彼女は逮捕後、未成年のためしばらくの間勾留されることになると母親づてに知った。
これから弁護士を通して、この件を示談にするか否かを決めるらしい。擁護できないほどに過激な彼女の行動には、普段は厳格で息子に冷たい母親も随分と腹が立っているようだ。
一方で当の凛はというと、あの一件からショックで醜形恐怖症による精神的ダメージが悪化。
一定期間自宅で休養を取ることになっていた。凛の中では彼女についてよりも彼女の放った言葉の方が、深く脳内に刻みついており、当面の間は引き摺ることになる。
とはいえ、事件の起こった日が金曜日だったので学校は月曜日のみ欠席するだけで済んだのである。
もっとも、凛が気がかりなことは、出席日数のことではなく弟の存在だった。
恐らく弟は自分が要因で凛を危険な目に合わせたことをよっぽど申し訳なく思っているのだろう。
事件が起きて以降、部屋に籠りきりになり以前から熱心でなかった稽古にもついに参加しなくなっている。
そんな様子を見ていれば、当然凛の胸も痛む。弟には何も非がないし寧ろ被害者なのに、と。
夕飯のときに度々顔を合わせることはあったものの、弟が口を開くことはなく、今までも気まずかった関係がより一層気まずくなってしまったのだ。
「いち、に、さん。手元を見て」
母親の掛け声に合わせて、身体をできるだけしなやかに動かしていく。
月曜日、欠席を取ったのはいいものの、休日に仮眠を取り過ぎた凛は眠ることができず、息抜きとして母親に指導してもらっていた。
今、舞っているのは日本舞踊の中でも『五月雨』の小唄。この季節を迎え入れる準備を始めているこの頃にぴったりの演目だ。
日本舞踊にはたくさんの流派があり、それぞれの流派よって基本とすることは異なる。その中でも加藤流は上方舞という日本舞踊の一種を色濃く受け継いでいた。
端的に説明すると、リズミカルで小道具を用いる歌舞伎舞踊とは異なり、上方舞は扇子一本で優雅に舞うゆったりとしたスタイルだ。
この演目は凛が得意としている型のはずだが、今一つ締まらない。手先の力は抜け、時々振付を間違えている。
「いち、に、さ……ちょっと目が泳いでいるわよ」
様子を伺っていた母親が口を挟むと、途端に集中力が切れ、動きが止まってしまう。
広い部屋の中で曲の音色だけが無意味に響き続けていた。
顔色が悪い訳ではないため、体調不良とは違うかもしれないが、目に見えて稽古に身が入らない。瞼と身体が重く鉛を引きずっているような気分だ。
調子の悪いときに無理に練習しても余計スランプに陥る可能性がある。
見兼ねた母親は、スピーカーの音楽を止めた。
「"あの子と違って"練習熱心なのはいいことだけれど……今日はもう休みなさい」
余計な一言が、気に障り眉毛をぴくりと動かす。
母親の言う『あの子』とはまだ中学生の弟のことだと簡単に想像できる。
何で人は直ぐに人を比べるような発言をしてしまうのであろうか。その発言自体に悪意がないのが余計に厭らしい。
凛は弟が今までどうして日本舞踊の稽古に乗り気ではなかったのか、知っていたからこそ、母親の意見に同意できなかった。
弟に本来自分がいたはずの居場所を奪われた凛だが、周りから飽きるほどちやほやされた弟もまた、互いの評価が正当ではないと感じていたのだ。
器用ではあるものの兄と比べれば大きな実力も才能も持ち合わせていないのにも関わらず、なぜか評価はいつも兄よりも上。
たとえ多少贔屓が混じっていたとして、本来の実力よりいい評価をされるくらいなら問題のない話……と、思うかもしれないが、隣には才能があるのに周りに見てもらえない者がいて。
その人が、自分が日本舞踊を始めたきっかけになった憧れの人だとしたら。
もし自分が兄の立場なら弟の存在を憎む、とでも弟は考えていたのかもしれない。周りの人間が全員色眼鏡を通して自分を見ているようにしか見えず、本当の己を見失っていた。
世間が見ているのは理想で塗り固められた、容姿というフィルターのかかった弟だ。そしてまた、良い評価をされているのも弟にとって偽物の自分。周りは現実逃避し、フィルターが外れた弟の姿を見ようともしなかった。
それを悟ったとき、弟は少しずつパフォーマンスや練習の手を抜くようになる。本当の自分を見て、とアピールするように。
けれども、誰もそれを咎めなかった。つまり、最初から誰も弟の日本舞踊、すなわち容姿以外を見ていなかったのである。ならば本気で物事に取り組む意味が一体どこにあるのだろうか。
美しすぎる容姿は時に周囲の盲目さを引き起こすのである。
「……はい、おやすみなさい」
冷たい声色で挨拶を交わす。
凛は弟の苦しみも理解しているからこそ、母親と違い弟を責める気にはならなかった。弟が自分のことを傷つけたくないと助けてくれたのならば、常に弟の味方でありたいと考えている。
逆に母親は弟や凛のことを色眼鏡で見ていないあまり、子どもたちがどうして非行に走ったり、殻に閉じこもろうとしたりするのか旨まで理解できていない様子だった。
結果や起こした行動ばかりが目についてしまう。どうしてその行動を起こさなければならなかったのかまでは考えることができないのだ。容姿は人の魅力を語る上で重要ではないという価値観を持っているため、容姿だけで判断する人たちの気持ちもわからなかった。
それを無知や鈍感と捉えるか、内面を見ている優しい人と捉えるか、は人それぞれ。
凛は母親に子どもたちのことなら何でも肯定してくれるような絶対的な味方であってほしかったのだと思う。
自分の部屋へと進行方向を変えた凛の表情は複雑なもので、目は虚ろとしていた。
次の日、朝早くから車で学校に到着すると、急いでノートを取りに行く。
休んでいた月曜日は匿名がメッセージを書くターンだったので、交換ノートは問題なく続いていた。その文を読むのが楽しみで仕方がない。
疲労とストレスで荒れた心には癒やしが必要だった。
『来月、部活でインターハイの地区予選があるんだ。俺も初めてスタメンに選ばれて緊張してる。去年はブロック予選で敗退しちゃったんで、今年こそインターハイでたいなってみんなはりきってますよ』
匿名は以前、部活をやめたい等と言っていた。でも今回の文章を読むと、スタメンに選ばれたこと自体は嬉しそうで、大会もかなりやる気みたいだ。
このノートのやり取りが凛にとって日常の楽しみになったように。匿名にとっても部活が日常の楽しみになるといいな、と凛は細やかな願いを見出す。
文章がいつもより短いことに違和感を覚え、ページの下半分を改めて確認してみる。
ようやく文章の下に何かボールらしきものをもった得体のしれない怪物たちの落書きが描かれていたことに気がつく。凛は吹き出してしまう。
──ぷっ、何だこれ……! 部活の絵?
顔の真下に一つ一つ背番号が描かれていることから、凛の想像通り部活仲間を描いたイラストで合っていると思われる。
人の首があり得ない方向に曲がっていたり、首からそのまま足が貫通していたり、ととても高校生の描いたイラストとは思えないひどい出来だった。
ボールだって壊滅的なので数ある球技部のうち何部に所属しているのかも推測できない。
特に酷いのは人間の耳がどう見ても猫と同じくらい高い位置にあるところだ。それでも、指の本数はきちんと五本だったり、歯を細かく描いていたりしていて匿名なりに頑張って描いていることが伝わってきて微笑ましい気持ちになる。
加えて、部活仲間は全員、表情が笑顔で描かれていた。
──きっと、匿名の見てる世界もこんなふうに笑顔がいっぱいで、きらきらとしていて、本人も同じくらい温かい人なんだろうな。
周りの皆んなが笑っていれば、自分だって嬉しくなる。思いがけなく弟の同級生だった彼女の言葉を思い出して、これからは絵の中のこういう存在になれたらいいな、と思った。
イラストの人物につられて、一緒になって開花した旬の花のように華やかな笑みを溢す。
凛はそのページを開いたまま、おもむろにノートを胸の中で大切そうに抱き締めた。
心做しか、胸が段々とぽかぽかしてくる。こうすることで匿名の見る温かい世界を自分も生きているような気がしてしまう。
昨日、日本舞踊の稽古に集中できなかったことも。弟と気まずい状態になっていることも。嫌なこと全部を一時的に忘れることができるのだ。
──えっと、『大会頑張ってください。応援してます』と……。
冒頭に簡単な祝いの言葉を並べる。その後、悩みごとや色んなことが重なって不安な気持ちになっていたけれど、匿名のおかげで元気が出た、というお礼を長々とコメントした。
匿名の描いたイラストの近くに矢印をひっぱり、いくら何でも画伯すぎる、という意味にも捉えられる文章をオブラートに包み込んでそれとなく記す。
雪花が崩れそうな心を支えてくれる存在ならば、匿名は崩れそうな心の存在を明かすことができる頼れる人と言っても良い。実際に友人に向けられるべき感情を遥かに凌駕した大きな感情を匿名に抱いている。二人の間には『同じ仲間』という名の強力な接着剤によって固い絆が結ばれていた。
同時に、凛は心から決意をすることになるのだ。
時間がかかってしまってもいいからいつか覚悟が決まれば、弟に自分の思いを全てきちんと伝えよう、と。
でありながら、現実は酷な話で弟と対話をする勇気が出るよりも先に時間の方が早く流れていく。あれからどのくらいの長い時が流れたのだろう。言ってもせいぜい二週間程度になる。
凛が弟と気まずくなった原因は今回の事件だけではない。幼少期に産まれ持った容姿が違うと気付いたその瞬間からお互い、相手に深く干渉しないようになっていた。
その長年の積み重なった想いを伝えようとしているのだから、覚悟に時間がかかるのも無理のない話だ。
──今、匿名、部活の練習頑張ってるのかな。
二、三年生の生徒を対象としている希望制で受けられる放課後講習の最中、凛は想像を働かせた。
インターハイの地区予選が来週末にあると改めて伝えられたのが、数日ほど前。
スポーツの教育に強いこの高校は、全ての団体競技の運動部がインターハイに出場する。成し遂げた結果は各部活動によって異なるが、無事に予選を突破して全国への切符を掴む部活も少なくはなかった。
インターハイはどの競技も数日ずれることはあっても大体同じくらいの日程で行われる。そのため、匿名がどの部活で大会に出場するのか、所属していない部活動の事情に無頓着な凛にはわからない。
一応、文芸部に所属しているが、活動は週一なため、遠慮なく日本舞踊の稽古に明け暮れることができる訳だ。
───大会見にいきたかったな。
窓辺から見える橙色と水色のグラデーションのかかった淡い色合いの空を眺めながら、そんなことを思ってしまう。
見に行きたい、ではなく見に行きたかった、と行かないことを断定しているのはなぜか。
理由は簡単なことで、匿名に大会を見に行きたいと言うことができなかったからである。
対面する可能性を考えたら恥ずかしくて頼めなかったというわけではなく、そもそも二人の間には、相手が自分の正体を特定できる情報を言い合わないという暗黙のルールがあった。
思春期真っ只中の男子高校生。更には中々同じセクシュアリティの人に出会うことは難しいいわゆる、"マイノリティ"に属す二人だ。
各々に好きな人がいるとわかっていても、対面して正体を知った後に、相手のことを好きにならないとは言い切れない。もう既に、どちらも自分の好きな人以上に文通相手と仲良くなっている。
実際に口に出すことはなかったものの、二人の間には仮に相手に告白されたら付き合ってもいいというような雰囲気があった。
──昨日の晩御飯のことと、帰り道に花がきれいな小道があったことと……。匿名に伝えてたいことがいっぱいある。
机の上に開かれたノートには一頁に文字が隙間なくぎっしり詰まっていて、傍から見たら百年の恋も冷めてしまう。
書きたいことがありすぎてしまい、これでも自分が匿名に伝えたいことを取捨選択しているくらいなのだ。
あの頃、匿名からの初めてのメッセージに不審感を抱いていたのが嘘みたいな話。
匿名との会話は本当に楽しくて、独りではなく友達と過ごす日常がこんなにも色付いて見えるのか、と感動を覚える。
暫し物思いに耽けていると、ふと思い出す。
──そういえば、粧くん、最近家で見かけないよな……。さみしい。
母親の話によると、雪花も大会間近で部活に本腰を入れているみたいだ。一時的に稽古は休みを取っているらしい。
言われてみれば雪花も運動部に所属していたはずだったな、と凛は思う。放課後にこっそり体育館を覗いては雪花の汗を流す姿を目に焼き付けようとしたことだって何度もあった。
日本舞踊を舞っているときとは違う、力強さとアクティブさがまた新しい彼の麗しい姿を見せてくれるのだ。
──前までは粧くんに会えないとストレスが溜まってハゲそうだったし。けど、最近はそんなこともないな。
悩みを癒やしてくれる存在が新たに増えたからストレスが余計に蓄積しにくくなっているのだと思った。
恋愛の初期段階ではドーパミンの分泌量が増加すると聞いたことがある。もし、匿名に癒やされるのが恋の前兆だとしたら、と凛にとって嫌な予感が頭を過ぎる。
それが雪花の存在をまるで蔑ろにしているようで不安な気持ちになるのだを未だに凛の好きな人が雪花であっても、雪花が凛の中の唯一の特別でなくなるのは正直嫌だった。
──それに、最近は 粧くんよりも匿名について考える時間の方が多いような……。
一度考え出すと思考はブレーキのかけ方を知らない。次々と悩みや感情が脳に流れ込んでくる。
やり取りを始めた日から、 雪花についての想いを書き留めることはなくなっていたものの彼ことを考える時間が減ったという訳では断固としてなかった。
匿名について考える時間がより増えたことで、対照的に彼のことを考える時間が少ないように見えるだけなのである。
── 今も僕の好きな人は粧くんなのに……どうしてなんだ? 好きな人より友人に時間を割くのって当たり前なのか……? もう全然何もわかんねぇな。
己の感情が絡まってぐちゃぐちゃになり、凛は頭を掻きむしりながら、声にならない悲鳴をあげる。
外見をひと目見て好きになった、外見しか知らない初恋の人と、内面に惹かれる内面しか知らない正体不明の文通相手との間で、はっきりと今まさに恋心を揺らす。
そのことがひたすらに、凛は気持ちが悪くて仕方がなかった。
これから弁護士を通して、この件を示談にするか否かを決めるらしい。擁護できないほどに過激な彼女の行動には、普段は厳格で息子に冷たい母親も随分と腹が立っているようだ。
一方で当の凛はというと、あの一件からショックで醜形恐怖症による精神的ダメージが悪化。
一定期間自宅で休養を取ることになっていた。凛の中では彼女についてよりも彼女の放った言葉の方が、深く脳内に刻みついており、当面の間は引き摺ることになる。
とはいえ、事件の起こった日が金曜日だったので学校は月曜日のみ欠席するだけで済んだのである。
もっとも、凛が気がかりなことは、出席日数のことではなく弟の存在だった。
恐らく弟は自分が要因で凛を危険な目に合わせたことをよっぽど申し訳なく思っているのだろう。
事件が起きて以降、部屋に籠りきりになり以前から熱心でなかった稽古にもついに参加しなくなっている。
そんな様子を見ていれば、当然凛の胸も痛む。弟には何も非がないし寧ろ被害者なのに、と。
夕飯のときに度々顔を合わせることはあったものの、弟が口を開くことはなく、今までも気まずかった関係がより一層気まずくなってしまったのだ。
「いち、に、さん。手元を見て」
母親の掛け声に合わせて、身体をできるだけしなやかに動かしていく。
月曜日、欠席を取ったのはいいものの、休日に仮眠を取り過ぎた凛は眠ることができず、息抜きとして母親に指導してもらっていた。
今、舞っているのは日本舞踊の中でも『五月雨』の小唄。この季節を迎え入れる準備を始めているこの頃にぴったりの演目だ。
日本舞踊にはたくさんの流派があり、それぞれの流派よって基本とすることは異なる。その中でも加藤流は上方舞という日本舞踊の一種を色濃く受け継いでいた。
端的に説明すると、リズミカルで小道具を用いる歌舞伎舞踊とは異なり、上方舞は扇子一本で優雅に舞うゆったりとしたスタイルだ。
この演目は凛が得意としている型のはずだが、今一つ締まらない。手先の力は抜け、時々振付を間違えている。
「いち、に、さ……ちょっと目が泳いでいるわよ」
様子を伺っていた母親が口を挟むと、途端に集中力が切れ、動きが止まってしまう。
広い部屋の中で曲の音色だけが無意味に響き続けていた。
顔色が悪い訳ではないため、体調不良とは違うかもしれないが、目に見えて稽古に身が入らない。瞼と身体が重く鉛を引きずっているような気分だ。
調子の悪いときに無理に練習しても余計スランプに陥る可能性がある。
見兼ねた母親は、スピーカーの音楽を止めた。
「"あの子と違って"練習熱心なのはいいことだけれど……今日はもう休みなさい」
余計な一言が、気に障り眉毛をぴくりと動かす。
母親の言う『あの子』とはまだ中学生の弟のことだと簡単に想像できる。
何で人は直ぐに人を比べるような発言をしてしまうのであろうか。その発言自体に悪意がないのが余計に厭らしい。
凛は弟が今までどうして日本舞踊の稽古に乗り気ではなかったのか、知っていたからこそ、母親の意見に同意できなかった。
弟に本来自分がいたはずの居場所を奪われた凛だが、周りから飽きるほどちやほやされた弟もまた、互いの評価が正当ではないと感じていたのだ。
器用ではあるものの兄と比べれば大きな実力も才能も持ち合わせていないのにも関わらず、なぜか評価はいつも兄よりも上。
たとえ多少贔屓が混じっていたとして、本来の実力よりいい評価をされるくらいなら問題のない話……と、思うかもしれないが、隣には才能があるのに周りに見てもらえない者がいて。
その人が、自分が日本舞踊を始めたきっかけになった憧れの人だとしたら。
もし自分が兄の立場なら弟の存在を憎む、とでも弟は考えていたのかもしれない。周りの人間が全員色眼鏡を通して自分を見ているようにしか見えず、本当の己を見失っていた。
世間が見ているのは理想で塗り固められた、容姿というフィルターのかかった弟だ。そしてまた、良い評価をされているのも弟にとって偽物の自分。周りは現実逃避し、フィルターが外れた弟の姿を見ようともしなかった。
それを悟ったとき、弟は少しずつパフォーマンスや練習の手を抜くようになる。本当の自分を見て、とアピールするように。
けれども、誰もそれを咎めなかった。つまり、最初から誰も弟の日本舞踊、すなわち容姿以外を見ていなかったのである。ならば本気で物事に取り組む意味が一体どこにあるのだろうか。
美しすぎる容姿は時に周囲の盲目さを引き起こすのである。
「……はい、おやすみなさい」
冷たい声色で挨拶を交わす。
凛は弟の苦しみも理解しているからこそ、母親と違い弟を責める気にはならなかった。弟が自分のことを傷つけたくないと助けてくれたのならば、常に弟の味方でありたいと考えている。
逆に母親は弟や凛のことを色眼鏡で見ていないあまり、子どもたちがどうして非行に走ったり、殻に閉じこもろうとしたりするのか旨まで理解できていない様子だった。
結果や起こした行動ばかりが目についてしまう。どうしてその行動を起こさなければならなかったのかまでは考えることができないのだ。容姿は人の魅力を語る上で重要ではないという価値観を持っているため、容姿だけで判断する人たちの気持ちもわからなかった。
それを無知や鈍感と捉えるか、内面を見ている優しい人と捉えるか、は人それぞれ。
凛は母親に子どもたちのことなら何でも肯定してくれるような絶対的な味方であってほしかったのだと思う。
自分の部屋へと進行方向を変えた凛の表情は複雑なもので、目は虚ろとしていた。
次の日、朝早くから車で学校に到着すると、急いでノートを取りに行く。
休んでいた月曜日は匿名がメッセージを書くターンだったので、交換ノートは問題なく続いていた。その文を読むのが楽しみで仕方がない。
疲労とストレスで荒れた心には癒やしが必要だった。
『来月、部活でインターハイの地区予選があるんだ。俺も初めてスタメンに選ばれて緊張してる。去年はブロック予選で敗退しちゃったんで、今年こそインターハイでたいなってみんなはりきってますよ』
匿名は以前、部活をやめたい等と言っていた。でも今回の文章を読むと、スタメンに選ばれたこと自体は嬉しそうで、大会もかなりやる気みたいだ。
このノートのやり取りが凛にとって日常の楽しみになったように。匿名にとっても部活が日常の楽しみになるといいな、と凛は細やかな願いを見出す。
文章がいつもより短いことに違和感を覚え、ページの下半分を改めて確認してみる。
ようやく文章の下に何かボールらしきものをもった得体のしれない怪物たちの落書きが描かれていたことに気がつく。凛は吹き出してしまう。
──ぷっ、何だこれ……! 部活の絵?
顔の真下に一つ一つ背番号が描かれていることから、凛の想像通り部活仲間を描いたイラストで合っていると思われる。
人の首があり得ない方向に曲がっていたり、首からそのまま足が貫通していたり、ととても高校生の描いたイラストとは思えないひどい出来だった。
ボールだって壊滅的なので数ある球技部のうち何部に所属しているのかも推測できない。
特に酷いのは人間の耳がどう見ても猫と同じくらい高い位置にあるところだ。それでも、指の本数はきちんと五本だったり、歯を細かく描いていたりしていて匿名なりに頑張って描いていることが伝わってきて微笑ましい気持ちになる。
加えて、部活仲間は全員、表情が笑顔で描かれていた。
──きっと、匿名の見てる世界もこんなふうに笑顔がいっぱいで、きらきらとしていて、本人も同じくらい温かい人なんだろうな。
周りの皆んなが笑っていれば、自分だって嬉しくなる。思いがけなく弟の同級生だった彼女の言葉を思い出して、これからは絵の中のこういう存在になれたらいいな、と思った。
イラストの人物につられて、一緒になって開花した旬の花のように華やかな笑みを溢す。
凛はそのページを開いたまま、おもむろにノートを胸の中で大切そうに抱き締めた。
心做しか、胸が段々とぽかぽかしてくる。こうすることで匿名の見る温かい世界を自分も生きているような気がしてしまう。
昨日、日本舞踊の稽古に集中できなかったことも。弟と気まずい状態になっていることも。嫌なこと全部を一時的に忘れることができるのだ。
──えっと、『大会頑張ってください。応援してます』と……。
冒頭に簡単な祝いの言葉を並べる。その後、悩みごとや色んなことが重なって不安な気持ちになっていたけれど、匿名のおかげで元気が出た、というお礼を長々とコメントした。
匿名の描いたイラストの近くに矢印をひっぱり、いくら何でも画伯すぎる、という意味にも捉えられる文章をオブラートに包み込んでそれとなく記す。
雪花が崩れそうな心を支えてくれる存在ならば、匿名は崩れそうな心の存在を明かすことができる頼れる人と言っても良い。実際に友人に向けられるべき感情を遥かに凌駕した大きな感情を匿名に抱いている。二人の間には『同じ仲間』という名の強力な接着剤によって固い絆が結ばれていた。
同時に、凛は心から決意をすることになるのだ。
時間がかかってしまってもいいからいつか覚悟が決まれば、弟に自分の思いを全てきちんと伝えよう、と。
でありながら、現実は酷な話で弟と対話をする勇気が出るよりも先に時間の方が早く流れていく。あれからどのくらいの長い時が流れたのだろう。言ってもせいぜい二週間程度になる。
凛が弟と気まずくなった原因は今回の事件だけではない。幼少期に産まれ持った容姿が違うと気付いたその瞬間からお互い、相手に深く干渉しないようになっていた。
その長年の積み重なった想いを伝えようとしているのだから、覚悟に時間がかかるのも無理のない話だ。
──今、匿名、部活の練習頑張ってるのかな。
二、三年生の生徒を対象としている希望制で受けられる放課後講習の最中、凛は想像を働かせた。
インターハイの地区予選が来週末にあると改めて伝えられたのが、数日ほど前。
スポーツの教育に強いこの高校は、全ての団体競技の運動部がインターハイに出場する。成し遂げた結果は各部活動によって異なるが、無事に予選を突破して全国への切符を掴む部活も少なくはなかった。
インターハイはどの競技も数日ずれることはあっても大体同じくらいの日程で行われる。そのため、匿名がどの部活で大会に出場するのか、所属していない部活動の事情に無頓着な凛にはわからない。
一応、文芸部に所属しているが、活動は週一なため、遠慮なく日本舞踊の稽古に明け暮れることができる訳だ。
───大会見にいきたかったな。
窓辺から見える橙色と水色のグラデーションのかかった淡い色合いの空を眺めながら、そんなことを思ってしまう。
見に行きたい、ではなく見に行きたかった、と行かないことを断定しているのはなぜか。
理由は簡単なことで、匿名に大会を見に行きたいと言うことができなかったからである。
対面する可能性を考えたら恥ずかしくて頼めなかったというわけではなく、そもそも二人の間には、相手が自分の正体を特定できる情報を言い合わないという暗黙のルールがあった。
思春期真っ只中の男子高校生。更には中々同じセクシュアリティの人に出会うことは難しいいわゆる、"マイノリティ"に属す二人だ。
各々に好きな人がいるとわかっていても、対面して正体を知った後に、相手のことを好きにならないとは言い切れない。もう既に、どちらも自分の好きな人以上に文通相手と仲良くなっている。
実際に口に出すことはなかったものの、二人の間には仮に相手に告白されたら付き合ってもいいというような雰囲気があった。
──昨日の晩御飯のことと、帰り道に花がきれいな小道があったことと……。匿名に伝えてたいことがいっぱいある。
机の上に開かれたノートには一頁に文字が隙間なくぎっしり詰まっていて、傍から見たら百年の恋も冷めてしまう。
書きたいことがありすぎてしまい、これでも自分が匿名に伝えたいことを取捨選択しているくらいなのだ。
あの頃、匿名からの初めてのメッセージに不審感を抱いていたのが嘘みたいな話。
匿名との会話は本当に楽しくて、独りではなく友達と過ごす日常がこんなにも色付いて見えるのか、と感動を覚える。
暫し物思いに耽けていると、ふと思い出す。
──そういえば、粧くん、最近家で見かけないよな……。さみしい。
母親の話によると、雪花も大会間近で部活に本腰を入れているみたいだ。一時的に稽古は休みを取っているらしい。
言われてみれば雪花も運動部に所属していたはずだったな、と凛は思う。放課後にこっそり体育館を覗いては雪花の汗を流す姿を目に焼き付けようとしたことだって何度もあった。
日本舞踊を舞っているときとは違う、力強さとアクティブさがまた新しい彼の麗しい姿を見せてくれるのだ。
──前までは粧くんに会えないとストレスが溜まってハゲそうだったし。けど、最近はそんなこともないな。
悩みを癒やしてくれる存在が新たに増えたからストレスが余計に蓄積しにくくなっているのだと思った。
恋愛の初期段階ではドーパミンの分泌量が増加すると聞いたことがある。もし、匿名に癒やされるのが恋の前兆だとしたら、と凛にとって嫌な予感が頭を過ぎる。
それが雪花の存在をまるで蔑ろにしているようで不安な気持ちになるのだを未だに凛の好きな人が雪花であっても、雪花が凛の中の唯一の特別でなくなるのは正直嫌だった。
──それに、最近は 粧くんよりも匿名について考える時間の方が多いような……。
一度考え出すと思考はブレーキのかけ方を知らない。次々と悩みや感情が脳に流れ込んでくる。
やり取りを始めた日から、 雪花についての想いを書き留めることはなくなっていたものの彼ことを考える時間が減ったという訳では断固としてなかった。
匿名について考える時間がより増えたことで、対照的に彼のことを考える時間が少ないように見えるだけなのである。
── 今も僕の好きな人は粧くんなのに……どうしてなんだ? 好きな人より友人に時間を割くのって当たり前なのか……? もう全然何もわかんねぇな。
己の感情が絡まってぐちゃぐちゃになり、凛は頭を掻きむしりながら、声にならない悲鳴をあげる。
外見をひと目見て好きになった、外見しか知らない初恋の人と、内面に惹かれる内面しか知らない正体不明の文通相手との間で、はっきりと今まさに恋心を揺らす。
そのことがひたすらに、凛は気持ちが悪くて仕方がなかった。