今年の年明けは、かなりしんどかった。
 まさか昇くんが離婚するなんて騒動が起きるなんて、1ミリも思っていなかった。それも、大晦日の夜に。
 不倫した奥さんと、相手のこと。昇くんのこと。子どもたちのこと。考えれば考えるほど、辛く哀しく苦しくなってしまう。私だって、同じことをしたはずなのに。された側の気持ちを考えると、一生恨みたくなるほど憎いだろうと思う。「残酷なことを思う反面、僕以外の人間と一緒になろうと決めている時点で、僕がどれだけ法的に制裁を加えても、負けなんです」と言った昇くんの言葉が、ずっと頭から離れなかった。
 気持ち的な負け。私は不倫した側だけれど、結局奥さんには敵わなかった。彼が自分に本気か遊びだけだったのかを見極められなかった自分に腹が立ったし、不貞をしたことへの罪悪感で押しつぶされそうだった。今現在、彼ら家族が仲良く楽しく暮らしているのなら、私は少しだけ救われる気がする。もちろん、そんなことを言える立場ではないのだけれど。きっと私は、ひとつの家庭を危機にさらした罪で一生苦しまなければならない。

 昇くんはその後、どうなったのだろうか。1月1日の明け方に、ふらふらとひとりで帰って行った昇くんの背中を思い出す。

 1月2日には実家へ行き、お姉ちゃん一家と一緒にお寿司を食べた。光希はこの間プレゼントしたクリスマスのシフォンケーキをすごく気に入ってくれたらしく「前に作ったやつと全然違った! すごい上手になったよね、ゆうちゃん」と熱く感想を伝えてくれた。
 両親にはシフォンケーキ屋を始めようと思ってる、とは言い出せなかった。ただお姉ちゃんは全部知っていて(光希から伝わっている)、大丈夫なのか何度もこそっと質問された。

「お店を開くなんて、そんなの無謀すぎるでしょ。だいたい、今まで料理だって全然興味がなかったのに」

 お姉ちゃんは食器を洗いながら、私にぐちぐち言う。

「燈ちゃんのことは、本当に残念に思うよ。まだ若いのに。だけど、あんたがその夢を追いかける必要なんてないでしょ」

 正論だった。私なんかが店を開くと言ったら、お姉ちゃんでこれだから両親にはなんて言われるのかわからない。

「だけど、やってみたいの。私、毎日毎日シフォンケーキを焼いて、頑張って上達したんだよ?」
「クリスマスケーキは、おいしかったけどさ」

 ふふ、と私はつい笑顔になった。お姉ちゃんは甘いもの、特に無類のケーキ好きだ。お姉ちゃんがおいしいと言ってくれるのなら、可能性はきっとある。そうだと思いたい。

 年末年始の休暇も一瞬で過ぎ去り、仕事と家を往復する日々が再び始まった。
 相変わらず上司は冷たいし、会社での居心地は最悪だった。
 毎週末しか楽しみはない。

「にゃあ」

 アメが鳴きながら、私の足にすり寄ってきた。土曜日の朝、ごはんを作る途中だったけれど「あれ」と思ってアメを抱き上げる。なんだかいつもと様子が違う気がした。

「どうした? なんか調子悪い?」

 気になって猫用のトイレの中を覗く。吐き戻したあとのようなものがあった。

「どうしよう、病気かな……」

 動物病院、と慌てて近くを検索した。
 近いところにあるらしい。土曜日もやっている。
 私はキャリーケースを持って来て、中にアメを入れた。アメは大人しく中に入る。

「大丈夫かな。なにかあったら、どうしよう」

 私は急いで動物病院まで向かった。

 アメを飼い始めて、人生で初めての動物病院だった。病院に来ているのは犬や猫だけでなく、鳥やウサギも連れられてきていた。朝いちばんで病院へ入ったけれど、人気の病院なのか朝から混雑していた。
 カルテに名前などを記入して、今何歳なのかという項目でつまずく。アメが何歳なのか、知らない。
 埋められるところだけを記入して、提出する。
 キャリーケースの中で蹲るアメを上から覗き込みながら、順番を待った。

「一條さん、どうぞ」

 名前を呼ばれて中へ入ると、優しそうな白髪の男性の先生がいた。

「きょうはどうされましたか?」
「なんだか調子が悪そうで、トイレに吐き戻したあとがあったんです」
「アメちゃん、だね。この子は保護猫?」
 
 先生は慣れた手つきでアメを抱き上げると診察台の上へ置き、まずは体重を測る。よしよし、と安心する手つきで撫でると目を覗き込み、口の中を見た。

「アメちゃん、お利口だねぇ」

 先生が褒める。

「たぶんね、この子は1歳半くらいだと思う」
「え、わかるんですか?」
「だいたいね。あと、避妊手術もされてるよ」

 先生はお腹を触りながらそう言った。

「え?」
「たぶん、ちょっとお腹を壊してるだけじゃないかな。吐き止めの注射、打っておくよ。あと、薬も。3日くらい飲ませて、様子見てあげてください」

 先生はベテランだった。適格で優しい処置。だから朝からこんなにも混んでいるわけだ。

「あの……避妊手術されているということは、誰かの飼い猫だったということでしょうか」
「うーん」

 先生はアメにプスッと一本注射を打って、キャリーケースの中へ戻す。

「地域猫っていうのがいてね。野良猫を保護して避妊や去勢手術をして、増えないようにしたら、目印に耳をちょこっとカットするの。それで地域でエサをやったりして面倒を見る」

 先生はキャリーの中で大人しくしているアメを見て「でもアメちゃんには耳カットがされてないからねぇ」と言った。

「じゃあ、やっぱり……」
「可能性はあるかもしれないね」
「そうですか」
「たまに、うちに猫を探しているからポスターとか情報を置かせてほしいって飼い主さんが来るけど、アメちゃんみたいな三毛猫を探している人はいなかったな。ちょっと、受付で迷い猫の情報を調べてあげてください」

 先生は看護師さんに案内をお願いした。

「ありがとうございます」
「お大事にね」

 私は深くお辞儀をして、キャリーケースを大事に抱えて診察室を出た。

「一條さん、アメちゃんはお薬粉がいいですか? 粒でも大丈夫そうです?」
「あー、薬はまだやったことがないので、わからないんですが」
「じゃあ、とりあえず錠剤で出しておきますね。もし粒が難しければ軽く砕いてあげて、とろみのあるおやつやエサに混ぜれば食べてくれると思います」
「ありがとうございます」

 私は錠剤を受け取った。

「迷い猫ねぇ……今は、黒猫ちゃんと茶トラちゃんを探している飼い主さんの情報はあるけど」

 カウンターの横には迷い猫や飼い主募集中の張り紙が貼ってあった。黒猫と茶トラ猫の写真を見るが、明らかにアメとは猫違いだ。

「そうですか、ありがとうございました」
「お大事になさってください」

 病院を出た帰り道、迷い猫を探す張り紙にいた猫たちが気になった。
 あの黒猫も茶トラ猫も、今頃どこでどうしているのだろう。
 アメのように、どこかの家の猫として飼われていたりするのだろうか。
 アメにも、大事にしてくれていた家族がいるのだろうか。
 もしそうだとしたら、アメを……今も探しているのだろうか。

「アーちゃん、私以外に飼い主さんがいるの?」
「にゃー」

 いつもより弱々しい鳴き声が返ってきた。
 家に帰って、アメが好きな鮭と野菜を柔らかく煮たご飯を作り、薬を混ぜてみた。吐き気止めが効いているのか、出した分は一応平らげた。

「アーちゃんの張り紙、私も作った方がいいのかな」

 そういえば前、迷い犬を保護した人がSNSで飼い主を捜していた。ああいうのは、ちゃんと飼い主に繋がるのだろうか。もし、変な目的で近づいて来る人がいたら嫌だ。本当にアメが誰かの飼い猫だとしたら、ちゃんと飼い主の元へ帰ってほしい。
 スマホで迷い猫の情報を探してみる。

 ……だけど。

 本当にアメを探している人がいたら、私はアメとはもう一緒に暮らせない。当たり前だけど、飼い主が見つかったらこの生活は終わる。
 それも嫌だな、と私はスマホを置く。
 複雑な気持ちで悶々としていた。

 12月いっぱいで貸物件の雑貨カフェが撤退し、真野さんから連絡があった。今月から契約になるので、また真野さんと会わなければ。
 店内はすでに見せてもらっていて、内装は業者に頼らず、なるべく自分でやろうと考えていた。店内はなるべくレトロでおしゃれな雰囲気にしたい。テーマに合わせた飲食用のテーブルと椅子、お皿やカップも揃えないと。壁紙も変えよう。そのくらいなら、自分だけでできるはずだ。
 キッチンには調理台が必要だ。あとオーブン。まだちゃんとどんなオーブンにするのか決めていなかった。あと、冷蔵庫も。お店の看板や、そもそも店の名前もまだハッキリとは決めていない。営業にあたって必要な許可は今月中に取りに行く予定で、もう有給休暇の申請も出した。仕事は3月いっぱいで退職して、5月28日に開店する予定だ。自分の中でははっきりとそう決めていた。なぜその日にしたか。あーちゃんの誕生日だからだ。
 いよいよ、シフォンケーキの店を開くときが近づいてきた。
 私はお店の名前をいくつか書き出して、想像を膨らませていた。仕事の合間、仕事が終わったあとにお店のことを考える時間が、今は幸せだった。

「あら、一條さん。今お帰り? ちょうどよかった、今からお邪魔しようと思ってたの」

 帰宅すると、松山さんがなにやら袋をぶら下げて嬉しそうに近寄って来た。

「どうしました?」
「ほら、柚子。たくさんもらっちゃったから、お裾分け」
「え、いいんですか?」
「いいのいいの。いつもおいしいシフォンケーキ、いただいてるから」

 袋の中から柚子のいい香りがした。

「わー、いい香り。ありがとうございます」

 柚子かぁ。お風呂に入れて柚子風呂なんていいなぁ。

「お友達の庭先で取れた柚子で、農薬とかも使わずに育ってるって」
「いいですね、嬉しい」

 それなら、レモンピールならぬ柚子ピールを作ろうかな。せっかく無農薬の柚子が手に入ったんだし。
 私はホカホカした気持ちで家に帰る。
 アメはすっかり良くなった。食欲は元通りどころか増したくらいだ。

「ただいまー!」
「にゃあー!」

 元気いっぱいでアメが出迎えてくれる。靴を脱ぐ前に、よしよしとアメを撫でた。

「じゃーん、こんなにいっぱい柚をもらっちゃいました」
「にゃー」

 私は靴を脱いですぐに柚子の処理に取り掛かる。少し皮が痛んでいそうなものは柚子風呂用に。綺麗な皮の柚子はヘタ周辺の出っ張った部分を切り落として、4つ割りに切り目を入れて皮を剥く。柚子の白い綿のところは苦みがあるが、綺麗に全部取ってしまわず、少しだけ残すとすっきり爽やか、でもちょっとほろ苦い柚子ピールができる。
 レシピを見ながら柚子ピールを作り、あしたには柚子シフォンケーキを焼こう、と企んだ。
 今まではあーちゃんが楽しそうに料理をする姿を見て「なんで面倒くさいことをしてるのに」と思っていた。でも、今ならわかる。料理って、楽しい。おいしくできたらもちろんそれは嬉しいけれど、誰かのために料理を作るって、最高の幸せだ。誰かに自分が作ったものを食べてもらって「おいしかったよ」なんて言われると、今まで味わったことのない幸福感でいっぱいになる。あーちゃんみたいにいろんなフレーバーのシフォンケーキを焼いて、みんながそれを食べて幸せになってくれたら、私はそれで十分幸せだ。

「にゃあー」

 アメが足元で鳴いた。柚子と砂糖の甘い香りが部屋中を漂う。
 この甘さが、私の疲れ切った身体にじんわりと沁み込んでいく。

「アーちゃん」

 私はアメを抱き上げて、出窓の前に立つ。

「アーちゃんは、本当のお家に帰りたい?」
「にゃー」

 帰りたいと言ったのか、ここにいたいと言ったのか。
 私には「ここにいたい」に聞こえた。まったく人間は自分の都合のいい方へ解釈してしまうから、ペットも困っているだろう。こういうとき、アメの言葉がわかったらな。
 さっき向いた柚子の皮みたいに薄い月が見えた。
 柚子ピール入りのシフォンケーキは、ほろ苦い大人のシフォンケーキができあがった。