季節外れの大雨。豪雨と表現するに相応しいそれは図書室から見た窓の景色を曇らす。ただでさえ人通りの少ない校舎の最上階、一番奥。立て付けの悪い扉も物置みたいな部屋も俺の聖域となってもうすぐ二年。
時が経つ早さに若干の恐怖を覚えつつ、うるさい雨音から流れるようにカーテンを閉めた。静かになって聞こえてくる足音。振り返れば、丁度彼女が来たところ。
「すごい雨ですね」
「毎度のことながら傘を用意してないんだけど、どうしよ」
「夕方には止むらしいですよ。私はこの前の反省を生かして折り畳み傘を常備しているので、相合傘してあげます」
「それは魅力的な提案だね」
正面に座ると栞は机の上で手を重ねた。本を読もうとしない仕草に疑問符が浮かんで、つい凝視してしまう。
「話が、あるんです」
重々しく開かれた口が静寂を呼ぶ。彼女は、面白い話ではないだろうと身構える俺に諦めたような顔で笑いかけた。
相合傘の話をしていたし、別れ話じゃないと思いたい。けれど、それ以外なら予想もつかなかった。
彼女の目には小さな雫が浮かんでいて、抱きしめたくなる。せめて彼女の手を握りたいと腰を浮かせたとき。
「私、あとちょっとで死ぬんです」
口角を上げて、首を傾げて、でも瞳は全く笑ってなくて。意味を理解するより先に、身体の力が抜けた。理解が追いつく頃には、身体がそれを拒否してる。
現実味のない話なんて次元じゃなくて、実感が伴わないなんて生半可な言葉じゃない。知ってる世界が歪むように、俺の視界が回り出す。
息の仕方も忘れて、纏まらない思考が絡まり始めた。分からないという感情だけが胸と頭を覆い尽くす。
「私の肺、もう限界みたいなんです。夏休みの最後に『余命一年だ』って言われました」
淡々の話す彼女は俺の目を見てくれない。俯いて、この世の全てに怯えるように肩を震わす。
「だから、あと半年。……私たち、どうしましょう……」
栞は恐る恐る顔を上げる。その表情は俺に縋っているようにも見えて、諭すようにも宥めるようにも見えた。
でも、それでも、そんな目で見られたって、俺はなんて言えばいいんだよ。言いたいこと、言わなきゃいけないことは浮かび上がる疑問符に沈んで、爆発しそうな感情すらどこかに消える。
「蓮くんは……どうしたいですか?」
「どうしたいって…………そんなの、無理……でしょ」
やっと出てきた言葉がそれだった。何が無理なのか。そんなの分からないけれど、多分、全部。
このままの関係を続けるのも、終わりにするのも、それを言葉にするのも、全てを諦めるのも、全てを受け入れるのも。
「そう……ですよね。ごめんなさい。ずっと隠してて。ずっと黙ってて」
「謝るだけとか、ズルいよ……」
溢れ出しそうな無茶苦茶でぐちゃぐちゃな感情を押さえつける。漏れた言葉ですら棘がある。
謝るなよ。咎められないじゃないか。恨まないじゃないか。この感情はどこに吐き出せばいいんだよ。
吐き出せないことなんて知ってる。言葉に出来ないなんて分かってる。だからって、こんなの酷いだろ。
「……ごめん、《《バイバイ》》」
そう言って図書室をあとにする。背中から、鼻水を啜る音と、膝から崩れ落ちるような音が聞こえてきたけれど、怖くて振り向くことは出来なかった。
大粒の雨に打たれながら街を歩く。身体に強く当って、服と心を重くする。人がほとんどいないことや雨音だけが響くことに加え、凍えるほどの冷たい雫が孤独を感じさせる。頭を冷やせという天からのお告げだろうか。
胸の奥は血反吐みたいな汚い怒りがこびりついていて、頭の中は腐り切った疑問符が溜まっている。
あと半年、だからなんだ。もう、知らない話。あの場から逃げた。いいさ、終わりだ。もともと俺はそういう奴だろ。嫌なものからは逃げる、それの何が悪いんだ。今は好きだなんて思えない。
なぜ今なのか。幸せだったじゃないか。幸福の最中だったはずだ。今更言われて、簡単に受け入れられるほど俺はできた人間じゃない。余命幾許の彼女をそれでも愛すなんて、俺には言えなかった。
寄りかかってきたときに支えられるようにしておきたい? 笑わせるな。過去の自分の驕りに嘲笑すらしてしまう。
何が隣にいたいだ。何が一緒にいたいだ。俺みたいなやつが、すぐに逃げ出す馬鹿が、誰かと歩みを合わせるなんてむりだったんだ。だから今まで誰とも親しい関係になろうとしなかったんだろ? それを今更、上手くいくはずなんてなかった。
これだけ濡れれば電車やバスには乗れない。歩いて帰ろう。先が見えないほど遠いけど、考える時間が欲しい。風邪をひけば栞に会わなくて済むし、万々歳じゃないか。
俺は栞を拒絶した。あれは決別だ。それも、酷く一方的で自分勝手な。突き放し、泣かせ、見捨てた。自分で決めたんだ。俺から逃げたんだろ。俺が捨てたんだろ。
そうだろ、そうなのに、どうして。
どうしてずっと、涙は止まってくれないんだ––––––––。
赤信号に足を止めて、分厚い雨雲に覆われた空を見上げる。
「雪村さん……ですよね? こんなところでどうしたんですか?」
涙で前が見えない俺に、そっとビニール傘が差し出される。振り向くとそこには空斗くんの母親がいた。
「楠木さん……俺は学校の帰りです。傘忘れちゃって。ははっ」
おどけて笑っても、彼女は俺を心配する視線を消さない。それでも、俺は引き攣った笑いを続ける。
「何かあったんですか?」
茶色がかった瞳が俺をじっと見つめる。何かあったんじゃなく、何も無かったことになった。そう言えたら、どれだけ楽だろう。
「何もないですよ」
俯きながら呟くと、白い息が辺りに舞う。すると、楠木さんは俺の前髪を上げてもう一度俺と目を合わせた。腫れてる目を見られて、繕ってるなんて簡単に見破られる。
「話してごらん」
温かい声で囁かれて、ズタボロの俺の心が弛まないなんて無理だった。栞と出会ったこと、共に過ごしたこと、付き合ったこと。そして、あと半年でこの世を去ること。
一つ話して仕舞えば、次から次へと言いたいことが出てくる。
「自分が……嫌いです。隣に立ちたいって言ってたのに、逃げて、相手を傷つけて。相手を恨んで、相手の責任にして」
泣きつくようにして、今の感情も掠れた怒鳴り声で吐いた。
「でも、相手だって悪いでしょ。知らなかった。もっと早くに言ってくれたら、好きになんてならなかった。告白なんてしなかった。こんな……こんな辛い思いしなくてよかった」
ダサいって分かってる。命が僅かと分かっていたら好きにならないだなんて、恋した側が言っていい言葉じゃない。でも、そう思っちゃうんだよ。
言いたいこと全部ぶちまけて、結局残ったのは虚しさと惨めさだけ。ただ、分かったことは、自分が酷くちっぽけな人間で、このままじゃいけないのに行動できないってことだけ。
「自然に咲く蓮の花は水やりをしなくても、泥水の中でも、強くて綺麗な花を咲かせるんです」
楠木さんは口を開いたかと思うと急に花の話を始める。あっけに取られている俺を置いて、彼女は続ける。
「雪村さんは『泥の中でも蓮の花』という言葉を知っていますか?」
知っている。泥中之蓮、蓮の花は泥の中でも咲くことから、清らかな心を待つ人のこと。
コクリと頷くと、穏やかに笑って声のトーンを低くする。
「私は雪村さんのことをあまり知りません。が、失礼を承知で言います。今の貴方に、蓮という名は似合いません」
面と向かって否定される。強くはっきりとした声音は俺に甘えた返事を許さない。清らかな心なんて持っていない。俺が持ってるのはせいぜいが薄汚れた醜い心。
「蓮の花言葉は『信頼』です。相手は雪村さんのことを信頼していたのかもしれません。ありきたりですが、相手の立場になってみることが大切ですよ」
信頼……。仮に、そうだとしたら、俺は誰も幸せになれない選択をしてしまったのではないだろうか。
彼女と出会い、共に笑い、隣を歩くと約束し、想いを交わして、キスをした。それが信頼の証なら、俺が幸せと感じてきた時間を信じて病気を話してくれたなら、彼女と俺の想いは同じだったんじゃ……。
「私はこれでお暇させてもらいますね」
俺の表情を見て安心したように笑うと、俺の頭にタオルを被せて歩いていった。ラベンダーの匂いが微かに鼻を撫でる。信号が丁度青に変わり、足を進める。
分厚い雲からそっと一筋、天使の梯子が舞い降りた。
相手目線になって考える。なぜ、栞は今になって病気のことを話したのか。それは多分、分かる気がする。俺たちは出会って一年弱、短くも濃い時間を過ごした。
だから、その時間が受け止めてくれると思ったのか、隠し事に耐えられなくなったのか。そのどちらかだと思う。
今思えば、二学期中旬から栞は悲観的になっていた気がする。急に泣き始めたり、自分が弱いと言い始めたり。デート一日目で夕日を見て涙したのは、余命宣告あってこそなのかもしれない。
今からでも遅くない。もう一度彼女に会いに行こう。話をしよう。そして、謝ろう。どうしようもない俺の弱さを許してほしい。烏滸がましいのも自分勝手なのも分かってる。けれど、まだ栞との関係を終わらせたくない。
ノートの内容だって繋がった。「死にたい」と綴られていたノート。あれを見たのはまだ出会って日が浅い頃。だから、余命宣告以前から長生きできないのは分かっていた可能性もある。
知らなきゃいけない。ただ、俺が知りたい。慰めてやりたい。もう一度、彼女に会いたい。
親に捨てられた理由だって、病気が原因だと考えられなくもない。もしそうなら、あまりにも酷い。けれど、筋は通っている。通ってしまっている。
許してもらえるにしろ、もらえないしなしろ、俺がやりたいことは決めておかなくちゃいけない。
俺は……俺は、栞の隣にいたい。傷つくのも傷つけるのも覚悟の上で、彼女を一人にしたくなかった。栞との関係を続ける意味。別れが死別になること。それは嫌だ。飲み込めた話じゃない。けど、それ以上にこのまま別れる方が嫌だった。
雨上がりの向こう側、栞のアパートが見えてくる。足がすくむ。手が震える。身体が強張る。
俺はただ、彼女の病気が割り切れていないだけ。怖いんだ。栞が好きだから。栞がいなくなるのは。
目を瞑ってインターホンを押す。懐かしい音が鼓膜を震わせ、緊張を呼び起こす。
『はい?』
「俺……だけど……」
だけど、なんだよ。ここでびびってどうする。言葉にしろよ。
言い聞かせて、空気を吐くように言った。
「話が……したい」
返事はなかったけど、ドアの奥から足音が聞こえてきて、すぐさま扉が開かれる。
「家まで来たんですか? 蓮……くんは、もう私のこと––––」
「さっきはごめん!」
彼女の声を遮って、俺は深々と頭を下げる。
「逃げたのは……俺が弱くて、情けなくて、でも、栞が嫌いになったわけじゃなくて……好きだったから受け止められなかったと言うか、全てが嫌になったと言うか……」
頭を下げたまま、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「そんなこと言うためにここまで来てくれたんですか?」
「違う。そうじゃない……そうじゃなくて、俺はまだ、栞の隣にいたい。本当に、ごめん」
二度目の告白。小心者で愚か者の悲痛で満ちた叫び。許されなくたって仕方ない。俺は彼女を傷つけた。きっと、最低で愚かな行為。彼女へ向ける、自己満足と自己欺瞞で溢れた汚い好意。
それでも、それでも俺の形はこれだった。
「謝るだけなんて、そんなのズルですよ」
優しくも棘のある言葉に顔を上げた。図書室で俺が放った言葉。栞は言ってやったとばかりに笑っている。
「もう、離れないですか?」
「多分……」
「この空気でよく最初から多分って答えられますね」
栞は今になってようやく軽蔑の目を向ける。離れないとは言えない。俺は弱いし、逃げるし、頼りない。でも、必ず戻ってくるはずだから。
「もう、睨まないですか?」
「うん」
「もう、見捨てないですか?」
「約束する」
栞の怯えた声に、俺がどれだけ彼女を痛めつけたか教えられる。睨んで、見捨てて、離れて。だから今度は微笑んで、見つめて、近づいて。
「信じても……いいんですよね?」
「うん、信じてほしい」
俺は栞の両肩を優しく掴む。
「嫌なら引っ叩いて」
唇を近づける。俺からやれと言われたキス。それをもって証明する。栞もいいよと言うように目を閉じた。
そして、優しくキスをする––––。
前回みたいな愛を育むキスじゃない。イルミネーションに照らされたクリスマスイブのキスじゃない。そんな綺麗なキスじゃない。
それでも、ここにある想いを確かめるように、唇を重ね合った。
口付けを終えるとデコピンが飛んでくる。
「蓮くんからのキス、もっとムードがあるときにやってほしかった」
「じゃあ、やる前に言ってくれたらよかったのに。『嫌なら引っ叩いて』って言ったじゃん」
「……嫌じゃなかったもん」
ダメだ、可愛すぎる。恥ずかしそうに目を逸らして、眉を顰める姿は天使さながら。仲直りはできたはず。
「まだ話したいことがあるので中入ってください」
栞に連れられ、リビングの机に向かい合って座る。すると、単刀直入に彼女は話し始めた。
「私、生まれつき肺の病気だったんです。特発性肺線維症って呼ばれてるんですけど、簡単に言ったら肺に傷がついて息が出来なくなるんです」
彼女の言葉に頷くことしかできない。聞いたことすらない病名。だからせめて、聞き逃さぬよう努める。
「ちょっと専門的な知識になるんだけど、この病気は中年男性の喫煙者に多いらしいんです。でも、遺伝するケースもあるので私のは先天的なものなんだと思います」
あまりにも不幸な話に行き場のない怒りが湧いてくる。そんなの、酷すぎる。栞は何も悪くないだろ。
「何年も前から分かってたんです。二十歳までは生きられないだろうって。思ってたより早くなっちゃいました」
諦めたように眉を下げて笑う。どうしてそんな顔ができるのか。何度か見たことのある嫌なことを受け入れてしまった笑顔が嫌いだった。
「なにか言ってくださいよ」
栞の欲しい言葉が分からない。慰めの言葉も気休めの言葉も出てこなくて、無理矢理口を開く。
「ごめん……その、移植とかは無理なの?」
何の知識もない俺が言えるのはそんな言葉だけ。できるのならとうの昔に終えているはず。
「私の症状ってちょっと特殊で、片方の肺だけ異様に動いてないんですよ……。移植って相手の臓器との相性とかもあるので、特徴的な症状の人まで回ってこないことがあるんです」
「そっか…………」
気の利いたこと一つ言えない。ここにいるのは無価値で無力な高校生。自分の情けなさが悔しい。俺ができる男なら、なんて妄想すら反吐が出る。
「蓮くんに頭下げさせて、私だけ許す側なんておかしいですよね。私からももう一度、お願いします」
彼女は真っ直ぐ、俺に視線を向ける。
「難病だから治し方も分かってないんです。それでも、残った時間を一緒に過ごしてくれませんか?」
「……うん」
やはり、納得できたものじゃない。我儘かもしれないけど、残った時間なんて言わないでほしかった。どこまでいっても、俺はまだ彼女の病気を受け入れられていない。
栞との関係が戻ったって、俺が強くなったわけじゃない。自分の弱さをひしひしと感じる。崩れそうな何かを、今も必死に守ってる。
「どうしましょうか……やりたいことノートなんて作りません?」
「いいよ」
そこに書いてあることが全部終わったら、彼女は死んでしまうのだろうか。全部終わらなくたって、彼女は死んでしまうのだろうけど。早速新品のノートを広げる栞をよそに、そんなことを思う。栞は箇条書きでペンを神に滑らせていく。
・久遠ちゃんにも病気のことを話す
・星空を見に行く
・誕生日を祝い合う
・思い出を振り返る
そうして『悔いを残さず死ぬ』と書き加えて手を止めた。当たり前のように書く彼女に胸が痛む。本当に栞は自分の死を受け入れているんだ。
「こんな感じですかね」
「思い出を振り返るって何?」
「私の一生を最後に振り返りたいんです。他の人より短くても、客観的に見て哀れで滑稽でも、自分の人生を振り返って笑顔でいたいんです」
「いいじゃん」
彼女は大人だ。俺とは違う。本当に同い年の高校生かと思えるほどに、彼女は達観して先にいる。その背中にはきっと一人じゃ抱えきれないほどのものを背負っているんだ。
「次は……蓮くんが私にしてくれること書いてください」
「分かった。なんでもいい?」
「はい、大丈夫ですよ。あっ、エッチなのは鏡文字で書いてください」
「難易度高いな……」
ノートが半回転して俺の方を向く。差し出されたペンはまだ少し暖かくて、思考力を削がれながらも考える。
・甘いものを食べる
・映画を見に行く
・勉強を教え合う
・親に紹介する
そこまで書いて、栞の方を見る。俺が栞としたかった、当たり前の高校生の日々。今となっては夢物語かもしれないけれど。
「なんですか、親に紹介するって……」
「初の彼女だからね。自慢させてよ」
「ふふっ、いいですよ」
そう言って彼女は咳き込む。最近、咳払いが多いのは肺の病気だからだったのか。病気がそんなにも身近なものだと感じで背筋が凍る。
「大丈夫?」
「これぐらい、平気ですよ。蓮くんはちょっと優しすぎるんです」
「そんなことないよ」
本当に……そんなことない。何もできてない。自分が嫌になる程、君が好き。俺はノートに『栞を助ける』と書き殴る。不可能だ。無理だ。知ってる。知ったこっちゃない。俺は栞を死なせたくない。
「もう帰るよ。これからもよろしく。またね」
「んんっ、また明日」
そう言って、小さく腕を振ってくる。少し悲しそうな目をするのが嬉しい。またねって挨拶が温かい。
「あのっ……!」
彼女の弱々しい声に振り返る。
「長生きさせてくださいね」
「うん…………任せて」
そう言った俺の顔は、彼女のような笑顔になっていなかっただろうか。もう生きることを諦めている彼女は、俺の思い出の中で生きようとする。
アパートを出ると、水溜まりが夜の街を写しだす。雨の匂いと張り付く夜風。いったい、あとどれだけ彼女といられるのだろう。
夜が嫌いになりそうだ。うざったらしく光る自販機には、無数の蛾が集まっていた。
時が経つ早さに若干の恐怖を覚えつつ、うるさい雨音から流れるようにカーテンを閉めた。静かになって聞こえてくる足音。振り返れば、丁度彼女が来たところ。
「すごい雨ですね」
「毎度のことながら傘を用意してないんだけど、どうしよ」
「夕方には止むらしいですよ。私はこの前の反省を生かして折り畳み傘を常備しているので、相合傘してあげます」
「それは魅力的な提案だね」
正面に座ると栞は机の上で手を重ねた。本を読もうとしない仕草に疑問符が浮かんで、つい凝視してしまう。
「話が、あるんです」
重々しく開かれた口が静寂を呼ぶ。彼女は、面白い話ではないだろうと身構える俺に諦めたような顔で笑いかけた。
相合傘の話をしていたし、別れ話じゃないと思いたい。けれど、それ以外なら予想もつかなかった。
彼女の目には小さな雫が浮かんでいて、抱きしめたくなる。せめて彼女の手を握りたいと腰を浮かせたとき。
「私、あとちょっとで死ぬんです」
口角を上げて、首を傾げて、でも瞳は全く笑ってなくて。意味を理解するより先に、身体の力が抜けた。理解が追いつく頃には、身体がそれを拒否してる。
現実味のない話なんて次元じゃなくて、実感が伴わないなんて生半可な言葉じゃない。知ってる世界が歪むように、俺の視界が回り出す。
息の仕方も忘れて、纏まらない思考が絡まり始めた。分からないという感情だけが胸と頭を覆い尽くす。
「私の肺、もう限界みたいなんです。夏休みの最後に『余命一年だ』って言われました」
淡々の話す彼女は俺の目を見てくれない。俯いて、この世の全てに怯えるように肩を震わす。
「だから、あと半年。……私たち、どうしましょう……」
栞は恐る恐る顔を上げる。その表情は俺に縋っているようにも見えて、諭すようにも宥めるようにも見えた。
でも、それでも、そんな目で見られたって、俺はなんて言えばいいんだよ。言いたいこと、言わなきゃいけないことは浮かび上がる疑問符に沈んで、爆発しそうな感情すらどこかに消える。
「蓮くんは……どうしたいですか?」
「どうしたいって…………そんなの、無理……でしょ」
やっと出てきた言葉がそれだった。何が無理なのか。そんなの分からないけれど、多分、全部。
このままの関係を続けるのも、終わりにするのも、それを言葉にするのも、全てを諦めるのも、全てを受け入れるのも。
「そう……ですよね。ごめんなさい。ずっと隠してて。ずっと黙ってて」
「謝るだけとか、ズルいよ……」
溢れ出しそうな無茶苦茶でぐちゃぐちゃな感情を押さえつける。漏れた言葉ですら棘がある。
謝るなよ。咎められないじゃないか。恨まないじゃないか。この感情はどこに吐き出せばいいんだよ。
吐き出せないことなんて知ってる。言葉に出来ないなんて分かってる。だからって、こんなの酷いだろ。
「……ごめん、《《バイバイ》》」
そう言って図書室をあとにする。背中から、鼻水を啜る音と、膝から崩れ落ちるような音が聞こえてきたけれど、怖くて振り向くことは出来なかった。
大粒の雨に打たれながら街を歩く。身体に強く当って、服と心を重くする。人がほとんどいないことや雨音だけが響くことに加え、凍えるほどの冷たい雫が孤独を感じさせる。頭を冷やせという天からのお告げだろうか。
胸の奥は血反吐みたいな汚い怒りがこびりついていて、頭の中は腐り切った疑問符が溜まっている。
あと半年、だからなんだ。もう、知らない話。あの場から逃げた。いいさ、終わりだ。もともと俺はそういう奴だろ。嫌なものからは逃げる、それの何が悪いんだ。今は好きだなんて思えない。
なぜ今なのか。幸せだったじゃないか。幸福の最中だったはずだ。今更言われて、簡単に受け入れられるほど俺はできた人間じゃない。余命幾許の彼女をそれでも愛すなんて、俺には言えなかった。
寄りかかってきたときに支えられるようにしておきたい? 笑わせるな。過去の自分の驕りに嘲笑すらしてしまう。
何が隣にいたいだ。何が一緒にいたいだ。俺みたいなやつが、すぐに逃げ出す馬鹿が、誰かと歩みを合わせるなんてむりだったんだ。だから今まで誰とも親しい関係になろうとしなかったんだろ? それを今更、上手くいくはずなんてなかった。
これだけ濡れれば電車やバスには乗れない。歩いて帰ろう。先が見えないほど遠いけど、考える時間が欲しい。風邪をひけば栞に会わなくて済むし、万々歳じゃないか。
俺は栞を拒絶した。あれは決別だ。それも、酷く一方的で自分勝手な。突き放し、泣かせ、見捨てた。自分で決めたんだ。俺から逃げたんだろ。俺が捨てたんだろ。
そうだろ、そうなのに、どうして。
どうしてずっと、涙は止まってくれないんだ––––––––。
赤信号に足を止めて、分厚い雨雲に覆われた空を見上げる。
「雪村さん……ですよね? こんなところでどうしたんですか?」
涙で前が見えない俺に、そっとビニール傘が差し出される。振り向くとそこには空斗くんの母親がいた。
「楠木さん……俺は学校の帰りです。傘忘れちゃって。ははっ」
おどけて笑っても、彼女は俺を心配する視線を消さない。それでも、俺は引き攣った笑いを続ける。
「何かあったんですか?」
茶色がかった瞳が俺をじっと見つめる。何かあったんじゃなく、何も無かったことになった。そう言えたら、どれだけ楽だろう。
「何もないですよ」
俯きながら呟くと、白い息が辺りに舞う。すると、楠木さんは俺の前髪を上げてもう一度俺と目を合わせた。腫れてる目を見られて、繕ってるなんて簡単に見破られる。
「話してごらん」
温かい声で囁かれて、ズタボロの俺の心が弛まないなんて無理だった。栞と出会ったこと、共に過ごしたこと、付き合ったこと。そして、あと半年でこの世を去ること。
一つ話して仕舞えば、次から次へと言いたいことが出てくる。
「自分が……嫌いです。隣に立ちたいって言ってたのに、逃げて、相手を傷つけて。相手を恨んで、相手の責任にして」
泣きつくようにして、今の感情も掠れた怒鳴り声で吐いた。
「でも、相手だって悪いでしょ。知らなかった。もっと早くに言ってくれたら、好きになんてならなかった。告白なんてしなかった。こんな……こんな辛い思いしなくてよかった」
ダサいって分かってる。命が僅かと分かっていたら好きにならないだなんて、恋した側が言っていい言葉じゃない。でも、そう思っちゃうんだよ。
言いたいこと全部ぶちまけて、結局残ったのは虚しさと惨めさだけ。ただ、分かったことは、自分が酷くちっぽけな人間で、このままじゃいけないのに行動できないってことだけ。
「自然に咲く蓮の花は水やりをしなくても、泥水の中でも、強くて綺麗な花を咲かせるんです」
楠木さんは口を開いたかと思うと急に花の話を始める。あっけに取られている俺を置いて、彼女は続ける。
「雪村さんは『泥の中でも蓮の花』という言葉を知っていますか?」
知っている。泥中之蓮、蓮の花は泥の中でも咲くことから、清らかな心を待つ人のこと。
コクリと頷くと、穏やかに笑って声のトーンを低くする。
「私は雪村さんのことをあまり知りません。が、失礼を承知で言います。今の貴方に、蓮という名は似合いません」
面と向かって否定される。強くはっきりとした声音は俺に甘えた返事を許さない。清らかな心なんて持っていない。俺が持ってるのはせいぜいが薄汚れた醜い心。
「蓮の花言葉は『信頼』です。相手は雪村さんのことを信頼していたのかもしれません。ありきたりですが、相手の立場になってみることが大切ですよ」
信頼……。仮に、そうだとしたら、俺は誰も幸せになれない選択をしてしまったのではないだろうか。
彼女と出会い、共に笑い、隣を歩くと約束し、想いを交わして、キスをした。それが信頼の証なら、俺が幸せと感じてきた時間を信じて病気を話してくれたなら、彼女と俺の想いは同じだったんじゃ……。
「私はこれでお暇させてもらいますね」
俺の表情を見て安心したように笑うと、俺の頭にタオルを被せて歩いていった。ラベンダーの匂いが微かに鼻を撫でる。信号が丁度青に変わり、足を進める。
分厚い雲からそっと一筋、天使の梯子が舞い降りた。
相手目線になって考える。なぜ、栞は今になって病気のことを話したのか。それは多分、分かる気がする。俺たちは出会って一年弱、短くも濃い時間を過ごした。
だから、その時間が受け止めてくれると思ったのか、隠し事に耐えられなくなったのか。そのどちらかだと思う。
今思えば、二学期中旬から栞は悲観的になっていた気がする。急に泣き始めたり、自分が弱いと言い始めたり。デート一日目で夕日を見て涙したのは、余命宣告あってこそなのかもしれない。
今からでも遅くない。もう一度彼女に会いに行こう。話をしよう。そして、謝ろう。どうしようもない俺の弱さを許してほしい。烏滸がましいのも自分勝手なのも分かってる。けれど、まだ栞との関係を終わらせたくない。
ノートの内容だって繋がった。「死にたい」と綴られていたノート。あれを見たのはまだ出会って日が浅い頃。だから、余命宣告以前から長生きできないのは分かっていた可能性もある。
知らなきゃいけない。ただ、俺が知りたい。慰めてやりたい。もう一度、彼女に会いたい。
親に捨てられた理由だって、病気が原因だと考えられなくもない。もしそうなら、あまりにも酷い。けれど、筋は通っている。通ってしまっている。
許してもらえるにしろ、もらえないしなしろ、俺がやりたいことは決めておかなくちゃいけない。
俺は……俺は、栞の隣にいたい。傷つくのも傷つけるのも覚悟の上で、彼女を一人にしたくなかった。栞との関係を続ける意味。別れが死別になること。それは嫌だ。飲み込めた話じゃない。けど、それ以上にこのまま別れる方が嫌だった。
雨上がりの向こう側、栞のアパートが見えてくる。足がすくむ。手が震える。身体が強張る。
俺はただ、彼女の病気が割り切れていないだけ。怖いんだ。栞が好きだから。栞がいなくなるのは。
目を瞑ってインターホンを押す。懐かしい音が鼓膜を震わせ、緊張を呼び起こす。
『はい?』
「俺……だけど……」
だけど、なんだよ。ここでびびってどうする。言葉にしろよ。
言い聞かせて、空気を吐くように言った。
「話が……したい」
返事はなかったけど、ドアの奥から足音が聞こえてきて、すぐさま扉が開かれる。
「家まで来たんですか? 蓮……くんは、もう私のこと––––」
「さっきはごめん!」
彼女の声を遮って、俺は深々と頭を下げる。
「逃げたのは……俺が弱くて、情けなくて、でも、栞が嫌いになったわけじゃなくて……好きだったから受け止められなかったと言うか、全てが嫌になったと言うか……」
頭を下げたまま、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「そんなこと言うためにここまで来てくれたんですか?」
「違う。そうじゃない……そうじゃなくて、俺はまだ、栞の隣にいたい。本当に、ごめん」
二度目の告白。小心者で愚か者の悲痛で満ちた叫び。許されなくたって仕方ない。俺は彼女を傷つけた。きっと、最低で愚かな行為。彼女へ向ける、自己満足と自己欺瞞で溢れた汚い好意。
それでも、それでも俺の形はこれだった。
「謝るだけなんて、そんなのズルですよ」
優しくも棘のある言葉に顔を上げた。図書室で俺が放った言葉。栞は言ってやったとばかりに笑っている。
「もう、離れないですか?」
「多分……」
「この空気でよく最初から多分って答えられますね」
栞は今になってようやく軽蔑の目を向ける。離れないとは言えない。俺は弱いし、逃げるし、頼りない。でも、必ず戻ってくるはずだから。
「もう、睨まないですか?」
「うん」
「もう、見捨てないですか?」
「約束する」
栞の怯えた声に、俺がどれだけ彼女を痛めつけたか教えられる。睨んで、見捨てて、離れて。だから今度は微笑んで、見つめて、近づいて。
「信じても……いいんですよね?」
「うん、信じてほしい」
俺は栞の両肩を優しく掴む。
「嫌なら引っ叩いて」
唇を近づける。俺からやれと言われたキス。それをもって証明する。栞もいいよと言うように目を閉じた。
そして、優しくキスをする––––。
前回みたいな愛を育むキスじゃない。イルミネーションに照らされたクリスマスイブのキスじゃない。そんな綺麗なキスじゃない。
それでも、ここにある想いを確かめるように、唇を重ね合った。
口付けを終えるとデコピンが飛んでくる。
「蓮くんからのキス、もっとムードがあるときにやってほしかった」
「じゃあ、やる前に言ってくれたらよかったのに。『嫌なら引っ叩いて』って言ったじゃん」
「……嫌じゃなかったもん」
ダメだ、可愛すぎる。恥ずかしそうに目を逸らして、眉を顰める姿は天使さながら。仲直りはできたはず。
「まだ話したいことがあるので中入ってください」
栞に連れられ、リビングの机に向かい合って座る。すると、単刀直入に彼女は話し始めた。
「私、生まれつき肺の病気だったんです。特発性肺線維症って呼ばれてるんですけど、簡単に言ったら肺に傷がついて息が出来なくなるんです」
彼女の言葉に頷くことしかできない。聞いたことすらない病名。だからせめて、聞き逃さぬよう努める。
「ちょっと専門的な知識になるんだけど、この病気は中年男性の喫煙者に多いらしいんです。でも、遺伝するケースもあるので私のは先天的なものなんだと思います」
あまりにも不幸な話に行き場のない怒りが湧いてくる。そんなの、酷すぎる。栞は何も悪くないだろ。
「何年も前から分かってたんです。二十歳までは生きられないだろうって。思ってたより早くなっちゃいました」
諦めたように眉を下げて笑う。どうしてそんな顔ができるのか。何度か見たことのある嫌なことを受け入れてしまった笑顔が嫌いだった。
「なにか言ってくださいよ」
栞の欲しい言葉が分からない。慰めの言葉も気休めの言葉も出てこなくて、無理矢理口を開く。
「ごめん……その、移植とかは無理なの?」
何の知識もない俺が言えるのはそんな言葉だけ。できるのならとうの昔に終えているはず。
「私の症状ってちょっと特殊で、片方の肺だけ異様に動いてないんですよ……。移植って相手の臓器との相性とかもあるので、特徴的な症状の人まで回ってこないことがあるんです」
「そっか…………」
気の利いたこと一つ言えない。ここにいるのは無価値で無力な高校生。自分の情けなさが悔しい。俺ができる男なら、なんて妄想すら反吐が出る。
「蓮くんに頭下げさせて、私だけ許す側なんておかしいですよね。私からももう一度、お願いします」
彼女は真っ直ぐ、俺に視線を向ける。
「難病だから治し方も分かってないんです。それでも、残った時間を一緒に過ごしてくれませんか?」
「……うん」
やはり、納得できたものじゃない。我儘かもしれないけど、残った時間なんて言わないでほしかった。どこまでいっても、俺はまだ彼女の病気を受け入れられていない。
栞との関係が戻ったって、俺が強くなったわけじゃない。自分の弱さをひしひしと感じる。崩れそうな何かを、今も必死に守ってる。
「どうしましょうか……やりたいことノートなんて作りません?」
「いいよ」
そこに書いてあることが全部終わったら、彼女は死んでしまうのだろうか。全部終わらなくたって、彼女は死んでしまうのだろうけど。早速新品のノートを広げる栞をよそに、そんなことを思う。栞は箇条書きでペンを神に滑らせていく。
・久遠ちゃんにも病気のことを話す
・星空を見に行く
・誕生日を祝い合う
・思い出を振り返る
そうして『悔いを残さず死ぬ』と書き加えて手を止めた。当たり前のように書く彼女に胸が痛む。本当に栞は自分の死を受け入れているんだ。
「こんな感じですかね」
「思い出を振り返るって何?」
「私の一生を最後に振り返りたいんです。他の人より短くても、客観的に見て哀れで滑稽でも、自分の人生を振り返って笑顔でいたいんです」
「いいじゃん」
彼女は大人だ。俺とは違う。本当に同い年の高校生かと思えるほどに、彼女は達観して先にいる。その背中にはきっと一人じゃ抱えきれないほどのものを背負っているんだ。
「次は……蓮くんが私にしてくれること書いてください」
「分かった。なんでもいい?」
「はい、大丈夫ですよ。あっ、エッチなのは鏡文字で書いてください」
「難易度高いな……」
ノートが半回転して俺の方を向く。差し出されたペンはまだ少し暖かくて、思考力を削がれながらも考える。
・甘いものを食べる
・映画を見に行く
・勉強を教え合う
・親に紹介する
そこまで書いて、栞の方を見る。俺が栞としたかった、当たり前の高校生の日々。今となっては夢物語かもしれないけれど。
「なんですか、親に紹介するって……」
「初の彼女だからね。自慢させてよ」
「ふふっ、いいですよ」
そう言って彼女は咳き込む。最近、咳払いが多いのは肺の病気だからだったのか。病気がそんなにも身近なものだと感じで背筋が凍る。
「大丈夫?」
「これぐらい、平気ですよ。蓮くんはちょっと優しすぎるんです」
「そんなことないよ」
本当に……そんなことない。何もできてない。自分が嫌になる程、君が好き。俺はノートに『栞を助ける』と書き殴る。不可能だ。無理だ。知ってる。知ったこっちゃない。俺は栞を死なせたくない。
「もう帰るよ。これからもよろしく。またね」
「んんっ、また明日」
そう言って、小さく腕を振ってくる。少し悲しそうな目をするのが嬉しい。またねって挨拶が温かい。
「あのっ……!」
彼女の弱々しい声に振り返る。
「長生きさせてくださいね」
「うん…………任せて」
そう言った俺の顔は、彼女のような笑顔になっていなかっただろうか。もう生きることを諦めている彼女は、俺の思い出の中で生きようとする。
アパートを出ると、水溜まりが夜の街を写しだす。雨の匂いと張り付く夜風。いったい、あとどれだけ彼女といられるのだろう。
夜が嫌いになりそうだ。うざったらしく光る自販機には、無数の蛾が集まっていた。