私が脱走して、2週間が経った。もう4月だ。ゆーちゃんは無事会社を退職できただろうか。
おばあちゃんは6匹の猫たちの世話をしながら、家事をして大きな家で一人暮らしをしていた。
結婚していたが、陶芸家の旦那さんはずっと昔に亡くなっていて、子どももみんな巣立って行き、今は一人暮らしのようだった。
おばあちゃんの日課は、天気のいい日は散歩。やきもの散歩道は起伏の激しい道が多いが、おばあちゃんは元気に上ったり下ったりして、毎日足腰を鍛えていた。朝は朝食を食べた後に韓国ドラマを2本続けて観ることが楽しみらしい。私もいつもおばあちゃんの隣に座って、韓国ドラマを観ている。1本目は現代のシンデレラストーリー。貧しい家庭で育ったヒロインと、冷酷な御曹司が次第に心を通わせていくという物語だ。2本目は歴史もので、ワケアリの主人公が医者として奮闘し、王宮の専属医として活躍していく物語。韓国ドラマはあまり観たことがなかったが、意外と面白くて、ハマると抜け出せない。おばあちゃんと毎日韓国ドラマを観て、天気がよければ散歩に出かける。午後はゆったりお昼寝をして、夜は他の猫たちと丸まって眠る。
おばあちゃんはあんこが好きで、時々餅をついて、あんこを炊く。餅をつくのはおばあちゃんひとりではできないので、真野さんが手伝っていた。真野さんはおばちゃんが所有している古い家を管理してくれている。そう、ゆーちゃんが借りた一軒家の店舗は、このおばあちゃんが所有している家だった。
真野さんが手伝ったつきたての餅を薄く伸ばし、あんこを包んでお団子を作る。このおばあちゃんのお団子が、おいしい。できたてのお団子はあんこもホクホクで、皮はもちもち。ついきのうは、よもぎを餅に混ぜてよもぎ団子を作っていた。
おばあちゃんのあんこは上品な甘さで、とろけそうなほど幸せな気持ちになる。そしてどこかホッとする味だった。絶妙な火加減と、材料は大体目分量。でもたぶん、おばあちゃんはわかっている。すべてざっくりに見えて、おばあちゃんはちゃんと分量を感覚で理解しているのだ。さすがだ。
「きょうもいい天気だねぇ。桜が綺麗に咲いてるよ」
桜の花はもう満開で、真下から見上げるとひらりひらりと落ちて来る。人間のときに見るよりずっと背の高い木を見上げる。桜の花びらの隙間から太陽の柔らかい日差しが透けていた。とっても綺麗。まるでガラスから漏れる光のように暖かい。
おばあちゃんと桜並木を歩くと、不思議と前にも似たようなことがあった気になる。もしかしたら、私の中にこの猫ーータマの記憶が眠っているのだろうか。
「桜と言えば、お花見だねぇ。三食団子でも、作ろうかねぇ」
「にゃあー(いいねぇ、食べたいなぁ)」
おばあちゃんが笑うと抜けた前歯がちらりと見えてかわいい。優しくて、いつも石鹸のにおいがする。撫でてくれる手は皮が厚くて、安心する手だった。
昼下がりの午後。おばあちゃんと散歩をしたあと、陽だまりの中おばあちゃんのにおいがする座布団の上で眠った。
「あの、すみません」
聞き慣れた声に、私は昼寝から目覚めた。ゆーちゃんの声だ。緊張して、強張っているように聞こえる。
「はぁい」
おばあちゃんはいつもの声で玄関に向かった。最近少し膝が痛むらしく、足音からきょうの具合がわかるようになった。きょうはまだ調子がいい方だ。
「はいはい、どちら様でしょうか」
「あ、あの、実は、こちらに背中にハート模様がついた猫がいると聞いてきたんですが」
「ああ、タマのこと?」
タマー、とおばあちゃんが玄関から呼ぶ。どうしよう。
「タマ、どうしたんだい? おかしいねぇ、いつもは呼んだらすぐに来るんだけど」
そう言って、おばあちゃんは私を探しに部屋の中へ戻った。
私はすぐに箪笥の裏へ隠れる。
「あれ、タマ? 外にいるのかなぁ」
おばあちゃんはまた玄関の方へ行き「ごめんねぇ、家の中には見当たらないわ」と答えた。
「タマがどうかした?」
「えっと……タマは、最近まで家に帰ってなかったですか?」
「え? そうね、確かに数か月ちょっといなかったねぇ。どこへ行っていたのやら」
「……実は、私の家でずっと暮らしていたんです。6月頃に保護してからずっと、うちの猫としてお世話してきました」
ゆーちゃんの声に、私は忍び足で玄関の方へ近づいた。
おばあちゃんは「そうでしたか、ありがとうございました」と頭を下げた。
「いえ、全然です。むしろ、一緒に暮らせて本当に楽しくって……」
ゆーちゃんはそこで一度言葉を切って、大きく息を吸いゆっくりと吐き出した。
「もしかしたら家族がいるんじゃないかって思っていたのに、探しませんでした。本当に、すみませんでした」
「いいえ、そんなこと謝らないで」
「きょうはその……お願いがあってきました」
「お願い?」
首を傾げるおばあちゃん。
「大変失礼なこととは思いますが、どうか、私にあの子を譲っていただけませんか?」
「……え?」
「大事な家族を譲ってほしいなんて、本当に失礼な話ですよね。すみません。でも、あの子は私のかけがえのない家族になったんです」
ゆーちゃんはそう言って深々と頭を下げた。
おばあちゃんは「え、でも……」と困っている様子だった。
「どうか、私に、あの子のこれから先の時間、お世話をせてもらえないでしょうか」
私はゆーちゃんの前に、自然と引き寄せられるように立っていた。
「そう言ってるけど、タマはどうしたい?」
おばあちゃんは私を優しく撫でた。
どうしたいって、私が決めていいのだろうか。私なんかが、これからの時間をどう過ごすのか、決めてしまっていいのだろうか。タマは、きっとおばあちゃんのそばで暮らしたいと思っている。おばあちゃんのことが大好きだからだ。ーーでも。
「あんたが決めていいんだよ」
私はタマじゃない。もう、増田燈でもない。私はアメのアーちゃんだ。ゆーちゃんが雨の日、ずぶ濡れの私を家に入れてくれて、洗ってくれた。帰る家がなかった私を招き入れてくれた。猫の餌が嫌いな私のために、毎日嫌な顔ひとつせず、おいしいご飯を作ってくれた。私が叶えられなかった夢を、叶えようとしてくれた。
「にゃあー(私はゆーちゃんと一緒にいたい)」
ゆーちゃんの足元にすり寄ると、ゆーちゃんは小さな子どもみたいに泣き出しそうな顔をして、私を抱き上げた。
「あなたに飼われることが、この子の幸せだよ」
おばあちゃんがゆーちゃんの腕の中に納まる私の頭をポンポンと撫でる。
「どうか、大事にしてやってください」
おばあちゃんの笑顔はあのおいしいお団子のように、柔らかくホクホク温かかった。
桜が舞う春の日。
私とゆーちゃんは家へ帰った。
家へ帰ると、ゆーちゃんが羽織っていたキャメル色の薄手のコートから桜の花びらが落ちた。
猫としてこの世界での時間を過ごす奇跡をもらい、私は日々噛みしめて生きて行かなければならない。ゆーちゃんと共に過ごせるこの日々を。
でも、と私は考える。
猫になれたのは奇跡だ。間違いなくそう思う。だけど、ゆーちゃんとふたり、ルームシェアをしていた時間だって当たり前ではない。私たちは親友で、お互い大切な存在ではあるけれど、いつ一緒に住めなくなってしまうのかわからない。ゆーちゃんは私が死んでしまったと思っている。ゆーちゃんにとって私は、雨の日に突然ふらりとやって来た猫だ。私だけが、ゆーちゃんとふたり暮らしできている幸せをもらっている。当たり前なんてものは、なにひとつない世界に私たちは生きている。結婚したからといって、相手が自分以外に好きな人を見つけて来ないとは限らないし、誰がいつどこで死ぬかもわからない。いつ女友達に恋人ができるかもわからない。もしかしたら、年金を受け取るくらいの年齢になって「結婚することにした」と言ってくる可能性だってある。私たちはつい、当たり前のことを忘れてしまう。今ある日常が、永遠に続くものだと思ってしまう。
「じゃーん、桜シフォンを焼いたの」
ゆーちゃんは冷蔵庫から桜の花びらと同じ色のシフォンケーキを笑顔で見せて来た。
「これ持って、お花見しに行こ?」
「にゃー(行こう)」
バスケットにシフォンケーキとお弁当をつめて、私たちは並んで桜並木を歩く。
ゆーちゃんと同じくらいの目線で見ていた風景は、もう見えない。だけど、ここから見える景色は最高だ。私の最高の親友が、いつも隣にいてくれるから。
おばあちゃんは6匹の猫たちの世話をしながら、家事をして大きな家で一人暮らしをしていた。
結婚していたが、陶芸家の旦那さんはずっと昔に亡くなっていて、子どももみんな巣立って行き、今は一人暮らしのようだった。
おばあちゃんの日課は、天気のいい日は散歩。やきもの散歩道は起伏の激しい道が多いが、おばあちゃんは元気に上ったり下ったりして、毎日足腰を鍛えていた。朝は朝食を食べた後に韓国ドラマを2本続けて観ることが楽しみらしい。私もいつもおばあちゃんの隣に座って、韓国ドラマを観ている。1本目は現代のシンデレラストーリー。貧しい家庭で育ったヒロインと、冷酷な御曹司が次第に心を通わせていくという物語だ。2本目は歴史もので、ワケアリの主人公が医者として奮闘し、王宮の専属医として活躍していく物語。韓国ドラマはあまり観たことがなかったが、意外と面白くて、ハマると抜け出せない。おばあちゃんと毎日韓国ドラマを観て、天気がよければ散歩に出かける。午後はゆったりお昼寝をして、夜は他の猫たちと丸まって眠る。
おばあちゃんはあんこが好きで、時々餅をついて、あんこを炊く。餅をつくのはおばあちゃんひとりではできないので、真野さんが手伝っていた。真野さんはおばちゃんが所有している古い家を管理してくれている。そう、ゆーちゃんが借りた一軒家の店舗は、このおばあちゃんが所有している家だった。
真野さんが手伝ったつきたての餅を薄く伸ばし、あんこを包んでお団子を作る。このおばあちゃんのお団子が、おいしい。できたてのお団子はあんこもホクホクで、皮はもちもち。ついきのうは、よもぎを餅に混ぜてよもぎ団子を作っていた。
おばあちゃんのあんこは上品な甘さで、とろけそうなほど幸せな気持ちになる。そしてどこかホッとする味だった。絶妙な火加減と、材料は大体目分量。でもたぶん、おばあちゃんはわかっている。すべてざっくりに見えて、おばあちゃんはちゃんと分量を感覚で理解しているのだ。さすがだ。
「きょうもいい天気だねぇ。桜が綺麗に咲いてるよ」
桜の花はもう満開で、真下から見上げるとひらりひらりと落ちて来る。人間のときに見るよりずっと背の高い木を見上げる。桜の花びらの隙間から太陽の柔らかい日差しが透けていた。とっても綺麗。まるでガラスから漏れる光のように暖かい。
おばあちゃんと桜並木を歩くと、不思議と前にも似たようなことがあった気になる。もしかしたら、私の中にこの猫ーータマの記憶が眠っているのだろうか。
「桜と言えば、お花見だねぇ。三食団子でも、作ろうかねぇ」
「にゃあー(いいねぇ、食べたいなぁ)」
おばあちゃんが笑うと抜けた前歯がちらりと見えてかわいい。優しくて、いつも石鹸のにおいがする。撫でてくれる手は皮が厚くて、安心する手だった。
昼下がりの午後。おばあちゃんと散歩をしたあと、陽だまりの中おばあちゃんのにおいがする座布団の上で眠った。
「あの、すみません」
聞き慣れた声に、私は昼寝から目覚めた。ゆーちゃんの声だ。緊張して、強張っているように聞こえる。
「はぁい」
おばあちゃんはいつもの声で玄関に向かった。最近少し膝が痛むらしく、足音からきょうの具合がわかるようになった。きょうはまだ調子がいい方だ。
「はいはい、どちら様でしょうか」
「あ、あの、実は、こちらに背中にハート模様がついた猫がいると聞いてきたんですが」
「ああ、タマのこと?」
タマー、とおばあちゃんが玄関から呼ぶ。どうしよう。
「タマ、どうしたんだい? おかしいねぇ、いつもは呼んだらすぐに来るんだけど」
そう言って、おばあちゃんは私を探しに部屋の中へ戻った。
私はすぐに箪笥の裏へ隠れる。
「あれ、タマ? 外にいるのかなぁ」
おばあちゃんはまた玄関の方へ行き「ごめんねぇ、家の中には見当たらないわ」と答えた。
「タマがどうかした?」
「えっと……タマは、最近まで家に帰ってなかったですか?」
「え? そうね、確かに数か月ちょっといなかったねぇ。どこへ行っていたのやら」
「……実は、私の家でずっと暮らしていたんです。6月頃に保護してからずっと、うちの猫としてお世話してきました」
ゆーちゃんの声に、私は忍び足で玄関の方へ近づいた。
おばあちゃんは「そうでしたか、ありがとうございました」と頭を下げた。
「いえ、全然です。むしろ、一緒に暮らせて本当に楽しくって……」
ゆーちゃんはそこで一度言葉を切って、大きく息を吸いゆっくりと吐き出した。
「もしかしたら家族がいるんじゃないかって思っていたのに、探しませんでした。本当に、すみませんでした」
「いいえ、そんなこと謝らないで」
「きょうはその……お願いがあってきました」
「お願い?」
首を傾げるおばあちゃん。
「大変失礼なこととは思いますが、どうか、私にあの子を譲っていただけませんか?」
「……え?」
「大事な家族を譲ってほしいなんて、本当に失礼な話ですよね。すみません。でも、あの子は私のかけがえのない家族になったんです」
ゆーちゃんはそう言って深々と頭を下げた。
おばあちゃんは「え、でも……」と困っている様子だった。
「どうか、私に、あの子のこれから先の時間、お世話をせてもらえないでしょうか」
私はゆーちゃんの前に、自然と引き寄せられるように立っていた。
「そう言ってるけど、タマはどうしたい?」
おばあちゃんは私を優しく撫でた。
どうしたいって、私が決めていいのだろうか。私なんかが、これからの時間をどう過ごすのか、決めてしまっていいのだろうか。タマは、きっとおばあちゃんのそばで暮らしたいと思っている。おばあちゃんのことが大好きだからだ。ーーでも。
「あんたが決めていいんだよ」
私はタマじゃない。もう、増田燈でもない。私はアメのアーちゃんだ。ゆーちゃんが雨の日、ずぶ濡れの私を家に入れてくれて、洗ってくれた。帰る家がなかった私を招き入れてくれた。猫の餌が嫌いな私のために、毎日嫌な顔ひとつせず、おいしいご飯を作ってくれた。私が叶えられなかった夢を、叶えようとしてくれた。
「にゃあー(私はゆーちゃんと一緒にいたい)」
ゆーちゃんの足元にすり寄ると、ゆーちゃんは小さな子どもみたいに泣き出しそうな顔をして、私を抱き上げた。
「あなたに飼われることが、この子の幸せだよ」
おばあちゃんがゆーちゃんの腕の中に納まる私の頭をポンポンと撫でる。
「どうか、大事にしてやってください」
おばあちゃんの笑顔はあのおいしいお団子のように、柔らかくホクホク温かかった。
桜が舞う春の日。
私とゆーちゃんは家へ帰った。
家へ帰ると、ゆーちゃんが羽織っていたキャメル色の薄手のコートから桜の花びらが落ちた。
猫としてこの世界での時間を過ごす奇跡をもらい、私は日々噛みしめて生きて行かなければならない。ゆーちゃんと共に過ごせるこの日々を。
でも、と私は考える。
猫になれたのは奇跡だ。間違いなくそう思う。だけど、ゆーちゃんとふたり、ルームシェアをしていた時間だって当たり前ではない。私たちは親友で、お互い大切な存在ではあるけれど、いつ一緒に住めなくなってしまうのかわからない。ゆーちゃんは私が死んでしまったと思っている。ゆーちゃんにとって私は、雨の日に突然ふらりとやって来た猫だ。私だけが、ゆーちゃんとふたり暮らしできている幸せをもらっている。当たり前なんてものは、なにひとつない世界に私たちは生きている。結婚したからといって、相手が自分以外に好きな人を見つけて来ないとは限らないし、誰がいつどこで死ぬかもわからない。いつ女友達に恋人ができるかもわからない。もしかしたら、年金を受け取るくらいの年齢になって「結婚することにした」と言ってくる可能性だってある。私たちはつい、当たり前のことを忘れてしまう。今ある日常が、永遠に続くものだと思ってしまう。
「じゃーん、桜シフォンを焼いたの」
ゆーちゃんは冷蔵庫から桜の花びらと同じ色のシフォンケーキを笑顔で見せて来た。
「これ持って、お花見しに行こ?」
「にゃー(行こう)」
バスケットにシフォンケーキとお弁当をつめて、私たちは並んで桜並木を歩く。
ゆーちゃんと同じくらいの目線で見ていた風景は、もう見えない。だけど、ここから見える景色は最高だ。私の最高の親友が、いつも隣にいてくれるから。