家に帰ったら、私がいた。
別に幻覚を見たわけでも、幽体離脱したわけでも、そっくりさんが強盗に入っていたわけでもない。正真正銘、私だ。
その証拠に、彼女もまるで幽霊を見たかのように驚いている。
「……今ここ、何年?」
沼の底みたいに暗い瞳を此方に向けて、彼女が私に問うた。
「2024年、9月」
「2年後か。…まだ生きてるんだね」
そんなことを真面目に言った彼女を見て、過去の記憶が呼び起こされる。
「2年前……彼奴が死んだ直後か」
独りごちたつもりだったのに、彼女の肩がぴくりと震えた。彼女の前で口に出すのは、控えた方が良かったと後悔する。
「……覚えてるんだ」
苦しげに、苦々しそうに、彼女が笑う。
「そりゃあ、友人だし」
彼奴のことを思い浮かべても、心臓が刺されるような痛みに襲われなくなったのはつい最近の話だ。できるだけ早く話題転換をしてあげたい。
「ねぇ」
声を掛けられて顔を上げると、暗い瞳がこちらを向いていた。
「あなた、本当に私?」
「そうだよ。2年後のね」
さらりと返して、天井を見上げる。無機質な白に、目が痛くなりそうだった。
「……あれから、外に出るのが怖い」
彼女が、ぽつりと呟く。
「いつ救急車のサイレンが聞こえてくるか分からないから」
私は過去の自分と向き合いながら、答え合わせでもするように理由を述べた。
「人と関わるのが怖い」
「いついなくなるか分からないから」
「死にたいわけじゃない。でも、…消えたい」
「生命は不可逆な代物で、唯一無二だと嫌というほど分かっているから。でも生き続けて、また誰かがいなくなるのを見ることはきっと耐えられない」
「独りになりたい。でも、独りになりたくない」
「いなくなる存在そのものがなくなれば、きっと絶望しないで済むから。でも、自分が生きている意味は、他人と関わって初めて分かる」
私が流れるように言葉を繋いだのを、彼女は黙って見つめている。
「本当に、私なんだ」
「そうだよ」
少し戯けて言ってみたけど、彼女は綺麗すぎる微笑を崩さない。演技の仮面が剥がれない。暖簾に腕押し、という(ことわざ)が、妙にしっくりくる。
「あなたは今、何して過ごしてるの?」
彼女が私にまた問うた。彼女が少しずつ、私に興味を持ってくれているのが嬉しかった。
「毎日高校通って、勉強して合唱して…まぁ、充実してるよ。楽しく生きてる」
「合唱? 部活で?」
「そう」
「弓道でも剣道でもないんだ」
「……そんなことも言ってたね」
思えば、高校に入ったなら、もしその時まで生きていたなら、武道をやりたいとぼんやり考えていた時期がある。武道に対する憧れはあったし、運動部を続けたい気もしていた。基本は個人競技だからちょうど良いかなぁ、とも。今考えると、全然そんなことないんだろうけど。
「まぁ紆余曲折あってね。でも合唱部、すごく楽しいよ。顧問がすごく個性強くて、他にも……」
過去の私に今の私の周りのことを事細かに話すのには抵抗があった。でも楽しかった出来事、苦労したこと、感じた気持ち、その他諸々。伝えたいことはいくらでもある。彼女は生き生きと話す私を、何か遠くのものを見るような目で、でも最後まで聞いてくれた。
「とにかく、ね。毎日学んで、動いて悩んで苦しんで、話して歌って笑って、それはもう、全力で生きてる」
「そう。……あなたは、今、幸せ?」
彼女は、幸せを恐れている。
幸せになったら、崩壊が怖くなるから。
でも、嘘は吐きたくなかった。
「うん。幸せだよ」
彼女の目が僅かに広がった。
崩壊が怖くないわけがない。でも、だからと言ってそれを自分から叩き壊せるほど、あそこは今の私にとって軽い場所じゃないのだ。

「ところでさ」
彼女が声を発して、私は顔を上げた。
「うん」
「小説はまだ書いてる?」
「書いてるよ。なんで?」
「いや、……なんとなく」
「あぁ大丈夫大丈夫、ドロッドロの愛憎劇なんて書いてないから」
「そんなの書いていたら私は今頃ひっくり返ってるよ……」
「でもね」
唐突に真面目な声を出した私に、彼女が目を向ける。
「誰かが死ぬ話は、もう書いてない」
彼奴が死んだ後、私は誰かが死ぬ話ばかりを書いていた。主人公の友人。相棒。恋人。そんな間柄の人を死なせて、主人公が絶望して、立ち直る姿を幾つも描いた。トラウマが蘇らないわけがない。苦しんで苦しんで、書いて書いて描いて、願わくば、主人公と一緒に私も立ち上がれるように。そう願って、描き続けた。
当たり前だけど、望んで精神を病んでいるわけがない。いっそのこと綺麗さっぱり全部忘れて、無かったことにしたかった。さっさと立ち直りたかった。それができないと分かると、物語の中みたいに、気持ちを吐き出せる、救ってくれる人の存在を馬鹿みたいに求めた。
それも無理だと知ってしまって、私は全てを諦めた。人と関わることも、助けを求めることも、泣くことも笑うことも全て。
でも、あそこが。あそこが、私を照らしてくれた。みんなが私を真っ直ぐに見てくれた。……隣に立ってくれた。
立ち直れてはいない。でも、歩けるようになった。前を向けるようになった。
「今は、誰かの日常を描いてる。日常って、当たり前で、ありふれてて、つまらなくて、幸せでしょう? 誰かを救うのは、案外そういう話かもしれない」
沼の底に、光が差したのが見えた。それを見ながら、私は続ける。
「私は今も、あなたに向けて(・・・・・・・)物語を書いてる。……届いて、いるかな」
あの時の私が読んだら、どう思うだろう? 光のない沼の底で、死に囚われて生に溺れて、過去に縛られて未来を恐れて、現在(いま)を見ないふりしていた私が、これを読んだなら、どう思うだろうか?
所詮は夢物語だと絶望するだろうか。
明日死ぬかもしれないと想像もしない愚かな奴らだと、馬鹿にするだろうか。
それとも、それとも。
とりあえず明日は明日を生きてみようと、少し顔を上げてくれるだろうか。
「ねぇ、(なぎ)
自分の名前を呼ぶのは、何だか変な気分だった。
「……なに」
「あなたはこれから、沢山の素晴らしいものやひとに会えるよ。苦しいこともあるけど、希望だってある。不確かな未来の希望を妄信して進めとは言わないけどさ、少なくとも今の私は、幸せだよ。楽しく生きられてる」
もう聞いたよ、とでも言いたげに、彼女が微かに息を吐く。
「だからね、凪。希望を信じなくても良い。でも、絶望だけを信じる必要はどこにもない。あなたが人との関わりを断とうと思ったのは、いなくなったときに辛いから。それは喪失感だけの話じゃなくて、ショックで楽しかった記憶も思い出せなくなるからでしょう? だったらさ」
こんな時に文明の利器に頼るのは、なんだか情けない気がする。でも、他に方法は思いつかなかった。強引だと思いつつ、彼女の鼻先にスマートフォンの画面を突きつける。
「いつでも思い出せるように、楽しく残しておけば良いじゃん」
そこには、弾けるような笑顔を浮かべる私と仲間たちの姿が映っていた。
幸せな私の、確かにある「現在」の姿だった。