この感情に答えを見つけるのは、一人では不可能だと思う。
 春の桜の匂いも忘れゆく部屋。電気が眩しく感じてしまうほどに、独りだった頃の夜が恋しい。リモコンを手に取り、ライトを消した。
 ベッドの上に寝転んで枕の中に顔を(うず)める。
 色々な感情が混沌とし過ぎていて涙すらも出なかった。
 喉に小骨が引っかかっているような。そんな不快感を絶えず共に。
 もう何もわかんないよ、そう呟いた声が枕に吸い込まれて音にならないまま消えている。
 
「──また明日な」

 周りに意識を向けると同時に、廊下から一時の別れを告げる穏やかな声が耳に届く。一瞬、誰が発した声か分からなかった。
 でも、状況を頭の中で整理していると、その答えがすっと頭の中に入ってくる。
 どうやら、弟が誰かと電話していたみたいだ。それが"誰か"と問われれば迷う余地無く答えられてしまう。
 
 ──あいつ、彼女と電話してたのか。

 弟も凛と同じように恋をしていることに気付き、何だか神格化していた弟が急に身近な存在のようだ。
 それにしてもなんて彼女を愛おしんでいることが伝わる温かみの篭った声色なんだろう。
 あれほど柔らかな声を出す姿を今まで見たことがなかった。水に濡れた薄い紙を破れないように必死に温めるかのように。慎重で大切にしていることがわかる。
 ずっと元気がなさそうだった弟も彼女の前では、そっと明るさを引っ張りだされていた。
 二人の健気な別れの予熱に、凛の近づきすぎた心の傷もヒリヒリと痛む。
 弟の彼女とは会ったことがないものの、初めての恋人にしては長く続いている。一応、恋愛に関しては先輩にあたる立ち位置なのかもしれない。

 ──よし……!

 凛は意を決して起き上がると、固く閉じていた部屋の扉を開けた。
 暗闇に廊下の窓からの自然光が迷い込む。
 赤らむ頬と、輝きをいっぱいに詰め込んだ弟の瞳は、雪花との忘れられない出逢いを思い出す。
 今日は潤み朱色の斜陽が綺麗だと今朝のニュースで聞いた。世界の無垢さと美しさは不安で丸まった背中を密かに押してくれる。
 そして凛と目が合うと、弟は気まずそうに目線を逸らした。躊躇なく、逃げる弟の目を追う。

「一緒に夕焼けでも見にいこうよ」

 ふと、久方ぶりに二人の会話が始まる兆し。何の変哲もない普遍的な一言だった。
 弟がその言葉にハッとして、俯いていた顔をあげる。既に凛は後ろを向き、一歩を踏み出していた。
 何気ない一言だから良いんだ。特別じゃないからまた、があるんだ。
 たった生きている時間が二年違うだけの背中が遥かに大きなものに見える。
 大したことないから大丈夫だ、と。僅かに笑みをつくって、声を出さずに語るその姿が弱っていた弟の心に滲んでいく。
 今まで悩んできたものを全て受け止めてもらった気分に陥った。

「……にい、にいさっ」

 凛の動きがほんの一瞬だけ佇む。
 感極まって弟はいつの間にかその名を呼んでしまう。あわせて、内側から次々と安堵の涙がぼろぼろと溢れだす。必死に留めようとしても余計に勢いは強まるばかりで。歪んだ視界でも、兄だけははっきりと輪郭が浮かんで見えた。
 弟にとって兄とは、昔もこれからも憧れで世界でもっとも美しいと思った人なのである。
 ただ、外に向かって歩く凛の背中をあの頃のように追いかけていく。
 常に一歩先を歩いていた兄の舞う、日本舞踊に惹かれて。こんなふうになりたい、と必死に努力を重ねたあの頃のように。

 対して、凛は決して後ろを振り返らなかった。
 まだ十五の青年に全てを背負わせるには事が大きすぎる、と思ってしまったのだ。
 生まれもっていないものを努力で手に入れる術はあっても、生まれもったものを捨てるすべはなく、共存して生きていくしかない。
 はじめはその生まれもったものとどうやって生きていくのかさえ分からないのだ。
 外側は完璧に繕われたように見えても、内側は学びを得て成長している途中なのだと思う。
 後ろで鼻水を啜る音が響くのに、聞こえないふりをするのが今にできる精一杯の優しさだった。
 弟を支えようとしている凛もまた子供で、溢れだす感情を堪えることに必死なのだから。

 せっかくだからと台所に寄り、温かい緑茶とありったけの駄菓子を盆に用意してから外に向かった。いつも日本舞踊の稽古をしている部屋の前。そこにある縁側に二人は辿り着く。
 縁側に並んで腰を掛けると、弟との座丈の違いが目に見えてこっそりと苦笑いをする。

「もうそろそろ日が落ちそうですね」

 二人の空気を和ますように行き交う茅花流し。
 明るかった空も明度が落ち、とうとう穏やかな赤をのせ始めていた。
 以前と同じような声色で語りかけて隣を見ると、弟がこちらをじっと見つめている。赤く腫れた目も、化粧をしているようで優美に感じさせた。
 落ち着いた態度のまま軽く頷いた後に、弟はまた顔を逸らす。

「どうかしたか?」

 確信を付くかのように凛に問われ、狼狽えている姿は年相応らしい。久しぶりのきちんとした会話は普段通りなのにも関わらずちょっぴり緊張した。
 恐らく弟も凛と同じ気持ちだったのだろう。
 少し呼吸を落ち着かせてから、一生懸命に口を開く。

「その、絶景の見れる時間になるまで無言なのもどうかなと思いまして。なんかいい話のネタないかなって考えていたんです」

 照れ臭そうに言う姿は実に凛との会話を楽しみにしていたのであろう、ということが伝わる。
 弟も凛も厳しい家庭環境ゆえにあまり会話を自分からする習慣がなかった。兄弟間の雑談はどうでもいいことだって許されるのが特権だが、二人にはそのどうでもいいことが何なのか検討がつかない。

「言われてみればそうか。話のネタ、ネタ……か。──あ」

 二人で必死になって眉をひそめていると、凛は何かを思いついたようだ。
 突如として、目を丸く見開いた。
 
「何か思いつきましたか?」

 顔をパッと明るくさせて、すかさず問いかける。
 でも凛は何やら言い出しにくい様子で簡単に口を割ろうとしなかった。
 やはり一度は違うネタにしようと思いついたことをなかったことにしようとする凛だったが、あまりにも弟が期待をするようなきらきらとした目で見つめてくるものだから、参ってしまう。

「…………その……コイバナ、とか?」

 後半にかけて段々と声が小さくなっていく。
 どう考えても何かをしようか、という提案の疑問形ではなく、コイバナという単語を初めて知った人がそれを口に出してみて発音があっているかわからない、というような不安からの疑問形だった。
 自分で言い出したことなのに、小っ恥ずかしいらしい。見ている人も一緒になって顔を赤くさせてしまいそうなくらいに顔を真っ赤にしていた。
 弟も焦る兄を見たことで逆に焦ってしまい、状況を理解できずにぽかんとしている。

「……ん」

 やっとの思いで反射的に声が出たが、それは何の意味も持たない一文字だった。
 再び、二人の間に沈黙が流れる。
 どうにか会話が再開した頃には、もう数十秒は時が流れていたような気がしてならない。
 状況を理解した弟は意を決して、恐る恐る問うた。

「──え。まさか兄さん、好きな人でもいるんですか」

「ま、まあ……説明すると複雑なんだけど」

 好きな人のことを思い出して照れている姿に、冗談ではないことを悟る。思わず弟は口をあんぐりとさせた。
 日本舞踊一筋で恋愛に興味がなさそうな兄。まさか恋に目覚めるだなんて考えたことがなかった。
 弟が以前それとなく付き合っている女性がいることを伝えたときも、顔色一つ変えずに素っ気なく了解するだけだったのである。
 寧ろ潔癖でそういうことは浮ついているものとして扱い、あまりいい感情は抱いていないのだろう、と思っていたくらいだ。

「兄さんの話、聞かせてください」

 興味津々にお願いする姿に、凛は挙動不審になことしかできなかった。こんなに食いついてくるとは考えていなかったらしい。

 そもそも相手が同性であるという点から言い出しにくいが、ここまで来て逃げる訳にもいかず、凛は端的に説明した。
 家で日本舞踊の稽古を受けている少年に小学生時代、一目惚れして今も好きなこと。しかし、話しかける勇気が出せず一度たりとも会話をしたことがないこと。ノートに好きな人への想いを吐き出していたこと。最近、そのノートを見た同じ同性愛者の青年とやり取りを始めたこと。
 そして、その青年に抱く心情が明らかに友情以上、恋愛未満という不確かなものだということ。
 全て話そうとすると、小学生時代に話が遡るため全て説明し終わる頃には十分近くも経っていた。

「──色々聞きたいことありますけ、まず、言いたいのは……」

 弟がこの話にどんな反応をするのか、恐怖心を抱いたが、そもそも凛の好きな相手が同性ということ自体にも然程気に留めていないようだ。
 普通という概念が曖昧で、それを周りに求めない気楽なところは凛に似ているのかもしれない。
 普通に恋愛相談を乗った気持ちになって、意見を述べていく。

「一度、彼に会ってみたらいいのではないでしょうか」

 何となく追及せずに避けてくれると思っていたところに足を踏み込まれてしまい、凛は焦る。
 「え?」と驚きのあまり声が出ていた。彼、というのは話の時系列的にも交換ノートの相手のことだろう。

「会うことには交際も何もありませんし、意外と会ってみたら初恋の人以上に運命を感じることとかあるかもしれませんよ」

 誓って凛が雪花に抱く一目惚れをきっかけとした恋心を否定することはなかった。
 新たに気になる人ができたという状況でも雪花への恋愛感情は冷めたというわけではないこと前提として話している。凛の抱く感情は全てが曖昧でいて不安定で、人によれば否定できてしまうものだから、弟が自分の気持ちを肯定してくれたことが嬉しかった。 
 容姿だけで人を好きになることは信頼できず、中身を知ってしまえば、簡単に揺るいでしまうもの、という世間的なイメージがあるのだ。
 逆に、容姿はしっかりと目に見えていて大きく変化することがないので、『容姿が好き』ということ自体は揺るぎないものにもなり得る。

「それと初恋の人ともきちんと話してみるべきです。ノートの人とも会ったら何か違ったとか、初恋の人とも喋ったら何か違ったとかあるかもしれませんので」

 そう言う弟は、とても真剣な態度。
 きっと凛の未来がいい方向へ向かうようにきちんとよく考えてから話してくれているのだと思う。
 自分のことではないのに、弟が言ったことを実行して凛に不合理なことがあれば責任を取るという圧を感じた。

「えっと、それは理解できます。理解できますけど、言いたいことはそうではないといいますか……」

 下心がある状態で二人同時に会ったり、自分の想いをあえて確かめるようなことをするのは相手に失礼なことなのではないか。と、凛は思ってしまう。
 凛にとって一番大切な人は一人というのは当たり前なことで、二人同時に恋心を抱くというのも受け入れ難い話だった。
 もちろん、匿名のことは気になるが、あくまで親友の延長線上の関係として恋人になる姿が想像できるのであって、恋をしているのは雪花だと確信しているのだ。
 けど、匿名のことも雪花のことも当人の全てのことを知っているわけではない。
 あくまで知っているのは本人のうち、切り取られたごく一部で、抱いている感情は果たして純粋なものなのかという疑問を凛は抱いている。好きな人の性格や容姿も全てを知った上で愛しているのが恋愛というものではないかと思う。
 曖昧な状況を第三者視点から意見してもらうことで解消したかった。

「?」

 煮え切らない怪訝な態度に弟も首を傾げる。
 いよいよ二人の身体はフィルターがかかったように髪や肌が赤くなっていた。日が落ちてきたらしい。
 凛はその光景を見て、好きな人と話す機会があるならばこの日のように夕焼けが綺麗に見える天気だといいな、と何となく思った。
 それもそのはず、視界が赤ければ頬や耳が緊張で紅潮していることに気付かれないからだ。

「一先ず今日は相談に乗ってくれてありがとうな」

 ほら、と誤魔化すように広い空を指さす。
 そこには憂愁の漂う空が燃え上がるような潤み朱に暮れていた。この世のものとは思えない目の前に広がる朱はまるで異世界に迷い込んだようだ。
 光に透けた雲が風で流れ、空という大々的なキャンパスに新たな絵を描く。
 本心から趣深いと言えるその光景に、二人は圧倒されしばらくの間、魅入ってしまう。
 同じ空を今、雪花と匿名も見ているのだろうか。

「……いえ、俺も久しく兄さんと話せて嬉しかったです」

 悩みが吹っ切れたように魅せた弟の満面の笑みは、嘘偽りなく、秀麗で眩かった。