俺にはやりたいこともしたいことも無い。逆にしたくないことが有るわけじゃないし、全てがどうでもいいってことでもない。
なにかができるほどの特技や特徴があるわけでもなく、なにもできないほど出来損ないでもない。平々凡々の数いる一人。千人もいれば二人ぐらいは俺だと思う。
十人十色なんて言うけれど、何万人と集まれば一色ぐらいダブってくる。その一色が俺ってだけ。別にそれが嫌だとは思っていない。なら何故こんなことを考えるか……。
大学希望アンケート。終礼で渡された未来への片道切符は行き先不明でどこの駅に繋がってるか分からない無茶振りっぷり。
文理選択も終わり、いっそう大学を意識し始めた学校は、まだ人生の四分の一にすら差し掛かっていない俺たちに無理難題を押し付けてくる。
将来の夢なんて無いし、目指したい大学も無い。高校だって自分の行ける偏差値って理由だけでここを選んだ。
なにかしらの手がかりにならないかと自分を見つめ直してみたけど、分かったことは俺が日本に一万人以上いるってことだけ。世も末だな。
「雪村 蓮」と名前だけ書いて残りは配られた時のまま。その空白を埋めるように、視線を本に戻す。
なんの変哲もない、放課後の図書館。誰もいないこの部屋は俺だけの空間で、遠くから聞こえてくる野球部の声と、廊下の奥から流れる吹奏楽部の演奏だけが微かに人を感じさせる。
もはや習慣どころか習性となった読書。親指のチカラを緩めると、ページがカーテンと共鳴しハラリと揺れる。春風に運ばれた桜の花びらがふわりと舞うと、俺の視線を誘導していく。
顔を上げると、少女が一人で本を探していた。この図書室は狭い物置みたいなところで貸出している本は古い上にボロボロ。俺以外の生徒が来たのを見たことがなかったので、つい見入ってしまう。
すると、振り返った彼女と目が合った。細くも大きな瞳に、文学少女と言わんばかりの丸眼鏡。離れていても分かるほどに肌は澄んでいて、背中まで伸びる艶やかな髪はまるで天の川。
綺麗な子だ。
ふと、そんなことを思ったのが恥ずかしくなって視線を手元に落とす。続きを読もうと努めるけれど、どうも内容が頭に入ってこない。
別に何かあるわけじゃないのに。そう思って顔を上げると、目の前に彼女の顔があった。驚きのあまり声も出ない。
「君って、雪村 葵さんの息子ですよね?」
「そう、だけど……」
つい反射的に答えてしまう。しまった、と思った時にはもう遅い。彼女はパァッと顔を明るくして、本ごと俺の手を握った。柔らかっ。
「雪村くんのお父さんに会わせてくれない?」
「ちょっと待って。いろいろ、ちょっと待って」
困惑しつつも彼女の手から脱出し、状況を把握する。俺の父さんは超がつくほど有名な小説家。本名で活動しているため、時々こういったお願いをされることがある。彼女もその一人なんだろう。
「まず、名前聞いてもいい?」
「綾波 栞、綾波の綾に綾波の波、綾波 栞の栞です」
自己紹介の後に抜け目のない笑顔。こちらも口角を引き攣って、不細工な笑顔で対抗する。目つきの悪さは父親似。
「俺は雪村 蓮。雪魄氷姿の雪に、千村万落の村、泥中之蓮の蓮だね」
舐められないよう俺も渾身の自己紹介をかます。どうやら効果は抜群のようで、ドン引きされた。
「それで雪村くん」
「どこの誰!?」
俺が割って入ると、「ふふっ」と笑って続ける。
「雪村くんのお父さんに会わせてくれないですか?」
「ごめん……できない」
父さんに会わせてほしいという人は少なからずいる。俺は物心ついた時からそうだったし、それが嫌だったので公表はしていない。親が有名だからって期待されるのも、理由の一つ。
「お願いします、本当に大好きなんです。ちょっとでいいから聞いてくれないですか?」
大好きなのは絶対に俺じゃないのにドキリとする。こんなの断れる男子高校生はこの世にいない。上目遣いで懇願する綾波さん。あざと可愛くて惚れそうになる。
会わせていいのだろうか。父さんは読者とは一定の距離を保ちたがっているし、俺だってあまり気が進まない。
だけど、綾波さんはどこか特別な気がする。他の人と違って、とっても可愛い……じゃない、心から本が好きな人の雰囲気がある。
「ダメ…………ですか……?」
うるうるとした瞳を輝かせて顔を近づけてくる。何を思ったのか、いや、何も思わずに己の欲に従ったからか、口から願いが漏れてしまう。
「もっと可愛くお願いしてくれたら考えないこともない」
「おーねーがいっ」
「その調子、もう一回言ってみよう」
俺も綾波さんも両者、悪ノリ状態。にらめっこのように、笑わんと必死に堪えながらじゃれあいを続ける。
「雪村くんのお義父さんに、挨拶したいな」
「無理」
「どうして!?」
細い目を見開いて腰を浮かす。驚いた顔の上には疑問符と感嘆符が飛び出ていた。
「嘘、嘘、いいよ。話はしてみる」
断じて、断じて、可愛かったので恩を作っていい感じの関係に……なんて思っていない。ただ、狭くて手入れも行き届いていない図書室に来るほど本が好きな彼女に親近感が湧いただけ。
「やった! これでこの世に未練はないね」
「大袈裟な」
満面の笑みで喜ばれるとこちらも満更ではない。綾波さんの歓喜に溢れた顔を見ていると、十秒前の勇気ある己の決断を褒めてやりたいほどだ。彼女の笑顔で頭から抜け落ちていたが、一つ疑問があった。
「どうして綾波さんは俺が父さんの子供だって分かったの?」
「苗字だけですかね。あとは空気感とか。プリントの名前見たときに声かけるしかないっ! って思ったんです」
なんという博打だろう。変に恥ずかしくて、アンケートをカバンに突っ込む。少しでも書こうと思ったのに、名前しか書けなかった。
質問を終えると静寂が俺たちを包む。普段は一人だから気にしなかったけど、人がいるにしては、寂しすぎるほどに静か。
気まずくなって、文章の世界に逃げこむ。すると、彼女も本を開いて本を読み始めた。綾波さんは、白い指を可憐に滑らせる。比喩するなら白鳥の舞とでも言うべきだろうか。本を読もうとしたはずなのに、つい眺めてしまう。
その黒い瞳の奥に、どこか冷たい印象を感じた。こんなに悲しそうに小説を読む人は初めて見る。タイトルを見ようとするが、ボロボロのブックカバーがそれを許さない。再び彼女に目を向けると、またも目が合った。
「雪村くん、見すぎです」
「ごめん……」
思った以上に見惚れてしまって、変態にしか言われないタイプの注意を受ける。でもしょうがない、思春期男子の視線は八割が女の子なんだから。因みに残りの二割は可愛い系の男の子だと俺の中でもっぱらの噂だ。
三十分ほど読書に勤しんでいると、綾波さんが口を開く。
「あの、雪村くんは人はいつ死ぬと思います?」
先程とは違う、ひんやりとした冷たい声で彼女は問う。読んでいる本にそんなシーンが出てきたのだろうか? 難しい質問に少し頭を悩ませてから答える。
「どうだろ、自分の意思で動くことができなくなったら……じゃないかな? ありきたりだけど」
心が死んだり、自分が分からなくなったり。世界のどこかにもそういう人はいるだろうし、本でも読んできたけれど、俺にはどこか遠い話。
「やっぱり、そうですよね。でも、こんな話もあるんです。人は二度死ぬんだって」
聞いたことがある。聞いたことがあるだけだけれども。視線で説明を促すと、待ってましたと言わんばかりに答えてくれる。
「一回目は医学的な死。雪村くんが言ってくれたことですね。二回目は自分を思い出してくれる人がいなくなったとき––––」
あまりにも真面目な声色。何も言えなくなって、綾波さんの薄い桃色の唇を見つめる。彼女が何か言おうと口を開きかけた時だった。
––––キーンコーンカーンコーン…………
体の力を抜くような高い音色が学校中に響き渡る。チャイムの余韻が消えても、言葉は続かない。間延びした空気に耐えかねて俺は椅子から立ち上がる。椅子の軋む音さえも不愉快だ。
「私ももうそろそろ帰ろうかな。バイバイ、ちゃんと葵さんから許可とってきてくださいね」
「はいはい。じゃあまたね」
立て付けの悪い扉を開けると、五月特有の優しい風が頬を撫でる。昼間と違って落ち着きのある学校を一人歩いていると、日中のうざったらしい騒ぎ声も趣深く感じられたり……感じられなかったり。
校門を潜れば、街風が俺の背中を押す。もうすぐ梅雨って思うだけで気が滅入る。どうやって父さんに説明しようかと考えていると、喋りながら横一列になって歩く中学生たちに捕まる。
遅いな、なんてため息もつくけれど、追い抜かすことはせずに後を追う。どうせ駅までの辛抱だ。
「あっ、雪村くんも電車?」
綾波さんの声に振り返ると、彼女は大きく手を振っている。早歩きで俺の隣に立つとふぅーと大きな息を吐いた。
「うん、俺はこっち。綾波さんも?」
「はい、地下鉄ですぐそこで」
そう言って彼女は西の方を指さす。方向的に乗る電車も同じはず。「へー」と相槌を打ちながら彼女の歩みに合わせる。
「そう言えば、雪村くんって何年生ですか?」
「二年生だよ」
「じゃあ同い年ですね」
俺の顔を覗きこむようにして笑いかけてくれる。この可愛さは国が保護して方がいいんじゃないかと思う。
その後は文理選択はどちらを選んだのか、何組なのか、そんなたわいもない会話をして時間を潰した。気づけば中学生の歩みの遅さも気にならなくなっている。
単に異性との関わりが少ないからなのかもしれないけれど、クラスにいる女子に比べて大人びている印象を感じた。上品でお淑やかなイメージがピッタリで、丸眼鏡も謙虚さを醸し出している。
「まさか、葵さんの息子さんと知り合えるとは思ってなかったです。どんな質問しよっかなー」
目を輝かせながら天を仰ぐ。まだ会えると決まったわけじゃないのに。
「まだ父さんに話してもないからね」
「断られても毎日押しかけますから」
「無茶苦茶だ……。期待しないでね」
実は結構危ないタイプのファンに目をつけられたのかも。断った方がよかったかな? とも思ったけど、断ったところで結果は変わらなそう。
世間話を続けていると駅に着き、成り行きで同じ電車に入る。帰宅ラッシュの前兆か、空いている席は一つ。綾波さんに譲って、俺は吊り革を掴む。
膝にカバンを置くと、綾波さんは本を読み始めた。またも俺は彼女に見惚れる。文字を追う瞳はやはり何処か悲しげで、物語自体を悲観しているように思えた。
チャイムがなる前、彼女は何を言おうとしたのだろうか。俺が降りる三つ前の駅で彼女は席を立つ。
「お席、温めておきましたよ」
「いい感じに座りたくなくなったんだけど」
俺の返しに、彼女は「ふふっ」っと笑う。
「しっかり聞いといてくださいよ。バイバイっ!」
二度目の別れの挨拶と念押しには小さく手を振ることで応じ、まだ温もりのある一つの空席に目をやる。高校生特有の自意識が邪魔をして、俺は吊り革を掴みながら電車に揺られるのだった。
食事を終えて、父さんと二人っきりの午後八時。食器を洗い終えると、リビングでカレンダーとにらめっこしている父さんに声をかけた。
「父さん、今日話した子に父さんのファンがいるんだけど会いたいって言ったら相手してくれる?」
質素なリビングの戸棚からマグカップを取り出しつつさりげなく聞く。父さんはいつもの仏頂面を変えることなくこちらを向いた。どうやらカレンダーはにらめっこに負けたみたいだ。
「どうした? 蓮はそういうの嫌いだっただろ?」
「それは、そうなんだけど……」
痛いところを突かれ、しどろもどろに答える。正直、俺も会わせたいわけではない。父さんにコーヒーを淹れながら、苦い顔を隠す。
「なんだよ……俺は別にいいけど、常識的な子なんだろうな?」
初対面で親に合わせてくれなんて言うやつが常識的でたまるか、と口から漏れそうになって急いで噤む。言ってしまえばこの話は無しになる。
「それなりにはあると思う」
「そうか、蓮がそこまで言うならいいぞ。今回だけだが。なんか心変わりがあったのか?」
いつもなら絶対にそんな話をしない俺に疑問を持ったのだろう。前髪をいじって顔を隠す俺を、覗き込みながら訊いてくる。
「別に……なんでもない」
スッとコーヒーを出して父さんを牽制する。
「そうか、なんかあればまた母さん呼ぶからな」
「あれも別に何も無いんだって」
俺が少しでも落ち込んでいると思ったら、父さんは母、つまり俺のおばあちゃんを家に呼ぶ。理由はよく分からない。父さんなりの気遣いなのだろう。
とりあえず許可は貰ったのでミッションコンプリート。仕事終了と言わんばかりにコーヒーパウダーの蓋を閉める。彼女に感じた違和感、俺に何を伝えようとしたのか。
人は二度死ぬと彼女は言った。
俺はまだ、彼女を覚えている。
今日読んだページはいつもより数十ページ少なかった。
なにかができるほどの特技や特徴があるわけでもなく、なにもできないほど出来損ないでもない。平々凡々の数いる一人。千人もいれば二人ぐらいは俺だと思う。
十人十色なんて言うけれど、何万人と集まれば一色ぐらいダブってくる。その一色が俺ってだけ。別にそれが嫌だとは思っていない。なら何故こんなことを考えるか……。
大学希望アンケート。終礼で渡された未来への片道切符は行き先不明でどこの駅に繋がってるか分からない無茶振りっぷり。
文理選択も終わり、いっそう大学を意識し始めた学校は、まだ人生の四分の一にすら差し掛かっていない俺たちに無理難題を押し付けてくる。
将来の夢なんて無いし、目指したい大学も無い。高校だって自分の行ける偏差値って理由だけでここを選んだ。
なにかしらの手がかりにならないかと自分を見つめ直してみたけど、分かったことは俺が日本に一万人以上いるってことだけ。世も末だな。
「雪村 蓮」と名前だけ書いて残りは配られた時のまま。その空白を埋めるように、視線を本に戻す。
なんの変哲もない、放課後の図書館。誰もいないこの部屋は俺だけの空間で、遠くから聞こえてくる野球部の声と、廊下の奥から流れる吹奏楽部の演奏だけが微かに人を感じさせる。
もはや習慣どころか習性となった読書。親指のチカラを緩めると、ページがカーテンと共鳴しハラリと揺れる。春風に運ばれた桜の花びらがふわりと舞うと、俺の視線を誘導していく。
顔を上げると、少女が一人で本を探していた。この図書室は狭い物置みたいなところで貸出している本は古い上にボロボロ。俺以外の生徒が来たのを見たことがなかったので、つい見入ってしまう。
すると、振り返った彼女と目が合った。細くも大きな瞳に、文学少女と言わんばかりの丸眼鏡。離れていても分かるほどに肌は澄んでいて、背中まで伸びる艶やかな髪はまるで天の川。
綺麗な子だ。
ふと、そんなことを思ったのが恥ずかしくなって視線を手元に落とす。続きを読もうと努めるけれど、どうも内容が頭に入ってこない。
別に何かあるわけじゃないのに。そう思って顔を上げると、目の前に彼女の顔があった。驚きのあまり声も出ない。
「君って、雪村 葵さんの息子ですよね?」
「そう、だけど……」
つい反射的に答えてしまう。しまった、と思った時にはもう遅い。彼女はパァッと顔を明るくして、本ごと俺の手を握った。柔らかっ。
「雪村くんのお父さんに会わせてくれない?」
「ちょっと待って。いろいろ、ちょっと待って」
困惑しつつも彼女の手から脱出し、状況を把握する。俺の父さんは超がつくほど有名な小説家。本名で活動しているため、時々こういったお願いをされることがある。彼女もその一人なんだろう。
「まず、名前聞いてもいい?」
「綾波 栞、綾波の綾に綾波の波、綾波 栞の栞です」
自己紹介の後に抜け目のない笑顔。こちらも口角を引き攣って、不細工な笑顔で対抗する。目つきの悪さは父親似。
「俺は雪村 蓮。雪魄氷姿の雪に、千村万落の村、泥中之蓮の蓮だね」
舐められないよう俺も渾身の自己紹介をかます。どうやら効果は抜群のようで、ドン引きされた。
「それで雪村くん」
「どこの誰!?」
俺が割って入ると、「ふふっ」と笑って続ける。
「雪村くんのお父さんに会わせてくれないですか?」
「ごめん……できない」
父さんに会わせてほしいという人は少なからずいる。俺は物心ついた時からそうだったし、それが嫌だったので公表はしていない。親が有名だからって期待されるのも、理由の一つ。
「お願いします、本当に大好きなんです。ちょっとでいいから聞いてくれないですか?」
大好きなのは絶対に俺じゃないのにドキリとする。こんなの断れる男子高校生はこの世にいない。上目遣いで懇願する綾波さん。あざと可愛くて惚れそうになる。
会わせていいのだろうか。父さんは読者とは一定の距離を保ちたがっているし、俺だってあまり気が進まない。
だけど、綾波さんはどこか特別な気がする。他の人と違って、とっても可愛い……じゃない、心から本が好きな人の雰囲気がある。
「ダメ…………ですか……?」
うるうるとした瞳を輝かせて顔を近づけてくる。何を思ったのか、いや、何も思わずに己の欲に従ったからか、口から願いが漏れてしまう。
「もっと可愛くお願いしてくれたら考えないこともない」
「おーねーがいっ」
「その調子、もう一回言ってみよう」
俺も綾波さんも両者、悪ノリ状態。にらめっこのように、笑わんと必死に堪えながらじゃれあいを続ける。
「雪村くんのお義父さんに、挨拶したいな」
「無理」
「どうして!?」
細い目を見開いて腰を浮かす。驚いた顔の上には疑問符と感嘆符が飛び出ていた。
「嘘、嘘、いいよ。話はしてみる」
断じて、断じて、可愛かったので恩を作っていい感じの関係に……なんて思っていない。ただ、狭くて手入れも行き届いていない図書室に来るほど本が好きな彼女に親近感が湧いただけ。
「やった! これでこの世に未練はないね」
「大袈裟な」
満面の笑みで喜ばれるとこちらも満更ではない。綾波さんの歓喜に溢れた顔を見ていると、十秒前の勇気ある己の決断を褒めてやりたいほどだ。彼女の笑顔で頭から抜け落ちていたが、一つ疑問があった。
「どうして綾波さんは俺が父さんの子供だって分かったの?」
「苗字だけですかね。あとは空気感とか。プリントの名前見たときに声かけるしかないっ! って思ったんです」
なんという博打だろう。変に恥ずかしくて、アンケートをカバンに突っ込む。少しでも書こうと思ったのに、名前しか書けなかった。
質問を終えると静寂が俺たちを包む。普段は一人だから気にしなかったけど、人がいるにしては、寂しすぎるほどに静か。
気まずくなって、文章の世界に逃げこむ。すると、彼女も本を開いて本を読み始めた。綾波さんは、白い指を可憐に滑らせる。比喩するなら白鳥の舞とでも言うべきだろうか。本を読もうとしたはずなのに、つい眺めてしまう。
その黒い瞳の奥に、どこか冷たい印象を感じた。こんなに悲しそうに小説を読む人は初めて見る。タイトルを見ようとするが、ボロボロのブックカバーがそれを許さない。再び彼女に目を向けると、またも目が合った。
「雪村くん、見すぎです」
「ごめん……」
思った以上に見惚れてしまって、変態にしか言われないタイプの注意を受ける。でもしょうがない、思春期男子の視線は八割が女の子なんだから。因みに残りの二割は可愛い系の男の子だと俺の中でもっぱらの噂だ。
三十分ほど読書に勤しんでいると、綾波さんが口を開く。
「あの、雪村くんは人はいつ死ぬと思います?」
先程とは違う、ひんやりとした冷たい声で彼女は問う。読んでいる本にそんなシーンが出てきたのだろうか? 難しい質問に少し頭を悩ませてから答える。
「どうだろ、自分の意思で動くことができなくなったら……じゃないかな? ありきたりだけど」
心が死んだり、自分が分からなくなったり。世界のどこかにもそういう人はいるだろうし、本でも読んできたけれど、俺にはどこか遠い話。
「やっぱり、そうですよね。でも、こんな話もあるんです。人は二度死ぬんだって」
聞いたことがある。聞いたことがあるだけだけれども。視線で説明を促すと、待ってましたと言わんばかりに答えてくれる。
「一回目は医学的な死。雪村くんが言ってくれたことですね。二回目は自分を思い出してくれる人がいなくなったとき––––」
あまりにも真面目な声色。何も言えなくなって、綾波さんの薄い桃色の唇を見つめる。彼女が何か言おうと口を開きかけた時だった。
––––キーンコーンカーンコーン…………
体の力を抜くような高い音色が学校中に響き渡る。チャイムの余韻が消えても、言葉は続かない。間延びした空気に耐えかねて俺は椅子から立ち上がる。椅子の軋む音さえも不愉快だ。
「私ももうそろそろ帰ろうかな。バイバイ、ちゃんと葵さんから許可とってきてくださいね」
「はいはい。じゃあまたね」
立て付けの悪い扉を開けると、五月特有の優しい風が頬を撫でる。昼間と違って落ち着きのある学校を一人歩いていると、日中のうざったらしい騒ぎ声も趣深く感じられたり……感じられなかったり。
校門を潜れば、街風が俺の背中を押す。もうすぐ梅雨って思うだけで気が滅入る。どうやって父さんに説明しようかと考えていると、喋りながら横一列になって歩く中学生たちに捕まる。
遅いな、なんてため息もつくけれど、追い抜かすことはせずに後を追う。どうせ駅までの辛抱だ。
「あっ、雪村くんも電車?」
綾波さんの声に振り返ると、彼女は大きく手を振っている。早歩きで俺の隣に立つとふぅーと大きな息を吐いた。
「うん、俺はこっち。綾波さんも?」
「はい、地下鉄ですぐそこで」
そう言って彼女は西の方を指さす。方向的に乗る電車も同じはず。「へー」と相槌を打ちながら彼女の歩みに合わせる。
「そう言えば、雪村くんって何年生ですか?」
「二年生だよ」
「じゃあ同い年ですね」
俺の顔を覗きこむようにして笑いかけてくれる。この可愛さは国が保護して方がいいんじゃないかと思う。
その後は文理選択はどちらを選んだのか、何組なのか、そんなたわいもない会話をして時間を潰した。気づけば中学生の歩みの遅さも気にならなくなっている。
単に異性との関わりが少ないからなのかもしれないけれど、クラスにいる女子に比べて大人びている印象を感じた。上品でお淑やかなイメージがピッタリで、丸眼鏡も謙虚さを醸し出している。
「まさか、葵さんの息子さんと知り合えるとは思ってなかったです。どんな質問しよっかなー」
目を輝かせながら天を仰ぐ。まだ会えると決まったわけじゃないのに。
「まだ父さんに話してもないからね」
「断られても毎日押しかけますから」
「無茶苦茶だ……。期待しないでね」
実は結構危ないタイプのファンに目をつけられたのかも。断った方がよかったかな? とも思ったけど、断ったところで結果は変わらなそう。
世間話を続けていると駅に着き、成り行きで同じ電車に入る。帰宅ラッシュの前兆か、空いている席は一つ。綾波さんに譲って、俺は吊り革を掴む。
膝にカバンを置くと、綾波さんは本を読み始めた。またも俺は彼女に見惚れる。文字を追う瞳はやはり何処か悲しげで、物語自体を悲観しているように思えた。
チャイムがなる前、彼女は何を言おうとしたのだろうか。俺が降りる三つ前の駅で彼女は席を立つ。
「お席、温めておきましたよ」
「いい感じに座りたくなくなったんだけど」
俺の返しに、彼女は「ふふっ」っと笑う。
「しっかり聞いといてくださいよ。バイバイっ!」
二度目の別れの挨拶と念押しには小さく手を振ることで応じ、まだ温もりのある一つの空席に目をやる。高校生特有の自意識が邪魔をして、俺は吊り革を掴みながら電車に揺られるのだった。
食事を終えて、父さんと二人っきりの午後八時。食器を洗い終えると、リビングでカレンダーとにらめっこしている父さんに声をかけた。
「父さん、今日話した子に父さんのファンがいるんだけど会いたいって言ったら相手してくれる?」
質素なリビングの戸棚からマグカップを取り出しつつさりげなく聞く。父さんはいつもの仏頂面を変えることなくこちらを向いた。どうやらカレンダーはにらめっこに負けたみたいだ。
「どうした? 蓮はそういうの嫌いだっただろ?」
「それは、そうなんだけど……」
痛いところを突かれ、しどろもどろに答える。正直、俺も会わせたいわけではない。父さんにコーヒーを淹れながら、苦い顔を隠す。
「なんだよ……俺は別にいいけど、常識的な子なんだろうな?」
初対面で親に合わせてくれなんて言うやつが常識的でたまるか、と口から漏れそうになって急いで噤む。言ってしまえばこの話は無しになる。
「それなりにはあると思う」
「そうか、蓮がそこまで言うならいいぞ。今回だけだが。なんか心変わりがあったのか?」
いつもなら絶対にそんな話をしない俺に疑問を持ったのだろう。前髪をいじって顔を隠す俺を、覗き込みながら訊いてくる。
「別に……なんでもない」
スッとコーヒーを出して父さんを牽制する。
「そうか、なんかあればまた母さん呼ぶからな」
「あれも別に何も無いんだって」
俺が少しでも落ち込んでいると思ったら、父さんは母、つまり俺のおばあちゃんを家に呼ぶ。理由はよく分からない。父さんなりの気遣いなのだろう。
とりあえず許可は貰ったのでミッションコンプリート。仕事終了と言わんばかりにコーヒーパウダーの蓋を閉める。彼女に感じた違和感、俺に何を伝えようとしたのか。
人は二度死ぬと彼女は言った。
俺はまだ、彼女を覚えている。
今日読んだページはいつもより数十ページ少なかった。