10月になると朝晩が涼しくなった。部屋に入る風が冷たい。隣の家にある金木犀の香りが風に乗ってほのかに薄く漂う。

「今度、お祭りがあるって」

 私はアメに声をかけた。

「にゃー」

 常滑のやきもの祭りは、私もあーちゃんも大好きだった。やきもの散歩道で常滑焼を見て歩いて、いつもあーちゃんとソフトクリームを食べていた。夜には花火が上がる。大勢の人が集まる大きなお祭りだ。

 そうか。今年もあるのか。
 でも、今年はあーちゃんがいない。

 今夜は秋刀魚を手に入れたので、秋刀魚を焼いて栗ご飯を炊いた。栗の皮を剥くのが大変で、休日1日を丸っと栗で潰した。この栗ご飯は噛みしめて食べなければ。
 今はなんでも検索すれば簡単だ。秋刀魚のはらわたを取る方法も、栗ご飯の炊き方も、なんでもわかる。
 100円ショップで猫の形の大根おろしが作れるというキットを、少し前に気になって買っていたけれど使い道がなく、きょうまで使わずだった。でも、使ってみたら猫が秋刀魚にかじりついているみたいな大根おろしができて、我ながら自画自賛する。

「かわいー! 見て、アーちゃんみたい」

 醤油を垂らして、背中にアメのようなハート模様を描く。

「にゃー」

 秋はおいしいものでいっぱいだ。だからついつい、秋の味覚で太ってしまう。私は自分の脇腹をムニっとつまんだ。
 自分で料理をするようになったし、シフォンケーキを焼くようになった。だけど、やっぱりあーちゃんの味が恋しくなる。同じようにシフォンケーキを焼いても、私には一生あーちゃんの味は再現できないのかもしれない。

「にゃあ」

 猫のことはあまりよくわからないが、うちのアメはあーちゃんが座っていた椅子に座り、机の上に並べた皿からご飯を食べる。床に置くとご飯を食べてくれない。これが普通なのだろうか。
 私はアメと向かい合って秋刀魚を食べた。
 アメはかなりのグルメだった。市販で売っている猫の餌はまったく口にしてくれない。カリカリタイプもウェットタイプも全然ダメ。おやつ系も全滅だった。
 仕方なく、猫の餌を手作りしている。鶏肉を茹でたり、塩分をなるべく少なくしてだし汁を取ったりして、人間みたいなご飯だ。でも、それがかえって私には相変わらずルームシェアをしているような気がして嬉しい。

「どう? おいしい?」
「うにゃうにゃ」

 おいしい、と言っているのだろうか。秋刀魚にかじりついている。
 常滑焼まつりか。
 私は机の脇に置いた常滑焼まつりのチラシを見つめながら、栗ご飯を口に入れた。ほくほくで甘い栗。おいしい。幸せだ。
 そういえば、この秋刀魚を乗せたお皿も去年の常滑焼まつりで買った。あーちゃんが悩みに悩んで「やっぱり買う」と道を引き返して手に入れたお皿だ。

「今年はどうしようかな」
「にゃー」

 アメが秋刀魚から顔をあげて、私を見た。

「にゃー」
「一緒に行く?」

 なんてね、と私は笑いながらご飯を食べた。
 しかし、常滑焼まつり当日に、玄関ドアを開けると「うにゃあ!」とアメは飛び出した。

「ちょ、ちょっと! アメ!」

 猫なんてすぐどこかへ行ってしまう。私は慌ててアメを追いかけた。アメは別にどこかへふらふら歩いていく様子はなく、階段のところで私を待っているように見えた。

「びっくりした。アーちゃんはお留守番だよ」
「にゃー!」

 抱き上げると嫌がって暴れる。部屋の中へ戻そうとしても、するりと身をよじって外に出た。
 まさか、本当に私と一緒に祭りに出かけるつもりなのか。
 犬と散歩ならまだしも、猫と散歩なんて聞いたことがない。
 アメは私の横にピタリと並び、尻尾をピンと立てて歩く。どこかへ突然走り去ってしまうかもしれないと、ハラハラしながら見ていたがどうやらそういう気はないらしい。時折私のことを見上げて目を細めている。上から見るとハート模様がはっきり見えた。
 我が物顔で歩くその姿を見て、家に転がり込んでくる前は立派な野良猫だったんじゃないかと想像した。
 きょうはいい天気だった。暑くもなく、風が心地よい。すっかり季節は秋だ。

「見て、猫と一緒に歩いてる」
「なにあれ、かわいい」
「すごい、懐いてるのねぇ」

 通りすがる人たちがこそこそと話しているのが聞こえた。
 アメは信号が赤になるとちゃんと止まり、人間のように青に変わるのを待っているようだった。
 招き猫通りを通ると、アメは猫の顔をまじまじと見上げていた。
 私とあーちゃんはいつもここを通ると、ご利益をもらいたい猫の頭を撫でていた。健康、恋愛、子宝、商売繁盛。どの招き猫からもご利益をいただきたい。……さすがに、今の私には子宝は必要ないか。

「アーちゃんは、この辺来たことあるの?」

 足元にいるアメに訊ねると「にゃあ」と鳴く。
 もしかしたら、うちの猫は天才なんじゃないだろうか。なんだか行動が人間みたいだし、食へのこだわりが強いが、それも猫っぽくない。

 常滑焼まつりの人はすごかった。いつもよりいろんなやきものが並んでいて、見ているだけで楽しい。
 この人込みで、アメとはぐれないだろうか。心配でいつも足元を確認して歩く。それでもアメはしっかり私についてきていた。
 やきもの散歩道はいつ行っても割りと人がいる。けれど、きょうは特別だ。店の中に入りたい気持ちもあるが、アメが一緒だと入れない。私はそのまま散歩するようにぶらぶらと当てもなくさ迷い歩いた。

「あら、なんてお利口な猫ちゃん! リードもなしで一緒に歩くんですか?」

 えへへ、と私が照れるとアメが「にゃー」と鳴いた。

「お利口ちゃんだねぇ」

 よしよし、とアメは毎回いろんな人に撫でてもらって気持ちがよさそうだ。
 そういえば、シフォンケーキの店を出すと意気込んだ割に、店を出すことについてはまだ調べたことがなかった。店を出すにはどうしたらいいのだろう。きっと、いろんな手続きが必要になるだろう。
 いつもあーちゃんとソフトクリームを買う店の前までやって来た。私はいつも通りバニラのソフトクリームを頼む。
 あーん、と食べる横でアメがじぃっと私を見ている。視線が痛い。

「……猫って、ソフトクリーム食べるのかな」

 突然家へやって来た日は、おいしそうにシフォンケーキを食べていた。おそらく食べられないってことはないだろう。でも、人間の食べ物は動物にとっては身体によくないものだったりすると聞く。猫のための手作りご飯の本にも、そう書いてあった。

「これはダメだよ。お腹壊すかも」

 私がそう言うと、アメはうう、と低い声で唸った。
 やっぱり、人間の言葉を正確に理解しているんじゃないだろうか。

 うちの子……もしかして天才?

 歩きながらソフトクリームを舐めて、小さい頃を思い返す。ここは私が小さかった頃とあまり変わらない。ソフトクリームを食べながら歩く私も、あの頃からちっとも変っていない。ただ年を取っただけだ。40歳って、私にとってかなり大人な年齢だった。20歳のときと同じだ。20歳は成人というイメージがあったから、ものすごく大人びて感じたのに、いざ自分が20歳になっても全然子どものままだった。私にとっての大人は、立派な仕事を持っていて、ひとりでなんでもできて、ちゃんと自分という人間を理解している人だ。でも私は、私が思う大人になれていない。年下の上司に怒られる職場にやりがいは感じられないし、ようやく少しだけ家事ができるようになったけれど自分の無力さを感じる。自分が一体何者なのかもよくわかっていない。
 ソフトクリームを平らげて、そのまま土管坂を歩く。ここからの景色は小さい頃から好きだった。アメは土管をぴょんぴょん跳ねて上まで登り、私を見下ろしている。そこからの景色はさぞいい眺めだろう。

「どう? 景色は最高?」
「にゃー」

 アメは鳴いて目を細める。笑っているみたいだ。
 やきもの散歩道は昭和初期頃にもっとも栄えていた窯業集落一帯のことで、今でも多くの作家さんたちが住んで作品作りに励んでいる。古い趣のある建物が多く、どこを撮っても絵になる。食器はもちろん、お洒落な雑貨やカフェなんかもあって、観光客は多いが地元民が散歩しても当然楽しい。この土管坂も観光名所として有名だ。

「……あ、そうだ」

 このやきもの散歩道の近くで、シフォンケーキのお店が開けたらいいんじゃないだろうか。観光客の目にも留まりやすいだろうし、なにより私もあーちゃんもこの辺りが大好きだ。
 あーちゃんがどこに店を出したかったのかはわからないけれど、この辺りなら喜んでくれるんじゃないだろうか。

「でも、借りるのって高いのかな……」

 先日、ケーキ屋を開くのに必要なお金について調べてみた。私もまあある程度は貯金してきたけれど、かなり大きな金額を投資しなければ店は始められない。お金をいくらでもかければ当然立派な店ができるだろうけれど、さすがにそこまでは難しい。貸店舗もいろいろだ。月々何万円から借りられる物件から桁がおかしいところもある。当然、高い物件は立地がいい。

「どこかに相談しないとね」

 ふぅ、と私はため息をつくと、土管坂を上り切って坂の上から景色を見渡した。

「にゃおー」

 アメも気持ちよさそうに伸びをした。
 しばらく景色を楽しみながら散歩をしたあと、いつもあーちゃんと必ず入る店の前で足を止めた。
 ここはちょっと見たい。

「アーちゃんはここで待っててね。入っちゃダメだよ」

 そういえば、このお店には看板猫がいた。きょうはいるだろうか。
 お店の中はお客さんがいっぱいだった。海外からのお客さんもいる。
 私はお店の中をぐるりと回って、よさそうなものを慎重に手に取って見て、そっと戻した。
 シフォンケーキのお店を出すなら、テイクアウトのみの店にするのか、食べられるスペースも作るべきか。でも、カフェなんて私ひとりでやっていけるのか。
 うーん、と私はひとりで唸りながらシフォンケーキを乗せるのによさそうなお皿を吟味した。
 ふと、寝転がっている猫の置物が目に入る。アメに似てる、と思って手に取った。

「かわいいでしょ、その箸置き。作家さんが一つずつ作ってるから、みんな表情が違うのよ」

 この店は夫婦で営んでいる。奥さんは気さくな感じの人で、旦那さんはちょっと強面な職人さんという雰囲気がある。奥さんがニコニコ笑顔で話しかけてくれた。

「うちの猫にそっくりなんです」
「あら、三毛猫ちゃんなのね」
「はい、たぶん外にいます」
「え?」

 私の言葉を聞いて、奥さんが外をちらりと覗く。

「あら、かわいいねぇ。お利口さんだねぇ、待ってるの?」

 小さな子どもに話しかけるような口調が外から聞こえて来た。

「お利口な猫ちゃんですねぇ。うちの猫はリードしてないと、たぶんどこかへ行っちゃうなぁ」
「看板猫ちゃんですよね? きょうはいるんですか?」
「きょうはね、おうちでお留守番」

 レジの前には看板猫の写真が大きく飾られていた。茶色い縞々の猫ちゃんだ。

「おい、真野さんのところのカフェが年内に撤退するらしいぞ」

 レジの奥の暖簾をくぐって、旦那さんがぶっきらぼうに言った。

「あら、そうなの? じゃあ、また借り手を探すのかしらね」

 借り手と訊いて興味が沸いた。

「あ、あの、どこかの貸店舗が空くんでしょうか?」
「あんた、貸店舗探してんのか?」

 強面な旦那さんが訊ねて来た。

「その……まだ考えているところなんですが、お店を始めたくて」
「そんなら、ちょうどいいじゃねぇか。今年いっぱいで今入ってる店が終わるんだと。真野さんの連絡先、教えてやるよ」
「え! いいんですか?」
「いいに決まってる」

 旦那さんは電話の横にあったチラシの裏に、貸店舗の管理人真野さんの連絡先と、貸店舗の住所を書いてくれた。

「ここから割と近いから、行ってみるといい」
「あ、ありがとうございますっ」

 私は手にアメそっくりの箸置きを握ったままだったので、そのまま購入させてもらった。なんだかこの箸置きが導いてくれた縁のように思えた。

 チラシに書かれた住所をスマホに入力して、道案内を頼りに歩く。
 やきもの散歩道から少し外れた場所にその店はあった。今は雑貨カフェの店が入っていて、かわいらしい小物やアクセサリーなんかが販売されている。店の奥がカフェになっていた。店の外にはレンガの窯が見えた。景色もいいし、なんだかここでシフォンケーキの店を始める自分が想像できた。

「にゃー」

 アメが足元で鳴く。

「ここはどう思う? よさそう?」
「にゃー」

 アメが言った言葉がわかればどんなにいいだろう。私はきっと「いいね」と言ったように思えた。自分の都合すぎるだろうか。

「まずは、どんな感じなのかしっかりと訊かないとね」

 私は教えてもらった真野さんの電話番号にさっそく電話をかけた。
 出た人は渋い声の男性だった。先ほどの店の店主ーー河本さんから連絡先を訊いたと伝えると「来年から契約してくれる方をちょうど探しているんですよ」と言った。詳細をメールで送ってもらうことになり、突然シフォンケーキの店を開くという話が一歩現実的になった。

 夜、私たちは海岸沿いを歩きながら花火を見た。
 打ち上がる花火をひとりと1匹で見上げながら、寂しさと幸せを同時に感じた。複雑な気分だ。

 ーー来年もまた花火、見に来ようね。

 ふと、あーちゃんの声が聞こえた気がした。去年、あーちゃんは当たり前のように来年の約束をしていた。こんな未来を誰が想像するだろう。
 うん、行こうね。と私もなにも考えずに答えていた。
 こんなにも綺麗な花火を見ているのに、私はものすごく悲しかった。
 あーちゃんに会いたいな。
 あーちゃんの笑顔が見たいな。

「にゃあ」

 アメが鳴いた。私はアメをよいしょと抱き抱えて、花火を見上げた。
 家に帰ったら、シフォンケーキを焼こう。むいた栗でマロンペーストを作って、マロンシフォン……いや、コーヒーリキュールを入れてマロンコーヒーシフォンなんてどうだろうか。
 私もついにあーちゃんみたいになったな、と笑う。レシピの中から作りたいシフォンケーキを選ぶのではなくて、こんなシフォンケーキを作りたいという気持ちが湧いてきた。

「また来年も、一緒に見ようね。アーちゃん」
「にゃー」