9月になったというのに、耐え難い暑さだった。小さい頃、ぬるいお風呂で汗を流した後、夜風に当たると涼しかった。風鈴の音と扇風機の風だけで十分だった夏は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。朝も夜もずっと暑い。溶けてしまいそうだ。
アメは毎日エアコンの効いた部屋で涼んでいる。ここへ来る前は、夏の暑さをどうやって耐えていたのか。
私は出勤する際に、出窓から私を見下ろすアメを見るのが日課だった。哀れな社畜を見る目に見えた。
「あら、おはよう」
101号室の松山さんが家の前を履き掃除していた。
「おはようございます」
松山さんはこのベル・ウッドの大家さんだ。松山さんと松山さんのお母さんの母と娘でここに住んでいる。
「お仕事?」
「あ、はい」
いつもゆったりとしたワンピースを着て、茶色く染めたくせ毛がくるんとカールしている。私よりは年上だけれどおしゃれでかわいらしい人だ。
松山さんのお母さんは足が悪く、杖がなければ歩けない。常滑の街は起伏が激しい道が多く、先日出先で軽く転んでしまったらしい。
「お母さん、足の調子はどうですか?」
「ありがとうね。骨折しなかったからよかったけど、ちょっとまだ痛むらしくてね」
お大事になさってください、と私はその場を去ろうとすると、松山さんに止められた。
「少しは落ち着いた?」
「え?」
「お友達のこと、大変だったでしょう」
ふたりで借りていた家だったので、大家さんも当然私たちのことは知っていた。あーちゃんが事故で亡くなってしまったことも。亡くなった後も、私だけはここで暮らしていくことも。そして、猫を飼い始めたことも。
「あら、すっかりおうちに馴染んでるみたいね」
上を見上げると、まだ出窓から私たちを覗いているアメがいた。
「親友が亡くなってしまって、まだ気持ちの整理はついてないんですけど、アメがいてくれて本当によかったです」
うんうん、と松山さんは優しい笑顔で頷く。
「アメちゃんっていうのね。よかったわね」
話していたいけれど、仕事に遅刻するわけにはいかない。私は慌てて「すみません」と謝った。
「ごめんなさい、忙しいときに引き留めてしまって。行ってらっしゃい」
ばいばいと手を振る松山さんに、私も会釈して軽く手を振った。
ベル・ウッドは4つの部屋からなるアパートだ。101号室に大家の松山さん親子、102号室には若い夫婦が住んでいる。隣の201号室の人は、女性が一人暮らししていて綺麗な猫を飼っている。毛が長くてふわふわで、高そうな猫だった。時々、窓辺に座っているのを見かけていた。
勤め先に着くと、なんだか毎日身体が沈むように重たく感じる。会社の前で小さく、誰にも聞こえないようにため息をついた。
前に勤めていた会社は繊維会社だった。そこで事務員をしていたのだが、その経験があって今も事務員の仕事に就いている。今の会社は輸入業務を行っている会社だ。
入社して1年が経つけれど、どうにも苦手な人がふたりいる。どちらも私より年下で、ひとりは私の上司にあたる。もうひとりは30歳で社内では若手だが仕事ができると評判の女の子。上司はとても綺麗な人だが、社長以外に対してニコリとも笑わない。どの社員に対してもおそらく同じ塩対応だ。つんとしていて、どこか声をかけにくい。若手の仕事ができる子は、初日面と向かって「私の仕事を増やさないでもらえますか」と声をかけられて以降、苦手だ。
「おはようございます」
「おはよう」
上司の冷たい挨拶から始まるこの会社は、とても居心地が悪かった。
あーちゃんの代わりにシフォンケーキの店を出す、なんて無謀なことを言ったけれど、実際はここから逃げ出すための正当な理由がほしかっただけかもしれない。40歳になる独身女が、転職してすぐに仕事を辞めたとなると、人間として大人として無能だと烙印を押されてしまうような気がしていた。お店を出すという立派なことを成し遂げる。そのために仕事を辞める。あーちゃんのためと言いつつも、自分のために逃げているだけかもしれない。
長年事務員として働いているけれど、私はたぶん、事務員には向いていない。電話対応、入力業務、書類の作成、コピー取り、来客があれば対応しお茶出しなど、他の部署ではやらない雑用係だ。私は派手な人間ではないし、表に立ってみんなをまとめるような人間でもない。この仕事が会社の誰かの役に立っていることはわかるけれど、このままずっとこの仕事を続ける意味はわからなかった。私の人生は、これでいいのだろうか。これが私のやりたい仕事なんだろうか。
「一條さん、ちょっと」
昼前に上司に呼ばれる。はい、とすぐに立ち上がった。
「ここ、入力ミスしてる。こんなミス、ありえないから」
パッと上司はタイプミスしたプリントを私に差し出した。
「申し訳ございません。すぐに修正します」
「もうやった」
「……すみません」
私よりも年下だけれど、私の上司で、彼女の左手に光る金色の指輪が私にはとても眩しく見えた。
不倫関係にならなければ、私もあの会社で気楽に仕事ができていただろう。別に辞める必要はなかった。でも、もう彼の顔を見られなかった。
昼休憩の時間にご飯を食べていると、営業課の金田さんが声をかけてくれた。
「すごい、おいしそうなお弁当」
金田さんはとても愛想がよく、優しくて綺麗な人だ。金田さんと私の上司――鈴村さんは同期だと聞いた。
「ありがとうございます。あんまり得意じゃないんですけど」
「得意じゃなくても、これだけ作れたらすごいですよ」
じゃーん、と金田さんが私に見せて来たのはコンビニのサラダとおにぎりだった。
「たまに作るんですけどね、一人暮らしが長いわりに、料理はあんまり得意じゃなくて」
サラダが入ったプラスチックの蓋を外しながら言う金田さんの言葉に、私は頷いた。
「私もです。最近料理するようになってーー」
「一條さん、」
突然冷たい声が背後から聞こえた。背筋が一瞬で凍る。
「休憩中だからって、ペラペラしゃべってないで。休憩中も集中して」
「……はい、すみません」
目の前に座る金田さんは、困り顔で私を見ていた。部署が違っても、同じ同期でも、力関係というものはできてしまうらしい。
休憩中も集中するなんて、おかしな話だ。じゃあ一体、いつ休憩するというのか。
家に帰る前に卵を買う。ここ最近はシフォンケーキの失敗がないので、卵を毎日買うことはなくなった。最近はプレーンだけでなく、チョコレートシフォンやこの季節にちょうどいいかぼちゃシフォンやマロンシフォンなんかに挑戦している。
「ただいま」
いつも帰宅するとすぐに、アメがお帰りと言わんばかりに出迎えてくれる。ペットを飼う人の気持ちが、今はとてもよくわかった。一人暮らしだとなおさら、こういう出迎えは嬉しくなってしまう。
ささっと部屋着に着替えたら、シフォンケーキの時間だ。
今までは、帰宅するとあーちゃんの手料理を食べながら仕事の愚痴をこぼしていた。きょうは、なんだか愚痴りたい気分だった。最悪だ。きょうはまだ月曜日。土曜日まで遠い。
私は冷蔵庫でキンキンに冷えた缶ビールを取り出し、開けて飲む。いつもは休みの日でもあまり飲まない。それでも万が一に備えて、冷蔵庫の中にビールは2本、必ず用意していた。きょうは緊急事態だ。飲まないとやってられない。
「にゃあ」
アメが私を見ている。
「きょうも上司にグチグチ言われたよ」
キッチンで立ったまま、私はビールを飲み干した。買ってきた卵をパックから取り出して冷蔵庫に入れる。
あーちゃんは私が愚痴るといつも言った。「合わない会社で無理に働く必要はないよ」と。あーちゃんも昔働いていた会社で散々心を壊してきた。だけど、働かなければ生きていけない。それでもあーちゃんは笑って「身体が一番大事だから。身体と心は繋がってるから、心が辛いと身体も辛くなるよ。仕事なんて、この世の中にたくさんあるんだから」と励ましてくれた。「ゆーちゃんなら、きっといい会社が見つかるから。大丈夫」と笑って言ってくれたあーちゃんが恋しい。
卵を割り、卵黄と卵白にわける。卵黄を泡だて器で溶きほぐしたら、水、太白ごま油の純で加えて混ぜていく。薄力粉をふるいながらさらに加えて、ダマがなくなるまでしっかり丁寧に混ぜる。卵白はハンドミキサーを使ってまずはゆっくり、一番遅い速度で混ぜていく。卵白の細かい泡がボウル全体に広がったら今度は高速で混ぜる。メレンゲを作るときは、何度やっても緊張した。メレンゲの作り方が一番難しいように思う。でも、大丈夫。そんなときは、私はいつもあーちゃんの顔を思い浮かべていた。
泡立てたのびがよく艶々のメレンゲを、卵黄生地と混ぜあわせる。これもまた難しい。何度も何度も本を見て、ネットで調べて、なんとかできるようになった。
シフォンケーキの型に生地を流し込んで、予熱したオーブンに入れる。
「きょうも1日、お疲れ様。これを食べれば、きっとあしたもまた自分らしく過ごせるよ」
膨らんでいくシフォンケーキを眺めながら、私はまたあーちゃんを思い出す。この言葉は、魔法の呪文だ。私が私らしく、あしたを生き抜いていく呪文。
正直、人当たりが良くない人に会う度に思う。そこまで他人に当たらなくてもいいんじゃないか、と。なんでそんな言い方をするのか、とも。そういう人に出会うと昔は「悪いことが起こればいいのに……!」と相手を呪ったし、本当にひどく傷つけられたときにはなんとかして相手にも同じ気持ちを味あわせてやりたい、なんて思ったりもした。
あーちゃんは昔から気に入らない人がいると怒って「絶対この先一生、いいこと起こらないね、あの人には」なんて言い切っていた。
でも私はあるときふと思った。もし神様が本当にいるのだとしたら、きっと悪いことをした人には天罰を下しているだろう。だからわざわざ自分自身が体裁を加える必要はなく、単純に放っておけばいいのだと思った。私だって、家庭があると知ってて、関係を持った。奥さんが気づいていたかいなかったかは関係なく、私は罪を犯している。ひとつの家庭を壊しかけた。おそらく、今の職場で肩身の狭い思いをしているのは、その罰を受けているのだろうと私は勝手に思っている。奥さんから訴えられなかっただけ、運がよかったと思うべきだ。
きのう焼いたかぼちゃのシフォンケーキを味見する。
うん、おいしい。かぼちゃの香りもいい感じだ。
そろそろあちこちにハロウィンの飾りがで始める頃だろう。ハロウィンが終わると一気にクリスマスモードになって、12月26日の朝には年越しの雰囲気でいっぱいになる。夏が終わるとともに、私は一気に年末まで感じてしまった。
翌朝、私はいつもより少し早めに家を出て、大家の松山さんの部屋を訪ねた。
「あら、おはよう。どうしたの?」
「朝早くにすみません。実はこの間、かぼちゃのシフォンケーキを焼いてみたんです。よければ召し上がってください」
紙皿に2切れのシフォンケーキを乗せて、ふんわりラップをかけて渡した。
「あらあら、まあまあ。いいの?」
「はい、もらってください。ひとりでは食べきれなくて」
「ありがとうね。朝ごはんにいただくわ」
行ってきます、と私は軽く会釈をしてドアを閉めた。
「おはようございます」
102号室からよっこいしょ、とゴミを持って現れた奥さんのお腹につい、目が行った。
「おはようございます……?! あれ、もしかして?」
「そうなんです、もうすぐ臨月で」
「ええー! おめでとうございます!」
「改めて挨拶に伺おうかと思っていたんです、産まれたらうるさくなっちゃうと思って」
「うちのことは全然気にしないでください、賑やかな方が楽しいですから」
102号室に住む川口さん夫婦は、半年くらい前にここへ引っ越してきた。ふたりとも30代前くらいに見える。
旦那さんは背が高くて眼鏡をかけていて、奥さんの方は短い髪で柔らかい雰囲気がある。ふたりはお似合いの夫婦だった。
奥さんがお腹をよしよしと撫でるときの表情に、私は癒される。出産を経験しないままこの年になってしまったけれど、きっと出産もそこから始まる育児も大変だろう。それでもこの笑顔になれるということは、日本の未来はまだ明るいような気がした。これから先の未来を担っていく命に「ありがたや」と手を合わせたくなってしまう。
「なにか手伝えることがあれば、遠慮なく言ってください」
「ありがとうございます」
こちらこそ、と思いながら、私はきょうも会社へ向かう。
いつもより少しだけ、足取りが軽かった。
お祝い、なにがいいかななんて考えるだけで、心がほかほかした。
アメは毎日エアコンの効いた部屋で涼んでいる。ここへ来る前は、夏の暑さをどうやって耐えていたのか。
私は出勤する際に、出窓から私を見下ろすアメを見るのが日課だった。哀れな社畜を見る目に見えた。
「あら、おはよう」
101号室の松山さんが家の前を履き掃除していた。
「おはようございます」
松山さんはこのベル・ウッドの大家さんだ。松山さんと松山さんのお母さんの母と娘でここに住んでいる。
「お仕事?」
「あ、はい」
いつもゆったりとしたワンピースを着て、茶色く染めたくせ毛がくるんとカールしている。私よりは年上だけれどおしゃれでかわいらしい人だ。
松山さんのお母さんは足が悪く、杖がなければ歩けない。常滑の街は起伏が激しい道が多く、先日出先で軽く転んでしまったらしい。
「お母さん、足の調子はどうですか?」
「ありがとうね。骨折しなかったからよかったけど、ちょっとまだ痛むらしくてね」
お大事になさってください、と私はその場を去ろうとすると、松山さんに止められた。
「少しは落ち着いた?」
「え?」
「お友達のこと、大変だったでしょう」
ふたりで借りていた家だったので、大家さんも当然私たちのことは知っていた。あーちゃんが事故で亡くなってしまったことも。亡くなった後も、私だけはここで暮らしていくことも。そして、猫を飼い始めたことも。
「あら、すっかりおうちに馴染んでるみたいね」
上を見上げると、まだ出窓から私たちを覗いているアメがいた。
「親友が亡くなってしまって、まだ気持ちの整理はついてないんですけど、アメがいてくれて本当によかったです」
うんうん、と松山さんは優しい笑顔で頷く。
「アメちゃんっていうのね。よかったわね」
話していたいけれど、仕事に遅刻するわけにはいかない。私は慌てて「すみません」と謝った。
「ごめんなさい、忙しいときに引き留めてしまって。行ってらっしゃい」
ばいばいと手を振る松山さんに、私も会釈して軽く手を振った。
ベル・ウッドは4つの部屋からなるアパートだ。101号室に大家の松山さん親子、102号室には若い夫婦が住んでいる。隣の201号室の人は、女性が一人暮らししていて綺麗な猫を飼っている。毛が長くてふわふわで、高そうな猫だった。時々、窓辺に座っているのを見かけていた。
勤め先に着くと、なんだか毎日身体が沈むように重たく感じる。会社の前で小さく、誰にも聞こえないようにため息をついた。
前に勤めていた会社は繊維会社だった。そこで事務員をしていたのだが、その経験があって今も事務員の仕事に就いている。今の会社は輸入業務を行っている会社だ。
入社して1年が経つけれど、どうにも苦手な人がふたりいる。どちらも私より年下で、ひとりは私の上司にあたる。もうひとりは30歳で社内では若手だが仕事ができると評判の女の子。上司はとても綺麗な人だが、社長以外に対してニコリとも笑わない。どの社員に対してもおそらく同じ塩対応だ。つんとしていて、どこか声をかけにくい。若手の仕事ができる子は、初日面と向かって「私の仕事を増やさないでもらえますか」と声をかけられて以降、苦手だ。
「おはようございます」
「おはよう」
上司の冷たい挨拶から始まるこの会社は、とても居心地が悪かった。
あーちゃんの代わりにシフォンケーキの店を出す、なんて無謀なことを言ったけれど、実際はここから逃げ出すための正当な理由がほしかっただけかもしれない。40歳になる独身女が、転職してすぐに仕事を辞めたとなると、人間として大人として無能だと烙印を押されてしまうような気がしていた。お店を出すという立派なことを成し遂げる。そのために仕事を辞める。あーちゃんのためと言いつつも、自分のために逃げているだけかもしれない。
長年事務員として働いているけれど、私はたぶん、事務員には向いていない。電話対応、入力業務、書類の作成、コピー取り、来客があれば対応しお茶出しなど、他の部署ではやらない雑用係だ。私は派手な人間ではないし、表に立ってみんなをまとめるような人間でもない。この仕事が会社の誰かの役に立っていることはわかるけれど、このままずっとこの仕事を続ける意味はわからなかった。私の人生は、これでいいのだろうか。これが私のやりたい仕事なんだろうか。
「一條さん、ちょっと」
昼前に上司に呼ばれる。はい、とすぐに立ち上がった。
「ここ、入力ミスしてる。こんなミス、ありえないから」
パッと上司はタイプミスしたプリントを私に差し出した。
「申し訳ございません。すぐに修正します」
「もうやった」
「……すみません」
私よりも年下だけれど、私の上司で、彼女の左手に光る金色の指輪が私にはとても眩しく見えた。
不倫関係にならなければ、私もあの会社で気楽に仕事ができていただろう。別に辞める必要はなかった。でも、もう彼の顔を見られなかった。
昼休憩の時間にご飯を食べていると、営業課の金田さんが声をかけてくれた。
「すごい、おいしそうなお弁当」
金田さんはとても愛想がよく、優しくて綺麗な人だ。金田さんと私の上司――鈴村さんは同期だと聞いた。
「ありがとうございます。あんまり得意じゃないんですけど」
「得意じゃなくても、これだけ作れたらすごいですよ」
じゃーん、と金田さんが私に見せて来たのはコンビニのサラダとおにぎりだった。
「たまに作るんですけどね、一人暮らしが長いわりに、料理はあんまり得意じゃなくて」
サラダが入ったプラスチックの蓋を外しながら言う金田さんの言葉に、私は頷いた。
「私もです。最近料理するようになってーー」
「一條さん、」
突然冷たい声が背後から聞こえた。背筋が一瞬で凍る。
「休憩中だからって、ペラペラしゃべってないで。休憩中も集中して」
「……はい、すみません」
目の前に座る金田さんは、困り顔で私を見ていた。部署が違っても、同じ同期でも、力関係というものはできてしまうらしい。
休憩中も集中するなんて、おかしな話だ。じゃあ一体、いつ休憩するというのか。
家に帰る前に卵を買う。ここ最近はシフォンケーキの失敗がないので、卵を毎日買うことはなくなった。最近はプレーンだけでなく、チョコレートシフォンやこの季節にちょうどいいかぼちゃシフォンやマロンシフォンなんかに挑戦している。
「ただいま」
いつも帰宅するとすぐに、アメがお帰りと言わんばかりに出迎えてくれる。ペットを飼う人の気持ちが、今はとてもよくわかった。一人暮らしだとなおさら、こういう出迎えは嬉しくなってしまう。
ささっと部屋着に着替えたら、シフォンケーキの時間だ。
今までは、帰宅するとあーちゃんの手料理を食べながら仕事の愚痴をこぼしていた。きょうは、なんだか愚痴りたい気分だった。最悪だ。きょうはまだ月曜日。土曜日まで遠い。
私は冷蔵庫でキンキンに冷えた缶ビールを取り出し、開けて飲む。いつもは休みの日でもあまり飲まない。それでも万が一に備えて、冷蔵庫の中にビールは2本、必ず用意していた。きょうは緊急事態だ。飲まないとやってられない。
「にゃあ」
アメが私を見ている。
「きょうも上司にグチグチ言われたよ」
キッチンで立ったまま、私はビールを飲み干した。買ってきた卵をパックから取り出して冷蔵庫に入れる。
あーちゃんは私が愚痴るといつも言った。「合わない会社で無理に働く必要はないよ」と。あーちゃんも昔働いていた会社で散々心を壊してきた。だけど、働かなければ生きていけない。それでもあーちゃんは笑って「身体が一番大事だから。身体と心は繋がってるから、心が辛いと身体も辛くなるよ。仕事なんて、この世の中にたくさんあるんだから」と励ましてくれた。「ゆーちゃんなら、きっといい会社が見つかるから。大丈夫」と笑って言ってくれたあーちゃんが恋しい。
卵を割り、卵黄と卵白にわける。卵黄を泡だて器で溶きほぐしたら、水、太白ごま油の純で加えて混ぜていく。薄力粉をふるいながらさらに加えて、ダマがなくなるまでしっかり丁寧に混ぜる。卵白はハンドミキサーを使ってまずはゆっくり、一番遅い速度で混ぜていく。卵白の細かい泡がボウル全体に広がったら今度は高速で混ぜる。メレンゲを作るときは、何度やっても緊張した。メレンゲの作り方が一番難しいように思う。でも、大丈夫。そんなときは、私はいつもあーちゃんの顔を思い浮かべていた。
泡立てたのびがよく艶々のメレンゲを、卵黄生地と混ぜあわせる。これもまた難しい。何度も何度も本を見て、ネットで調べて、なんとかできるようになった。
シフォンケーキの型に生地を流し込んで、予熱したオーブンに入れる。
「きょうも1日、お疲れ様。これを食べれば、きっとあしたもまた自分らしく過ごせるよ」
膨らんでいくシフォンケーキを眺めながら、私はまたあーちゃんを思い出す。この言葉は、魔法の呪文だ。私が私らしく、あしたを生き抜いていく呪文。
正直、人当たりが良くない人に会う度に思う。そこまで他人に当たらなくてもいいんじゃないか、と。なんでそんな言い方をするのか、とも。そういう人に出会うと昔は「悪いことが起こればいいのに……!」と相手を呪ったし、本当にひどく傷つけられたときにはなんとかして相手にも同じ気持ちを味あわせてやりたい、なんて思ったりもした。
あーちゃんは昔から気に入らない人がいると怒って「絶対この先一生、いいこと起こらないね、あの人には」なんて言い切っていた。
でも私はあるときふと思った。もし神様が本当にいるのだとしたら、きっと悪いことをした人には天罰を下しているだろう。だからわざわざ自分自身が体裁を加える必要はなく、単純に放っておけばいいのだと思った。私だって、家庭があると知ってて、関係を持った。奥さんが気づいていたかいなかったかは関係なく、私は罪を犯している。ひとつの家庭を壊しかけた。おそらく、今の職場で肩身の狭い思いをしているのは、その罰を受けているのだろうと私は勝手に思っている。奥さんから訴えられなかっただけ、運がよかったと思うべきだ。
きのう焼いたかぼちゃのシフォンケーキを味見する。
うん、おいしい。かぼちゃの香りもいい感じだ。
そろそろあちこちにハロウィンの飾りがで始める頃だろう。ハロウィンが終わると一気にクリスマスモードになって、12月26日の朝には年越しの雰囲気でいっぱいになる。夏が終わるとともに、私は一気に年末まで感じてしまった。
翌朝、私はいつもより少し早めに家を出て、大家の松山さんの部屋を訪ねた。
「あら、おはよう。どうしたの?」
「朝早くにすみません。実はこの間、かぼちゃのシフォンケーキを焼いてみたんです。よければ召し上がってください」
紙皿に2切れのシフォンケーキを乗せて、ふんわりラップをかけて渡した。
「あらあら、まあまあ。いいの?」
「はい、もらってください。ひとりでは食べきれなくて」
「ありがとうね。朝ごはんにいただくわ」
行ってきます、と私は軽く会釈をしてドアを閉めた。
「おはようございます」
102号室からよっこいしょ、とゴミを持って現れた奥さんのお腹につい、目が行った。
「おはようございます……?! あれ、もしかして?」
「そうなんです、もうすぐ臨月で」
「ええー! おめでとうございます!」
「改めて挨拶に伺おうかと思っていたんです、産まれたらうるさくなっちゃうと思って」
「うちのことは全然気にしないでください、賑やかな方が楽しいですから」
102号室に住む川口さん夫婦は、半年くらい前にここへ引っ越してきた。ふたりとも30代前くらいに見える。
旦那さんは背が高くて眼鏡をかけていて、奥さんの方は短い髪で柔らかい雰囲気がある。ふたりはお似合いの夫婦だった。
奥さんがお腹をよしよしと撫でるときの表情に、私は癒される。出産を経験しないままこの年になってしまったけれど、きっと出産もそこから始まる育児も大変だろう。それでもこの笑顔になれるということは、日本の未来はまだ明るいような気がした。これから先の未来を担っていく命に「ありがたや」と手を合わせたくなってしまう。
「なにか手伝えることがあれば、遠慮なく言ってください」
「ありがとうございます」
こちらこそ、と思いながら、私はきょうも会社へ向かう。
いつもより少しだけ、足取りが軽かった。
お祝い、なにがいいかななんて考えるだけで、心がほかほかした。