綾波さんと初めて会った日から半月が過ぎた。桜の雨は上がり、いよいよ本当に雨が多くなる。季節は変わろうとしているのに、俺はいつものように図書室で本を読む。

 変わらぬ日々を謳歌していると、二週間ぶりに彼女が俺の前に顔を出した。ひょこっと扉からのぞく可愛らしい少女は俺の正面から一つ隣にズレて座る。

「雪村くん、久しぶり」

「うん、久しぶり。半月ぶりかな」

「待ちに待ったでしょ」

「はいはい」

 彼女がカバンを置くと、俺はパタン本を閉じだ。綾波さんもそれが何の合図か理解したのだろう。俺が欲しい質問をしてくれる。

「早速訊いてもいいですか? 葵さんに会えたりします?」

「了承は貰ったよ」

「本当にっ!? ありがとう! これは何かお礼しないとですね」

 綾波さんは分かりやすく子供のように喜ぶ。待ちに待ってたのはどっちだと言ってやりたいところだが、今は喜びに浸らせてあげよう。さて、お礼は何を望もうか……なんて。

「出来るだけ早く会いたいです。いつ頃会えるとかあったりしますか?」

「うーん、何日か候補挙げてくれたら父さんに聞くよ。家にいることも多いからいつでも大丈夫だと思うけど」

 俺の言葉に彼女は首を傾げる。二週間も間があったんだ。綾波さんだって忙しいのだろう。

 わざとらしい仕草に意識を持っていかれそうになり、理性で視線を押し留める。が、気づけば俺の視線は彼女の胸部を見ていた。おい、理性仕事しろ。

「雪村くんと葵さんと私の三人が理想ですかね。雪村くんのお母さんはいつも家にいるんですか?」

 母さんの質問をされて少し戸惑う。俺の家庭はちょっとだけ異質なのだ。

「俺さ、母さんと同居してないんだ。所謂別居婚みたいな感じ」

「理由って聞いても良かったりします?」

 俺の顔色を伺うような視線。別に話しにくいことじゃないし、むしろ喋った方がいらない誤解も解けるぐらいだ。

 別居婚とは名前の通り、婚姻関係でありながら別居する結婚の形式。

「いいよ。恥ずかしいんだけど、俺の父さんが母さんを好きすぎるんだ。他にも、日常であったことを小説にしちゃったりするのがストレスなんじゃないかな? それで母さんだけ別居してる。それぐらいの距離感の方がうまくいくってだけだよ」

 必ず週一で家族揃って夕食をするし、二人はもうそろそろ五十歳だってのによくデートに行ってる。俺もそろそろ独り立ちする時期、今更家族のありように不満はない。

「そうなんだ……色々あるんだね」

 そう呟いた綾波さんの目はどこか意味ありげで、何か言うことすら憚られ、口を紡ぐ。彼女の家庭にも何かあるのだろうか。

 不穏な空気を感じ取ってか、綾波さんは話を変えてくれる。

「日々の出来事が小説になるって言ってましたよね。じゃあ雪村くんも小説に出てたりするんですか?」

「うん、まあ、明らかに俺だなって思う登場人物もいるかな」

「ってことは……中学の時は陸上部だったんですか? 確か全国大会に出てた子がいたはず。可愛い幼馴染がいるのも本当かもですね。あと……あっ! ポエム書いてる息子さん出てましたよね!」

 流石は自称大ファンと言うべきか。綾波さんは父さんの作品に出てくる子供たちの情報を繋ぎ合わせて推測する。

「中学の時に陸上やってたのは正解。でも全国大会は出てないよ。地区大会は出たけど。幼馴染もいるにはいるけど仲良いってほどじゃない。ポエムは燃やした」

「書いてたんですね……」

 綾波さんは引き()った顔でこちらを見てくる。早く話を終わらせたくて、話を逸らす。

「それで、いつにする? 兄弟もいないしほとんど俺と父さんだけだから、そんなに悩まなくていいよ」

「うーん、月初の週末とか大丈夫ですか?」

「聞いとく」

「お願いね」

 話が一旦落ち着き手持ち無沙汰になった俺たちは、少し見つめ合ってから、各々が本を読んで下校時刻まで時間を潰した。

 下心があるわけではないが、綾波さんに何度か視線が行く。俺より二回りほど小さい手で本を支える。その白い指がページを捲めくるたびに、本の上でアイススケートのように滑る。その仕草が落ち着いていて、この前のような冷たい寂しさを彷彿とさせた。

 ブックカバーは少し汚れていて、角がふやけている。それでも些細なことは感じさせないほどに、この景色は映える。

 キーンコーンカーンコーン––––

 綺麗な音色のチャイムが学校を包み込む。その余韻をかき消すかのように俺はパタリと本を閉じた。

「あの、一緒に帰りません?」

 唐突な提案に驚きながらも、首を縦に振る。彼女の笑顔に見惚れるのは、今日何度目か。

 無言で二人、横並びになって校舎を歩く。恥ずかしいと言う感情は特に湧いてこなくて、普通なら気まずい空気感が今はどこか心地いい。

 綾波さんは本のことになると、と言うか父のことになと明るくなるが、本来は落ち着いていてお淑やかな人なのだろう。凛とした佇まいからもそんな気がする。

「嘘っ! 蓮が女の子と一緒に帰ってる! 壺買わされてない?」

 俺を馬鹿にした声に振り返ると、先ほど話していた幼馴染の久遠(くおん)だった。噂をすれば影がさすとは正にこの事。

「お疲れ、壺は買わされてないから安心して。誰かさんから喧嘩は売られたところけど。久遠も今から帰り?」

「うん、さっき部活終わってね。蓮は部活辞めてたよね? また図書室で本読んでたんでしょ」

「ご名答」

 俺たちの会話に綾波さんは居心地悪そうに久遠を見ている。その視線に気づいてか、久遠が近づいていく。

「私は寺内(てらうち) 久遠(くおん)。蓮とは小学生からの幼馴染なんだ。二年生だよ」

 久遠の自己紹介に綾波さんは一歩下がる。やはり彼女の距離の詰め方は色々すっ飛ばしている気がする。俺には何年経っても出来ない芸当だろう。

 綾波さんも久遠の勢いに、驚きを隠せていない。けれど、負けじと自己紹介を繰り出した。

「私は綾波 栞。 綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)(りょう)に……」

「それ俺のネタなんだけど」

 割って入ると、へへっと舌を出して笑う。ちと可愛すぎやしませんかね。

「栞ちゃんは何年生?」

「二年生です」

「ダメじゃん! よろしくね」

「よろしくお願いします」

 二人の性格から勝手に水と油だと思っていたが、嬉しさを隠せていない綾波さんと隠す気のない久遠。心配する必要は無かったらしい。笑顔を作る二人に俺はホッと胸を撫で下ろす。

「私も一緒に帰って良い?」

「もちろんです」

 綾波さんが了承したことで三人で帰ることとなった。久遠とは小学生から同じ、つまり地域が同じであり、必然的に降りる駅も同じになる。

 高校を出て紫色に衣替えしている空を眺めるながら歩く。前まではもっと明るかったはずなのにな。

「栞ちゃんってどうやって蓮と知り合ったの?」

「もともと読書が好きで、図書室に行ったら雪村くんがいたって感じです。寺内さんは小学生からの知り合いなんでしたっけ?」

 少し先を歩く二人は、共通の話題の俺から話を広げているようだ。俺も聞き耳を立てながら後を追う。

「そうだよ。蓮さ、小学校の時に図書室でポエム書いてたんだよ!」

「図書室でですか!?」

 いやっ……ちょっと待って。俺から話を広げるのは構わないけど、飛び火が痛い。小学校の頃の俺はもっとイタい。

「面白くて覚えてるの。俺の心は(はす)の花のように……痛っ!」

 俺は久遠の頭に優しめのチョップを与える。頬を膨らませて振り向く姿はまるで怒ったリスの様。

「なにすんのよ!」

「こっちのセリフ。人の黒歴史を勝手に広めないで欲しいんだけど」

(はす)の花のように浮かんでいて、水面に映す色のように濁っている。でも俺は溺れない……いい言葉だと思うけど?」

 あろうことか彼女は黒歴史の暗唱を続ける。黒歴史を覚えられていた時のダメージは半端じゃない。今すぐにでも道路に飛び出したいほどだ。

「もうやめて……聞いてるだけで恥ずかしい」

 綾波さんが顔を真っ赤にして俯く。男子は誰だってそんな時期があるんだ。授業中はテロリストが来ないかな? なんて思うし、下校中はヤンキーから女の子を助ける妄想だってする。

 でも、それは健全な男子の証。何が言いたいかって言うと、本当にやめて欲しい。俺が俺でいられなくなる。

「ごめんね、栞ちゃん。『四月十八日、俺はこの世に生まれ落ちた』って文まで暗記してるからメールで送ってあげる」

「久遠様、本当にやめてください。あの、お金払うんで……」

「嘘、嘘。これは私だけが知ってる秘密なんだから誰にもバラさないよ」

 バラしてますけど、なんて反論したらまた暴露されること間違いなしなので口を噤む。もう誰にも触れてほしくないし。

「雪村くんってこの世に生まれ落ちたの四月一八日なんですね」

「綾波さんまで……もう終わろ?」

 久遠と綾波さんが目を合わせて笑い合う。意気投合したのなら、俺の生き恥にも少しは意味があったんだろう。

「私は八月二十三日なんですよ。その……誕生日、祝ってくれませんか?」

 俺と久遠を交互に見て恥ずかしそうに笑う。そんな顔されたら祝うなって言われても祝いたくなる。

「任せて」

 俺に続けて久遠も頷く。

「私の誕生日は八月十八日だからプレゼント交換しよ!」

「分かりました。用意しておきます」

 そんなこんなで会話をしていると駅に着いた。今日も俺は吊り革を握り、窓の外を眺めながら家へ帰る。窓には真っ黒い画面が(うごめ)いていて、地下鉄の便利さが目に見えて分かる。

 綾波さんの誕生日について考えていると、あっという間にお別れの時間。

「じゃあバイバイ、寺内さんも」

 綾波さんと別れ、久遠と二人で最寄駅まで揺られる。久遠はさっきから静かだ。電車の中とはいえ何かしら喋ってくると思っていたのに。電車から降りて、隣の歩調に合わせながら雑談をする。

「ねえ、ちょっと公園寄ってかない?」

 久遠は肩をつついて、幼い頃遊んだ公園を指差す。いいよと返事をすると、彼女は中にあるベンチに腰掛けた。

「何かあったの?」

 面と向かって話すのは久しぶりな気がする。もともと積極的に会って話するほどの仲じゃない。だから、少し違和感を覚えた。

「ううん、別に深い意味はないよ。ただの雑談。栞ちゃん、美人だね」

「それは、まあ……」

 久遠が何を言いたいにしろ、否定しちゃ話は進まないので「そうだね」と付け足す。それに、綾波さんが美人なのは間違いない。

「いい匂いだし、髪も細かくてサラサラだし、私みたいに塩素で色が抜けてないし、肌も焼けてない」

「そんなに悲観しなくても……」

 確かに、久遠は小学生の時に習っていた水泳で少し焦茶になっている。中高で続けているバスケからか、肌も俺より僅かに濃い。けれど、それがマイナスポイントになるわけじゃないし、そんなの気にならないぐらいに久遠だって魅力的だと思う。

「蓮は私と栞ちゃんどっちが可愛いと思う?」

 久遠は俺の目を真っ直ぐに見る。はぐらかすような答えは許さないつもりだろう。どっちが可愛いかなんて問われていない。自分の名前を呼んでくれる人なのかを問うているのだ。面と向かって言う勇気がなかったので、前髪をいじるフリをしながら答える。

「俺は……久遠の方が良いと思う」

 喉が焼かれている気がする。声にするだけで恥ずかしい。小学校の俺は全く残っていないみたい。

「嘘でしょ。蓮の嘘つくときの癖なんて分かってるんだから」

 流石唯一で無二の幼馴染と言ったところか、隠し事は出来ないらしい。けれど、嘘でも言葉にされたのが嬉しいのかさっきよりは少し明るい。

「久遠は久遠のままが一番いいよ」

 嘘をついたお詫びというわけではないけど、本心を久遠にぶつけた。

「そんなギザなセリフがよく出てくるね。半年前も中々だったよ?」

「もう、忘れて……」

「カッコよかったのに」

 うっ…………。半年前、思い出すだけで恥ずかしすぎて死にたくなる。幾つの黒歴史を抱えてるんだって話。

「帰ろっか」

 久遠がベンチから立ち上がる。空はもう薄暗い。黒と紫が混ざったパレットの下、久遠はいつかのように手を振った。

「またねっ!」

「うん、また」

 家は近いのに、一人になった途端に慣れた孤独感が心を襲う。これも俺にとっては心地いい。ただ、おそらく久遠にとってもっといいやり方はあったはず。

 ドアの取手がひどく冷たく感じたのは、俺への罰だろう。