30歳の誕生日に、母から礼服をプレゼントされた。思ってもみなかったプレゼントに、私は動揺したのを覚えている。

 誕生日に礼服?
 しかも、こんなお葬式で着るような服、どうするの?

 しかし、母は「いつ誰が亡くなってもおかしくない年齢になったのよ。一着くらい、ちゃんとした礼服を持ちなさい」と真顔で言った。
 誕生日なのに、と何度も思ったけれど、今になって思う。
 本当に、いつ、誰が、どこで、何歳で、どうやって死ぬかはわからない。
 私はクローゼットから礼服を取り出して、黒いストッキングを履きながら、約10年も前の出来事を思い返していた。私の横には、一昨日やってきた野良猫がまだいた。
 あの頃の私は30歳だった。本気で必要のないものをもらったと思っていたけれど、今は別の感情しかない。
 この先、おそらくこの礼服を着る機会は今までの39年間より多くなる。だけど、どうか、なるべくこの礼服を着る機会が少なくありますように、と心の中で願っていた。それが不可能だということはよくわかっている。人はいつか死ぬからだ。私も、いつか死ぬんだ。

 あーちゃん、本当に死んじゃったのかな。

 死を理解しているようで、私は全く死を理解していない。たぶん、私だけではなく、他の大勢も同じだろう。
 私はお通夜もお葬式も参列した。あーちゃんの両親と、あーちゃんの弟(のぼる)くんとその奥さんと子どもたち。顔を合わせたときに、なんて言っていいのかわからなくなった。

「この度は、本当に、ご愁傷様です」

 ご愁傷様です、と口に出すと違和感しかなかった。
 違う、私が言いたいのはこんな言葉じゃない。

 あーちゃんが死んだなんて、嘘ですよね?
 どこかに出かけてるだけですよね?
 きっとどこかのシフォンケーキがおいしいって評判の店に、ケーキを買いに行ってるんですよね?
 いつ帰って来るんですか?
 あーちゃんと、牛すじカレーを食べる約束をしたんです。

 棺桶の中で眠るあーちゃんは、あーちゃんではなくただの人形のようだった。

「あーちゃん……どうして……」

 あーちゃんとの最後の会話がどうしても思い出せなかった。なんでもない、いつもの会話だったはず。
 さよならなんて、できるはずがなかった。
 みっともないけど、神様に縋り付いて返してもらいたい気持ちでいっぱいだった。
 お通夜では多少晴れていたが、次の日のお葬式は雨が降っていた。黒い傘がずらりと並び、傘に落ちる雨粒の音がやけに大きく聞こえた。
 あーちゃんが乗った霊柩車が遠ざかっていく。私はあーちゃんをずっと、ずっと見続けていた。もうすっかり見えなくなっても、まだ私は家に帰ることができなかった。家に帰ったら、あーちゃんがいてくれないかなと思ってしまって。

 誰もいない部屋へ帰る。

「ただいま」

 誰もいないとわかっていても、ただいまとは言いたくなってしまう。

「にゃあ」

 足元で猫が鳴いた。あーちゃんではないけれど、猫が「お帰り」と言ってくれたような気がした。ただいま、ともう一度言ってから猫を撫でる。撫でると猫がわかりやすくゴロゴロと鳴いた。
 ストッキングを脱いで、礼服をハンガーにかけると、もう何年も着ている部屋着に着替えた。ズボンはゆったりで楽だ。セットで買った上のシャツには猫のプリントがついていたが、かなりボロボロになってしまった。捨てればいいのに、なぜか着ると落ち着くしボロボロでも部屋着だから誰に見せるわけでもない。結局捨てられずいまだに着ている。

「猫ちゃん、うちに帰らなくて大丈夫なの?」

 すっかり居着いてしまって、猫がここを出て行く気配はない。試しにドアを開けてみたり、窓を開けっぱなしにしてみたけれど、猫は自分の家みたいにソファでくつろいでいた。首輪もしていないし、やっぱり野良猫だろうか。

「帰るところがないなら、うちにいてもいいよ」

 このベル・ウッドはペット可の物件だ。隣の部屋の人は猫を飼っていて、いつも仕事へ行くときに出窓で日向ぼっこしているのを見かける。
 猫を飼ったことはないし飼おうと思ったこともないけれど、この猫を見ているとペットを飼っているというよりは、無口で自由気ままな同居人がいるみたいな感覚だった。おいで、と言っても来ないが、私の顔だけはしっかり見る。
 そういえば、名前がない。
 この猫を飼うなら、名前はさすがに必要だ。

「なんて名前がいい?……タマ、とか?」

 猫は私の方を一切見なかった。知らん顔だ。
 タマは嫌らしい。
 そういえば、この猫はオスなのかメスなのか。私は猫を無理やり抱き上げて見る。

「にゃーっ!」

 ものすごい声で鳴いて、身をよじって逃げようとする。
 この子はどうやら、メスらしい。

「ごめんって」

 そんなに怒らなくても、と私は猫を床に下ろした。

「じゃあ、エリザベスとか? マリアンヌ?」

 三毛猫にその名前はさすがにないか、と私は思い直す。

「あーちゃんなら、なんて名前つけたかな……」
「にゃー」

 猫はなぜか返事をして私を見ている。

「え?……あーちゃん?」
「にゃー」

 あーちゃんという名前にどうやら反応しているらしい。偶然だろうか。

「あーちゃん?」
「にゃー」

 この名前が気に入っているのだろうか。

「いやでもなぁ、友達の名前を猫につけるなんて変だよね」

 ソファに寝転がって、猫をお腹の上に乗せた。全然嫌がらない。

「あーちゃん……あーちゃんか……」

 猫がやって来た夜。雨が降る寂しい夜を思い出す。

「……雨か。よし」

 私は猫を撫でてまじまじと見つめた。

「じゃあ君は、きょうからアメのアーちゃんにしよう」
「にゃー」

 鳴いた。不満はないってことだろうか。

「よろしくね、アーちゃん」

 ブルブルと振動する音が聞こえた。あ、スマホどこへやったっけ。
 私はソファから身体を起こし、黒い鞄の中からスマホを引っ張り出した。あーちゃんのお母さんだ。

「もしもし」
「あ、夕美ちゃん? 今いいかしら」
「はい、大丈夫です」

 お母さんの声はずいぶん憔悴しているように聞こえた。おそらく、今火葬場からかけているのだろう。

「きょうはありがとうね。いろいろ、ごめんね」
「いえ、そんなことは……」
「燈の遺品を、どこかで取りに行こうかなって思ってるの。夕美ちゃんもそのままだと迷惑になるだろうから」
「私は全然」

 私はスマホを片手にあーちゃんの部屋を覗く。
 あーちゃんの部屋は和室だった。小さい頃からベッドではなく敷布団で寝ていたせいで、ベッドは落ち着かないらしい。マットレスほど分厚くはないが、敷布団よりは分厚い布団を敷いて眠っていた。あーちゃんの部屋は綺麗に整理されている。私の部屋とは大違いだ。小さな机の上にはレシピ本が詰まれている。本棚も全部料理本だった。美味しいパンの焼き方、天然酵母パン、お洒落カフェ飯、お弁当のおかず。そして、シフォンケーキの本がたくさんあった。

「あーちゃんの部屋、そのままにしておきますから。いつでも大丈夫です。落ち着いてからで」
「ありがとうね」

 電話を切って、扉を閉めようとするとアメがするりと部屋へ入り込んだ。

「ダメだよ、そこはあーちゃんの部屋なんだから」

 そういっても猫はずかずかとあーちゃんの部屋で寝転がる。そして私を見た。
 ここは私の部屋だ、と言わんばかりの表情に見えて仕方がない。
 それにしても、アメはここへ来るまで一体どんな生活をしてきたのだろうか。まるで人間みたいな仕草をするときがあるし、人にもずいぶん慣れている。

「猫を飼うために必要なもの、揃えないとね」

 今は段ボールで作った簡易トイレで用を足してもらっている。猫は賢い。トイレだと教えたら、ちゃんとそこでする。猫の餌は近くのスーパーで手に入れて来た。でもアメはエサを全く食べない。このエサでは嫌なのだろうか。他のを試す必要があるのかもしれない。
 私はもう一度ちゃんとした服に着替えて、部屋を出た。ちょうど近くにペットショップがある。そこですべての用事は済ませられるだろう。
 アメを何度あーちゃんの部屋から出そうとしても出てくれなかったので、仕方なくそのままにしておいた。あーちゃんも生きていたらきっとアメを叱らないだろう。
 朝から降っていた雨は上がり、雲の間から太陽が顔を覗かせていた。

 あーちゃんのお葬式から1週間も経たないうちに、あーちゃんの両親は家へやって来た。

「ごめんね、突然」

 駅前の洋菓子店の袋をぶら下げて、疲れ切った様子のふたりは部屋に入って小さくため息つく。
 アメがふたりの足元に座り、見上げて「にゃあ」と鳴いた。

「あら、猫ちゃんじゃない」
「はい、最近飼い始めたんです」

 あーちゃんのお母さんは「かわいいねぇ」とアメを撫でる。アメは目を細めてグルグルと喉を鳴らす。

「名前は?」
「アメです。雨の日に出会ったので。単純な名前ですけどね」

 どうぞ、と私はふたりをテーブルに案内した。2人掛けのテーブルなので、椅子も2脚しかない。
 コーヒーを淹れて、ふたりの前にソーサーとカップを置く。私は食べるのは得意だが作るのも食への興味もあまりない。だけどあーちゃんがいたから毎日美味しくて健康的な手料理が食べられたし、あーちゃんがいたから可愛らしい食器も家にそろっていた。このカップも、あーちゃんのお気に入りで私たちがいつもコーヒーや紅茶を飲むときに使う。レースの模様がついた、薄いブルーの陶器のカップとソーサーだ。ちょっとフレンチっぽい雰囲気がある。
 私たちは暇さえあればやきもの散歩道をぶらつく。あーちゃんは食器が大好きだから、行くたびに食器が増えた。食器を見ると、作りたい料理が浮かぶと言っていた。
 私はあーちゃんが植物を置くために買った小さな椅子に腰かけた。こういうものも、あーちゃんがいなければ私は買ったりしない。大体、植物は枯らしてしまうばかりだった。部屋の中は、あーちゃんが一生懸命育てたポトスや多肉植物の寄せ植え、おしゃれなドライフラワーなんかがあちこちに飾ってある。シフォンケーキの上に飾るミントは絶対に切らせちゃいけないので、テーブルの上にあるガラスの小さな花瓶に一本切ったミントと、鉢植えのミントもあった。あーちゃんがいなくなってから、なるべく枯らせないように心がけて一生懸命お世話をしていた。

 ふたりは静かにコーヒーを飲み「あー、おいしい」とあーちゃんのお母さんが小さくつぶやくように言った。
 あーちゃんは長野からお気に入りのコーヒー豆を取り寄せていた。わざわざコーヒー豆を取り寄せるほどおいしいのかと私は疑っていたが、一口飲めばわかる。あーちゃんの言う通りだった。

「あーちゃんが好きなコーヒーなんです。毎朝これを飲んでました」
「そうなのね。あの子、こういうの本当にこだわりが強かったからね」
「このカップとソーサーも、あーちゃんが選んだんです」

 あーちゃんのお母さんは目を細めて「あの子が好きそうだものね」と微笑んだ。
 あーちゃんのお父さんは、ここへ来てから一言もしゃべらない。静かに、黙ったままだ。
 そういえば、私たちがふたり暮らしをすることにお父さんはあまり納得していなかったと聞いた。40歳にもなる女同士が一緒に住むって、親からしたら確かに複雑なのかもしれない。もう結婚は諦めました、老後に向けて友達と住みます、みたいに聞こえたのかも。
 あーちゃんのお母さんが立ち上がり、あーちゃんの部屋を覗く。覗いて「あの子らしい部屋だわ」と誰もいない部屋に向かってつぶやいた。

「料理の本ばっかりね」
「あーちゃんは、本当に料理上手だから」
「ケーキ屋をやるって言ってたのに、結局やらなかった」
「……お父さん」

 ようやく口を開いたかと思えば、あーちゃんのお父さんは椅子に座ったまま、遠くを見つめるように言った。

「大口叩いていた割には、夢なんて最初から叶える気がなかったんだ」
 
 私はぼんやりあーちゃんのお父さんを見つめた。
 お父さんとあーちゃんがどんな関係だったのか、私はあんまりよく知らない。親子だからといって、うまくいっている家庭はほとんどないんじゃないかと私は思う。私も、両親とはそこまで仲が良くない。
 だけど、あんまりだ。
 あーちゃんは一生懸命だった。一生懸命シフォンケーキを研究して、作って、また考えて、研究して。お金だって、ずっと頑張って貯金していた。この不景気な世の中で、給料から生活するのだって精一杯なのに。

「あーちゃんは、本気でしたよ」

 あーちゃんの家に遊びに行った遠い昔を思い出す。お父さんはいつも仕事で家にいなくて、休みの日に遊びに行っても家にいなくて、あんまり話をした記憶がない。

「本気なら、もうとっくの昔に店を出しているだろう」
「それは、お金を貯めるために仕事を掛け持ちして……」
「それじゃあ、燈はケーキ屋を出したと思うか? この先、どこかで、生きていたら」

 生きていたら、と付け足したときのお父さんは、少し鼻声だった。

「思います」

 私ははっきり言い切った。

「そう思います。燈は、店を開いていました。絶対に。生きていたら」

 生きていたら、と私が言ったときには、涙がつい零れてしまって慌てて手で拭った。
 久しぶりに、あーちゃんではなく燈と名前を呼び捨てにした。ちょっと変な感じだ。

「でもそれも、叶えられない夢だ」

 部屋の中がしんと静まり返る。
 きょうは朝からいい天気だった。開けた窓から温かい風が吹いて、あーちゃんのお気に入りだった花柄のレースのカーテンが揺れる。

 あーちゃんの夢は、もう消えてしまったんだろうか。

 ふと、そんな疑問が頭を過る。
 あーちゃんはいない。私がどれだけ現実逃避したって、あーちゃんはもう戻って来ない。だけど、あーちゃんの夢まで、消えてしまうのか。それは寂しい気がした。

「私が、あーちゃんの夢を引き継ぎます」
「え?」

 あーちゃんのお母さんが驚いた顔をして私を見る。

「え、だって夕美ちゃんは、お料理あんまり得意じゃないって燈から聞いてたけど?」
「はい、得意じゃないです」
「そんな……あの子の夢を代わりに追いかける必要は全くないのよ? だって、夢なんだから」
「あーちゃんの代わりに、私が叶えたいんです。あーちゃんのシフォンケーキを、みんなに食べてもらいたいんです」

 そう言っておいて、誰がシフォンケーキを作るんだろう、と考えてしまった。私だ。私しかいない。いや、私なんかが作れるだろうか……。あーちゃんの味を再現できるのだろうか。
 ふっ、とあーちゃんのお父さんは乾いた笑い声をひとつあげて、それ以降やっぱりしゃべらなかった。それからあーちゃんの両親は無言であーちゃんの遺品をいくつか持って、帰って行った。遺品と言っても、ほとんど破棄するためのゴミを持って行った感じだった。あーちゃんの料理本だけは、全部置いて行ってもらった。

「はぁー」

 大きなため息をついて、ソファに寝転ぶ。

「にゃあ」

 アメが私のお腹の上に乗った。アメを撫でながら「つい、強気で言っちゃったよ」とこぼす。にゃーと答えたアメの口の中には、小さな尖った歯がいくつも見えた。

「だってさ、あーちゃんの夢だったんだよ。シフォンケーキのお店を開くことは」

 アメは喉をゴロゴロ鳴らしながら、私の話を訊いているように見えた。

「あーちゃんもいなくなったのに、あーちゃんの夢まで消えちゃうなんてさ……」

 だけど、私なんかがどうやってシフォンケーキ屋を開こうというのか。確かにあーちゃんのシフォンケーキはみんなに食べてもらいたい。でもその肝心のあーちゃんがいない。料理もあまりしてこなかった私が、シフォンケーキなんて作れるのだろうか。作り方も知らない。
 アメは私のお腹をぐっと蹴って、床へ飛び降りた。ぐふ、と一瞬痛かった。

「ちょっと、なんなの急に」
 
 私の言葉なんて聞かぬふりをして(耳だけはこちらを向いていた)、アメはあーちゃんの部屋へ入って行く。

「アーちゃん? そっちはあんまり入らないで」
 
 しょうがないな、と私は身体を起こして立ち上がり、アメのあとに続く。
 アメは机の上にあった本を崩した。

「こら、ダメだって」

 アメを抱き上げて机から下ろし、床に落とされた本を拾った。

「にゃあ、にゃあ」

 下ろしてもまたアメは机の上に上り、本を爪で引っ掻いて床に落とす。

「ちょっと、いい加減に……」
「にゃあーにゃあー」

 アメが鳴きながら1冊のノートを爪で熱心に引っ掻いている。
 かなり年季の入ったノートで、表紙にはケーキのイラストがついていた。
 そういえば、あーちゃんはいつもこのノートに一生懸命書き込んでいたような気がする。
 私はアメから取り上げると、中を開いた。
 どうやらそれは、レシピノートのようだった。あーちゃんの可愛らしい文字がつらつらと並んでいる。しかし中身はしっかりしていた。まるでレシピ本のように、きっちりと細かく分量や材料が書き込まれている。
 これなら。もしかしたら、私にもあーちゃんのシフォンケーキを再現できるんじゃないだろうか。
 プレーンシフォン、抹茶シフォン、柚子シフォン、チョコバナナシフォン、紅茶シフォン。おいしそうなレシピがノートいっぱいに書き込まれていた。私が食べたシフォンケーキは、まだまだほんの少しだったんだな、と思う。

 私の夢って、なんだったんだろう。

 ふと、ノートを捲りながら考える。
 あーちゃんにはこんなに立派な夢があった。そして、叶えようとしていた。
 そっと、ノートの文字をなぞる。あーちゃんが楽しそうに、目をキラキラと輝かせて書いている様子が手に取るように思い浮かぶ。
 私は将来の夢について小学生の頃に文集で書かなければならなかったときの苦痛を、今でもはっきりと思い出せる。でも、結局なんて書いたのかは思い出せなかった。
 医者、弁護士、教師。そんな立派な夢を持っていた子には、私みたいな悩みはわかるはずもないだろう。でも私は、なりたいものになるための努力を知らない。
 外から子どもの声が聞こえた。締め切ったカーテンをあけて、外を覗く。2、3歳くらいの子どもが母親に手を引かれながら歩いているのが見えた。
 ああ、私はたぶん、結婚したかったんだ。
 将来の夢とは違うけれど、将来の自分を思い浮かべたとき、いつも私は誰かと結婚していた。どんな会社でもいい、ある程度の福利厚生と生活できて貯金もできるくらいの給料がもらえる会社に勤めて、どんな出会い方でもいいから、誠実で価値観の合う人と結婚する。そして、縁があれば子どもを持つ。できれば家も持ち家に。ぼんやりはしていたけれど、それが私の将来図だった。
 だけど、現実は全く違う。私は恋愛にあまりいい縁がなく、5年も不倫関係を続け挙句別れてしまい、長年勤めた会社を40歳手前で辞めて、なんとか転職した会社では地位も給与も下がってしまった。持ち家なんて夢のまた夢。結婚相手も見つからず、子どももいない。親友まで亡くしてしまった。まあ、転職できただけでもありがたいと思わなければと、歯を食いしばって日々働いている。働かなければ、生きていけない。

 こんな未来図を、誰が想像できただろうか。
 あーちゃんだって、夢を叶える前にまさか死んじゃうなんて想像もしていなかっただろう。
 窓際に立ったまま、ぼんやりと空を眺めた。夕日が綺麗だ。そろそろ梅雨も終わる。そうしたら、暑い夏がやって来る。
 あーちゃんはいないまま、季節だけが移り変わっていく。
 梅雨が始まる前に、時を戻せないだろうか。なんとかして、戻す方法はないだろうか。
 そうしたら、私はその日1日仕事を休んで、あーちゃんを家から一歩も外へ出さない。絶対に。
 牛すじカレーに必要なものは、あーちゃんの代わりに私が買いに行く。

「にゃー」

 軽々とジャンプして窓枠に昇って、アメは私の顔を見た。

「ごめんね」

 ポロポロ零れる涙をそのままに、私はアメの背中にあるハート模様を撫でた。
 アメが、アーちゃんがいてくれてよかった。
 本当に、よかった。
 私は、これから先も生きていかなければならない。あーちゃんがいなくても、私の人生はまだ続いている。でも、他人にはどうしようもなく思えるかもしれないけれど、私にはあーちゃんがやり残した夢と、アメがいる。それだけは守って行きたい。
 いや、守る。絶対に。