「これ、この間のシフォンケーキのお礼」

 ゆーちゃんの甥っ子、光希がそう言って持ってきたのはバターが香る焼菓子だった。しかも、どうやら手作りらしい。

「え、なにこれ、わざわざ私に?」

 嬉しい! とゆーちゃんは一口齧る。

「おいしい! フィナンシェ?」
「そう」
「え、光希が作ってくれたの?」
「……いや、」
「じゃあ、誰が……?」

 ゆーちゃんは首を傾げながら、フィナンシェを丸っと平らげた。

「その……彼女が」
「……彼女っ?!」
「にゃ!(彼女できたのっ?!)」

 私も思わず声をあげた。

「そんなに驚くこと?」

 恥ずかし嬉しそうに光希は笑う。

「彼女……! え、どんな子? 写真あるんでしょ? 見せてよ!」
「え、なんでだよ」
「いーじゃん! 見せてよ!」

 ゆーちゃんが光希にしつこくねだった。
 私も見たい!

「ほら、これ」

 ぶっきらぼうにスマホをゆーちゃんに向けて、見せた。

「にゃあー!(見せて! 私も見たい!)」

 にゃあにゃあ、とゆーちゃんの足元に纏わりついた。

「アーちゃんも見たいの? ほら、これだよ。かわいいねぇ。美人さん」

 ちゃっかりツーショットを見せられて、やるなぁと感心する。
 光希、イケメンだもんな。モテそうだし。

「実は、2月14日が彼女の誕生日で。どうしてもケーキが作りたかったんだ」
「やるじゃん」
「叔母に教えてもらったって言ったら、彼女からお礼に渡してほしいって」
「いい子じゃん」

 ゆーちゃんは若干涙ぐんだ。たぶん、ゆーちゃんの脳内ではもうすでにふたりが結婚するところまで想像が進んでいるのだろう。

「お姉ちゃんは、知ってるの?」
「いや、知らない」
「じゃあ、内緒にしておくね」

 母親には言えないことも、叔母には言えるっていいな。ゆーちゃんが優しいから、きっと光希も話しやすいんだと思う。

「お店、できたら絶対行くから。彼女と」
「うん、絶対来てね。楽しみにしてるよ」
「そのときは、俺、大学生だから」

 さらっと大学合格を伝える光希に、ゆーちゃんは飛び上がって喜ぶ。

「受かったんだ! おめでとう! じゃあ、お祝いしないと!」
「じゃあ、焼肉で!」

 にぃ、と光希は笑って言った。

 光希が帰った後、ゆーちゃんは紅茶を飲みながらネットでお店に必要なものを調べていた。
 なるべく安く抑えようとしても、必要なものはたくさんある。全部合わせたらずいぶん大きな金額になるだろう。
 ゆーちゃんは店内をレトロでおしゃれなお店にしようと考えているらしい。店内の壁紙や照明なんかもこだわって探している。壁紙は簡単に貼れるものを買って、照明はアウトレット店や中古品を探していた。
 同時に店のことも少しずつ細かく考えている様子だ。シフォンケーキは毎日3種類。季節やお客さんの声で毎日変える。17センチのホールで毎日6個を焼いて、なくなり次第終了。シフォンケーキの購入はもちろん、食べていく場合は3種類の中からひとつを選び、生クリームと季節の果物の盛り合わせプレートとコーヒーか紅茶の飲み物のセットで出す予定らしい。お誕生日や記念日のケーキの注文は前日までの要予約制。休業日は水曜日。商品の原材料やカロリー、製造者などが書かれたラベルシールも、シフォンケーキを梱包して販売するならば必要らしい。いろんな決まり事があって、考えるのも大変だろう。でも、ゆーちゃんは楽しそうに幸せそうにこなしていた。ゆーちゃんには勇気がある。どうかお店が人気になってほしいと願うばかりだ。
 仕事も今月いっぱいで退職するので、月末が近づくにつれてゆーちゃんの表情も明るくなっている。嫌なことを言われるのももう少しで終わると思うと、気にならなくなってくるのだろう。
 店を始めるのに一番肝心な名前は、まだ決まっていないらしい。ノートにいくつか名前が書いてあったけれど、いまいち決めかねているみたいだ。
 私も店の名前はいくつか考えたりしていたが、ゆーちゃんはどんな名前に決めるのだろうか。楽しみだ。

 次の日の日曜日。きょうゆーちゃんは昇にお願いして、店を始めるために必要なものを買い出しに行った。車であちこち連れて行ってもらって、店に運んでもらうらしい。こういうとき、男手があると助かる。私はのほほんと春の陽気に包まれながら、眠った。
 ドアが開く音で目が覚めると、ゆーちゃんと昇が帰って来た。

「にゃあ(おかえり)」

 ゆーちゃんにすりすりと寄っていく。ゆーちゃんは「ただいま」と撫でてくれた。昇は相変わらず、私が怖いらしく近づいたりしないし目も合わせようとしない。

「結構買いましたね。どうですか、準備の方は」
「まあまあかな。今月末で仕事も終わるし、4月は丸々1ヶ月準備に使えるから。あと1週間の辛抱」
「なにか手伝えることがあったら、なんでも言ってください。僕でよければ手伝います」
「ありがとう」

 ゆーちゃんはきのう焼いたよもぎシフォンケーキを切り分けて、きょうのお礼と言って昇に出す。

「いつものコーヒーが切れちゃって。インスタントでもいいかな?」
「すみません、僕はなんでも大丈夫です。ありがとうございます」

 昇はなぜか緊張した面持ちで椅子に座っている。小さい頃からなにかあると顔に出て、わかりやすいところはまったく変わらない。
 なんだ、なにを緊張しているんだ?

「よもぎのいい香りがしますね」
「でしょ。生クリームとちょっとあずきを一緒につけて食べるとおいしいと思うんだ」

 ゆーちゃんは甘く煮たあずきを生クリームの横に乗せた。

「どうぞ」
「いただきます」

 昇は緊張した様子のまま、シフォンケーキを一口食べる。一口食べて、すぐにゆーちゃんの方を見て「どう?」と訊ねるゆーちゃんに「好きです」と答えた。

「よかった。和風のシフォンケーキとコーヒーってよく合うよね。あ、でもいつものコーヒーの方が絶対に合うと思うなぁ」

 ゆーちゃんはそう言ってのんきに自分のシフォンケーキを頬張る。
 気づいていない。昇が好きですと言ったのは、シフォンケーキに対してではない。
 私は昇をじっと見つめた。

「あの……そうではなくて、」
「ん?」

 コーヒーを飲みながらゆーちゃんは首を傾げた。

「夕美さんのことが、好きなんです」

 え、とゆーちゃんは固まる。

「すみません、突然。離婚した直後でこんなことを言うのは非常識だと思います。でも、どうしても伝えたくて」

 パチパチと瞬きを何回もして、ゆーちゃんは困り顔をした。眉が下がっている。

「えっと……急なことすぎて、びっくりしちゃって」
「返事はいりません。付き合ってほしいとか、そういうのではないんです。ただ、この気持ちを伝えたかったんです」

 自分勝手だな、と私は心の中でつぶやいた。
 昇は昔からそうだ。返事はいらないのではなく、返事を訊くのが怖いのだ。ただ気持ちを伝えるのだって、一方的すぎる。相手のことを考えているようで、自分のことでいっぱいいっぱいなんだろう。まあ、離婚したばかりだから、仕方がないのかもしれないけれど。

「えっと、その……」

 昇は慌ててシフォンケーキを口に突っ込んで「これ、ホワイトデーのお返しです」と胸ポケットからなにかを取り出し、ゆーちゃんの前に置く。

「大したものではないんです。その猫に似ていたので、好きかなと思って」

 テーブルに置いた小さな紙袋をゆーちゃんは手で持ち、中を開けた。

「……猫のバッジ?」
「手作りなんだそうです、陶芸の」
「あ、ありがとう……」
「それじゃあ、僕はこれで」

 昇はそそくさと立ち上がり、靴を履いて、ぺこりと頭を下げた。そして、あっという間に帰って行った。
 取り残されたゆーちゃんは、椅子に座ったままブローチを持って固まっている。
 そのあとも、しばらく上の空だった。

 ゆーちゃんと昇。ふたりが付き合うことなんて、私はちっとも想像していなかった。でも、心当たりはある。昇の初恋相手は絶対にゆーちゃんだった。でも、昇が告白なんてするはずがないと思っていた。予想通り告白はしないままみんな大人になって、昇は結婚して子どもを持った。
 昇にとってゆーちゃんはずっと憧れの人だったのかもしれない。
 女同士のルームシェアで一番怖いのは、片方に恋人ができることだ。半ば寂しさを埋めるようなルームシェアだから、恋人ができればその先の可能性が高まる。結婚という可能性が。ゆーちゃんは美人だ。私が人間だった頃、ゆーちゃんとルームシェアをしていた頃、ゆーちゃんに恋人ができたらどうしようかと考えていた。そうしたらきっと、このルームシェアは終わりを迎えるだろうと思っていた。でも今はどうだ。私は猫だし、ゆーちゃんとルームシェアをしているわけではない。このままゆーちゃんの飼い猫でいて、もしふたりが付き合う展開になったらどうだろう。ゆーちゃんと昇の同棲生活に付き合うことになるかもしれない。そんなの、絶対に見られない。
 だけど、ゆーちゃんが昇のことを好きだったら? ゆーちゃんも昇と同じ気持ちだったら? 
 私には邪魔できない。邪魔してはいけない。そもそも、私はもうこの世界に存在するはずがない人間だ。
 そこですとんと、腹に落ちる。
 そうか。私はゆーちゃんを心配するあまり、猫になったのかもしれない。ゆーちゃんをひとりこの部屋に残して死んでしまったことが気がかりで、助けた猫が身体を貸してくれたんじゃないか。そうだとしたら、もう心配はない。ゆーちゃんはシフォンケーキを作れるし、料理もずいぶん上達した。これで昇がそばについてくれているのなら、私が心配する必要はなにもない。もしかしたら、はじめから私なんかが心配する必要はなかったのかもしれない。どちらにしても、私は言葉を喋れないし、ゆーちゃんに直接シフォンケーキの作り方を教えたわけではない。私が放っておいても、ゆーちゃんと昇は自然にくっついたのかもしれない。

「ちょっと、買い忘れたものがあったから出かけて来るね」

 ゆーちゃんはぼんやりした口調でそう言って、靴を履く。ドアを開けた瞬間を見計らって、私は外へ飛び出した。
 出て行くなら、たぶん今だ。

「ちょ、ちょっと! 待って! アメっ!」

 ゆーちゃんが叫ぶ声が聞こえた。でも私は振り返らなかった。
 別れる日は選べない。本来なら私は車に轢かれたあのときに、ゆーちゃんとは永遠のお別れだった。それを先延ばしにしてしまったから、ずっと続けばいいのになんて気楽に考えていたから、こんなことになってしまったんだ。ますます別れが苦しくなるだけだ。
 私はとにかく走った。猫が全速力で走ると、ものすごく早いということを知る。私は運動が苦手だったから、こんなに早く走れるなんて夢みたいだった。
 とにかく走り続けて、ゆーちゃんの声が届かなくなるところまで急いだ。
 気が付くと、私が交通事故に遭った場所まで来ていた。手押しの信号機の下に、花束が置いてある。おそらく家族か、ゆーちゃんが置いてくれたものだろう。それを見ると、ますますここにいてはいけないという気になってきた。
 でも、どこへ行けばいいのだろう。
 この猫は、一体どこからやって来たのか。

「あらまあ、タマじゃないの」

 足音が近づいてきて、見知らぬおばあちゃんが私に声をかけて来る。

「どこへ行っていたの、ずっと探していたのよ」

 この人が私、いや猫の飼い主か。やっぱり、飼い主がいたのか。
 それにしても、タマなんてベタな名前だったなんて。驚きだ。

「さあおいで。みんな寂しがっているよ」

 みんな? どうやらたくさん家族がいるらしい。
 おばあちゃんの家はやきもの散歩道の中にあった。古そうだが大きくて立派な家で、レンガで出できた煙突が見えた。今はやっていないようだが、やきもの職人の家だったらしい。

「ほら、みんな。タマが帰ってきたよ」

 みんな、と言われて集まって来たのは、猫だった。黒、白、茶トラ、サビ。5匹の猫たちが私を出迎えてくれた。
 おばあちゃんはこの家で、猫に囲まれて暮らしていたようだ。どの猫も野良猫だったのだろう。

「ばあちゃん、探してた猫は見つかったんか」

 家の中から声がした。
 おばあちゃんは嬉しそうに声の方を見て「見つかったんよ」と答える。

「そうか、よかったな」

 家の中から出て来たのは、ゆーちゃんが借りた店を管理している真野さんだった。私は先日、ゆーちゃんと店舗を見に行ったときに真野さんに会っていた。

「なんかどっかで見た猫だな。ま、猫なんてみんな同じか」
「この子は特別だよ。ほら、」

 おばあちゃんは私を軽々と持ち上げて、背中を真野さんに見せる。

「お、ハート柄だ」
「そう、この子はハートがついた子なんだよ。まだ目も開いてないときに、拾ったんだわ」

 そうだったのか。おばあちゃんは、この猫の育ての親だ。

「よかったな、見つかって。今度は逃げられないようにな」
 
 はいはい、とおばあちゃんは笑って頷いた。
 この猫にとっても、きっとここで生きていく方が幸せだろう。きっと、そうに違いない。