101号室の大家さん――松山さんからさつまいもをもらったと、ゆーちゃんが嬉しそうに帰って来た。
 夏が過ぎ、秋は短く、今度はぬくぬくと温まっていたい季節がやって来た。焼き芋がおいしい季節だ。

「これこれ、作ってみようと思ってたんだよね」

 ゆーちゃんは私のレシピノートを広げて、焼き芋シフォンケーキのページを指さした。
 焼き芋シフォンケーキ、か。

「……あれ、これなんのメモだろう」

 ゆーちゃんはページの隅っこに書いてある数字に首を傾げている。
 それは、私の父の誕生日だ。11月18日は父の誕生日で、私はいつも焼き芋シフォンをプレゼントしていた。なぜって、甘いものが嫌いな父が唯一好きだったのが、焼き芋シフォンだったからだ。それも、私が作るシフォンケーキが一番うまいと言ってくれた。
 父の誕生日をゆーちゃんが知るはずがない。仕方のない話だ。
 そういえば、私が死んで、私の貯金はどうなっているのだろう。私に配偶者はいないし子もいないから、たぶん両親が相続しているのか。

「にゃー(貯めたお金、ゆーちゃんに渡せたらいいのに)」

 つい、ため息をつくように言葉が出た。

「11月18日……なにがあるんだろうね?」

 ゆーちゃんは私に話しかける。
 こんなにも一生懸命ゆーちゃんが私の夢を実現させようとしてくれているのに、私はなにも手伝えていない。せめて、私が貯めたお金を両親がゆーちゃんに渡してくれるようにできないだろうか。
 ゆーちゃんはもらった芋を洗って汚れを落とし、キッチンペーパーを水でぬらして芋を包んだ後、さらにアルミで包んでオーブントースターに入れた。さっそく作るのか。
 冷蔵庫にはメモが貼ってあって、そこにはゆーちゃんがシフォンケーキを開業するためにやるべきことがリストとして書き込まれている。
 まずは必要な許可を取ること。食品衛生責任者、飲食店営業許可、菓子製造業許可、開業届の提出などなど、許可を取ったり届け出を出す必要がある。ゆーちゃんは常滑焼祭りで知り合った真野さんから店を借りる予定だ。古い建物だが一軒家で、家賃は月々六万円。面にある駐車場も付いている。ゆーちゃんはテイクアウトのみで最初は考えていたようだが、買った商品をその場で食べられるように、イートインのスペースを作ることにしたらしい。追加で生クリームを絞ったり、季節の果物をトッピングしたり、コーヒーや紅茶も購入できるようにしたいとか。そんなにいっぱい、できるだろうか。

 やることが山積みで、ゆーちゃんは最近毎晩経営本を読み漁っている。なるべく必要なものは中古で手に入りそうならばそうして、経費を抑える。ゆーちゃんが今一番頭を悩ませているのはオーブンだった。製菓用のオーブンは中古でもものすごく高い。しかも、製菓用のオーブンでシフォンケーキを焼いた経験がない。このまま家庭用のオーブンを使うという方法ではダメだろうか、と毎日悩んでいた。実際、私も製菓用のオーブンを使ったことがなかった。

 本当に、これがゆーちゃんのやりたいことなんだろうか。
 ゆーちゃんが本を片手に寝落ちしている姿を見る度、私は胸が痛くなる。毛布を口で銜えてゆーちゃんにかけるのも精一杯だった。こんな私だから、ゆーちゃんにしてあげられるようなことはなにもない。

「そういえば、あーちゃんのお父さんにちゃんと店を始めるって報告してなかったなぁ」

 さすがにした方がいいよね、とゆーちゃんは難しい表情を浮かべていた。

「とりあえず、今の私のシフォンケーキを食べてもらうしかないよね」

 ゆーちゃんはオーブントースターから漂う甘い香りをいっぱい吸い込んで、うっとりとため息ついた。

 一度だけ結婚を考えたとき、実は母にだけはこっそり教えていた。でも母はおしゃべりなので、父にその話が漏れていた。
 母が言うには、父は喜んでいたらしい。「ようやく我が家のお荷物が嫁に行くのか」と屁理屈を言っていたが、長年連れ添った母が翻訳すれば、それは喜びを表現しているのだと言う。

 きっと、両親を一番喜ばせる親孝行は、結婚して家庭を持って、孫の顔を見せることなんだろうと思う。決して結婚せず、女友達と40歳手前でルームシェアを始めたり、シフォンケーキ屋を開くという無謀な夢を抱いたり、親より先に死んでしまったりすることではない。つくづく、親不孝な娘だなと思う。でも、仕方がないじゃないか。両親が求めることを、私はこれっぽっちもしたくないのだから。あのとき無理やり結婚していたとしても、そのあと出産したとしても、うまくいかなかったかもしれない。離婚してシングルマザーになっていたかもしれない。両親のように、長い結婚生活を送れなかったかもしれない。

 ゆーちゃんは焼き芋シフォンを焼いて、私の両親の元へ訊ねに行った。私は粘り強くゆーちゃんの足元のくっついて、外に出た。ゆーちゃんと並んで実家まで歩き、ゆーちゃんが家の中へ入るのを見届ける。
 猫になって驚いたのは、人間のときよりもはるかにいろんな音が聞き取れることだ。ゆーちゃんが電話で話している相手の声なんて、テレビの音くらいに聞こえるし、窓が締め切ってある家でも、中での会話が丸聞こえだ。
 私は自分の実家の庭先から、リビングの中の会話を盗み聞きしていた。

「きょうはわざわざすみません」

 ゆーちゃんの声がした。カーテンが閉まっているせいで、中の様子は音しかわからない。

「あの、きょうはシフォンケーキを焼いてきたんです」
「まあ、ゆーちゃんが?」

 母の驚く声が聞こえる。

「じゃあ、本当にシフォンケーキ屋さんを開くつもりなの?」
「はい、あーちゃんの夢をどうしても叶えたいので」
「夕美ちゃんは、自分の夢はないのか」

 父の低い声がした。声の様子からして、父は少し苛立っているように聞こえた。

「友達の夢を叶えている場合じゃないだろう」
「……お父さん、」

 様子は見えなくても、ゆーちゃんと両親の顔の表情まで手に取るように伝わって来る。

「確かに、その通りです」

 ゆーちゃんがはっきりと答える。

「でも、私には夢という夢はありません。ただそれなりに、生きていければいいやと思って、これまで生きてきました」

 ただ、とゆーちゃんは言葉を続ける。

「ただ、燈のシフォンケーキはたくさんの人に食べてもらいたいんです。私は燈のシフォンケーキに救われました。だから、シフォンケーキの店を出したいんです」
「燈は死んだ」

 父の言葉に、部屋がしんと静まり返った。耳が痛いくらい静かだ。
 時計の音がする。誰かがお茶を啜る音も。たぶん、父だろう。
 いつまで沈黙が続くのか、と思っていると、ゆーちゃんが破った。

「燈のシフォンケーキのレシピを何度も何度も、毎日試して練習しました。でも、やっぱり燈の味にはなりません。それでも、私はこれから先もずっと、燈の味を再現していきたいんです」

 カチャン、と皿の音がした。ゆーちゃんが焼いたシフォンケーキを、今食べているのだろうか。
 また静かになって、私は窓に耳をくっつけて必死に中の様子を探った。
 なんだ、今中ではどうなっているんだ?
 鼻を啜る音が聞こえた。
 誰か風邪気味か? ゆーちゃんは風邪っぽくはなかった。でも、両親の声も鼻声ではなかったはず。

「……っく……」

 父の涙声が聞こえて、私は窓ガラスの前で固まった。
 泣いて、いるのか。
 あの頑固なお父さんが。
 窓ガラスに映る自分の姿がはっきりと見えた。

「これは燈のシフォンケーキじゃない」

 涙で曇る父の声がした。父の言葉に、再び部屋が静かになる。

「燈と、夕美ちゃんふたりのケーキだ」

 猫になってから、泣いたことはなかった。でも、どうやら猫も涙を流すらしい。
 私はガラスに映る自分の姿がぼやけて見えた。

「……きょうも1日、お疲れ様。これを食べれば、きっとあしたもまた自分らしく過ごせるよ」
「……それはなんだ?」
「あーちゃんが、シフォンケーキを出してくれる度、いつも言っていたんです」

 にゃー、にゃー、と口から声が出た。
 泣いても、私の声は猫なんだなと、少し寂しくなった。

 家に帰ると、ゆーちゃんは嬉しそうに焼き芋とホットミルクを食べながら飲んだ。私にも同じものを出してくれた。

「あーちゃんのお父さんね、シフォンケーキ食べて喜んでくれたんだ」

 ゆーちゃんはまるで私が人間みたいに話しかけた。

「それでね、あーちゃんが貯めてたお金を私に少しくれたの。シフォンケーキのお店を出すために使ってほしいって。あーちゃんもきっとそれを望んでいるだろうって」

 そうか、父がそんなことを。

「私ね、たぶん一生、おばあちゃんになるまでシフォンケーキを焼き続けても、あーちゃんのシフォンケーキを再現できないと思うんだ」

 ホットミルクをググっと飲んで「ふぅー」と息を吐く。

「だから、あーちゃんのお父さんには認めてもらえないと思った。でもよかった」

 ゆーちゃんの表情は少し安心したような、いや、少し大人びたような、そんな顔だった。
 40歳になる親友にこんなことを言うのは変かもしれないが、ゆーちゃんはちょっとだけ大人びて見えた。いつも、どちらかといえば私がお姉ちゃんみたいな感じで、ゆーちゃんは私についてくるばかりだった。

「にゃあー(ゆーちゃん、大人になったね)」

 ガタン、と大きな物音が一階から聞こえた。

「……なに?」

 ゆーちゃんはびっくりしてすぐにドアを開けて、外の様子を伺った。

「……痛……い」

 102号室の奥さんだ。間違いない。
 私はゆーちゃんが開けたドアの隙間から飛び出した。

「あ、アメ待って!」

 ゆーちゃんも慌てて靴を履いて追いかけてくる。
 私は102号室のドアの前をカリカリと爪で引っ掻いて鳴いた。
 それをみたゆーちゃんはドアを叩いてインターフォンを押す。

「川口さん、いますか?」

 中で小さなうめき声は聞こえる。でもゆーちゃんには聞こえないようだ。

「留守、かな?」
「にゃあ! にゃあ!(違う! 中にいるよ!)」

 ゆーちゃんはあまりに私が鳴くので、仕方なくドアノブに手をかける。鍵は空いていた。

「川口さーん……大丈夫ですか……?」

 小さな声でゆーちゃんが部屋の中に声をかける。

「……ゔぅ…………」
「川口さんっ?!」

 ゆーちゃんは慌ててリビングで蹲る川口さんの奥さんに駆け寄った。マグカップが床に落ちて割れている。床は濡れていた。

「……破水……したみたい……で……」
「は、破水っ?! 大丈夫ですか?!」
「どうしたの?」

 私たちの騒ぎが聞こえたのか、101号室の大家松山さんも顔を覗かせた。

「あら、大変。救急車を呼ぶわ」
「……いえ、大丈夫です。病院へ行きます」

 川口さんの奥さんは、ふーと息を整えながらゆっくり立ち上がる。

「……すみません、びっくりさせてしまって……」
「救急車、大丈夫なの?」

 松山さんが心配そうに訊ねた。

「タクシーで、行きます」
「タクシー? 私が呼びます」
「いえ……普通のタクシーでは行けないので、陣痛タクシーを……」
「陣痛タクシー?」

 ゆーちゃんが首を傾げる。

「もう登録をしてあるので、大丈夫です……」

 川口さんの奥さんはまず病院に電話をした。破水したこと、若干の陣痛があることを伝えるとすぐ病院へ向かってくださいと言われていた。
 陣痛タクシーを呼び、すでにまとめてあった入院用の鞄を持つ。それから仕事に行っている旦那さんにも連絡を入れていた。

「待ってる間になにかいる?」

 松山さんが訊ねる。

「大丈夫です、ありがとう……ございます……」

 十分くらい経って、陣痛タクシーが到着した。

「大丈夫、きっと元気な子が産まれるから」

 ゆーちゃんはタクシーに乗り込む川口さんの奥さんの手を握って言った。

「はい、ありがとうございます」

 松山さんとタクシーを見送ったあと、ゆーちゃんは「お母さんになるって、すごいね。強いね」と小さな声で呟いた。

「私は子どもを産んだことがないから、わからないけど、子どもを育てるって本当にすごい仕事よね。川口さんは、きっといいお母さんになると思うわ」

 松山さんはそう言った。

「私たちはここで、待ちましょう」
「そうですね」

 小さな産声がこのベル・ウッドに響き渡る日を、みんなが待ち望んでいた。