曲が終わり、やりきった顔をして彼の方を向く。好きな人に見られているとプレッシャーもあり、いつもよりいい演技をしようと頑張ったことで体力をかなり消耗した。
 呼吸は走った後のように荒れ、額には汗が滲む。
 反対に、彼は何も言わずに、口を開いたままにさせている。
 凛にはそれが日本舞踊がひどすぎてぽかんとしているのか、良すぎてぽかんとしているのか分からず、妙に余計雰囲気をピリピリとさせた。

「加藤、くん」

 彼は恐れるように、ぽつりぽつりとその名前を呼んだ。
 気持ちが逸り、彼の日本舞踊を見たときに抱いた感情を包み隠さず伝えるべきだと急かされている。
 自らの気持ちに素直になりたいと思った。本人の良いところを、本人にも知ってほしいと。
 物怖じてしまいながらも彼はついに決心する。

「……ん?」

 名前を呼ばれ、笑顔で快く返事をしてくれた。
 『加藤くん』と再び好きな人に呼んでもらえたことを、嬉しそうにしている。
 自分からは何も言わずに、ただ話を相槌を打って聞いてくれる凛の姿が、名無しさんに重なってなぜか名無しさんのことを思い出す。

「俺は……日本人らしい繊細で清澄たる容姿と君の舞う日本舞踊が、すごく、秀麗だと思う」

 頬を紅色に色づけて、目線を反らしながら恥ずかしそうに思いを告げる。
 決して『好き』と伝えているわけではなくても。
 男の子が男の子に対して綺麗だと思っていることをさらりというのはやはり簡単なことではない。
 ここまで勇気を出したのは、久しぶりだと思う。
 くさい言い回しも、語彙力が足らない褒め言葉も全部が彼の心から丁寧に選んだものだと伝わる。

「…………なに、それ」

 凛からの返答は思ったよりとても短いものだ。
 口角を挙げずに目を丸くさせて、瞬きを一つもせず彼のことを見ている姿。彼の思いに対してなんと感じているのかも見当がつかない。

「これだけ、伝えたかった」

 ついさっきに言ったものが、嘘やお世辞ではなく、本音であり心からのものだと伝えるために。
 またありのままの一文を付け足す。
 凛はそれを聞くと、ただ、その場で俯き続けていた。かえって、彼がどんなことを思い浮かべているのかわからなくなる。
 一体、凛がどういった反応をするのか考えて、胸だけが高鳴っていく。

「ぼくは──! 好きでこんな外見に、産まれたんじゃないっ……! 叶うなら、おまえのような容姿になりたかった」

 カッとなって、思わず怒鳴ってしまう。
 思いを吐き出し過ぎたところはがなり声になり、逆に最後の方になると声は弱々しく震えている。
 凛には彼が自分の容姿を馬鹿にしているように思えた。例えば、明らかに頭の良くない人が『俺、頭いいから』と遠回しに自虐ネタをするように。
 顔は怒りや悲しみからか、羞恥心がこみ上げるほどに真っ赤に染まった。胸は空気を取り込むように一心不乱に上下するをするだけ。
 このときばかりは完全に周りが見えなくなっていた。何も考えていないのにも関わらず、言葉だけがすらすらと止まることがなく溢れていくのだ。

「──っ……!」

 微塵も想像もしていなかった反応に、彼はびっくりしてしまい、声もうまく出なかった。
 その顔はあまりにも絶望をしているという言葉を体現しているようだ。凛も直ちに自分が言ったことの持つ意味の強さと過ちに気付く。
 好きな人にこんな表情をさせてしまった申し訳無さから、これ以上追い打ちをかけるようなことはしない。

「おまえこそ、内心馬鹿にしてるんだろう! 俺も……おれ、だって……っ……」

 何を続けるか迷い、一度言葉を吃らせる。
 大きな声を出すことに慣れていないのか、一つの文の中でも声量は不規則だった。
 こんなにも彼が感情的になって話すことを知らなかった凛は、何も言うことができずに立ち尽くす。

「──こんな容姿がっ、嫌だ……」

 最後の方の言葉は声がつまり掠れていた。ありったけの声量で叫ぶ姿を見て、目を見開く。
 なぜなら、彼が泣いていたからだ。普段から冷静で、感情を知らないような態度を示していて、人前でうわつくともない彼が。
 いつもは雪のように白い肌が化粧をしたみたいに赤い。眉間にぎゅっとシワを寄せ、涙の溜まった目をより細くくちゃっとさせている。ひとりでに溢れる涙を休まず拭っても拭っても止まる気配がなく。
 それでも、嗚咽を堪える彼の顔たちは、綺麗さを保っていて鼻水も出ていなかった。釘付けになってしまうくらいに儚げで。少しでも美しいと思ってしまう自分が、凛は嫌だった。
 ついには床の上に、一滴、二滴と、幾つもの水玉模様を作っていく。必死に堪えていた感情が爆発する瞬間をこの目で見てしまった。
 
「はっ……! ちょっと待って」

 空き教室で雪花が凛のことを引き留めたあの時とは違う。今度は凛が彼を引き留める番。
 けれども彼は、その静止を振り切り、そのまま部屋から飛び出していく。
 追いかけようと思っても身体が竦み、地面に引っ付いたように脚が動かなかった。
 そのまま凛は独り部屋に取り残される。

 好きな容姿の人からその良さが理解できないと告げられた。挙句には、逆に自分の嫌いな容姿を羨まれたことに両者が傷ついたのだ。
 今まで好きな人の持つ誇りや一番の魅力を好きになったのだと思っていた。それは本人にとっても愛すべきものだと。真実は、其々が相手のコンプレックスで捨てたいと思っているものだけが、好きだったことに気付いてしまう。
 自分の嫌いなものを好きと言われること。
 そして、自分の好きなものを嫌いと言われることが、毒だとは今しがたこの身で体験している。
 こんな気持ちになるのなら、本当は気づくべきではなかった。
 自分は相手の側に居ても相手を傷つけるだけで、自分では相手を幸せにできないと悟ったのである。

 忘れてはならない。二人が外見を持たないやり取りの相手に惹かれていたということを。
 実を言えば、彼らはお互いのコンプレックスだけではなく、そことは違う内面、謂わば想い人の全てに惹かれているのにも関わらず。
 自分は君にとっては毒の華なのだと、行き過ぎた自己嫌悪によりすれ違う。

 ──たすけて、匿名。

 こんなときでも頭に浮かんだのは匿名で。
 凛は開けっ放しになっている襖を見つめて、思いもよらぬ辛さから歯を食いしばる。
 一滴だけ、左目から頬に涙がこぼれていた。
 雪花ではない誰かに縋ったところで、この状況が変わらないのは分かっていた。
 空白だった凛のことを築き上げてくれた恋心。彼を想うことで生きる意味を見い出していたから。
 誰でもいいから誰かにその想いは間違っていないよ、と。
 あなたは彼を想うことできちんと生きているから大丈夫だよ、と恋心という名の自分の存在を肯定してほしかったのだ。