6月の夜。窓ガラスを叩く雨音を聞きながら、出窓に座って震える膝を抱えた。
 眠れない夜は、いつもあーちゃんが焼いてくれたシフォンケーキを食べる。「こんな時間にこんなの食べちゃって」と言いながら食べるのがお決まりだった。
 あーちゃんが焼くシフォンケーキは、ふわっふわでもちもちで、何個でも平気で食べられてしまう。幸せを運ぶ罪深きシフォンケーキだった。プレーンシフォンに乗せる生クリームもまた、幸せの味だった。あーちゃんが泡立てる生クリームは、ただの生クリームじゃない。私がこれまで何度か泡立ててみた生クリームとは、全然違う。どうやら秘密の材料を入れていたらしい。

 私――一條夕美(いちじょうゆうみ)とあーちゃんこと増田燈(ますだあかり)は、愛知県のやきものの街、常滑で生まれ育った。私たちは幼稚園の頃からの友達で、中学までは同じ学校に通っていたけれど、高校からは別々の道へ進み、別々の夢を持って、希望を両腕いっぱいに抱えて、つまずいたり転んだりしながらもそれぞれの人生を精一杯生きていた。
 去年の38歳までは、私たちは別々の場所で暮らし、ふとした瞬間に「今頃、どこでどうしているかな」と思いながら、寂しい雨の日もひとりぼっちだった。
 私が突然あーちゃんの家を訪ねたのも、ちょうどこんな天気の日だった。あれは1年前の6月だ。

◇ ◇ ◇

 梅雨が始まり、連日どんよりとした天気が続いていた。気分が最悪なのは、天気だけのせいではない。きょう、社内で「宮本さんのところ、第2子が生まれたんだって」「わー、おめでとうございます」「どっちですか?」「いつ生まれたんですか?」と騒いでいたからだろう。いや、間違いなく、それが原因だ。

 ――離婚して、夕美と一緒の人生を歩みたいんだ。

 バカだなぁ、私は。そんな薄っぺらい月みたいな言葉、信じちゃって。
 私は傘もささずに、会社の前で宮本康司(みやもとやすし)を待っていた。直接、さようならを言うためだった。
 昔から、恋だの愛だのが得意ではなかった。その証拠に、恋愛で幸せになれたためしがなかった。
 幼稚園の頃、私は同じひよこ組だった正輝くんと将来を誓い合ったのに、翌年別々の組になったとたん、正輝くんは茉優ちゃんという女の子と将来を誓い合っていた。

 思い返せば、あの頃から私の恋は決まっていたのかもしれない。中学で片想いだった先輩に思い切って告白して付き合うことになったのに、向こうは遊びで本命の彼女がいたし、高校ではラブラブだと思っていた同級生の彼氏に大学進学を理由に別れを切り出された。別々の大学へ行くからこれ以上は付き合うことはできない、と。大学では同じサークルの先輩と付き合っていたけれど、これまたあっさりと他に好きな人ができたからとフラれ、社会人になってからは大した恋をしていなかった。1年から2年付き合って別れてを繰り返し、30歳目前にして付き合っていた年下彼氏とは結婚するつもりでいたが、彼にその気がなかったらしく、結婚をにおわせたとたんに私たちの関係は終了した。

 もしかしたら私は恋だの愛だのに向いてないのかもしれない。そう思っていた33歳の冬。会社の同期と身体の関係を持ってしまった。彼は宮本康司。イケメンかつ仕事ができる同期で、会社に入った頃はあまり好きなタイプではなかったので、距離を取っていた。それが何年も働き続けていくと、周囲は転職や結婚を理由に会社を去って行き、残った同期はほんの数名になっていた。忘年会で久々に話をしたら盛り上がってしまい、彼の左手の薬指に光る指輪に気づいていたものの、私たちはそういう関係になってしまった。

 私という人間は、つくづく男を見る目がないらしい。
 親友のあーちゃんにはいつも「バカだなぁ」と笑われた。
 康司は28歳で学生時代から付き合っていた彼女と結婚。娘がひとりいる。高級住宅地に一軒家を持っていて、車も高級車。幸せを絵に描いたような人生を送っていた。それなのに私なんかと関係を持ってしまって、人生の汚点ではないのかと私自身は思っていたが、康司は「そんなわけない」といつも笑って私の髪を撫でた。
 学生時代からの付き合いで、別れるタイミングを失い、ずるずると付き合い続けてしまったため、もう結婚するしかなかったのだと言った。
「お互い40歳になったら、一生になろう」「ふたりだけ、それ以外はなにもいらない」「老後はどこか静かなところに引っ越して、贅沢に暮らそうよ」
 康司の言葉を1から10まで信じていたわけではない。妻子がある人間が、そう簡単に離婚するはずがないし、子どもに対する責任もある。だから、康司がこの関係を解消したいと言ったら、私は素直に従うつもりでいた。こんな関係にしてしまった自分が悪いのだから、この先なにがあっても誰にも弁解できない。それに、康司の奥さんに訴えられるかもしれない。多額の慰謝料を請求されるかも。私はびくびくしながら、5年も康司との関係を続けていた。

「ゆーちゃんには、意思はないの? どうしてそんな状態で付き合っていられるわけ?」

 あーちゃんとの初めての喧嘩は、康司との関係についてきつく言われたときだった。

「だけどね、康司は優しいし、私のことを考えてくれるの。仕事もできるし、会社での評判もいいの」
「そんなこと関係ないでしょ。大体ね、妻子持ちなのに他の女に手を出してる時点で、ろくな男じゃないよ。優しいんじゃなくて、自分にとって都合のいいようにゆーちゃんを転がしてるだけだよ」

 あーちゃんはいつも私の姉みたいな存在だった。私には本当の姉がいるけれど、血の繋がりのある姉より姉らしかった。面倒見がよくて、曲がったことは大嫌い。恋の駆け引きなんかも、必要ないときっぱり言い切る人だった。
 恋とは恐ろしい。自分ではなんてバカなんだろうとわかっているのに、この世界から抜け出せない。錘を足に括りつけたまま、深い海の中へ突き落されたみたいな気分だった。

「だけど、」
「だけどじゃない。そんな男、やめなよ。このままだと、ゆーちゃんは絶対に幸せになれないよ」

 絶対に、と言われたのが私の中でショックだったのだろうと思う。だって、絶対なんてどうして言い切れるのか。康司の言葉が全部本当ではなかったとしても、少しは本当の部分があって、いつか私と一緒になろうとしているかもしれないじゃないか。40歳じゃなくても、50歳とか、それこそ子どもがある程度成長してから離婚するつもりかもしれないじゃないか。
 私は反対されれば反対されるほど康司の肩を持ちたくなっていた。

「私たちのことは、あーちゃんにはわからないよ」

 拒絶したのは私の方だった。あーちゃんは私の言葉に対してなにも言わなかった。だけど、ものすごく、本当に寂しいみたいな顔をしていた。あーちゃんの(つや)やかで長い黒髪が、少し揺れていた。泣きそうなのを我慢しているみたいに。
 康司に2人目の子どもが生まれたと知って、私はもう無理だと急に思った。この5年間、ずっと奥さんに訴えられることを気にしていたのに、そんな展開にはならなかった。むしろ、2人目が生まれたのは夫婦が良好な関係だったのだろう。不倫していたとはいえ、私みたいなちっぽけな女は、奥さんにとってなんの脅威にもならない。康司がうまく隠していたのかもしれない。だけど、うまく隠せてしまえる程度の恋だった。あーちゃんの言う通りだったな、と情けなくも認めた。
 傘もささずに雨に打たれていると、なんとなく、私の愚かな行動のすべてを洗い流してくれるような気がしていた。絶対にそんなはずないのに。

「別れよう」

 会社から出て来た康司に向かって、間髪入れずに言った。惨めな姿ではあるけれど、私は絶対に康司からフラれた事実を作りたくなかった。あくまで私の方から振ったことにしたかった。康司はなにも言わず、こくりと頷いた。私の方なんて一切見ずに。
 この5年間は一体なんだったのか。本当に、私はバカだ。どうしようもなく、間抜けだ。
 康司はきっと、私とはもう終わりにするつもりだったのだろう。あえて、私から別れを切り出させるつもりだったのだろう。帰り道、そんなことを考えていたらだんだんと腹が立ってきた。康司にも、自分に対しても。

「あーちゃん」

 私はあーちゃんに電話をかけていた。何か月か前に、自分から拒絶したあーちゃんに。

「うち、来なよ」
「うん」

 なにも説明していないのに、あーちゃんには私の声色でなにが起きたかきっと伝わったのだろう。
 あーちゃんは今も常滑に住んでいて、実家から近いところで一人暮らししている。私は名古屋の方で一人暮らしをしてもう10年以上経つ。実家にはなかなか帰らないものの、あーちゃんの家に行くため常滑に帰ることは多い。
 名鉄名古屋駅から常滑線に乗って、あーちゃんの家を目指す。
 あーちゃんのアパートにたどり着くと、あーちゃんはなにも聞かずに「お風呂入りなよ」と言って、着替えを貸してくれた。「最近ハマってる入浴剤があるんだけど、入れてもいい?」なんて、普通に接してくれた。
 あーちゃんお気に入りの入浴剤は、オレンジの香りがした。浴槽もオレンジ色に染まっていた。
 お風呂から上がると、あーちゃんはキッチンで生クリームを泡立てていた。

「座って。今、シフォンケーキ出すからさ」

 ハンドミキサーの音を聞きながら、私は言われるまま静かに2人掛けの小さなテーブル席に座る。テーブルの真ん中には小さくてコロンとしたガラスの花瓶が置いてあって、ミントの葉が活けてあった。

「きのう、焼いたんだ。プレーンだけど、いい?」

 うん、うん、なんでもいいよ、ありがとう、と私は頷く。
 かわいい動物の絵柄がついた陶器のお皿に、カットされたプレーンシフォンと生クリームがたらりとかかっていた。目の前に出された瞬間、お腹がぐぅと鳴る。そういえば、きょうはお昼からなにも食べていなかった。

「あ、もしかしてお腹空いてる?」
「お昼、なんにも食べてなくてさ……」
「じゃあ、甘いものより先にご飯食べなくちゃ」
「え? いいよ、ケーキで十分だよ」
「ダメダメ」

 せっかく目の前に出されたシフォンケーキを、あーちゃんは取り上げて冷蔵庫の中にしまう。

「ちゃちゃっと作るから。もう少し待ってて」

 キッチンに立つあーちゃんの後ろ姿を見て、私はどうしようもなくほっとしていた。実家に帰るよりも、ずっと落ち着けた。
 私はテーブルに向かって座ったまま、俯いた。目から落ちる雫が、テーブルにぽとぽと垂れる。下唇を噛んで、私はぎゅうっと強く膝の上に置いた手を握りしめた。
 テレビもなにも付いていないアパートの一室。外から聞こえる雨音が、私のすすり泣く声をかき消してくれていた。

「あまりものだけど、ごめんね?」

 私は声も出せず、あーちゃんの後ろで首を横に振った。
 揚げ物の音がした。パチパチ、じゅわじゅわと、美味しそうな音だ。いい匂いもする。
 私は涙を手で拭って、キッチンを見た。
 突然やって来た友達に、料理を振舞ってくれる世話焼きなあーちゃん。そういうところに、私はいつも甘えてしまう。
 白いご飯に、大根とあげの味噌汁。刻み葱までかかっている。カットトマトに……それからこれは、なんだろう。とんかつだろうか。

「さ、食べて食べて」

 私はいただきます、と手を合わせて、いきなり揚げ物を一口かじった。熱々で思わず身体がびっくりする。

「揚げたてだから熱いよ」

 向かいの椅子に座って、私を見て笑うあーちゃん。
 揚げ物の正体は、チーズとキムチが入った豚肉のはさみ揚げだった。
 熱い。でも、おいしい
「おいしい……!」

 おいしいおいしい、と私はバカみたいに何度も繰り返しつぶやきながら、あーちゃんの手料理を噛みしめた。熱いせいか、鼻水が出る。ついでに、涙も。
 食べ終わると、先ほどのシフォンケーキを冷蔵庫から出してきてくれた。
 私の目の前に置いて、フォークを手渡しながら、あーちゃんは言った。

「きょうも1日お疲れ様。これを食べれば、きっとあしたもまたゆーちゃんらしく過ごせるよ」

 テーブルの上に飾ってあったミントの葉を1枚ちぎって、生クリームの上に乗せる。

「ありがとう」

 シフォンケーキはふわふわで、もちもちで、優しい甘さだった。生クリームも甘すぎず、シフォンケーキと優しく絡み合っていた。ミントの葉を一口かじると、口の中がさわやかになる。
 シフォンケーキを食べ終わる頃には、私の気持ちも少しだけ落ち着いていた。5年間の恋を忘れるにはきっとうんと時間が必要だろうけれど、恋の終わりに食べたあーちゃんの手料理とシフォンケーキは、これから先ずっと忘れられない味になるだろうと思った。

 次の日、私は退職届を出した。長年働いた会社を、38歳で辞めた。転職活動は手間取ったけれど(昔と全然やり方が違う)、ありがたいことにすぐに就職先が見つかった。そして、私はあーちゃんとふたりでルームシェアすることになった。私が雨の日に駆け込んだアパートを解約して、あーちゃんとふたり、もう少し広い部屋を探した。
 ペット可の築35年。家賃は5万円。2LDK。和室と洋室が1部屋ずつある。私たちよりは少し若いこのアパート――ベル・ウッドで、独身既婚歴なし恋人もなしの女ふたり暮らしが始まった。

◇ ◇ ◇

 冷蔵庫の中には、昨晩あーちゃんが焼いてくれたプレーンシフォンがある。型からもまだ取り出していない、ワンホール丸々残っている。
 ふたりで暮らし始めて、もう少しで1年だった。
 生クリームに特別なにを入れているのか、それもまだ教えてもらっていない。
 つい1時間ほど前、あーちゃんは交通事故でこの世を去ってしまった。
 きょうは帰りが早いから、帰ってごはん作って待ってるね、とあーちゃんは言っていた。きょうは牛すじカレーにしようね、ときのうの夜にふたりで決めていて、私は仕事から帰宅する帰り道、すっかりカレーの口になっていた。そんなときに救急車で運ばれたと、あーちゃんのお母さんから電話があった。最初はなにかの冗談かと思った。でも、本当らしい。電話口であーちゃんのお母さんは小さい子どものように泣きじゃくっていた。
 そしてそれからすぐに、亡くなったと連絡をもらった。

 あーちゃんが、死んだ。
 あーちゃんが、死んだ?
 本当に?

 私はまたぎゅっと膝を抱き抱える。
 いつものように、あの古びたドアをぎぃっと開けて「ただいま!」と元気よく帰って来そうな気がしていた。
 あーちゃんは、30歳になったばかりの頃「彼氏と結婚するかもしれない」と言っていた。でも結局、結婚しなかった。あーちゃんが言うには、彼氏が結婚したらすぐにでも子どもが欲しいと言ったことに疑問を持ったらしい。「確かに、いつかは欲しい。だけど、今すぐに産むことは考えていなかったし、やりたいことがある。だから、結婚しないかも」と言ったあーちゃんの清々しい顔を、私は今でも覚えている。
 その頃、あーちゃんは広告営業店に勤めており、毎日働きっぱなしだった。だから近いうちに辞めて、夢を叶えたいのだといつも言っていた。それこそ、彼氏と付き合うより前からそういう計画があったんだと思う。
 あーちゃんは、シフォンケーキの店を開きたかった。その夢を叶えるために、シフォンケーキのレシピ本を読み漁り、シフォンケーキを販売している店は必ず足を運び、食べて研究していた。あーちゃんにとっての、究極のシフォンケーキを。
 最近ようやく、開店できるほどの資金が溜まって、どこに出そうかなと楽しそうに考えていた。
 これからなのに。これから、いっぱい楽しいことがあったのに。あんなに一生懸命頑張っていたのに。

「にゃお」

 部屋の外から猫の鳴き声が聞こえた。
 こんな雨の中、野良猫も大変だな。
 降り止まない雨を窓から覗き、猫の姿がないか確認する。ここは2階でもう夜だ。外は暗くて、猫がどこにいるのかも見えなかった。

「にゃおー」

 なんだか、ものすごく近いところで鳴いているような気がした。
 私はなんとなく気になって、玄関ドアに向かう。窓の外ではなく、こっちから聞こえたような気がする。

「にゃおー」

 固くて古いドアを開けると、そこにはずぶ濡れの三毛猫が1匹、座っていた。耳のあたりは黒い毛が多く、胸から足先は白い。濡れているせいでずいぶん痩せ細って見えた。野良猫、だろうか。この辺りでは野良猫自体、あまり見かけたことがない。
 しばらく、猫と見つめ合う。猫は私をじぃっと見て、目を細めた。不思議と笑ったように見えた。招き猫みたいだ。

「あの……どこかの家と間違えた……?」

 猫に話しかけたって、答えるはずはないのに私は訊ねてしまった。

「にゃー」

 猫はぷるりと身体を震わせて、雨粒を飛ばす。

「ごめん、猫ちゃんにあげるエサはうちにはないんだけど……」

 すると猫はするりと私の足元をすり抜けて、部屋の中へ入ってしまった。

「ちょ、ちょっと待って!」

 私は慌てて猫のあとを追いかける。猫は軽い足取りで風呂場へと駆けて行った。器用に風呂場の戸を開けて中に入ると、ちょこんと座って私を見る。
 どういうことだ。まさか、洗えと言っているのだろうか。
 猫なんて飼ったことも触れ合ったこともない。でも確か、猫って水が嫌いじゃなかった?
 変なの、と思いつつシャワーの水を出す。猫は自分から水の中へ行き、気持ちよさそうにまた目を細めていた。猫用のシャンプーなどないけれど、人間が使えるなら猫も大丈夫か、とシャンプーを少し手に取って、濡れた猫の身体に付け泡立てる。ゴシゴシ洗ってやると、猫の身体から黒い泡が立つ。
 やっぱり、野良猫か。でもどうしてこんなに人馴れしているのだろう。エサをもらっていたくらいでは、こんなに落ち着いてお風呂にも入らないと思う。もしかして、迷い猫か。それとも、飼い猫だったけれど捨てられてしまったとか?
 私はいろんなことを考えながら、猫をひたすら泡立てて洗った。

 そういえば、あーちゃんは猫が好きだったな。

 思い出して、私は洗う手を止めた。お湯で曇る鏡に、自分の顔が映った。酷い顔だ。泣いたせいでメイクは流れ落ちているし、目が腫れている。でも、そんな自分の顔を見たらまた泣けてきてしまった。

「にゃおー」

 猫が鳴く。
 なに泣いてるんだよ、とでも思っているのだろう。私は鼻をすすりながら、猫の泡を洗い流した。排水溝に吸い込まれていく泡を見つめながら、もしあーちゃんなら、突然やって来た猫をどうするだろうと考える。あんなふうにドアの前で鳴いていたなら、きっとあーちゃんは猫ちゃんをもてなしていただろうな。
 私はもうそろそろ捨てようかと思っていたバスタオルを取り出し、猫を拭く。猫はびっくりするくらい大人しく座ったまま動かず、ドライヤーを持ってきてかけてもびくともしなかった。猫の背中には黒や白や茶色い毛がまだら模様になっていて、ちょうど背中の真ん中くらいにある茶色い毛がハート模様に見えた。
 猫はシャワーを浴びて乾かしてブラッシングしたおかげで、さらっさらふわふわになった。
 私はキッチンに立ち、冷蔵庫のドアを開けて中を覗く。猫って、なんでも食べられるのだろうか。とはいうものの、今晩はカレーの予定だったから冷蔵庫の中にはなにもない。私もあーちゃんも給料日前で、なるべく節約していた。あしたが給料日だ。

「シフォンケーキ……食べる?」

 猫にシフォンケーキなんて、ありだろうか。いや、さすがに食べないか。
 私は自分のためにシフォンケーキを取り出した。型からシフォンケーキを外すのって、どうやるんだろう。私は直径17センチの型の中に入ったふわふわもちもちのシフォンケーキを、ぼうっと眺める。

「にゃあ」

 足元で猫が鳴いた。
 蛍光灯がついただけのキッチンで、部屋の中は暗い。シフォンケーキを型ごとテーブルに置いて、はぁ、とため息をついた。
 あーちゃんが簡単にくりくりっとケーキを型から外していたのを思い出す。

 あーちゃん、本当に死んじゃったんだろうか。

「にゃあ」

 猫がまた鳴いた。

「なに?」

 わかるはずないのに、私は猫に問いかけた。
 猫はナイフが閉まってある棚を軽く引っ掻いている。
 そういえば、あーちゃんはいつも平たいバターナイフみたいなものでケーキを型からくり抜いていた。
 私は猫が引っ掻いた戸棚を開けて、ナイフを探す。あった。
 この約1年間、私はいつもあーちゃんがシフォンケーキを焼く様子をただなんとなく見ていただけだった。たしか、シフォンケーキの周りをくるっと一周くり抜いて、型から外してから下の部分を切り離していた、気がする。
 シフォンケーキにナイフを入れるのは緊張した。失敗しないかな。不器用な私でも、できるのかな。それに、なるべくこのまま取っておきたい気もした。だって、このシフォンケーキにナイフを入れてカットして食べてしまったら、もう、この先二度とあーちゃんが焼く究極のシフォンケーキは食べられない。
 ナイフを入れた手を止めた。やっぱり、このまま冷蔵庫に入れて、取っておこう。ナイフを抜けばいい。

「にゃー!」

 猫が今までで一番大きな声で鳴いた。私は驚いて足元を見る。キッチンの上に飛び乗って、にゃーにゃーと手を伸ばして来た。まさか、シフォンケーキが食べたいのか。
 私は仕方なくナイフを引き抜かず、代わりにくるっと一周くり抜いた。お皿の上にシフォンケーキを逆さのまま置き、ゆっくりと型から出して、底板とケーキの間にナイフを差し込んで剥がした。
 初めて型から外したから、あーちゃんみたいに綺麗にはできなかった。でも初めてにしては、上出来じゃないだろうか。
 今度はケーキ用のギザギザしたナイフでシフォンケーキを8等分に切り分ける。あーちゃんのシフォンケーキは、やっぱりふわふわで、切るときにしゅわっと空気の音がした。強く力を入れると潰れてしまう。
 さて次は、生クリームだ。
 冷蔵庫の中を覗くと、生クリームのパックがあった。きっとあーちゃんは今晩のデザートとして作るつもりだったんだろう。生クリームのパックを手に取り、ボウルの中に注ぐ。グラニュー糖は、たしかここにあったはず。
 私は今度は小麦粉や麺類、トマト缶や米が貯蔵されているコンロ下の戸棚を開けて、中を見る。
 ルームシェアを初めて、家賃と食費とWi-Fiは折半。でも、それ以外の電気ガス水道代は私が支払っていた。その分、あーちゃんにはお金を貯めてもらって、夢を叶えてほしいと思ったからだ。私にはなんの夢も目標もない。ひとり自由な老後を過ごすのかな、となんとなく覚悟もできてきた。そこに寂しさも紛れているけれど、あえて寂しい老後とは言いたくない。自由で気楽な老後、だ。
 その代わり、あーちゃんは洗濯と料理を担当してくれていた。だから私はこの1年、ろくに料理もしてこなかった。今までも、あまり料理が得意でなかったから外食やスーパーのお惣菜やコンビニで済ませることが多かった。
 あーちゃんと一緒にいれば、料理に困ることはない。私はやっぱり、あーちゃんに甘えっぱなしだったわけだ。ルームシェアをしようと思いついたのは、お互いにその方が都合がいいと思ったからだった。家賃が折半できるし、気楽な親友と一緒に暮らせる。寂しく思うこともない。だけど、もしかして私はあーちゃんを都合よく使っていただけだったのかな。あーちゃんと一緒に生活していた日々が、幸せすぎた。

 考えれば考えるほど、自分が愚かに思えて泣けてくる。生クリームにグラニュー糖を混ぜ、ハンドミキサーでかき混ぜながらポロポロ涙をこぼす。もしかしたらこの生クリーム、しょっぱいかもしれない。
 泡立てた後、指で掬って舐めてみる。甘い。でも、あーちゃんがいつも泡立ててくれる生クリームとは違う。

「あーちゃん……なにを入れてたのかな」

 お前も舐めるか? と猫の前に生クリームを差し出した。しかし、猫は舐めない。プイッと顔を背けた。
 あーちゃんの生クリームには敵わないけど、これはこれで美味しいのに。
 私は指についた生クリームを舐め取って、あーちゃんの生クリームの味を思い出す。

「にゃーにゃー」

 猫は泣きながら冷蔵庫の前へ行き、私の方を見る。目が合った。

「……なに?」

 もっと違うものをよこせ、という意味だろうか。
 冷蔵庫を開けてもう一度中を見てみるが、猫のご飯になりそうな魚の切り身や鰹節なんかは今、ちょうど切らしている。
 猫は私の足元から軽々と冷蔵庫の中へジャンプした。

「ちょっと……ダメ!」

 手で払い退けようとしたが、猫は冷蔵庫の中に顔を突っ込み、練乳を口に銜えて飛び降りた。

「……練乳?」

 猫は練乳を銜えたまま、生クリームの入ったボウルの横に座って私を見ている。

「……なに?」

 なんだ? 一体なにを伝えようとしているんだ?
 私は猫から練乳を取り上げようとすると、あっさり練乳を渡してくれた。
 チューブの真ん中の牛のイラストをまじまじと見つめる。
 そういえば、練乳はいつもうちの冷蔵庫にあった。でも、練乳なんてイチゴにすらかけない私たちの冷蔵庫に、なぜ常備されていたんだろう。

「……もしかして?」

 私は泡立てた生クリームの中に練乳を少し垂らした。また軽く混ぜて舐めてみる。

「あ」

 なんか少し、あーちゃんの生クリームに似てる気がする。
 口の中に広がる優しい甘さ。ただ甘いだけの生クリームとは違う。
 そうそう、これこれ。
 私はあーちゃんが近くにいるような安心感を覚えた。

「じゃあ、いただきましょう」
「にゃー」

 この三毛猫、私の言葉がわかっているみたいだ。
 私がいつもの席に座ると、猫はあーちゃんの席になに食わぬ顔で座ってまた招き猫のように目を細めた。
 いや、まさかね。さすがに人間の言葉を全部理解してるはずはないよね。

「野良猫の生活って、大変?」

 しゃべるわけがないのに、なんとなく訊ねてみた。猫はなにも答えず、ただ私をじっと見つめるだけだった。

「きょうね、私の大事な親友が、亡くなったの」

 どうせ猫に言葉はわからない。ひとりでいるより、誰か、猫でもいてくれるだけ寂しさは紛れるかもしれない。
 部屋の外から車が通る音、そして雨を跳ねる音が聞こえて来た。
 ずいぶん降ってるなぁ。
 窓の方を見ると、開けたカーテンの向こうに星空は全く見えない。

「あーちゃんは、私にとって大事な、大事な親友なの」

 また涙で視界が歪む。
 さっきからずっと泣きっぱなしだ。でも、涙は枯れない。

「このシフォンケーキは、あーちゃんが作ってくれたんだよ。大好きなシフォンケーキなの」

 猫は私の方を見たまま、大人しく座っている。

「お腹、空いてるんでしょ? だから、お裾分け。大事に食べてね」

 猫にどうぞ、とシフォンケーキを置く。

「きょうも1日お疲れ様。これを食べれば、きっとあしたもまた……自分らしく過ごせるよ」

 猫は小さく「にゃ」と鳴くと、シフォンケーキにかじりついた。
 いつもは甘いシフォンケーキが、自分の涙のせいでしょっぱい。
 
 食べ終わった皿をそのままシンクに置いて、私はベッドで丸くなった。降り続く雨の音を聞きながら、あーちゃんとのあれこれを思い出しながら、目を瞑る。
 猫がやってきて、私の背中に張り付いて眠った。
 猫は柔らかくて温かくて、あーちゃんのシャンプーの香りがした。同じシャンプーを使っているのに、なぜかあーちゃんがそばにいるような気がした。