元より彼は然程この提案に乗り気ではない。
 自分と同じように日本文化を学んでいるという男の子には興味があった。しかしながら、その人と仲睦まじくなれる保証がないということに対して蟠りが生じていたからだ。
 まず、日本舞踊を学んでいる男の子は跡取りだから仕方なくやらなければいけないことなのである。
 稽古も嫌々やっている可能性を見越した些細な不安から彼は男の子と対面することを望まず、教室の外で彼の稽古の様子だけを伺うことになった。
 男の子は他の生徒と一緒に受ける団体の稽古を週二回。更には母親からの個別指導を週四回受けるだけでなく、早朝と放課後には必ず長時間自主的に練習をしているらしい。
 彼は一番、男の子の人となりがわかりやすいであろう、団体稽古の際に見学に行くことに。楽しみよりも緊張感の方が強く、前日は見学をストライキしようとも思った程だ。
 でも、彼は母親からの好意を拒否することができるほどにサバサバとした性格ではなかった。
 何もできないまま、遂に当日を迎えてしまう。

 学校帰りの夕方に彼が案内されたのは、家から車で三十分もしない距離の大きな屋敷。
 所謂、世間からお金持ちが多いと言われる高級住宅街にあり、車から見渡した景色は小さい頃に誰もが一度は憧れる空想の世界みたいである。
 その中でも、日本舞踊の家元である知人の家は周りと比べても大層立派なもので、敷地を跨ぐだけで張り詰めた思いに陥った。

「久しぶりね〜最近はお変わりなかったかしら?」

 敷地内に踏み入って最初に目に入った知人らしき女性は、玄関の前で着物を纏ったまま二人を待つ。
 両手のひらを合わせながら太もも辺りに添え、背筋を伸ばした状態で出迎えてくれる姿。
 礼儀作法に無頓着な人でもとても気品があることがわかる。
 母親を目にした女性は少し離れた場所から当たり障りのない簡単な挨拶を述べた。声色も話し方も洗練されていて、それが余計に彼に対してプレッシャーをかける。

「ええ、うちの子たちも私も元気よ! こっちは末っ子の雪花。ほら、挨拶して」

 母親はその場に似つかわしくないくらいに豪快に手を振り返す。次いで、立ち竦んでいた彼の手を引くと、女性の方へと駆け寄っていく。
 彼に挨拶を促すときの母親はれっきとした満面の笑顔だ。
 にも関わらず、彼は何だか少しばかりだけ恐怖心のようなものをおぼえた。

「はじめまして……今日はお招き、いただき? ありがとう? ございます」

 車の中で母親に無理やり覚えさせられた挨拶は目に余るほどに辿々しくなっている。
 一方で、女性はそんな彼の様子に不満を抱くこともない。
 優しい顔つきをさせながら軽く屈んで、雪花に目線を合わせてくれていた。
 堂々とした立ち振る舞いでも、目下の人間により丁寧に接する心の温かさを決して疎かにすることなく持ち合わせているのだと思う。
 日本舞踊の先生となると厳しい人なのかと想像にしてしまったが、そうでもなかったようだ。彼はそっと胸を撫で下ろす。

「あら……雪花くん、ごきげんよう。小さい頃に何度か会ったことがあるのだけれど、きっと覚えていないわよね」

 言葉選びを間違えたことを問い詰めるような台詞回しにどきり、とする。一瞬、息が止まるかと思ったほどに。
 穏やかそうな女性ほど怒ると怖いに違いない。
 この時まだ小学生の彼が経験した小さい頃なんてほぼ幼児期なのだから、覚えていなくても当然の話だったが、彼は心底反省していた。
 
「……すみません。覚えていなくて」

 目も合わせることができず、終いには俯く。
 どう行動したとしても目上の人との会話は気まずくなる。ちょっとでも早くこの場から逃げ出したい気持ちだった。
 赤らんだ鼻先が冷たくなるほどに肌寒い空気も気にならないくらいに思考が悶々とする。

「畏まらなくて大丈夫よ。まだうちの子とも会ったことがないんだから、気にしないでね」

 そう言って女性は扉を開いた。
 四、五畳ほどの奥行きのある玄関は広く、清潔さが保たれていて格式高い。
 軽く数十人分の靴が納まりそうなサイズ感の靴入れの棚に、鏡の前に置かれた明らに高級そうな花瓶。
 どこの風景を切り取っても名の知られた旅館のようで、殆ど生活感がなかった。
 古い和風建築の建物なはずだが、新築に見えるくらいに外観と内観は劣化しておらず、清掃が隅々まで行き届いている。
 靴を脱いでようやく歩みを進め始めた頃、僅かに日本舞踊の稽古のために使われているであろう音楽が聴こえてきた。
 このかけられている音楽は恐らく箏曲だろう、と箏を習っている彼は直ちに気づく。日本舞踊は箏曲も使うことがあるということを知ると、何だか親近感が湧くからなのか、だいそれた嬉しささえ感じる。

「今は師範の私がいないから生徒たちがそれぞれ日本舞踊を披露する時間にしているの。そろそろ息子の番だからよければ見学してみて」

 彼女に案内されて、母親と共に別館へ足を運ぶ。
 まだ成長途中の小さな足で木目を辿り、二人の後をつけていく。
 木造の香りと雪が溶けたあとに漂うふわりとした自然の香りに一息ついた。
 この女性とは会ったことがあるとしても、この家自体には初めて来たはず。けれども、なんとなく懐かしさの感じる風貌にいつしか彼の抱いていた不安や恐怖は消えていた。

「ありがとうございます」

 心からの笑顔でお礼を言う彼の姿を見て、母親も安堵する。誰もが彼らに巡り合う新たな出会いに想いを馳せた。
 『静かにね』と促すように彼女は口を開かないまま人差し指を自分の口元に当てている。
 生徒たちの邪魔にならないよう、静かに稽古をしている教室の引き戸を心做しか開く。

「──あさひに、におう」

 ハッと取り憑かれたように、魅入ってしまう。
 今、目の前で舞を披露している少年が、女性の息子だと即座に理解する。
 開いた口が塞がらない。一つ一つの仕草には隙がなく、同い年とは思えないくらいに大人びていた。
 教室の端では同い年くらいの生徒たちが、それを鑑賞していても、誰一人として無駄口を叩くことはない。既に少年の日本舞踊の虜だからだ。
 小学生の生徒が中心のため敢えて複雑な動きがない基礎的な『さくらさくら』を披露しているのだろう。
 でも、初めての出逢いは今後の出来事を上回ることができないくらいに衝撃的なもの。この影響により童謡の『さくらさくら』は彼にとって最もお気に入りの曲となった。

 ──なんて、うつくしい子なんだ……。

 にしても、少年の姿は切実に麗しい。かつ素朴な奥ゆかしさも備わっている。
 チャーミングで星屑のような雀斑、取りこぼすのも惜しいほどに儚い表情や濡れた鴉のように艶のある髪色。
 幼いながら、容姿や癖の全てを舞という名の演技に生かしきっている。彼の日本舞踊は紛れもなく生きていて、豊かな匂い、音、色、を持つ。
 松葉色の着物は羽衣の様に錯覚させ、鮮やかな色を喪った容姿をしながらも脳内には辺り一面に桜が舞うような情景が思い浮かぶ。いや、少年こそがまだ寒い春先の中で堂々と咲き誇る優雅な桜だった。

 凛として咲くその姿は、暗闇に取り残されていた雪花の希望であり、唯一の光になり得る。
 彼の舞を一秒たりとも見逃したくなくて、少年から少しも目が離せない。
 これが日本舞踊の『正解』なのだとも感じてしまうくらいに、それはそれは素晴らしいものだ。
 確実に日舞は少年が舞うのために創り出されたのだということを信じて疑わなかった。
 とめどなく生み出される感情の海が、彼を飲み込んではまた、新たな波で覆い隠す。
 
「──……じゃない」

 ぼそり、とその場で目を輝かせたまま呟く。
 女性と母親や急に言葉を発した彼を不思議に思ったのか。声をかけずに神妙な面持ちでこちらの様子を伺っている。

「俺、何も変じゃなかった。何も間違っていなかった」

 こんなにも視覚的に心をうつ少年が、世間から日本舞踊を学ぶことが物珍しいからという理由で貶されているわけがないと思った。
 母親に自分の思いを訴えかけるように、しっかり目を見て喋る。誰が見ても曇りなき純粋な眼だ。
 感動的な出逢いでも、一筋の涙も流れない。
 今後の未来がたくさんの淡い綺麗な色彩と、期待でありふれていることを悟ってしまった。
 だらだらと永遠に絶望などし続けている暇はなかったと知ったのである。時間があるのならば、意地でも少年という名の希望に縋り付きたいのだ。
 こんなにも自我を顕にすることは珍しかったが、興奮を抑えきれずに彼は話続ける。

「あの子……今踊っている人の名前は何て言うんですか」

 彼らが廊下で小声で会話を続けても、少年は存在にすら気づかずに日本舞踊をしていた。まるで、少年一人だけの別の世界にいるようだと感じた彼は問う。
 いかにも均整の取れた淡麗な少年のことをもっと知りたい、と。あわよくばもっと親しい距離で少年を見てみたい、と。
 溢れ出る欲望は更に勢いを増していく。

「私の息子よ。(りん)──加藤凛(かとうりん)って言うのよ」

 女性は誇らしげに少年の名前を告げる。
 周りを圧倒させる才能を兼ね備えた凛が跡継ぎとなるのだから。母親である彼女にとって嘸かし名誉なことだと言えるのではないか。
 その後に同年代の子たちも日本舞踊を容易くひろうしていたものの、凛の日本舞踊を舞う風貌が飛び抜けて美しかった。
 日本人の良さを体現したみたいに雅びやかな容姿も、細かいところまで丁寧な動作も、しとやかに繕われた表情も総べて愛おしい。

 ──名は体を表す、って彼のようなことを言うんだな。
 
 言われただけでは理解しきれない授業で学んだばかりの言葉。今度は簡単に理解できる。
 堂々と名前を名乗っても恥ずかしくない『凛』という言葉に相応な容姿と立ち振る舞いが心から羨ましかった。
 個々のパーツが派手でぎらぎらとしていて。
 人柄の良さを感じる上品さや趣とは程遠い彼の容姿には古風な『雪花』という名前は相応しくない。と、彼は思う。

「あの子みたいになりたい。あの子みたいに振る舞うことで、俺も人とは違う自分が自分なんだって思える気がする」

 胸のときめきが絶えず様々な色へと変化していく。少年の持っている超越した秀麗さの答えが、少年の見ている世界にあるような気がした。
 ここから逃げるという選択肢は彼の中にはない。
 一面の雪景色とは違う。まだ見ぬ花やかな春を迎えた未来が、雪花を無理矢理にでも引っ張っていくのだ。
 
「俺、日本舞踊やりたい……! お願い、やらせて!」

 今まで見たことも無いくらいに目にいっぱいの星を押し込んで夢をみる姿に、母親は目を見開くことしかできなかった。
 昔から感情は不機嫌しか表に出さないような彼が、この刹那たった一人の少年のパフォーマンスを見て、いつもとは違う姿をみせてくれている。
 子どもたちの大切な出逢いを、夢を、成長を、自ら摘んでしまう親なんてどこにいるのだろう。
 普段は男勝りな母親が、穏やかにほほ笑みながら彼を強く抱きしめた。親の心情も知らずに困惑しているだけの彼もこの望みを肯定されていることだけはわかる。
 久しく間近で触れた人の温もりはあたたかい。
 胸の奥にある汚い部分にそれを和らげる透明なものが染み込んでいくようだ。

 帰りの車の中、助手席で揺られながら、心を鷲掴みにされた余韻に浸っている。
 誰かのことで、頭の中がたくさんになるのも。
 自分とは違う他人のことを知りたいと思うのも。
 特定の人という存在に溺れてしまう経験も。
 幼い彼は知らなかった。

 初めて得た感情の正体を知るためには、他人に教えを乞うだけではなく、数学の問題を解くように自らがそれを紐解いて結論を出す必要がある。
 もし、彼がこの感情に名前を付けるならば──。

「俺、一目惚れしたかも……」

 窓の反射越しに車を運転する母親眺めながら、彼は独り言のように囁く。
 当然、彼の口から一生出ないような言葉だ。母親が運良く聞き逃すはずもない。
 ギョッとした顔でこちらを見て呆然としている。

「えっ!? 雪花が一目惚れ? 人を好きになることはいいことだけど……色恋に囚われて習い事を疎かにすることはやめてよね」

 「お金もかかってるんだから」と不貞腐れたふうに続ける母親。プライドが高く他人に興味のない彼が人を好きになることなんて予想打にしていなかったのである。
 反して、彼は思わず運転席を振り返ると、眉をひそめた。気になっていたのも、さり気なく触れてほしかったのも、母親の言っているようなことではなかったのだから。

「……わかってるよ。それより相手が男なのに、何も思わないわけ?」

 緊張気味に彼は怯えながら問いかける。
 本当は答えを聞きたくなかったけれど、いつか言わなければいけない日がくることを考えれば、遅くないうちに伝えよう、と。
 彼は小学生なりに同性に恋ができること、更には同性愛が世間から見てマイノリティに属することを知っていたのだと思う。

「えー、何が? お母さんもお父さんのことが好きなんだから一緒でいいじゃない! 母さんもこのくらいの年が初恋だったのよ。懐かしい〜」

 けれども、母親は顔色一つ変えずに平然と答えた。これが彼を悲しませないための母親なりの気遣いであり強がりだったのか、本当にそう思って口から出たことなのか、は本人以外に知る由もない。
 既に彼は安心しきっているのだから、どっちにしろ母親として模範的な行動のように感じる。
 心を引き締めたことで止まっていた息を全て外に吐き出してしまうほどの脱力感だ。

「そういう意味じゃないけど、まあいいか」

 一般常識のレールの上を歩かない母親の能天気さに救われたのはいつぶりであろう。
 彼は初恋のおかげで、これから日本舞踊教室に通うことが楽しみで仕方がない様子。口元は薄っすらと笑みを浮かべている。
 一体、どのようにして人生が好転していくのか、期待に胸を馳せていた。

 それでも現実はそう甘くも行かず。
 日本舞踊の稽古は箏教室に行かない、空いている日程と合わせると、凛と同じクラスで稽古を受けることは叶わなかった。
 しかも、振り分けられたのは再び年配の女性ばかりのクラス。穏やかな人が多い箏教室の女性と比べて、気の強くさっぱりとした女性が多い日本舞踊とでは少し生徒の層も違っている。
 着付けを体験したときに最初に言われた言葉は強く、『お顔が派手だから似合わないわね』というものだった。
 実際に着物が似合う人を幾度も見てきた年配の方ならではの意見で悪意がないのはわかっている。わかってはいるが、悪意がないからこそ軽々しく吐かれた言葉に胸が酷く痛む。
 そもそも似合わない、というマイナスイメージを持つ言葉より似合う、とポジティブなことを言われたほうが嬉しいに決まっているのだ。
 彼は似合わないから好きなものを着ることさえ、許されないのか。
 帰り際、こそこそと駄弁っている女性たちが、聞こえるか聞こえないかの距離で『日本文化は日本人のためのものなのに、外国の人が本来の在り方を蔑ろにして上辺だけ触れるのもどうなのかしらね』とか『やっぱり日本舞踊は日本人が踊った方が映えるわね』など的外れなことを言うのも日常茶飯事だった。
 大前提として、彼は周りより目鼻立ちのはっきりとしたハーフ顔というだけである。日本以外の国の血は通っていなかったし、初めこそは色恋がきっかけでも稽古は誰よりも真面目に受けていた。
 周りから白い目で見られる理由は何もなかったはずなのに。事実を伝えてもまた、容姿を主とした別の理由で言いがかりをつけられてしまう。

 苦渋な日々が続いていくのにも関わらず、稽古を辞めなかったのは、凛のように日本舞踊を舞ってみたいという憧れ。
 廊下越しでも良いから少しでも凛を見ていたいという純粋な恋心があったからだ。
 しばらくして稽古を個別指導に変えてからは、悩みも消えた。が、自分の容姿が原因で好きなことをすることや好きなこと自体を否定されたというのは消えようのない事実。
 より一層、自分の容姿への嫌悪感が増していく。
 仮に凛のように日本人らしい良さを兼ねた奥ゆかしい容姿をしていたら、こういう思いをすることもなかったのだろうか。
 もやもやは時が経っても晴れぬばかり。
 彼は挙句の果てに、こんな容姿で産まれたくはなかった、と残酷なことを思ってしまうのである。