恋の季節がやって来た。
しかし、今時のバレンタインはちょっと違う。女性が好きな男性にチョコレートを贈るのはもう古い。今の世の中では、バレンタインとは頑張る自分へちょっと高級なチョコレートを贈る日、大切な友達に甘いチョコレートを贈る日だ。
ゆーちゃんは仕事へ行く前にトーストパンを齧りながら、某デパートで開かれるバレンタインチョコの催し物の広告を穴が開くほど見つめていた。
私は以前、何度か行ったことがある。人が多すぎて、眩暈がした。有名なショコラティエと並んで写真を撮ったりサインをもらったりしている人がいたが、もはやアイドル並みの人気者だった。
ゆーちゃんが開こうとしているシフォンケーキの店が人気になって、毎日完売続きで、そのうちゆーちゃん自身が人気者になってサインとか求められたりするのかな。
そんなことを考えると、面白くて笑えた。笑っても、笑い声は出ないけれど。
ゆーちゃんは誰かにチョコレートをあげたいのかな。
仕事に行ったゆーちゃんを見送って、私は部屋の中を見渡した。ゆーちゃんは、私が使っていた部屋をそのまま残していた。掃除をするときも、レシピ本を借りるときも、ゆーちゃんは「あーちゃん、お邪魔します」と言って必ず入る。
つい先日、体調を崩して動物病院へ行った際、私がすでに避妊手術された1歳半くらいのメスの猫だということが判明した。性別はともかく、身体を借りていても、年齢は私も知らなかった。そもそもこの身体の本来の持ち主は、どこへ行ってしまったのか。どこかへ行ったわけではなく、私と今も一緒にこの小さな身体に納まっているのだろうか。
ゆーちゃんは私、いやこの猫がどこかの飼い猫だったんじゃないかと、ずっと心配しているみたいだ。飼い主が探しているんじゃないかとか、私がいつかいなくなってしまうんじゃないかって、毎日心配している。私も、心配がないわけではない。猫になって、働かなくていい、ご飯も作らなくていい、掃除も洗濯もしなくていい、ただぼんやり過ごしていればいい。そんな日々の中で、私にとってゆーちゃんとの生活はかけがえのない宝物だった。だからこそ、不安に思う。私はこのままいつまで猫の身体でいられるのか。あしたの朝、この身体で、猫の姿で目が覚めるのか毎日眠るときに不安になる。これを奇跡と呼ぶのなら、奇跡の効果はいつまでか。終わりは来てしまうのか。それともこの猫の寿命が尽きるまで、私はここにいられるのだろうか。猫には家族がいたのか。そうだとしたら、猫の家族は今頃どうしているのだろうか。
探していたら、可愛そうだ。
その日、ゆーちゃんは帰宅するなりどんより落ち込んでいた。どうやらきょうは、いつもの冷たい氷上司ではなく、優秀な年下先輩にコテンパンにやられたらしい。店を始めるため、3月末で仕事を辞めるつもりで2月に入ってすぐに退職願を出していた。もう辞める人間なのに、最後の最後まで痛めつけるつもりなのか。なかなかに性根が腐っている。
「私って、そんなに出来損ないかな……」
帰ってきて早々、ソファに倒れ込んだ。
「にゃあー!(そんなことないよ! そんな奴らのことなんか、ケーキでも食べて忘れちゃいなよ!)」
これじゃあ、虐めを受けているのと変わりない。いい大人になっても、いるんだよな。そういう嫌な人間って。
「はぁー」
ゆーちゃんは天井を見上げたまま、深く大きなため息をついた。
「昇くん、結局あれからなんにも連絡ないね。どうなったのかな……」
昇のことは、私も気になる。ゆーちゃんも自分の兄弟みたいに心配しているのだろう。
ゆーちゃんは急に「よし!」と起き上がる。
「シフォンケーキ、焼く」
エプロンをつけて、冷蔵庫の中を見て「きょうは、ココアバナナシフォンケーキにする」と宣言した。
あしたが土曜日でよかった。ゆーちゃんは少しでも休めるだろう。
日曜日はバレンタインデー、2月14日だった。
「ちょっと大人な味にしたいんだよね」
ココアパウダーとバナナを並べ、ゆーちゃんは頷きながら言う。ココアバナナシフォンケーキか。チョコチップを入れてもおいしそうだ。ビターチョコレートなら、大人な味になる。
私のレシピノートにもココアバナナシフォンケーキのレシピがある。そこにチョコチップを足すレシピのアイディアも書き留めてあったはず。
「にゃー(チョコも足してみたら?)」
私はテーブルにあった袋入りのチョコレートを口に銜えてゆーちゃんの足元で鳴く。
「チョコはダメ。猫にチョコレートは毒なんだから」
ゆーちゃんは私からチョコレートを取り上げて、まじまじと見る。
「チョコ……か」
なにかに気づいたのか、ゆーちゃんは私のレシピノートを開いて、ココアバナナシフォンケーキのページを読む。
「あ、あーちゃんがチョコチップを入れるとおいしいよって書いてくれてる」
「にゃー(おいしいよ)」
「なるほど。よくわかったね、アーちゃん」
私が考えたレシピだからね、と私は胸を張る。
よしよし、とゆーちゃんの温かくて優しい手が私の頭を撫でた。
ぶるぶるとテーブルの上でスマホが振動した。画面には”光希”と表示されている。
「もしもし? どうした?」
「俺に、シフォンケーキの作り方を教えてほしいんだけど」
「シフォンケーキを? どうして?」
「……まあ、あとで事情は話すからさ」
「え? それって、今からの話なの?」
「そうだけど?」
えええ、とゆーちゃんは言葉とは裏腹に笑顔だった。嬉しいのだ。甥っ子が遊びに来てくれることが。つくづく甘い叔母さんだ。
30分もしないうちに、光希は家へやって来た。
「ちょうどシフォンケーキを焼こうと思ってたんだけど」
光希はチョコやココアパウダーやバナナが並んでいるのを見て「チョコ系のやつ?」と訊ねる。
「うん、プレーンとか違う味がよかった?」
「いや、チョコ系でいいよ」
ぴくっと私の耳が動く。
光希はたぶん、チョコ系のシフォンケーキが作りたかったのだろう。そんな顔をしている。バレンタインか? 逆チョコってやつか?
「誰かの誕生日? デコレーションとかする?」
「うん、日曜が誕生日」
「バレンタインデーだね。ああ、だからチョコ系のシフォンケーキ?」
ゆーちゃんはのんきに訊ねた。
「まあ……そんなところ」
ようやくゆーちゃんもなにか気づいたらしく「ふーん」とそれ以上はなにも訊ねなかった。
ふたりは仲良く並んで、卵を割り始める。
「進路はどう?」
光希は高校3年生だ。今ちょうど入試試験やらで大変な時期ではないか。
「1月に共通テストがあって、今度国立の試験がある」
「おお、じゃあ今大事な時期なんだね」
「……まあ」
そんな大事な時期ではあるものの、このシフォンケーキ作りも大事なことなのだろう。
「息抜きは必要だもんね。おいしいシフォンケーキ、作ろうよ」
ゆーちゃんは優しく丁寧に、シフォンケーキの作り方を光希に教えていた。
クリスマスのときに使った12センチの型を使って、3個のシフォンケーキを焼く。
オーブンの中で焼き上がるシフォンケーキは、恋の甘くてちょっとビターな香りがした。
「あ、もしもし。夕美です」
バレンタインデー当日、ゆーちゃんが電話をかけていた相手は昇だった。
昇の声は割と落ち着いていて、声からは昇の今の状況が予測できない。
「すみません、僕の方から連絡すべきだったのに」
「ううん、大丈夫。もしよかったら、きょう会えないかな? シフォンケーキでも食べない?」
ゆーちゃんはチョコココアバナナシフォンをカットして、生クリームをかけてココアパウダーをまぶした。バナナを少しスライスして、さらに飾る。
「わぁ、すごい。おいしそうです」
昇はシフォンケーキを前にして、喜んでいた。
「きょうはバレンタインデーだから。チョコ系のシフォンケーキがいいかなって」
「あ……そうか、きょうは2月14日でしたね。忘れてました、そんなこと」
えへへ、と昇は頭を掻いた。
「毎日お疲れ様。これを食べれば、きっとあしたもまた昇くんらしく過ごせるよ」
「……え? どうしたんです、急に」
「これ、魔法の呪文なの」
「魔法の呪文……?」
ふふ、と笑うゆーちゃんを昇は真面目な顔で見て聞き返す。
「あーちゃんがね、シフォンケーキを食べるときにいつも言ってくれたの。あーちゃんのシフォンケーキを食べた後、絶対に元気になれる。だから、魔法の呪文」
「姉が、そんなことを……」
私は猫嫌いな弟をこそっと遠くから見た。本当に、バカ真面目なヤツだ。笑えて来る。
「じゃあ、ありがたくいただきます」
手をしっかりと合わせて、昇はシフォンケーキを一口サイズに切り、口の中へ入れた。
「ん、おいしいです……! これ、ビターな甘さですね」
「そうなの、あんまり甘すぎないようにしたの。バナナが甘いからね」
「なるほど……」
一口、また一口と口に入れる度、昇が優しいまろやかな笑顔を見せる瞬間がある。私はみんなのその笑顔が見たくて、シフォンケーキを焼いていたようなものだ。
「姉の味を超えたんじゃないでしょうか」
「えー、それはないでしょ」
「シャーっ!(私がシフォンケーキをどれだけ研究したかわかってるのか!)」
「わ、なんかまた怒ってる……」
ソファに座って、私は昇に威嚇した。
「僕、やっぱり猫には嫌われる性格なのかな……」
「そんなことないよ。すぐ慣れるから」
すると、昇はいったんフォークを置いて、ふぅと息を吐いた。
「どうした?」
「あの、この間の件なんですが」
この間の件、と言われてゆーちゃんの背筋がピンと伸びる。私も思わず耳を昇に向けた。
「実は、この度正式に離婚が成立しまして、一応親権は妻が持つことになったんですが、僕は自由に好きなときに好きなだけ会えるってことで合意しました」
「え……」
「いいんです。どうも、相手の離婚も決まったみたいで。すぐには再婚しないでしょうけど、そのうちするんでしょうね」
そう言ってから、昇も背筋を正し、ゆーちゃんに頭を下げた。
「大晦日の夜と元旦と、せっかくの日を僕のせいで台無しにしてしまって、すみませんでした」
「え、そんな、謝ることはなにもないよ」
「いえ、突然家に押しかけてしまって。しかもあんな夜遅くに……」
昇は小さい頃から友達が少なく、人付き合いも苦手だ。きっと、仕事と家庭だけで生きていたのだろう。突然離婚なんて話になって、行ける場所がどこにもなかったから、思い悩んだ末ここに来たのだと思う。迷惑だとわかっていながら、でもひとりではいられなくて、どうしようもなくて。
「離婚することにはなっちゃったんですけど、離婚が決まってからは、お互いにありのままで話せるようになった気がするんです。たぶん、今までお互いに気づかないうちに夫婦を演じていたのかもしれないですね」
ゆーちゃんはなにも言わずに、うんうんと強く頷いた。
「ありがとうございます。こんな話に付き合ってもらえるのは、夕美さんしかいません」
シフォンケーキを平らげて、満足そうな幸せそうなため息をつく。
「ごちそうさまでした。あしたからも、また元気にやって行けそうです」
ゆーちゃんと昇はお互いの顔を見合わせて、しばらく笑う。
窓の外では、雪がちらちらと降り始めていた。
しかし、今時のバレンタインはちょっと違う。女性が好きな男性にチョコレートを贈るのはもう古い。今の世の中では、バレンタインとは頑張る自分へちょっと高級なチョコレートを贈る日、大切な友達に甘いチョコレートを贈る日だ。
ゆーちゃんは仕事へ行く前にトーストパンを齧りながら、某デパートで開かれるバレンタインチョコの催し物の広告を穴が開くほど見つめていた。
私は以前、何度か行ったことがある。人が多すぎて、眩暈がした。有名なショコラティエと並んで写真を撮ったりサインをもらったりしている人がいたが、もはやアイドル並みの人気者だった。
ゆーちゃんが開こうとしているシフォンケーキの店が人気になって、毎日完売続きで、そのうちゆーちゃん自身が人気者になってサインとか求められたりするのかな。
そんなことを考えると、面白くて笑えた。笑っても、笑い声は出ないけれど。
ゆーちゃんは誰かにチョコレートをあげたいのかな。
仕事に行ったゆーちゃんを見送って、私は部屋の中を見渡した。ゆーちゃんは、私が使っていた部屋をそのまま残していた。掃除をするときも、レシピ本を借りるときも、ゆーちゃんは「あーちゃん、お邪魔します」と言って必ず入る。
つい先日、体調を崩して動物病院へ行った際、私がすでに避妊手術された1歳半くらいのメスの猫だということが判明した。性別はともかく、身体を借りていても、年齢は私も知らなかった。そもそもこの身体の本来の持ち主は、どこへ行ってしまったのか。どこかへ行ったわけではなく、私と今も一緒にこの小さな身体に納まっているのだろうか。
ゆーちゃんは私、いやこの猫がどこかの飼い猫だったんじゃないかと、ずっと心配しているみたいだ。飼い主が探しているんじゃないかとか、私がいつかいなくなってしまうんじゃないかって、毎日心配している。私も、心配がないわけではない。猫になって、働かなくていい、ご飯も作らなくていい、掃除も洗濯もしなくていい、ただぼんやり過ごしていればいい。そんな日々の中で、私にとってゆーちゃんとの生活はかけがえのない宝物だった。だからこそ、不安に思う。私はこのままいつまで猫の身体でいられるのか。あしたの朝、この身体で、猫の姿で目が覚めるのか毎日眠るときに不安になる。これを奇跡と呼ぶのなら、奇跡の効果はいつまでか。終わりは来てしまうのか。それともこの猫の寿命が尽きるまで、私はここにいられるのだろうか。猫には家族がいたのか。そうだとしたら、猫の家族は今頃どうしているのだろうか。
探していたら、可愛そうだ。
その日、ゆーちゃんは帰宅するなりどんより落ち込んでいた。どうやらきょうは、いつもの冷たい氷上司ではなく、優秀な年下先輩にコテンパンにやられたらしい。店を始めるため、3月末で仕事を辞めるつもりで2月に入ってすぐに退職願を出していた。もう辞める人間なのに、最後の最後まで痛めつけるつもりなのか。なかなかに性根が腐っている。
「私って、そんなに出来損ないかな……」
帰ってきて早々、ソファに倒れ込んだ。
「にゃあー!(そんなことないよ! そんな奴らのことなんか、ケーキでも食べて忘れちゃいなよ!)」
これじゃあ、虐めを受けているのと変わりない。いい大人になっても、いるんだよな。そういう嫌な人間って。
「はぁー」
ゆーちゃんは天井を見上げたまま、深く大きなため息をついた。
「昇くん、結局あれからなんにも連絡ないね。どうなったのかな……」
昇のことは、私も気になる。ゆーちゃんも自分の兄弟みたいに心配しているのだろう。
ゆーちゃんは急に「よし!」と起き上がる。
「シフォンケーキ、焼く」
エプロンをつけて、冷蔵庫の中を見て「きょうは、ココアバナナシフォンケーキにする」と宣言した。
あしたが土曜日でよかった。ゆーちゃんは少しでも休めるだろう。
日曜日はバレンタインデー、2月14日だった。
「ちょっと大人な味にしたいんだよね」
ココアパウダーとバナナを並べ、ゆーちゃんは頷きながら言う。ココアバナナシフォンケーキか。チョコチップを入れてもおいしそうだ。ビターチョコレートなら、大人な味になる。
私のレシピノートにもココアバナナシフォンケーキのレシピがある。そこにチョコチップを足すレシピのアイディアも書き留めてあったはず。
「にゃー(チョコも足してみたら?)」
私はテーブルにあった袋入りのチョコレートを口に銜えてゆーちゃんの足元で鳴く。
「チョコはダメ。猫にチョコレートは毒なんだから」
ゆーちゃんは私からチョコレートを取り上げて、まじまじと見る。
「チョコ……か」
なにかに気づいたのか、ゆーちゃんは私のレシピノートを開いて、ココアバナナシフォンケーキのページを読む。
「あ、あーちゃんがチョコチップを入れるとおいしいよって書いてくれてる」
「にゃー(おいしいよ)」
「なるほど。よくわかったね、アーちゃん」
私が考えたレシピだからね、と私は胸を張る。
よしよし、とゆーちゃんの温かくて優しい手が私の頭を撫でた。
ぶるぶるとテーブルの上でスマホが振動した。画面には”光希”と表示されている。
「もしもし? どうした?」
「俺に、シフォンケーキの作り方を教えてほしいんだけど」
「シフォンケーキを? どうして?」
「……まあ、あとで事情は話すからさ」
「え? それって、今からの話なの?」
「そうだけど?」
えええ、とゆーちゃんは言葉とは裏腹に笑顔だった。嬉しいのだ。甥っ子が遊びに来てくれることが。つくづく甘い叔母さんだ。
30分もしないうちに、光希は家へやって来た。
「ちょうどシフォンケーキを焼こうと思ってたんだけど」
光希はチョコやココアパウダーやバナナが並んでいるのを見て「チョコ系のやつ?」と訊ねる。
「うん、プレーンとか違う味がよかった?」
「いや、チョコ系でいいよ」
ぴくっと私の耳が動く。
光希はたぶん、チョコ系のシフォンケーキが作りたかったのだろう。そんな顔をしている。バレンタインか? 逆チョコってやつか?
「誰かの誕生日? デコレーションとかする?」
「うん、日曜が誕生日」
「バレンタインデーだね。ああ、だからチョコ系のシフォンケーキ?」
ゆーちゃんはのんきに訊ねた。
「まあ……そんなところ」
ようやくゆーちゃんもなにか気づいたらしく「ふーん」とそれ以上はなにも訊ねなかった。
ふたりは仲良く並んで、卵を割り始める。
「進路はどう?」
光希は高校3年生だ。今ちょうど入試試験やらで大変な時期ではないか。
「1月に共通テストがあって、今度国立の試験がある」
「おお、じゃあ今大事な時期なんだね」
「……まあ」
そんな大事な時期ではあるものの、このシフォンケーキ作りも大事なことなのだろう。
「息抜きは必要だもんね。おいしいシフォンケーキ、作ろうよ」
ゆーちゃんは優しく丁寧に、シフォンケーキの作り方を光希に教えていた。
クリスマスのときに使った12センチの型を使って、3個のシフォンケーキを焼く。
オーブンの中で焼き上がるシフォンケーキは、恋の甘くてちょっとビターな香りがした。
「あ、もしもし。夕美です」
バレンタインデー当日、ゆーちゃんが電話をかけていた相手は昇だった。
昇の声は割と落ち着いていて、声からは昇の今の状況が予測できない。
「すみません、僕の方から連絡すべきだったのに」
「ううん、大丈夫。もしよかったら、きょう会えないかな? シフォンケーキでも食べない?」
ゆーちゃんはチョコココアバナナシフォンをカットして、生クリームをかけてココアパウダーをまぶした。バナナを少しスライスして、さらに飾る。
「わぁ、すごい。おいしそうです」
昇はシフォンケーキを前にして、喜んでいた。
「きょうはバレンタインデーだから。チョコ系のシフォンケーキがいいかなって」
「あ……そうか、きょうは2月14日でしたね。忘れてました、そんなこと」
えへへ、と昇は頭を掻いた。
「毎日お疲れ様。これを食べれば、きっとあしたもまた昇くんらしく過ごせるよ」
「……え? どうしたんです、急に」
「これ、魔法の呪文なの」
「魔法の呪文……?」
ふふ、と笑うゆーちゃんを昇は真面目な顔で見て聞き返す。
「あーちゃんがね、シフォンケーキを食べるときにいつも言ってくれたの。あーちゃんのシフォンケーキを食べた後、絶対に元気になれる。だから、魔法の呪文」
「姉が、そんなことを……」
私は猫嫌いな弟をこそっと遠くから見た。本当に、バカ真面目なヤツだ。笑えて来る。
「じゃあ、ありがたくいただきます」
手をしっかりと合わせて、昇はシフォンケーキを一口サイズに切り、口の中へ入れた。
「ん、おいしいです……! これ、ビターな甘さですね」
「そうなの、あんまり甘すぎないようにしたの。バナナが甘いからね」
「なるほど……」
一口、また一口と口に入れる度、昇が優しいまろやかな笑顔を見せる瞬間がある。私はみんなのその笑顔が見たくて、シフォンケーキを焼いていたようなものだ。
「姉の味を超えたんじゃないでしょうか」
「えー、それはないでしょ」
「シャーっ!(私がシフォンケーキをどれだけ研究したかわかってるのか!)」
「わ、なんかまた怒ってる……」
ソファに座って、私は昇に威嚇した。
「僕、やっぱり猫には嫌われる性格なのかな……」
「そんなことないよ。すぐ慣れるから」
すると、昇はいったんフォークを置いて、ふぅと息を吐いた。
「どうした?」
「あの、この間の件なんですが」
この間の件、と言われてゆーちゃんの背筋がピンと伸びる。私も思わず耳を昇に向けた。
「実は、この度正式に離婚が成立しまして、一応親権は妻が持つことになったんですが、僕は自由に好きなときに好きなだけ会えるってことで合意しました」
「え……」
「いいんです。どうも、相手の離婚も決まったみたいで。すぐには再婚しないでしょうけど、そのうちするんでしょうね」
そう言ってから、昇も背筋を正し、ゆーちゃんに頭を下げた。
「大晦日の夜と元旦と、せっかくの日を僕のせいで台無しにしてしまって、すみませんでした」
「え、そんな、謝ることはなにもないよ」
「いえ、突然家に押しかけてしまって。しかもあんな夜遅くに……」
昇は小さい頃から友達が少なく、人付き合いも苦手だ。きっと、仕事と家庭だけで生きていたのだろう。突然離婚なんて話になって、行ける場所がどこにもなかったから、思い悩んだ末ここに来たのだと思う。迷惑だとわかっていながら、でもひとりではいられなくて、どうしようもなくて。
「離婚することにはなっちゃったんですけど、離婚が決まってからは、お互いにありのままで話せるようになった気がするんです。たぶん、今までお互いに気づかないうちに夫婦を演じていたのかもしれないですね」
ゆーちゃんはなにも言わずに、うんうんと強く頷いた。
「ありがとうございます。こんな話に付き合ってもらえるのは、夕美さんしかいません」
シフォンケーキを平らげて、満足そうな幸せそうなため息をつく。
「ごちそうさまでした。あしたからも、また元気にやって行けそうです」
ゆーちゃんと昇はお互いの顔を見合わせて、しばらく笑う。
窓の外では、雪がちらちらと降り始めていた。