「さくら、さくら──」
鼻歌交じりに歌う凛とした冷淡な声がする。
開かれた障子からは、紺色の着物を身に纏い、美しい舞踊を容易く披露する青年の姿が見えた。
足先から頭の天辺まで、糸で吊るされたように空きのない所作。伏し目がちの目と、影が落ちたみたく艶やかな黒髪は、大和男児らしさを伝えるのに十分な要素ではなかろうか。
手足を動かして行くにつれ、体全体がリズムに乗り、段々と気分が高揚していく。
「のやまも……さとも」
隅々まで手入れがされた広くて風情のある庭園に植わったがくのついた桜の花が、一つ二つと和室へ忍び込む。
まるで、青年の"日本舞踊"を今か今かと待ちわびて観覧しに来たかのように。
「兄さん」
また更に冷たく色のない声がした。
丁度勢いに乗っていた手足をぴたりと止めると、縁側の方へ振り返る。
その瞬間、意図せずに青年を呼び止めた声の正体と目があった。弟と思わしき人物は、硬い敬語を使って言葉を続ける。
「朝食の時間です」
レンズ越しに佇んでいる生気を失った光のない瞳。でも一歩下がって見た顔立ちは、人形の造形のように非の打ち所がなく、惑うことない美麗である。
桜の木をバックにしていることと、逆光により輝きを失った外見が合わさったことで元より眩い外見が、更に情緒が溢れているように思えた。
そして、それらは青年とは完膚なきまでに異なっている。
「今、行きます」
青年は決して表情を崩さず、素っ気なくあしらうように返事をした。
尚、その後の食卓は、いつも通り覇気がなく、人がいないように静か。ただ家政婦の用意した品々に、無言で箸をつつくだけだった。
食事を終えると、この家のドレスコードである着物を脱ぎ、高校の制服と"顔を隠す為"のマスクを身に纏う。
居心地の悪い家庭に長く居座りたく無かった為、十五歳と六歳の弟たちが出かけるより早く家を後にした。
しかし、普段とは違う家の外の光景に、青年は思わず顔を引きつらせる。
「きゃあ、加藤くん出てきたよ!」
頭の奥の方に響く、甲高い何人もの若い女の声。期待をしたような表情で彼女らはこちらへと近付いてくる。
足が竦んでその場から動けなくなった。
恐らく、前回の日本舞踊の公演を見に来たファンの人たちだろう。まだ朝早いというのに、学校に行く時間帯を見計らって待ち伏せしていたようだ。
「──ってあれ? 弟くんじゃなくて、兄の方じゃん」
「なんだあ、喜んで損した」
落胆した声色で、後退りをする彼女たち。不満を顕にした高圧な態度を感じて、一緒になって俯いてしまう。
「はー、加藤凛……だっけ? 紛らわしいことするなっつうの」
そう、彼女らの目的は兄の凛ではなく弟の方である。理由なんて言うまでもない。
彼女らは"日本舞踊"のファンなのではなく、弟のファン、それだけ。
且つ舞踊には全く持って興味がないようで、ここに来るのは、弟と少しでもお近づきになりたいから、または、あまりにも弟が国宝級の顔面だと聞くから物珍しさで野次馬に来る、そんな邪心ばかりの理由。
「ってかさ、弟二人はあーんなに綺麗なのに、何で兄だけこんな微妙な顔なんだろぉね」
「やだ、言い過ぎ。絶対聞こえてるよ」
わざと本人に聞こえる声のトーンで話しているのが、嫌でもかと言うほど伝わってくる。
悪意に満ち溢れた棘の数々は既に爛れた凛の心に、何度も何度も追い打ちをかけては突き刺さった。顔は下ばかりを向き、彼女たちを一目見ることさえできい。
次第に呼吸が浅くなっていく。苦しい。額から滲み出た汗が、マスクの中を蒸らしている。
今にも吐き出しそうな刹那、肩をぽん、と手のひらで優しく叩かれたことに気付いた。
「兄さん、ここはもういいので。先に学校へ」
弟の気遣う言葉でハッとなり、何も言わずその場から逃げるように駆け出して行く。
「ごめん」と、振り絞ったような小さな謝罪が弟の口から囁かれたような気がした。何故、確信できるものではないのか。それは同時に耳に届いた
「そもそもさあ、日本舞踊なんて古臭いもの、弟の方が居なければ見に来ないよね。公演でも加藤くんの顔しか見てないし、兄の方は顔が悪すぎて踊りなんか頭に入ってこないもん」
という嘲笑う彼女の誹謗の方が、凛の鼓膜に焼き付いて離れなかったからだ。
鼻歌交じりに歌う凛とした冷淡な声がする。
開かれた障子からは、紺色の着物を身に纏い、美しい舞踊を容易く披露する青年の姿が見えた。
足先から頭の天辺まで、糸で吊るされたように空きのない所作。伏し目がちの目と、影が落ちたみたく艶やかな黒髪は、大和男児らしさを伝えるのに十分な要素ではなかろうか。
手足を動かして行くにつれ、体全体がリズムに乗り、段々と気分が高揚していく。
「のやまも……さとも」
隅々まで手入れがされた広くて風情のある庭園に植わったがくのついた桜の花が、一つ二つと和室へ忍び込む。
まるで、青年の"日本舞踊"を今か今かと待ちわびて観覧しに来たかのように。
「兄さん」
また更に冷たく色のない声がした。
丁度勢いに乗っていた手足をぴたりと止めると、縁側の方へ振り返る。
その瞬間、意図せずに青年を呼び止めた声の正体と目があった。弟と思わしき人物は、硬い敬語を使って言葉を続ける。
「朝食の時間です」
レンズ越しに佇んでいる生気を失った光のない瞳。でも一歩下がって見た顔立ちは、人形の造形のように非の打ち所がなく、惑うことない美麗である。
桜の木をバックにしていることと、逆光により輝きを失った外見が合わさったことで元より眩い外見が、更に情緒が溢れているように思えた。
そして、それらは青年とは完膚なきまでに異なっている。
「今、行きます」
青年は決して表情を崩さず、素っ気なくあしらうように返事をした。
尚、その後の食卓は、いつも通り覇気がなく、人がいないように静か。ただ家政婦の用意した品々に、無言で箸をつつくだけだった。
食事を終えると、この家のドレスコードである着物を脱ぎ、高校の制服と"顔を隠す為"のマスクを身に纏う。
居心地の悪い家庭に長く居座りたく無かった為、十五歳と六歳の弟たちが出かけるより早く家を後にした。
しかし、普段とは違う家の外の光景に、青年は思わず顔を引きつらせる。
「きゃあ、加藤くん出てきたよ!」
頭の奥の方に響く、甲高い何人もの若い女の声。期待をしたような表情で彼女らはこちらへと近付いてくる。
足が竦んでその場から動けなくなった。
恐らく、前回の日本舞踊の公演を見に来たファンの人たちだろう。まだ朝早いというのに、学校に行く時間帯を見計らって待ち伏せしていたようだ。
「──ってあれ? 弟くんじゃなくて、兄の方じゃん」
「なんだあ、喜んで損した」
落胆した声色で、後退りをする彼女たち。不満を顕にした高圧な態度を感じて、一緒になって俯いてしまう。
「はー、加藤凛……だっけ? 紛らわしいことするなっつうの」
そう、彼女らの目的は兄の凛ではなく弟の方である。理由なんて言うまでもない。
彼女らは"日本舞踊"のファンなのではなく、弟のファン、それだけ。
且つ舞踊には全く持って興味がないようで、ここに来るのは、弟と少しでもお近づきになりたいから、または、あまりにも弟が国宝級の顔面だと聞くから物珍しさで野次馬に来る、そんな邪心ばかりの理由。
「ってかさ、弟二人はあーんなに綺麗なのに、何で兄だけこんな微妙な顔なんだろぉね」
「やだ、言い過ぎ。絶対聞こえてるよ」
わざと本人に聞こえる声のトーンで話しているのが、嫌でもかと言うほど伝わってくる。
悪意に満ち溢れた棘の数々は既に爛れた凛の心に、何度も何度も追い打ちをかけては突き刺さった。顔は下ばかりを向き、彼女たちを一目見ることさえできい。
次第に呼吸が浅くなっていく。苦しい。額から滲み出た汗が、マスクの中を蒸らしている。
今にも吐き出しそうな刹那、肩をぽん、と手のひらで優しく叩かれたことに気付いた。
「兄さん、ここはもういいので。先に学校へ」
弟の気遣う言葉でハッとなり、何も言わずその場から逃げるように駆け出して行く。
「ごめん」と、振り絞ったような小さな謝罪が弟の口から囁かれたような気がした。何故、確信できるものではないのか。それは同時に耳に届いた
「そもそもさあ、日本舞踊なんて古臭いもの、弟の方が居なければ見に来ないよね。公演でも加藤くんの顔しか見てないし、兄の方は顔が悪すぎて踊りなんか頭に入ってこないもん」
という嘲笑う彼女の誹謗の方が、凛の鼓膜に焼き付いて離れなかったからだ。