私の49日が終わって、初盆がやって来た。
 思い返せば自分の葬式に出るという、なかなかないチャンスがあったけれど、実際には行く気になれなかった。みんなが悲しんでいるところに、のんきに出向くなんてできない。
 ゆーちゃんは宗教ごとにあんまり興味がないと言っていたけれど、お盆になると茄子ときゅうりを買って来て、竹串をそれぞれ4本、足に見立てて挿して精霊馬を作っていた。

「あーちゃん、帰るなら実家かなぁ」
「にゃー(いや、私がもしお盆に帰るならこっちの家だよ)」

 ゆーちゃんは私の頭をよしよしと撫でた。
 外は熱すぎて、家の中に閉じこもりがちになる私たち。エアコンがなければ死んでしまう。ゆーちゃんはこのお盆休みでシフォンケーキを大量に焼いていた。オーブンの熱で部屋の中がすぐ熱くなる。

「よし、こんなもんかな」

 ゆーちゃんはゆーちゃんなりに頑張ってシフォンケーキを焼いているけれど、私からしたらもう少しこうした方がいい、という意見がいっぱいある。伝える方法はないので、私はいつもシフォンケーキを作るゆーちゃんの横から「にゃーにゃー」と口を出すしかなかった。

「にゃー(もっと軽くかき混ぜて!)」
「にゃあ(そこはもっとふんわりと!)」
「にゃにゃあ(細かく、速く!)」
「にゃうにゃ(もっと均等に!)」

 私がどれだけ声をかけても、当然ながらゆーちゃんには伝わらない。

「なに、どうしたの? お腹空いたの?」

 ゆーちゃんは私がにゃあにゃあと鳴く度、お腹が空いたのかと訊ねて来た。
 果たして、ゆーちゃんが私の味を再現できる日は一体いつなのか。

 お盆が終わる頃、突然の来客があった。
 先月、ゆーちゃんの甥っ子光希が突然訪ねて来たが、今度はなんと私の弟ーー昇だった。

「突然すみません」
「全然、大丈夫」

 ゆーちゃんは私が長野から取り寄せていたコーヒー豆を気に入って、継続して購入してた。昇にそのコーヒーを淹れて、出している。

「あれ、猫飼ってるんですか?」
「あ、うん。アメっていうの」
「にゃー(昇、こんなところになにしに来たの?)」

 昇はあまり動物が得意ではない。だから私に触れようとはしなかった。私を見る目。怖がっているのがわかる。
 昇は小さい頃、野良猫にちょっかいを出して思いっきり引っ掻かれた。しかも、顔を。本人はそのときのひっかき傷が少しだけ目元に残っていると言うが、他人からすればあまりよくわからない。

「あの、実は母からシフォンケーキを作っていると聞いたんですが」
「え?」

 ゆーちゃんは低い声を出して驚いていた。

「あれ、違いましたか?」
「いや……まあ。つい、あーちゃんのお父さんに『私があーちゃんの代わりにシフォンケーキの店を開きます』なんて言っちゃったからさ」

 ごめんね、とゆーちゃんは眉を下げて謝った。

「いえ、そんな、謝らないでください。夕美さんは、姉の夢を叶えようとしてくれているんですから。そんな友達、他にいませんよ」

 へへ、とゆーちゃんは照れながら髪を掻いた。

「それで、うちの娘が来週の日曜日に6歳の誕生日を迎えるんですが、姉にシフォンケーキを作ってもらう約束をしたって、わがままを言うんです」
「お誕生日ケーキ……?」

 ああ、すっかり忘れていた。確かに来週、姪っ子の誕生日だ。去年のクリスマスにシフォンケーキを焼いてあげたらすごく気に入ってくれて、来年の誕生日にまた作ってねと言われていた。

「頑張って練習してるんだけど、あーちゃんのシフォンケーキと同じ味にはなかなか近づけなくて」
「いや、そうですよね」
「……え?」
「あ、その、夕美さんが下手だと言っているわけではなくて……」

 昇は私たちより5つ年下だ。同じ職場の後輩と26歳のときに結婚して、子どもがふたりいる。
 ゆーちゃんに失礼なことを言ってしまったと思ったのだろうか。昇はわかりやすく部屋の中をきょろきょろして、落ち着きがない。そんな様子の昇を、夕美は笑い飛ばした。

「ごめんごめん、違うの」

 いったん呼吸を整えると、ゆーちゃんは言葉を続けた。

「昇くんの目元って、あーちゃんによく似てるなぁって思って、話をちゃんと聞いてなかったの」
「ああ、そうでしたか」
「ごめんなさい」

 ふふ、と笑ってゆーちゃんは楽しそうにコーヒーを飲んだ。

「あーちゃんみたいなおいしいシフォンケーキは、ちっとも焼けないんだけど、最近作るのがちょっと楽しくなってきて。あーちゃんが近くにいるような気がするの。お盆だから、帰ってきてるのかな」
「そうかもしれませんね」

 昇は真面目だ。ゆーちゃんは冗談のつもりで言っているのだろうけれど、真剣な表情で深く頷いている。

「でも、もしよければ私にお誕生日ケーキを作らせてもらえないかな? ちゃんとしたケーキができる保証はないから、おいしいケーキ屋さんの誕生日ケーキを注文しておいてもらった方がいいと思うけど」
「そんな、ちゃんと代金は払います」
「代金をもらうようなものは、まだまだ全然作れないから大丈夫。私はとにかく、たくさん焼いて練習しないといけないから」

 ゆーちゃんはそう言って、きのう焼いたシフォンケーキを昇に出した。

「これ、きのう焼いたやつなんだけど、よかったら食べてみて?」
「じゃあ、ありがたくいただきます」

 昇も何度も私のシフォンケーキを食べてきた。そんな昇が、ゆーちゃんのシフォンケーキを食べてなんと言うか。ぜひ、聞きたい。

「おいしいです」
「ほんと?」
「でも……」

 口の中でシフォンケーキを噛みしめながら、なにかを考えている。

「確かに、少し姉のシフォンケーキよりふわふわ感が足りない気がします」

 ゆーちゃんも自分で作ったシフォンケーキを食べて「確かに」と納得していた。

「あ、ごめんなさい、そんな偉そうなことを言って」
「いや、全然だよ。私もそう思ってたんだよね」

 コーヒーを飲んで、ゆーちゃんはため息をつく。

「こんなことなら、あーちゃんにシフォンケーキの作り方教えてって、言えばよかった」
「でもたぶん、姉は教えなかったと思います」
「そうかな?」
「だって、姉ですもん。秘密のレシピだから、とか言って、教えなかったんじゃないかなと思いますよ」

 昇はそう言って笑った。
 確かに、私の弟なだけある。私はおそらく、親友のゆーちゃんでも私のオリジナルのシフォンケーキの作り方はきっと教えなかっただろう。私が作って、誰かに食べさせたかったからだ。だから長い時間をかけて、研究して、作り出した。みんながおいしいと言って食べてくれる姿を想像しながら。みんなが食べて幸せになってくれるように、と。

「じゃあ、来週の日曜日ね。頑張って作るから」
「お忙しいのに、申し訳ございません。よろしくお願いします」

 昇が帰ったあと、ゆーちゃんは私のレシピノートとしばらく睨み合っていた。

「あー、なにがいけないのかな」

 ゆーちゃんのシフォンケーキは、最近あまり目立つ失敗はしなくなった。作り始めた頃は型から落ちたり、型から外すと大きな穴がいていしまっていたり、焼き縮みができてしまったりと、たくさん失敗していた。最近はそんな失敗は減ったけれど、でも食べてみると触感が違う。ゆーちゃんのシフォンケーキは、もう少し空気を含ませる必要があるのだろう。
 長年作りながら身体で覚えて来た私の混ぜ方は、私にしかわからない。こればっかりは、ゆーちゃんがそう簡単には真似できるものではない。ゆーちゃん自身が、ゆーちゃんなりの方法で身に着けていくしかない。
 うーんと悩んでいるゆーちゃんの隣で、私は一緒にレシピノートを見た。
 夏の夜は少しずつ、更けて行った。

 姪っ子の誕生日前日。ゆーちゃんは猫でも撫でるような優しい手つきで、メレンゲを泡立てていた。ぼんやりと、どこか上の空に見える。

「にゃー(大丈夫?)」
「ああ、ごめんね。あーちゃんのことを考えてた」

 そう言って、慌てて首を振る。

「あーちゃんって、アメのことじゃなくて、親友の方のことね」
「にゃあ(わかってるよ)」
「あーちゃん、私にケーキを出してくれるとき、いつも言ってたんだ。きょうも1日、お疲れ様。これを食べれば、きっとあしたもまた自分らしく過ごせるよって。あれ、もしかしたら魔法の言葉だったんじゃないかなって」

 メレンゲを角のように立たせて「よし」とゆーちゃんは頷いた。

「あの言葉を言えば、あーちゃんのシフォンケーキと同じ味になればいいのになって」

 そんなはずないよね、とゆーちゃんは笑った。
 お盆休みが終わり、ゆーちゃんはまた仕事とシフォンケーキ修行の日々に戻っていた。ゆーちゃんは最近、週末に1週間分のお弁当のおかずを作って冷凍していた。お弁当のレシピ本に乗っていた方法を試しているらしい。でもこの方が、ゆーちゃんには合っているのか、少し平日の夜に時間が取れているようだった。その分、ゆーちゃんはシフォンケーキに向き合う時間にしている。
 オーブンの中でシフォンケーキを焼いている間、散らかしたキッチンを片付けて、紅茶を入れる。紅茶はゆーちゃんが昔から好きだったアールグレイだ。カカオ86パーセントのチョコレートを毎晩1枚、チビチビかじっている。

「牛乳、飲む?」

 ゆーちゃんは猫皿に牛乳を少し入れて、私にくれた。
 私は自分の席で牛乳を舐める。ごくごくと牛乳を飲んでいた人間時代が懐かしい。すっかり私は猫になっていた。

「そういえば、あーちゃんってこの時期いつもシャインマスカットのデコレーションケーキを焼いてたなぁ」

 ぼそっとつぶやいて、紅茶を一口飲む。
 私はデコレーションケーキを作るときは必ずその季節の果物を飾る。シフォンケーキはふわふわだから、生クリームや果物を上にたくさん乗せると重みで沈んでしまう。だから、あえてシフォンケーキの形を利用して、真ん中の筒状の穴に生クリームをたっぷり入れて、果物を少しだけ上に乗せて、足元に飾りとして果物をたっぷり乗せていた。とはいえ、店をやっていたわけじゃないので、ホールのデコレーションケーキなんて滅多に作らなかった。クリスマスや誰かの誕生日に焼くときは、あえてデコレーションケーキを作っていた。確か、去年のゆーちゃんの誕生日もデコレーションケーキを焼いた。17センチではなく、もっと小さい型にした。クリスマスもかわいいデコレーション用のチョコレートを買って、クリスマスっぽいデコレーションケーキを作った。

「じゃあ、誕生日ケーキはシャインマスカットを乗せようかな」
 
 あしたはいよいよ姪っ子の誕生日当日だ。ゆーちゃんは膨らむシフォンケーキを覗き込みながら、心で念じているように見えた。「うまく行け」と。

 次の日、ゆーちゃんは朝いちばんでスーパーに出かけてシャインマスカットを手に入れて来た。
 私が隠し味として入れていた練乳を混ぜた生クリームを泡立て、シフォンケーキを型から取り出す。
 私が死んだ日の夜、慣れない手つきでシフォンケーキをくり抜いていたゆーちゃんの手つきとは全く違った。
 プラスチックのケーキ皿の上にレースの紙を敷いて、その上にシフォンケーキを乗せる。
 慎重に、真ん中の筒状の穴に生クリームを絞り入れて、上にシャインマスカットを乗せた。誕生日おめでとうともう書き込まれているチョコレートのプレートを買って来ていたので、それを最後に乗せた。
 私とゆーちゃんはお互いの顔を見合った。

「よし、できた。なかなか、良い感じじゃないかな?」
「にゃあ!(やったね、ゆーちゃん!)」

 いいタイミングで昇がやって来た。ゆーちゃんはゆっくり、息を凝らしながら、100円ショップで手に入れたケーキの箱にデコレーションしたばかりのシフォンケーキを入れた。

「ありがとうございます、きっと娘は大喜びすると思います」

 そう言って、昇はすぐに帰って行った。
 ゆーちゃんは朝ごはんにシャインマスカットの残りを食べた。なんだか少し、ゆーちゃんの表情が柔らかかった。
 その夜に電話がかかってきた。昇からだ。どうやらシフォンケーキは大好評だったらしく、私のシフォンケーキみたいにふわふわだったらしい。
 電話を切ったあと、ゆーちゃんは「やっぱり、あの言葉は魔法の言葉だったんだ」と目を丸くしていた。