夏休みも明け、始業式も既に昨日の話。あのノートを見てから、ずっと栞のことを考えていた。図書室に来たはいいものの、本すら手につかず、思考の檻に囚われていた。

 「死にたくない」という感情はおそらく死が見えている人が抱くんだと思う。もしくは日常的に生や死について考える根っからの物好き。

 思春期で将来を考えさせられるとはいえど、死に対しての思いまで吐露する人はそういないはず。なら、必然的に前者なのか。

 上手くまとまりきらない思考に嫌気がさし、ガシガシと髪の毛を掻く。人が死ぬ小説も生死観を題材にした作品も読んできたけれど、所詮は物語の話だった。

 身近な人の死を経験したのも、小学生の時に他界したお爺ちゃんのみ。割り切ってしまった幼い日の感覚なんて、なんの当てにもならなかった。

 もしかしたら、彼女の「人はいつ死ぬか」という問いにも意味があったのかもしれない。けれど、どこまでいっても推測の話。

 結局、結論は出ず、俺の脳内議論は一つの声で幕を閉じた。

「こんにちは、お久しぶりです」

「久しぶり。これ、借りてた本」

「面白かったですか?」

「うん、良かったよ。愛犬が死んだところは主人公から貰い泣きしちゃった」

 口から出た途端、今の言葉を飲み込みたくなった。久しぶりに栞に会ったせいで気が緩んでいたのかも。

「あそこ感動しますよね。…………雪村くんは私が死んだら、泣いてくれますか?」

 彼女の言葉に、俺の本を取る手が止まる。何を思って、どんな言葉が欲しくて、彼女はその言葉を口にしたのだろう。

 俺は……栞が死んだら、泣けるのだろうか。泣いて、意味なんかあるんだろうか。栞の顔を見ることすらできず、嫌な空気が肌に張り付く。

「ふふっ、冗談ですよーっ。今の話は忘れてください」

 「そっか……」と乾いた相槌を入れる。栞は目の前の席に座ると、白いブックカバーのついた本を取り出す。

 迷いに迷ってプレゼントしたものを使ってもらえるのは、嬉しいようなむず痒いようなで顔のパーツが忙しい。

「使ってくれてるんだ」

「丁寧に使わせていただいておりますとも。栞の星も綺麗ですよね。夜空とか見てみたいなーって思っちゃいません?」

 本からスッと和紙を引き抜いて、眺めながら共感を求めてくる。星空は綺麗なんだろうし、ロマンチックだとも思う。けれど、そういった類は写真と何が違うのかよく分からない。

 今日配られた修学旅行のパンフレットで綺麗だと感服出来るならそれで十分だと思う。

「どうだろ、分かんないや。星が見たいなら修学旅行で夜空見れるコースあったと思うよ」

「そうなんですね。私……修学旅行、行けないんですよ」

 声のトーンを落として、諦めたように笑う。

「えっ? どうして?」

 率直な疑問。修学旅行なんて学校行事の中で一番人気だろう。俺であっても多少は楽しみがないと言えば嘘になる。

「私、親いないし、お金もね。多分……頑張ったら無理じゃないんだろうけど、友達も少ないから」

「そっか……」

 なんて、いつまで萎れた返事してればいいんだよ。何の役にも立たない自分に、心の中でため息を吐く。

 少し考えれば分かったじゃないか。修学旅行だって結構な値段がかかる。栞の無理した笑顔が余計に心を引っ掻く。

「雪村くんはどこに行くんですか?」

「何も考えてないかな。特別行きたいところもないし、見たいものもないからね」

「ついでに友達もいないですもんね」

「どうして急にディスってくるの? 俺のこと嫌い?」

 そう返すと、クツクツを声を殺して笑う。こっちの笑顔の方が似合ってる。小っ恥ずかしいことを胸に抱き(いだき)ながら、本を閉じる。もう、彼女との間に本は邪魔とすら思えてくる。

 図書室特有の籠った空気感と、落ち着いた雰囲気が好きだった。暖かく包み込んでくれる場所が心地よかった。

 そんな憩いの場で、相手を傷つけないように、距離を確かめるように会話する。近づいた距離は椅子一つと本一冊。ぎこちない歩みでも、やっぱり変化は僅かにあった。

 ふと雨の音に目をやると、窓の外には滝のように雨粒が流れ始めていた。

「すごい雨だ」

「本当ですね。傘持ってきてないです」

「俺も。通り雨だといいんだけど」

 西の方は分厚く、黒い雲が覆っている。土砂降りも時間の問題。

「雪村くんは傘に入れてくれないタイプだから、忘れないようにしなきゃってメモまでしてたのに」

「メモまでしてたんだ。そして栞は俺をどんな人だと思ってるの」

 ゲリラ豪雨的ないじりに、反射的にツッコミを入れてしまう。すると、栞はそれに答えるかのように目を細めた。

「はいはい、そっか、そっか」

 肘をついて、左眉を上げる。見ても分かるし聞いても分かる。俺の真似だこれ。

「そんなに面倒くさそうじゃないでしょ」

 「はいはい」が口癖なのは認めるけど、栞は明後日の方向を向いて、背もたれに体を預けきっている。

「誇張してるけどこんな感じですよ。たまに殴りたくなります」

「そんなバイオレンスな」

 この態度なら友達ができないのも頷ける。二つの意味で目つきが悪い。傷心しながらもう一度栞に目をやる。何度見ても敵対行為以外の何者でもない。真似以前にイラッとくる。

「でも、話しかけられたら相手するだけ善良的じゃない?」

「その言葉が善良的じゃないですよ」

「うわ、論破された」

 笑い合っていると、それをかき消すように雨音も音量を上げる。栞は嫌な予感がしたのかスマホをポチりだす。

「やっぱり……電車止まっちゃってる」

 俺に運転見合わせの画面を見せると、頭を抱えた。歩きで帰るには無理がある。コンビニで傘を買おうにもそれまでは結局濡れてしまう。

 会話が無くなると、うるさい雨音だけが鼓膜をいやに震わせる。

「どうしましょう?」

「一回職員室行ってみる?」

「先生に送ってもらうとかですかね……無理がありません?」

「無理しかないね」

 出てくる案は現実味のないものばかり。晴れていても薄暗くなり始める頃。早く動いた方がいい。

「葵さんは!?」

 栞が「これだっ!」と言わんばかりに立ち上がる。こういったとき、彼女はすぐに良い案を出してくれる。初めて俺の家に来た時もそうだった。俺もすぐさまその案に乗っかり電話をかける。

「父さん、俺だけど今どこ?」

『会社だけど何かあったか?』

「電車止まっててさ、仕事終わりに迎えにきてくれない? お願い」

『いいけど、遅くなるぞ。夕立のための傘ぐらい用意しとけよ』

 仕事中の電話がよくなかったのかご機嫌斜め。これ以上長引かせるのもよくないし端的に済ませよう。

「ごめん、頼むよ。あと栞も送ってやって欲しいんだけど」

『お願いが多いな。いいよ、着いたら連絡する』

 俺は電話を切ると、栞にグッドサインを送る。それとほぼ同時に、薄暗い図書室が白い光に包まれた。遅れてゴロゴロと雷が地面を揺らす。

 運動部は雨が降り出した時点で解散したのか、聞こえるのは雨音だけ。少しだけ、ほんの少しだけ恐怖を覚える。

「大丈夫……ですよね?」

「大丈夫だよ。死にはしないから」

「そうなんですけど……」

 栞は不安を押し殺すように図書室の奥の方に向かう。

「どうしたの?」

「雷って怖くないですか? だからできる限り離れてるんです」

 雷に離れるとかないでしょ。気が動転してる彼女に失笑しながら、俺も栞に付いて行く。体育座りで体を丸める栞は写真に収めたいほど。雷が苦手なんてメジャーな可愛さも抑えているらしい。

 本棚を背もたれに栞の隣に腰を下ろすと、眼鏡の奥から見上げてくる。

「雪村くん?」

「ごめん、近かった?」

 言われてみれば隣に座る必要も無いか。腰を浮かせて立ちあがろうとすると、袖を握られる。

「いやっ……近くにいて欲しい、かも……」

「かもって……」

 笑いながら、もう一度腰を下ろす。衣擦れの音が二人の距離を感じさせ、触れ合う方に鼓動が早くなる。

 意識するとどう考えても近い。普通に考えて肩が当たるって大丈夫なんだろうか。犯罪とかにはならないよな。

「私……弱いよね」

 熱を持っていた頭が急激に冷やされる。犯罪なわけないだろ。

 雨のようにポツリと漏れた言葉。悲観的で、悲痛に満ちている声は重々しい。

「そんなことないと思うけど。雷が怖い子なんていっぱいいるし、久遠とかお化け屋敷も入れないよ」

「そうじゃなくて……心も、体も」

「俺にはよく分かんないけど、それが当たり前なんじゃないかな」

 目も合わせず、天井を見ながら言葉を交わす。どこか思い詰めたような彼女。何かしてあげたいって気持ちが湧き出てくる。もう雨音は耳に入らない。

「あのさ、十月三日とか一緒に遊ばない?」

 きっと、俺はこれぐらいしかできない。

「十月三日って……」

「どうせ暇でしょ?」

 十月三日から修学旅行。俺の提案したことの意味を、栞は今になって理解する。

「いいんですか?」

「いいよ。出来れば安いところにさ、二人で遊びに行こう」

「じゃあっ……デート、ですねっ」

 泣き出しそうな声に思わず栞の方を向く。すると、目尻を赤くして鼻を啜った。

「デート……っていうのは考えなかった……」

「バーカ」

「単純な悪口」

 目を逸らすように再び天井を見上げる。返事は無くても、それでよかった。

「どこに行きましょうか。水族館、映画館……ウサギも見たいです」

 そっと、俺の左肩に栞の頭が乗せられる。あどけない鼻声は耳馴染みが悪くて、嫌でも二人の距離を感じさせる。

「星も見てみたいし、海にも行きたいです」

「全部行こう」

 泣くのを我慢するかのように、栞は唇をグッと噤む。彼女にしか分からない一人の寂しさがあったんだろう。

 親もいなくて、お金もなくて、それでも生きるためには色んなものが必要で。隣に座っている俺が酷くちっぽけに思えてくる。

 それぐらい、彼女は大人だった。

「本当に……ありがとう」

 栞は大きな瞳を瞼で隠す。白い肌と高い鼻筋、黒光りするまつ毛に視線が吸い寄せられる。

 薄ピンクに膨らんだ唇はどこか子供らしいし、赤くなった目の下は余計に幼さを感じさせる。そんな目から、透明に澄んだ涙が溢れ、栞の頬を滑る。

 今は泣かせてやろう。涙の意味を考えたって、どうせ俺には分からない。だから、この瞬間は静かに。

 それに、これ以上凝視したら自我を保てる自信が無い。俺も彼女に倣い目を閉じるが、閉じたら閉じたで甘いシャンプーの匂いが嗅覚を刺激する。

 スーッ、スーッと聞こえる寝息も、俺の太ももに触れる優しい指先も、意識しないなんて不可能だった。

 そうして、仄かな匂いや音に微睡む意識は、眠りの泡沫へと俺を(いざな)う。


ブゥゥゥゥン––––

 ポケットに入れていたスマホが震え、目が覚めた。時刻は七時半。学校の前に着いたというメールだった。

 寝ている間に崩れたのか、栞も俺も床に寝転がっている。

「父さん着いたって。起きて」

 栞の肩を優しくゆすると、むくりと起きて目を擦る。

「んんっ……おはようございます」

「おはよ。右頬、跡付いてるよ」

「嘘っ……あんまり見ないで……ください」

 耳まで赤くして顔を覆う。こんなの可愛すぎて見るなとか無理でしょ……。右頬をマッサージし始めた栞を横目に帰る用意を始める。

 小雨になっていて、薄暗い空が昼とは違う雰囲気を感じさせる。

「デートの件、よろしくお願いします。ちゃんとリードしてくださいね。もう楽しみなんですから」

「そっか。あんまり期待はしないでね」

 向けられる笑顔に笑顔で応えて、図書室を後にする。

 季節外れの通り雨も、時にはあまり悪くない。