二人して忍び込んだのでございます。夜の図書館へ。
何ヶ月もお休みしているとはいえ、妾はこの図書館の司書。従業員入り口の鍵は、預かったままでございます。鍵穴がコトリと鳴って、二人を迎え入れてくれました。
通路に踏み入ると、やけに大きく足音が響きました。誰も居ない図書館では、とても大きく音が響きますのね……妾、驚いてしまいました。
乗り気ではない兄様に頼み込んで、一緒に来ていただいたのです。
退院してから逢いに来てくださらないから、お家までお誘いに伺いました。あの時の兄様の慌てようと言ったら……失礼居ながら妾、思わず笑ってしまいましたのよ。
御姉様の手前、困った顔をしていらっしゃったのでしょうか。それとも本当に、妾のことを疎ましく感じていらっしゃったのでしょうか。でも今となってはもう、どちらでも良いことでございますね。
御姉様にも何度も頭を下げ、兄様を連れ出すことをお詫びいたしました。最初は怪訝なお顔をされていましたが、何事かに思い至られたようで、最後には呆れたように笑って二人を送り出してくださいました。
妾がこんなことを言うのも可笑しいのですけど、本当に御姉様の事をお慕いしておりましたのよ。聡明で凛としたお姿に、ずっと憧れておりました。兄様の妻となられたことは面白くありませんでしたけど、違った出会いであればきっと、もっともっと仲良くなれたんじゃないかと思いますの……。
あら、いやだ。また、お話が逸れてしまいましたね。ごめんなさい、図書館へ忍び込んだお話しでしたわね。
従業員通路を抜けて図書館のホールへ出ると、そこは滑るように重く冷え切った空気で満ちておりました。窓からは青白い月光が射し、立ち並ぶ書架が薄墨のような月影を落としております。まるでカンバスに描かれた海底のよう……昼間とは似つかぬ憂いに満ちた表情に、妾は心が弾んでしまいました。最後にこんな景色を見られるだなんて、本当に嬉しい……。
澱んだ紙の匂いに懐かしさを覚えながら、図書館の奥へと進みました。鳥肌が立つほどの肌寒さを感じておりましたが、かえって心地が良いくらい。無数の書籍に囲まれ、身の引き締まる思いがいたしました。妾はやはり本が好きなのだ、そして図書館が好きなのだ……改めてそう思ったのでございます。
こんなに図書館が好きなのに、司書の仕事には戻れそうにありません。このような傷だらけのお顔になってしまっては、窓口のお仕事は難しいのではないかと思います。地下書庫の担当にしていただこうかとも考えたのですが、ひどい頭痛を抱えていては満足にこなすことはできないでしょう。図書館のお仕事は、大好きでございました。もう続けられないのかと思うと、悲しくて仕方がありません。
建物の一番奥まった場所。学術書が立ち並ぶ一角。幾度となく、兄様が抱いてくださった想い出の場所……どうしても此処を訪れたくて、無理を言って兄様を連れ出したのでございます。
書架の前の長椅子に、二人並んで腰掛けました。何を話すでもなく、互いの気持ちに隔たりを感じたまま、居心地の悪い時間だけが過ぎていきます。
窓の外の月は先程よりも高く昇り、より一層輝きを増しているように感じられました。妾は徐に、顔の包帯をほどき始めたのでございます。兄様は、慌てて止めようとしてくださいました。でも良いのです。兄様に妾の顔を見ていただきたいのです。
「醜くなってしまいましたでしょ?」
兄様は目を逸らしておいででしたが、きちんと見ていただきたいとお願いすると、恐る恐る妾の顔をご覧になりました。
月の明かりに照らされた妾の顔が、どの様に兄様の目に映ったのかは解りません。瘡蓋こそ取れたものの、縫い傷だらけで引き攣れたままのお顔です。妾は努めて笑顔を作ろうといたしましたが、かえって不気味な表情を生んでしまったやも知れません。
どのように映ったにせよ、見知った顔と大きく違っているのです。さぞかし兄様は、動揺されたことと思います。それでも気取られまいと気遣い、妾をそっと胸に抱いてくださったのです。久しぶりに感じる兄様の温もり……しかしその胸は、嗚咽に震えておいででした。くぐもった泣き声が、胸板を伝って響いてまいります。「妾なんかのために、泣かないでくださいまし」そう申し上げたのですが、兄様の嗚咽はやがて慟哭へと変わっていったのでございます。
兄様はずっと、詫ておいででした。自分の気遣いが足りなかったばかりに、妾につらい思いをさせたと。自分のせいで、妾を追い詰めてしまったと。違うのです。寂しさに負けた妾が、勝手にしでかしたことなのです。
しかし、自分がしでかした結果とはいえ、妾は生きることが辛くなってしまいました。生きているだけで辛いのです。激しい頭痛に苛まれ、痛みに耐えるだけの毎日でございます。外に出れば包帯に覆われた顔に、心無い陰口が付き纏います。傷だらけになってしまった顔は、未だ正視に耐えません。唯一の心の拠り所であった兄様も、御姉様の元へと去って行かれました……。
絶望しか無いのです。生きるには、希望が必要なのだと知りました。絶望の中に在っては、生きていくことなど出来はしないのです。死んでしまいたい……心の中は、その想いだけで一杯なのです。
「妾のことを哀れに思ってくださるのでしたら、どうか兄様の手で天国へと送ってくださいまし……」
妾の哀願に息を呑み、兄様は戸惑っておいででした。嗜められるのかと、いいえ、叱り飛ばされるかとも思っておりました。しかし兄様は妾を胸に抱いたまま、長い時間を思案に暮れていらっしゃったのです。
何ヶ月もお休みしているとはいえ、妾はこの図書館の司書。従業員入り口の鍵は、預かったままでございます。鍵穴がコトリと鳴って、二人を迎え入れてくれました。
通路に踏み入ると、やけに大きく足音が響きました。誰も居ない図書館では、とても大きく音が響きますのね……妾、驚いてしまいました。
乗り気ではない兄様に頼み込んで、一緒に来ていただいたのです。
退院してから逢いに来てくださらないから、お家までお誘いに伺いました。あの時の兄様の慌てようと言ったら……失礼居ながら妾、思わず笑ってしまいましたのよ。
御姉様の手前、困った顔をしていらっしゃったのでしょうか。それとも本当に、妾のことを疎ましく感じていらっしゃったのでしょうか。でも今となってはもう、どちらでも良いことでございますね。
御姉様にも何度も頭を下げ、兄様を連れ出すことをお詫びいたしました。最初は怪訝なお顔をされていましたが、何事かに思い至られたようで、最後には呆れたように笑って二人を送り出してくださいました。
妾がこんなことを言うのも可笑しいのですけど、本当に御姉様の事をお慕いしておりましたのよ。聡明で凛としたお姿に、ずっと憧れておりました。兄様の妻となられたことは面白くありませんでしたけど、違った出会いであればきっと、もっともっと仲良くなれたんじゃないかと思いますの……。
あら、いやだ。また、お話が逸れてしまいましたね。ごめんなさい、図書館へ忍び込んだお話しでしたわね。
従業員通路を抜けて図書館のホールへ出ると、そこは滑るように重く冷え切った空気で満ちておりました。窓からは青白い月光が射し、立ち並ぶ書架が薄墨のような月影を落としております。まるでカンバスに描かれた海底のよう……昼間とは似つかぬ憂いに満ちた表情に、妾は心が弾んでしまいました。最後にこんな景色を見られるだなんて、本当に嬉しい……。
澱んだ紙の匂いに懐かしさを覚えながら、図書館の奥へと進みました。鳥肌が立つほどの肌寒さを感じておりましたが、かえって心地が良いくらい。無数の書籍に囲まれ、身の引き締まる思いがいたしました。妾はやはり本が好きなのだ、そして図書館が好きなのだ……改めてそう思ったのでございます。
こんなに図書館が好きなのに、司書の仕事には戻れそうにありません。このような傷だらけのお顔になってしまっては、窓口のお仕事は難しいのではないかと思います。地下書庫の担当にしていただこうかとも考えたのですが、ひどい頭痛を抱えていては満足にこなすことはできないでしょう。図書館のお仕事は、大好きでございました。もう続けられないのかと思うと、悲しくて仕方がありません。
建物の一番奥まった場所。学術書が立ち並ぶ一角。幾度となく、兄様が抱いてくださった想い出の場所……どうしても此処を訪れたくて、無理を言って兄様を連れ出したのでございます。
書架の前の長椅子に、二人並んで腰掛けました。何を話すでもなく、互いの気持ちに隔たりを感じたまま、居心地の悪い時間だけが過ぎていきます。
窓の外の月は先程よりも高く昇り、より一層輝きを増しているように感じられました。妾は徐に、顔の包帯をほどき始めたのでございます。兄様は、慌てて止めようとしてくださいました。でも良いのです。兄様に妾の顔を見ていただきたいのです。
「醜くなってしまいましたでしょ?」
兄様は目を逸らしておいででしたが、きちんと見ていただきたいとお願いすると、恐る恐る妾の顔をご覧になりました。
月の明かりに照らされた妾の顔が、どの様に兄様の目に映ったのかは解りません。瘡蓋こそ取れたものの、縫い傷だらけで引き攣れたままのお顔です。妾は努めて笑顔を作ろうといたしましたが、かえって不気味な表情を生んでしまったやも知れません。
どのように映ったにせよ、見知った顔と大きく違っているのです。さぞかし兄様は、動揺されたことと思います。それでも気取られまいと気遣い、妾をそっと胸に抱いてくださったのです。久しぶりに感じる兄様の温もり……しかしその胸は、嗚咽に震えておいででした。くぐもった泣き声が、胸板を伝って響いてまいります。「妾なんかのために、泣かないでくださいまし」そう申し上げたのですが、兄様の嗚咽はやがて慟哭へと変わっていったのでございます。
兄様はずっと、詫ておいででした。自分の気遣いが足りなかったばかりに、妾につらい思いをさせたと。自分のせいで、妾を追い詰めてしまったと。違うのです。寂しさに負けた妾が、勝手にしでかしたことなのです。
しかし、自分がしでかした結果とはいえ、妾は生きることが辛くなってしまいました。生きているだけで辛いのです。激しい頭痛に苛まれ、痛みに耐えるだけの毎日でございます。外に出れば包帯に覆われた顔に、心無い陰口が付き纏います。傷だらけになってしまった顔は、未だ正視に耐えません。唯一の心の拠り所であった兄様も、御姉様の元へと去って行かれました……。
絶望しか無いのです。生きるには、希望が必要なのだと知りました。絶望の中に在っては、生きていくことなど出来はしないのです。死んでしまいたい……心の中は、その想いだけで一杯なのです。
「妾のことを哀れに思ってくださるのでしたら、どうか兄様の手で天国へと送ってくださいまし……」
妾の哀願に息を呑み、兄様は戸惑っておいででした。嗜められるのかと、いいえ、叱り飛ばされるかとも思っておりました。しかし兄様は妾を胸に抱いたまま、長い時間を思案に暮れていらっしゃったのです。