3.

「綺麗……」
 彼女は一番大きな水槽の前で足を止め、青く輝く幻想的な世界を恍惚と見上げた。
「だね」
 内心、水槽を見上げる彼女の横顔の方がずっと綺麗だと思ったが、そんな邪な感想は胸の内に潜め、僕も真似するように青の世界を見上げて、心地良さそうに水中を泳ぐ魚を見つめる。
 公営の水族館だけあって、正直、魚の種類にそこまで華やかさはない。
 今目の前を泳いでいる魚も、近所の回転寿司の会計脇にある大きな水槽でデモンストレーション的に泳がされている食料魚と同じように見えたし、他の水槽にいる魚も似たようなもので決して珍しい種類ではないだろう。おまけに、館内の客もそんなに多くはない。この区画に限っては、歩いている観客が僕と彼女だけという衰退っぷりだ。
 それでも、目前にある青の世界は僕たちの心を癒すのに充分な魅力を持っていたし、静かで、誰にも邪魔されず、没頭して寛げる空間であることには変わりがなかった。
「私さ」
「うん?」
「ずっと、翼が欲しかったんだ」
 ふいにこぼされた呟きに、彼女の乙女らしさが滲み出ている。
「翼がはえた生物、好きだもんね」
「うん。だって、翼があればどこへでも自由に飛んでいけるじゃない。だから憧れてたんだけど、でも……」
「でも?」
「自由に泳げる魚でもいいな。なんにも考えなくていい静かな世界で、ただふよふよ流れに身を任せて海の中を漂うの」
 目を細めて語る彼女。ちょっと乙女らしさが薄れた気もしたけれど、想像するとそれは僕にとってもひどく魅力的な世界のような気がして、迷わず同意することにした。
「それいいね。何も考えなくていい世界とか最高だし、なにより気持ちよさそう」
「でしょ?」
「うん。魚になら僕もなってみたいかな」
 賛同した僕を嬉しそうに見て、彼女は得意げに笑った。
「千隼くんはクラゲね」
「それ魚っていうより刺胞動物じゃない」
「海洋生物ならいいの。マイペースそうな感じが似てるでしょ?」
「否定はしないよ。紬は?」
「私は……薄暗い海底に張り付いてる深海魚とかかなあ」
「せっかくなんだからもっと積極的に浮上していこようよ」
「それもそうか。……あ、あっちにも行ってみよ」
「うん」
 どうやら彼女はこの場所がえらく気に入ったようで、僕たちは結局、館内を三周した。
 小さい水族館だから一周に十五分もかからないため、三週といってもそれほど多くは歩かない。しかしそれでも、骨折した足を治療中の患者と、不治の病を持つ病人とではそこそこ程よい疲労感を味わうくらいには充足感があった。
 三周目の終わり際、大きな水槽前に設置された休憩用ベンチに腰をかける。
 相変わらずひと気は少ない。壁にもたれかかって水槽を見上げ、余韻に浸るようぼんやりしていると、『ちょっと待ってて』といって席を外していたはずの紬が戻ってきた。
「はい、これ」
「あ。ありがと」
 てっきりトイレか何かかと思っていたのだが、違った。
 彼女が差し出してきたアイスレモンティのペットボトルを、ありがたく受け取る。
 代金を払おうとしたら断られた。こないだお見舞いで渡した紙パックジュースの返礼のつもりらしい。お見舞いはお見舞いだから気にしなくていいのに。
 彼女はおとなしい外見とは裏腹に意外と頑固な性格であることが判明済みなので、ここは大人しく引き下がって受けとった方がいいだろう。ありがたく僕の好物であるレモンティを啜った。
 しかしそこでふと気づいたのだが、ミルクティ派の彼女が僕と同じレモンティを美味そうに飲んでいる。
 売り切れだったか、あるいはレモン派に鞍替えったのか。
 そんなどうでもいいことを考えていると、彼女が唐突に言った。
「……それでね」
「うん?」
「批判があるってことは、アンチにも届いた証拠だと思うの」
「……?」
 一瞬、彼女が何を言っているのかよくわからなかった。
 目を点にしながらも、一応「う、うん?」と相槌を打つと、彼女は僕を見つめ、結論を見出した数学者が証明でも始めるように、その先を続ける。
「だからそれは、千隼くんの絵がファン以外の多くの人にも届いた証拠であって、あまり気にしすぎる必要はないっていうか。否定されれば傷つくのはわかるけど、その人たちのためだけに筆を折ったり遠慮したりする必要はないと思うんだ」
「えと、ごめん、なんの話?」
 ものすごく語尾を強めて力説しているのはわかるが、話の文脈が見えてこない。
 戸惑うように首を傾げて尋ねると、彼女はようやく己の昂りを鎮めるよう長い息を吐き出してから言った。
「千隼くんが色を塗れなくなった理由について、色々考えてたの」
「あー……」
「前にネットで誹謗中傷されて、ショックで色が塗れなくなったって話してくれたじゃない」
「うん」
 やはりそのことだったか、と、心の古傷がギシリと痛む。
 でも彼女は逃げることなく真剣な眼差しで僕を見つめ、続けた。
「それについて私なりに考えてたんだけど、最近、投稿サイトに自分の小説を掲載するようになって、始めて気づいたんだ。無名だと、どんなに頑張っても批判すらこないって」
「……」
「せっかく勇気を出して日の当たるところに作品を出したんだから、何かこう反応みたいなものが欲しいのに、そもそも閲覧数自体がそこまで伸びなくてね。ちゃんと読まれているのか、いないのかもよくわからない。だから、誰かから〝感想〟をもらえるだなんて夢のまた夢だった」
 悲しそうに自分の現状を吐露した彼女は、しばし項垂れる。
 ひしひしと伝わってくる悲壮感。不二の病を愁うそれとはまた別の悲しみに暮れていて、大いに僕の憐憫と同情を誘った。
 やがて彼女はゆるく息を吐き出して、前を見つめるように結論に結ぶ。
「でもさ、よく考えれば、よっぽど感情が爆発しない限り……いや、それか、普段から活動的に感想を書き残すタイプの読者でもない限り、わざわざ感想を書こうなんて思わないと思うんだよね。だって、筋金入りの本好きな私ですら、そうだもの」
「……」
「それじゃ作者さんに何も伝わらないしダメだっていうのはわかってはいるんだけど、私は自分の中で浸るように物語の余韻を味わえればそれでいいと思ってしまう内向的な人間だから、つい応援ボタン押す程度で済ませてしまうっていうか。それでも、熱量がないわけじゃないんだよ。気に入った作品は何度でも読むし、機会さえあればその作品を誰かに紹介したりもする。きっと誰よりもその作者さんの次回作を楽しみにしてると思うし、積極的に何かを口にしなくても自分なりの『応援』はしているつもりなの」
「……」
「多分、そういう寡黙な読者って、故意に批判的な意見を書き込む人間より遥かに多く存在してるんじゃないかなと思って」
 唐突すぎてやや面を食らっていたが、彼女のいうことはなんとなく理解できた。
 だって実際、僕だって彼女と同じで、元々コミュニケーションが得意ではないので、自分の気持ちをうまく相手に伝えることができないうえ、実際に何かアクションを起こそうとしても躊躇してしまう。
 結局、いつも何もできずに静観してるけれど、好きな作家が新作を出せばすぐに飛びつくし、誰かに好きな作品を問われれば胸を張って推したりもする。その人の作品を好きな気持ちは誰にも負けないつもりだ。
 かくいう当時の僕の作品にも、そういう寡黙な閲覧者はたくさんいたように思う。
 何かコメントやメッセージを残すわけではないが、お気に入りや応援のボタンを押してくれたり、絵を公開するたびに閲覧しにきてくれる人たちがいたから、ランキングでも上位に食い込めていたはずだったのに。
 それなのに僕は――。
「だからね、ごく一部の否定的な意見を持つ人のためだけに、筆を折ってしまうのは勿体ないと思ったの」
「……」
 それなのに僕は、いつも応援してくれる優しい読者よりも、攻撃的なアンチの意見にだけ耳を傾け、筆を折ってしまった。
「きっと、私みたいな静かなファンが千隼くんの帰りをずっと待ってるはずだから。だから……色が塗れなくて苦しい時は、批判的な人の顔より、応援してくれる人の顔を思い出して筆を握ってほしいなって思って」
 やはり彼女は、そのことについて言及しているようだった。
「……」
 いつも純粋に僕の創作活動を応援してくれていた人たちに、改めて申し訳なく思う気持ちが湧き上がると同時に、今まで悲観的にしか物事を見れていなかった自分の心に、わずかながら光がさしたかのような、少しだけ前向きになれそうな気がした。
 押し黙る僕とは正反対に、本人は言いたいことを言えてすっきりしたのか、晴れ晴れとした表情でレモンティを啜り、一つ、小さな欠伸をしている。
 そういやヒロト少年を見送りに出る前、たくさんの薬を飲んでいたっけ。その副作用なのか、彼女はちょっと眠たそうな眼でぼんやり水槽を見上げている。
「……ほんと、なんの話かと思えば唐突なことを言い出すよね」
「ずっと言おうと思ってたんだけど言うタイミングがなくてさ……。でも、今なら言えそうな気がしたから言っちゃった」
「そう。なんか不意打ちすぎて戸惑ったけど、おかげで少し目が覚めた気がするよ」
 ちらりと横目で見やると、彼女はしてやったりな顔でこちらを見ていた。
 彼女を励ますためにここへきたはずなのに、なんだか逆に励まされている気がしないでもない。
苦笑しながらも、彼女から視線を外してぼんやり考える。
(僕の絵を、待ってくれている人……か)
 僕の作品に誹謗中傷を投げつけてきた奴らもまた、僕の帰りを待っているだろう。
 そう思うと怖くて仕方がないが、深呼吸して目を閉じ、彼女の助言通りにそいつらの何倍もの寡黙な応援者たちが僕の帰りを待っているかもしれないことを想像してみる。
 僕の描いた絵が、誰かの活力に繋がる。
 ヒーローの絵で喜んでくれた英太のように。あるいは、色のない世界に一瞬だけ色が灯ったように見えたと嬉しそうに語った紬のように。
 大切な人たちの幸せそうな笑顔を思い浮かべると、不思議と古傷の痛みが和らいだ気がして、その存在がとても心強く、頼もしく感じた。
 やっぱり、励ましにきたはずが逆に励まされ、焚き付けられたようだ。
「ありがとう、紬」
 照れくささを感じながらも素直にそう告げたが、返事はなかった。
 魚鑑賞に夢中になっているのかと思って、横目でそっと彼女の顔を覗き見ると、彼女は静かに眠っていた。
 一瞬、息をしていないんじゃないかと思ってかなり焦ったが、寝ているだけのようだ。
 心地良さそうな寝息が控えめに溢れている。
 落とさないよう、彼女の飲みかけのペットボトルを手の中から引き抜き、しばらく壁にもたれて彼女の安らかな睡眠を見守る。
 ほどなくすると彼女の頭が僕の肩にソッともたれかかってきて、ギョッと心臓を飛び出しかけた。
「……」
 十六年間生きてきて、こんな近距離まで女子に接近したことがない。
 緊張気味に視線だけを動かして彼女を見たけれど、当然のことながら頭しか見えなかった。
 肩にこもる熱。柔らかい仄かなシャンプーの香り。一度でいいから触れてみたいと思っていたしなやかな髪が無邪気に僕の頬をくすぐり、なんだかこそばゆくてたまらない。
 起こそうか、体勢を変えようか迷ったけれど、心地よい眠りを邪魔するのは気が引けるので、結局僕はそのまま地蔵のように固まって時を過ごした。
(もう少しだけ、このままで……)
 僕の願う〝もう少し〟は、だいぶ長いこと続いて――。
 三月の中旬。仄暗さと静けさに覆われた神秘的な空間で、僕と死に向かう彼女はひとときの安らぎを共にした。