梅雨が明けたと同時に、猛暑がやって来た。

「行ってくる!」

 私は車に轢かれそうになっていた野良猫を助けようとして、死んでしまった。そしてなぜか、助けた猫の身体の中に私がいる。
 猫の生活も1ヶ月以上が経った。

 私のーーシフォンケーキ店を開く夢を、ゆーちゃんは私の代わりに叶えようとしてくれている。
 それは、私にとって想像もできない展開だった。猫になったことと同じくらいびっくりした。

 だって、あのゆーちゃんが。
 料理なんてほとんどできないのに、シフォンケーキの店を開くなんて。
 無謀だ。
 無謀すぎる。

 ソファの上で背伸びをしてから起き上がり、キッチンを見る。見事にぐちゃぐちゃだ。最近は頑張って毎日手作りのお弁当を会社に持って行っている。私が持っていたお弁当のおかずのレシピ本を見ながら、必死だった。きょうは卵焼き、アスパラベーコン、冷凍のコロッケ、ほうれん草の胡麻和え、茹でブロッコリー。冷凍食品に助けてもらいながら、なんとかお弁当の隙間を埋めていた。
 私もなにか手伝いたい。それなのに、私のこの身体はなんの役にも立たなかった。猫の手でも借りたいなんて言った人は、一体誰だ。猫の手なんて全く役に立たないし、猫の手を借りたくなるほど忙しいとは一体どんな状況か。
 部屋の中もずいぶんと荒れている。毎日頑張って植木に水だけはあげているから枯れてはいないけれど、それ以外は全部めちゃくちゃだ。中途半端に開けられたカーテン。汚れた食器は山のように積み重なって、洗濯ものも3日溜まったままだ。服はあちこちに散乱している。床は埃でざらざら。
 それでもゆーちゃんは、毎日18時に必ず卵を買って帰って来る。仕事で疲れた身体で、毎日毎晩、私のレシピノートを見ながらプレーンシフォンケーキを焼いていた。「また失敗」「またダメだ」「もったいない」と毎日文句を言いながら、シフォンケーキを焼いていた。
 せめて、人間だった頃のように話ができればよかった。
 話せたら、ゆーちゃんに「もうやめていいよ」と言えた。「私の夢なんて、叶えようとしてくれなくていいよ」って。「ゆーちゃんがしたいことに時間を使って」と言えたはずなのに。

 私の葬式が終わった後、私の遺品を整理しにやって来た父の言葉にぐうの音も出なかった。
 その通りだった。私はシフォンケーキの店を開くんだといつも言っていたけれど、なにかと理由をつけて開店の日を伸ばし続けていた。
 なぜって、どこかでやっぱり自信がなかった。それに、準備も大変だ。開店するにあたっていくつか許可を取りに行って、店舗を借りて、機材を用意して。どこから材料を手に入れるのかも考えなければならないし、宣伝もおざなりにはできない。これまで一生懸命貯めて来たすべてのお金をつぎ込んで、準備をして、それでうまくいかなかったらどうしようと、とてつもなく不安になる。私にはこの夢以外になにもない。そのためだけに今まで生きて来たのに、失敗してしまったらその先どうやって生きて行けばいいのだろうと夜も眠れなくなった。ちゃんとした仕事はない。失敗したときに私の生活を見てくれる誰かもいない。まさに一世一代の賭け事だった。
 たぶん私は、商売は向いていないのだろう。失敗を恐れているようでは、なにも成功しない。失敗するだけだ。
 だから私は、死んでしまったのかもしれない。失敗する前に。失敗して人生に絶望する前に。夢を夢のまま、綺麗なままで置いておくために。
 こんな私の想いを知ったら、ゆーちゃんは怒るだろうか。呆れるだろうか。
 私にとっては、どちらも怖かった。

 飼い猫は自由気ままな生活だ。部屋で1日ぼんやりと過ごして、ご飯もトイレもある。お金なんて払わなくていい。働かなくていい。
 でも、つまらない。
 ケーキは焼けないし、ゆーちゃんとくだらないことを喋ったりできないし、欲しいものも買えない。働かなくてもいいのは楽だけれど、働かないとこの世界から必要とされていない気がして、余計に自分の存在価値がわからなくなる。手を出したいのに、手は毛だらけの肉球がついた猫の手だし、なにもできない。
 私は毎日、ただゆーちゃんがきょうも元気に帰って来られますように、とそれだけを願って、この2LDKの部屋で待っている。

 窓の外はもう、夏の雲が大きく広がっていた。
 ソフトクリームみたいで、おいしそうだ。

「ただいまー」

 ちょうどぴったり、18時。ゆーちゃんが帰宅する。
 顔色はあんまりよくない。土色だ。
 きょうは金曜日。土日は休みだから、ゆーちゃんも少しはゆっくりできるだろう。

「きょうはLサイズの卵、売り切れだった」

 私はすぐにゆーちゃんの元へ行き「にゃあ」と鳴いた。疲れた顔のゆーちゃんは私を撫でる。
 ちなみに、私がどんなに人間だったころのように言葉を喋ろうとしても、すべて「にゃあ」へ変換されてしまうだけだった。どんなに長い言葉を喋っても、せいぜい「にゃあーー」と語尾が長く伸びる程度だった。

「疲れた……」

 疲れたと言いつつも、ゆーちゃんはそのままキッチンへ向かう。きょうも卵を買って帰って来た。今からまたシフォンケーキを作るのだろう。

「なんでうまくいかないかなぁ」
 
 ゆーちゃんはきのう失敗したシフォンケーキをつまんで食べて、首を捻らせている。
 きのうゆーちゃんが焼いたシフォンケーキは、型から外す前に型から落ちた。
 シフォンケーキは焼き上がったあと、すぐにひっくり返した状態で冷まさなければいけない。そのままの状態だとせっかくふわふわに膨らんだシフォンケーキが、小さくしぼんでしまう。シフォンケーキの型は、中央が筒形になっていて、中からも熱が伝わり、むらなく焼けるように作られている。形を膨らんだままの状態でキープさせるため、私はいつもワインのボトルにひっくり返して刺したまま冷ましていた。冷めたらシフォンケーキが乾燥しないようラップで包み、さらに一晩冷蔵庫で冷やす。私はいつも一晩冷まして、次の日にシフォンケーキを型から外していた。

 シフォンケーキはクッキーや焼き菓子を作るよりはるかに難しい。シフォンケーキは水分量が非常に重要で、正確に測って作らなければ失敗してしまう。ゆーちゃんはまだそれに慣れていないから、一度も完璧なシフォンケーキを作り出せていない。
 きのうのシフォンケーキが型から落ちてしまった原因は、おそらく水分量が多かったせいだと思われる。その他にも、焼き時間が短かいと生地が重たくなってしまい、逆さまにして冷ましていると落ちてしまう。
 こんなとき、人間だったら「水分量が多いんだよ」と教えられるけれど、今の私にはできない。
 ただ、シフォンケーキを作るときはずっとゆーちゃんのそばにいる。それしかできることはなかった。時々口を出すけれど全部「にゃあ」になってしまうので、うるさい猫だなぁと思っているに違いない。

 ゆーちゃんはいつもの部屋着に着替えて、卵を割り始めた。
 うちにあるシフォンケーキの型は17センチ。基本的なシフォンケーキの作り方は、17センチの型で作る場合だと、Lサイズの卵なら大体3個。卵黄と卵白を分けて、卵黄の生地には薄力粉や水、サラダ油を入れる。卵白の方はグラニュー糖を入れてメレンゲを作り、ふたつを合わせて焼くという、材料としてはいたってシンプルだ。シンプルだけれど、水分量の違いでシフォンケーキの触感や味がずいぶんと変わって来る。私が作るシフォンケーキの黄金比にたどり着くまでかなり時間がかかった。もちろん、簡単には人に教えられない。まあ、私のレシピノートにはそれが書き留めてあるのだが。それを見ながら作っているものの、やっぱりゆーちゃんには難しいらしい。

「あーちゃんは本当にシフォンケーキ作るの上手だったんだね」

 こんなに失敗するなんてさ、とゆーちゃんはブツブツ独り言を言いながら卵白と卵黄を分けている。
 シフォンケーキを作るため、私はあらゆる店のシフォンケーキを食べ歩き、お取り寄せし、シフォンケーキのレシピ本を読み漁った。いろいろ作っていくうちに、使う油はサラダ油ではなく太白ごま油に行きついた。バターを使うとバターの香りもよく、おいしいのだが、私が求めるふわふわで口に入れたときにしゅわっと空気の音がするシフォンケーキとは少し違う気がした。もちろん、バターシフォンという名で売るのはありだなとは思う。
 そういうわけで、色々試行錯誤をした結果、私のプレーンシフォンケーキは今の形で定着した。

 ゆーちゃんが卵を割り終わったところで、インターフォンが鳴った。

「え? こんな時間に、誰だろう」

 時間は18時半。宅配便だろうか。私もゆーちゃんに続いてドアの方へ行く。

「突然ごめん、家出してきた」

 ドアを開けるとそこには、夕美の甥っ子ーー森下光希(もりしたこうき)が立っていた。

「光希?! え、家出っ?!」

 ゆーちゃんは素っ頓狂な声を出して、目をひん剥いている。

「ちょ、お姉ちゃんは知ってるの?」
「家出だから知らないと思う」
「え、ちょっと……っえ?」
「あれ、ゆうちゃん猫飼ってるの?」
「にゃー(家出してきたなんて、なにがあったの?)」

 伝わらないなりに私は訊ねた。

「おー、よしよし」

 光希は私の頭を笑顔で撫でている。やっぱり全然伝わらない。

「もしもし? お姉ちゃん?」

 ゆーちゃんはすぐに光希の母親、自分の姉の千晴(ちはる)ちゃんに電話をかけていた。

「光希がこっちに来てるけど、大丈夫なの?」

 うん、うん、とゆーちゃんは真剣な表情で頷いている。
 光希とはあまり会ったことがない。でも話しはゆーちゃんからいつも聞いていた。ゆーちゃんは千晴ちゃんが妊娠したとき自分のことのように喜び、産まれたときは泣いて抱っこしていた。千晴ちゃんはなかなか子どもができず、不妊治療を頑張っていて、ようやく授かった大切な子だった。

「光希、きょうは泊っていくの?」
「あ、うん。もしゆうちゃんが良ければ」
「じゃあ、今晩はこっちで泊めるから。うん、わかった。じゃあまたね」

 電話を切って、ゆーちゃんはふぅ、と息を吐く。

「びっくりしたんだから。突然来て」
「ごめんって」

 光希は私をべたべたと撫でながら、少しぶっきらぼうに答えていた。
 確か、光希は今高校3年生だったはず。そろそろ夏休みだろうか。
 いいな、夏休み。
 羨ましがって急に思い出す。私はもうずっと夏休みみたいなものだ。でも休みしかない人生、もとい、休みしかない猫生と、たまの休みがある人生とでは張り合いが違う気がした。

「ゆうちゃんは、最近どう?」
「……どうって?」
「いや、元気にしてるのかなって」

 ゆーちゃんも光希と会うのは久しぶりのようだった。不倫していた、でも別れて仕事を辞めて転職して、女友達と同棲することにした、なんてゆーちゃんははっきり家族に教えていないだろう。この1年はバタバタしていた。

「まあ、色々あるけど、それなりにやってるよ」
「ふぅん」

 ふぅんって、と私は思わず突っ込みたくなる。

「光希は? どうしてまた家出なんてしたの? 喧嘩しちゃった?」
「うーん、まあ、そんなところかな」

 はっきりなにがあったとは言わなかった。でもゆーちゃんは「そっかぁ」と優しい笑顔を浮かべている。ゆーちゃんは優しい。

「なにか作ってるの?」
「うん、シフォンケーキ」
「……え? まじ?」
「うん、まじ」

 光希もびっくりしたらしく、卵黄と卵白を分けたボウルの中をまじまじと見つめている。

「ちゃんと食べられるシフォンケーキ?」
「ちゃんと食べられる……はず」
「はずって?」
「今まで一度も成功してないんだよね。毎日焼いてるんだけど」
「毎日?!」

 ゆーちゃんと光希がキッチンに立ち並ぶ背中を見つめながら「まさかこんな未来があるなんて」と私はしんみり思った。

「私、シフォンケーキの店を開こうと思って」
「え、そうなの?」
「うん」

 あーちゃんは卵黄を混ぜながら頷く。

「ゆうちゃん、料理好きじゃなかったよね? どうしてまた、シフォンケーキの店を開くの?」
「……うん」

 光希はなにも答えないゆーちゃんの隣に、ずっと立ったまま答えをじっと待っていた。

「なにか手伝おうか?」
「いや、大丈夫。全部ひとりでできるようになりたいから」
「そっか」

 親子ではないけれど、このふたりよく似てるなぁ。
 ふたりの時間を邪魔してはいけないと、私はソファの上に座って耳だけをキッチンに向けていた。
 ゆーちゃんはきっと、結婚してもいいなと思える人と出会って、結婚して、できるなら子どもを授かって、子育てをする人生を想像してたんだろうなと私は思う。
 私とゆーちゃんは幼稚園の頃からの親友で、だけど性格はあまり似ていない。ゆーちゃんは優しい。おっとりしていて、小さい頃から男にモテるかわいい子だった。今も美人だ。本気で結婚したいのなら、今からでも十分に可能性があるんじゃないだろうか。
 
 私はゆーちゃんみたいに美人じゃないし、仕事はあんまりできない。できることと言えば、料理と掃除くらいだ。結婚なんてしなくていいと思っていた。自分で自分のためにおいしいものを作って食べて、時々自分が作りたい人に手料理を振舞って、のんびり生活できたらそれで十分だと思っていた。結婚して、誰かのためにご飯を作ったり、誰かの分の洗濯物をしたり片づけをしたり、家政婦をするのはまっぴらごめんだった。
 30歳の頃「ああ、この人となら結婚してもいいかな」と初めて思えた恋人がいた。向こうも結婚する気でいたようで、プロポーズの言葉はなかったものの、指輪を見に行ったり式場を見に行ったりした。式場でおしゃれな料理を食べて、ウエディングドレス姿の自分を想像したりもした。
 でも、お互いの両親を合わせようと計画し始めた頃、彼は突然言った。「燈は子どもができたら、絶対いいお母さんになれるよな」と。
 人によっては誉め言葉として受け取れたかもしれない。でも私には、その言葉に違和感しかなかった。話しをしていくと、彼は結婚したらなるべく早く子どもがほしかったらしく、理由を聞くと「だってもう30だよ?」と当たり前のように答えた。
 確かに女が子どもを生める年齢は限られているかもしれない。だけど、私の夢は? 彼は私がいつかシフォンケーキの店を開きたがっていることを、重々理解しているはずだった。彼と出会った頃から、夢として私は語っていたからだ。
 でも彼は「シフォンケーキの店を開業させても、儲かるのはほんの一握りの人間だよ」と、笑って言ったのだ。私の夢を、ただの夢だと思っていたのだろう。

 今ならわかる。あの頃の私はまだまだ若かった。夢を目指すのも、諦めるのも、自分で決めたい。それが普通だ、とその当時の私は思っていた。だから彼とはその日にすぐに別れてしまった。
 結婚したら、自分の夢を諦めなければならないのか。それなら、結婚なんてしなくていい。
 そう思った。
 結婚寸前の恋人と別れたのに、私は生きているうちにシフォンケーキの店を開くことはできなかった。当時の彼に会ったら、笑われてしまいそうだ。「結局開かなかったじゃん」と。
 私は、自分の夢を応援してくれる人と結婚したかったのだろう。私が目指すものを応援してくれて、諦めたなら慰めてくれる、そんな人と。
 そんな都合のいい人、いるわけがないだろ。今なら当時の自分にそう言ってやりたい。
 だけど、そんな私にとってゆーちゃんは、理想の同棲相手だった。いつも夢を応援してくれたし、どんな料理を作ってもおいしいと残さず食べてくれた。ゆーちゃんと一緒に暮らしたこの約1年は、本当に楽しかった。なんの遠慮もいらない。話したいことは尽きないし、これまで過ごしてきた時間が、私たちにとって強い絆だった。
 私の中では、ふたりでルームシェアを続けて、老後ものんびりゆったりできたらなぁという夢が、少しずつ膨らんできたところだった。

「シフォンケーキのメレンゲが、作る過程で一番大切らしいよ?」
「そうなの?」
「ほら、ネットで検索したら出て来た」
「どれどれ……」

 ふたりはキッチンでシフォンケーキ作りに真剣だった。
 猫になってしまった私のこれからは、一体どうなってしまうんだろう。いつまでこのままなのか、そもそも助けた猫自身はどこへいったのか。考えれば考えるだけ疑問ばかりが浮かんでくる。でも、どれも考えるのを辞めた。猫になるなんて非科学的なことが起こったんだから、この先起こる出来事も予測できるはずがない。

「型に流し込むときも、なるべく空気を入れないように、ささっとやることがコツだって」
「空気を入れないようにって、どうやってやるんだろう」

 ふたりは動画の説明を観ては止めて、また戻して再生してを繰り返し、オーブンを予熱して、ケーキを焼き始めた。

「ふぅ、疲れた」

 ゆーちゃんはそう言って粉だらけの服のまま、椅子に腰かける。

「お腹空いたなぁ。光希は?」
「俺はご飯食べて来た」
「ご飯食べてから家出してきたの?」
「まあね」
「そっか、じゃあ、準備万端だったわけだ」

 笑いながらゆーちゃんは時計を見る。

「もう21時かぁ。1日、あっという間すぎる」
「ご飯食べなよ。なんかないの? 買って来ようか、コンビニで」
「いいよいいよ。適当にあるもの食べるから」

 そう言って「よいしょ」と立ち上がると、きのう炊いておいた白いご飯に、納豆を冷蔵庫から取り出して、お湯を注ぐだけのインスタント味噌汁を棚から掴み取る。

「私って、本当に料理が得意じゃないよね」
「本当に」

 光希はそう言って、きょう初めて笑顔を見せた。
 ゆーちゃんは味噌汁にお湯を注いで、混ぜながら光希を見る。

「家出って、本当は嘘でしょ」
「え?」
「お姉ちゃんに、偵察頼まれたんじゃない? 私がちゃんと生活してるかどうか」

 光希はゆーちゃんからそう言われると、目を細めて「ほほーん」という顔をしてニヤついた。

「さすが、ゆうちゃん。いつからわかった?」
「お姉ちゃんに電話したときかな。全然動揺してなかったもん」
「母さんが提案した割に、演技下手だな」

 ふたりは顔を見合わせて、くすくす笑った。

「どこまで知ってるの?」
「割と、知ってると思う。母さんも、おばあちゃんたちも」
「やっぱり、そうだよね」

 味噌汁をふーふーと冷ましながら、ゆーちゃんは席に着いた。一口飲んで、また小さく息を吐いた。

「燈ちゃんが亡くなったって聞いて、母さんもおばあちゃんもびっくりしてた。ゆうちゃんのことも、心配してるよ」

 光希は私と会ったことがないけれど、私をよく知っている口ぶりだった。ゆーちゃんは光希に私の話をよくしているのだろう。

「甥っ子からも心配されちゃうなんて、頼りない叔母さんだよね。ごめんね」
「そんなことないよ」
「だけどさ、結構参っちゃって」

 参っちゃって、と聞いて、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。どうしてあげることもできない自分も、嫌になる。

「あーちゃんはね、シフォンケーキの店を開くのが夢だった。あーちゃんのシフォンケーキ、おいしいんだ。本当に。みんなに食べてもらいたかった」
「うん」

 光希は頷く。

「食べてみたかったな。いっつもゆうちゃん話してたから」
「あーちゃんがいなくなって、夢まで消えちゃうのかなって思ったら、急にものすごく寂しくなって。だから、私がその夢を代わりに叶えられないかなって思った」

 バカみたいでしょ? とゆーちゃんが訊ねると、光希は首を横に振った。

「すげぇよ。そんな友達、どこにもいないっしょ」

 どこにもいないよ、そんな友達。
 私もそう答えたかった。
 自分にとって大切なものを、他人に理解してもらうのは難しい。それは、長年寄り添った夫婦であっても理解できないことがある。付き合っていた恋人でさえ、私の夢を理解できなかった。ゆーちゃんはそのたったひとつの大切なものを、増田燈ががいなくなってしまった世界で一生懸命守ってくれている。
 猫になった私でも、シフォンケーキの店を開くという夢は、叶えられるだろうか。

 焼き上がったシフォンケーキは、少しふくらみが足りなかったけれど、ゆーちゃんにとって初めて成功したシフォンケーキとなった。
 翌朝、ゆーちゃんと光希はシフォンケーキを大きくカットして、たっぷりの生クリームをつけて食べた。
 おいしい、うまい、と言って、ふたりで全部食べてしまった。