「御影。準備は良いか?」
週明けの月曜日。俊平は放課後に文芸探求部の部室を訪れ、繭加に対して演技プランの最終確認を行っていた。あれから綿密な作戦会議と脚本作りを重ね、役者に選ばれた繭加はそれらを必死に頭に叩きこんだ。最初こそ演技に自信が無いと言っていた繭加だが、蓋を開けてみればこれがなかなかの演技派女優であった。演劇に関わっていた経験は無いそうなので、ある種の才能なのだろう。
「だ、だ、大丈夫ですよ。アイザック先輩」
「誰だそいつは」
昼休みに立ち寄った時には平静を装っていた繭加だったが、今はあからさまに緊張しており、小刻みに震えながら明後日の方向を見つめていた。演技派には違いないが、舞台度胸はまた別問題だったようだ。
「練習通りやれば大丈夫だ。俺も近くにいるから、何かあればすぐに合流するから」
主演女優を安心させるため、俊平は精一杯の励ましの言葉を送る。基本的には繭加一人で桜木志保から情報を聞き出す計画だが、いざとなれば偶然を装って俊平が合流するプランBも用意してある。
「イメージもしっかり出来ていますし、藍沢先輩存在はとても心強いです……でも、緊張だけはどうにもなりません」
――むしろダークサイドを探る普段の活動の方が緊張しそうなものだが。
これ以上刺激すると繭加がフリーズしそうなので言葉には出さなかったが、俊平は内心そんなことを考えていた。あれは素だからこそ緊張しないのかもしれない。
「藍沢先輩、私の緊張をどうにかしてください!」
「いや、そう言われてもな」
繭加の無茶振りに俊平はうろたえる。人一人の緊張を和らげるというのはそう簡単なものではない。
「分かったよ。緊張を解くお呪いを教えてやる」
「本当ですか」
「よく効くぞ。前髪を上げておでこを出してみろ」
「こうですか?」
繭加は素直に従い、右手で前髪をかき上げておでこを露わにする。俊平は繭加のおでこに右手を近づけると。
「痛い!」
繭加のおでこに、俊平が勢い良く放ったデコピンが炸裂した。
「何するんですか! 藍沢先輩」
「ほら、緊張なんで吹っ飛んだろ?」
「それはそうかもしれませんが、いきなり女の子にデコピンはないですよ。お呪いと言いながら、めちゃくちゃ物理的じゃないですか!」
「大丈夫。お前以外の女の子にはこんな真似はしない」
「だったら私にもやらないでくださいよ!」
「特別扱いだ」
「嫌ですよ。こんな特別扱い」
「もう一発お見舞いしようか? もっと緊張が消えるぜ」
「その時は華麗に回避し、カウンターで藍沢先輩にデコピンします」
「よし、その口ぶりなら緊張はもう大丈夫そうだな」
怒りのあまり繭加は急に饒舌になった。全ては俊平の計算通りだ。気を紛らわせるためには別のことに意識を向けさせることが一番だ。この場合はデコピンによる痛みと俊平に対する怒りがそれにあたる。
「緊張は確かに無くなりました。代わりに藍沢先輩に対する怒りの感情がふつふつと湧き上がってきましたが」
「その怒りを糧に頑張ってこい。俺は逃げも隠れもしない」
「登場の早すぎる強キャラみたいなセリフですね」
冗談に冗談で返す程度には、繭加も普段の調子を取り戻しつつあった。この様子なら大丈夫そうだ。
※※※
「初めまして。桜木先輩ですよね?」
「ええ、そうだけど」
生徒達が続々と下校していく夕暮れ時の校門前で、繭加は桜木志保に接触した。大よその行動パターンは調査済みなので、彼女の下校時間に合わせて校門で待ち構えることは容易だった。
「突然ごめんなさい。私は一年生の御影繭加と申します。実は桜木先輩にお話ししたいことがありまして」
「私に何の用?」
桜木は繭加の顔を見て小首を傾げた。同じ学校の生徒とはいえ、初対面の後輩に突然話があると言われたら、困惑するのも当然だ。
「藤枝燿一さんについてです」
「……藤枝の?」
藤枝の名前が出た瞬間、困惑気味だった桜木の表情に、怒りと悲しみが混在して複雑に歪んだ。
「桜木先輩は、藤枝さんとお付き合いされていたんですよね?」
「あなたには関係ないでしょう」
「無関係ではありません」
繭加の一言に桜木の眉尻が上がる。確実に興味を引いた。
「私も藤枝さんと交際していて……突然捨てられました」
桜木に思考する暇は与えない。繭加はすかさず話の確信を突き、一気に自分のペースへと持ち込む。
「あなたも被害者なの?」
「はい……だけど何股もかけられた末に捨てられたなんて、友達にも相談出来なくて。同じ経験をした桜木先輩にだったら話せるかなって」
「どうして私のことが分かったの? 藤枝と付き合ってたとは公言してなかったから、一部の友人を除いて、知ってる人は少ないはずだけど」
「それは……」
繭加は言葉に詰まる。これまでの会話は多少の差異はあれど、打ち合わせで想定してきたものばかりだったので、違和感無く進めることが出来ていた。だが、想定外の発言に対するアドリブが求められる場面の練習は十分ではない。
「御影さん?」
背中に冷や汗をかきつつ、繭加は紡ぐ言葉を必死に考える。間が空けば空くほど怪しまれる。そうなれば全てが水の泡だ。
「ふ、藤枝さん本人から聞いたんです」
考えるよりも先に、アドリブが口から飛び出していた。
――私の馬鹿! 流石にそれはないって。
声に出してしまってから、繭加は自分の発言の危うさに気づいた。いくらなんでも、振られた人間が、振った本人から過去に振った女のことを聞いたというのは無理がある。
――藍沢先輩ごめんなさい。私完全にやっちゃいました! デコピンでもなんでも好きにしてください!
心の中で号泣? しながら、繭加は桜木の次の言葉を待った。一瞬が十分にも一時間にも感じられる。指摘するのなら、ひと思いにやってほしい。
「それなら納得。本当に最低だよね。過去に振った女の子の名前、私も何度も藤枝に効かされたもの」
「……そ、そうですよね! 本当に最低ですあの人は」
まさかの展開に内心では激しく動揺しながらも、怪しまれないように繭加は話を桜木に合わせる。この偶然が幸いし、桜木の繭加に対する認識は初対面の後輩から、境遇の似た被害者同士へと変わり始めている。ある種の仲間意識が芽生えつつあった。
「学校でするような話じゃないし、場所を変えましょう。御影さんともっと話したくなってきた」
「もちろんです」
「私の行きつけの喫茶店があるから、そこに行きましょう」
繭加がコクリと頷くと、桜木は喫茶店に案内するために繭加の一歩を前を歩き始める。後に続く繭加は一度振り返ると、校門の方へと視線を送った。
「御影のやつ、どうにか乗り切ったな」
遠目に繭加と桜木のやり取りを見守っていた俊平は安堵のため息を漏らす。繭加のアドリブが失敗した時は偶然を装って話しかけ、繭加を回収する可能性もあったが、何とか第一関門を突破することが出来た。繭加と桜木を見失わない程度の距離を保ちつつ、俊平は尾行を開始した。
「こんにちはマスター」
「いらっしゃいませ」
繭加と桜木は学校から歩いて五分程の距離にあるレトロな喫茶店を訪れた。桜木は慣れた様子で壮年のマスターに挨拶をし、繭加も続けて会釈をする。常連である桜木に案内されて、一番奥の席に移動する。お客さんは少なく、内緒話をするにはうってつけの状況だ。
「私はアイスティーとサンドイッチを。御影さんは?」
「では、私はオレンジジュースとチーズケーキで」
「ご注文、承りました」
笑顔で注文を取ると、マスターは厨房へと消えた。
「それで御影さん、藤枝の話だけど」
桜木は思いのほか前のめりで、早速本題に入ろうとしている。まだ俊平が喫茶店に到着していないので、やり取りを始めてしまっていいのか繭加は少し悩む。
「いらっしゃいませ」
マスターの声が新たな来客を知らせた。繭加がさり気なく一瞥すると、入店したきのは俊平だった。直接の知り合いではないが、同じ学年の桜木に顔を覚えられている可能性を考慮して、制服のシャツを脱いで黒いパーカーを着て、伊達メガネもかけている。桜木の位置からは死角の席に座っているので、まず怪しまれることはないだろう。
「聞かせてください。桜木先輩」
俊平も到着したので、桜木から話を聞く準備は整った。
「思い返すと自分が馬鹿らしく思えるんだけどさ……藤枝には一目惚れで、私の方から告白したの。藤枝の人気は凄くてライバルは多かったから、正直ダメ元だったんだけど、あいつは二つ返事でOKしてくれて。あの時は嬉しかったな」
「私も似たような感じです。一目惚れして告白したまでは良かったんですけど……」
繭加はそれっぽく話を桜木に合わせる。相手の共感を得る、もしくは相手に共感して距離感を縮める。返しはアドリブだが、流れ自体は打ち合わせの通りだ。
「あいつ、イケメンだしおしゃれだし、普段の態度は好青年そのものだし。捨てられた私が言うのもなんだけど、モテるのは納得よ。だけど中身が最低」
「桜木さんと藤枝さんの間に、何があったんですか?」
「その口ぶりだと、御影さんは被害に遭わなくて済んだみたいね」
「被害ですか?」
何かあると感じた繭加は桜木にばれないよう、スカートのポケットに忍ばせていたボイスレコーダーのスイッチを入れた。
「……藤枝が女の子をとっかえひっかえして、気に入らないと直ぐに捨てるような男だってのは、あなたも経験済みだとは思うけど、あいつが何よりも最低なのは、自分に悪評が立たないように対策まで講じてるところ」
「対策ですか。それはどういった?」
「……関係の進んだ女の子のあられもない姿を、写真や映像で隠し撮りしておくのよ。別れ際はその存在をちらつかせて、自分の悪評を広めないように強要するの。もし余計な事を言ったら分かってるだろって」
「最低ですね……」
「本当に最低……弱みがあるのはお互い様だけど、藤枝ってどこか狂気じみたところがあってさ。誰も立ち向かおうとは思わない……あいつは怒らせたらいけないやつ」
「……なんてやつ」
繭加の言葉は桜木から情報を聞き出すための演技ではなく、一人の女性として本心から出た言葉だった。同時に、一部の女子を除き、藤枝の人気が継続していることにもこれで判明した。藤枝の悪質な工作により、彼の本性は露見していないのだ。被害者も本当に親しい友人くらいには相談したかもしれないが、心境を思えばそこが限界だろう。俊平が桜木の存在を知ることになったは奇跡的な確率だった。
「桜木さんも被害に?」
「……うん。別れ際に実物を見せられた。いつ撮られたのか、まったく分からなかったよ」
桜木は自虐的に笑い、うるんだ瞳には悲しみと悔しさが混在していた。情報を聞き出すためとはいえ、彼女を騙している繭加の心は痛む。
「それにしても、御影さんはよく大丈夫だったね」
「丁度、藤枝さんのお家に誘われた時期に悪い噂を耳にしたもので、そこまで深入りしないで別れることが出来ました」
実際のところ、繭加にはまだ藤枝と相対したことはないが、調査の過程でその顔は何度も目にしている。顔を思い浮かべて想像力をフルに働かせ、自然な口調で嘘を吐く。
「藤枝の被害者は、どれだけいるのでしょうか?」
「正確な人数は分からないけど、卒業した先輩とか、よその学校の生徒とかもいると思うし、相当数に上ると思う」
「一年生の頃の話は何か知りませんか?」
「一年生の頃って、藤枝の?」
「はい。女性関係とか」
橘芽衣に関する情報を得るために、繭加は一歩踏み込んだ質問をした。ピンポイントに一年生の頃と指定するのは、ひょっとしたら不自然かもしれない。それでも情報を聞けるチャンスを逃したくはない。
「急にどうしたの? 何だか怖い顔だよ」
桜木のその言葉に繭加はハッとなる。まったく自覚していなかったが、その表情は初対面の人間を威圧してしまう程度には追い詰められていた。役者の仮面が剥がれてきている。
「……後から知ったことですが、知り合いに、当時の藤枝から被害を受けた可能性のある女子生徒がいるんです。その子は決して話そうとはしませんが、私、どうしても放っておけなくて」
その言葉に嘘偽りはない。繭加の従姉である芽衣は恐らく、一年生の頃に藤枝から被害に遭っていた。そして決してそのことを話そうとはしない。もう話すことなど出来ない。
「御影さんも色々と訳ありなんだね。分かった。私の知っている限りのことは教えてあげる。ただしあまり期待はしないでね。藤枝が一年の頃ってことは、私が入学するよりも前の話だし」
「ありがとうございます」
打ち解けたとまでは言えないかもしれない。それでも藤枝に対する怒りによって、確かな連帯感が生まれていた。
「ほとんどが分かれた後で知ったことだけど、藤枝が変わったのは高校生になってからみたいよ。何でも一年の夏休み頃から女遊びが激しくなったとか。同じ学校の生徒はもちろん他校の子、果てには年上の社会人まで口説いて回ってたらしいから」
「夏休みからですか?」
「私の知る限りではね。それがどうかした?」
「い、いえ。迷惑な高校デビューだなと思っただけです」
「まったくだよね」
芽衣が転落死したのは一昨年のゴールデンウイーク明け。夏休みだと時期がずれる。表面化していなかっただけで、藤枝の女遊びはすでに始まっており。芽衣はその時期の被害者だったということなのだろうか。
「そういえば一回、藤枝が動揺したことがあったけな」
「何があったんですか?」
「私がまだ藤枝の本性を知らないで、普通に付き合ってた時の話なんだけど。学校行事の話の流れで、二年前に死んだ女子生徒の話題になったのよ。藤枝は同級生だったらしいから、興味本位でその女子生徒のことを聞いてみたら藤枝の奴、急に顔が青ざめて、気分が悪いって言って帰っちゃったの。不謹慎だと思って流石にそれ以上は追求しなかったけど、もしかしたら藤枝、その子の死に関わってたりして」
途端に繭加から表情が消えたが、記憶を思い起こすことに集中していた桜木はその変化には気づいていない。
「……って、いくら藤枝でもそこまではしないか」
「そうですね。流石にそれはないと思います」
表情を取り繕う余裕が無かった繭加は咄嗟に下を向いてストローでジュースを飲んだ。緊張感で喉が渇く。飲むペースが明らかに早いが、表情を不審に思われるよりはマシだ。
二人のやり取りに聞き耳を立てていた俊平もまた、感情を失ってしまったかのように無表情だった。水面のような表情とは裏腹に、心は大海の荒波のように乱れている。その波は怒りさえも飲み込み、海底へと引きずり込んでいく。
真実を確かめなくてはいけない。その真実が自分の望むものであるとは限らない。それでも確かめてなくてはいけない。真実なんてものは、優しくないことの方が多いのだから。
「そろそろ帰ろうか。明るい話題では無かったけど、会えて良かったわ。御影さん」
「私もです。桜木先輩」
お茶を終えた繭加と桜木が会計のために席を立った。俊平は顔を見られないように窓側を見やり、二人が通り過ぎるのを待った。
週明けの月曜日。俊平は放課後に文芸探求部の部室を訪れ、繭加に対して演技プランの最終確認を行っていた。あれから綿密な作戦会議と脚本作りを重ね、役者に選ばれた繭加はそれらを必死に頭に叩きこんだ。最初こそ演技に自信が無いと言っていた繭加だが、蓋を開けてみればこれがなかなかの演技派女優であった。演劇に関わっていた経験は無いそうなので、ある種の才能なのだろう。
「だ、だ、大丈夫ですよ。アイザック先輩」
「誰だそいつは」
昼休みに立ち寄った時には平静を装っていた繭加だったが、今はあからさまに緊張しており、小刻みに震えながら明後日の方向を見つめていた。演技派には違いないが、舞台度胸はまた別問題だったようだ。
「練習通りやれば大丈夫だ。俺も近くにいるから、何かあればすぐに合流するから」
主演女優を安心させるため、俊平は精一杯の励ましの言葉を送る。基本的には繭加一人で桜木志保から情報を聞き出す計画だが、いざとなれば偶然を装って俊平が合流するプランBも用意してある。
「イメージもしっかり出来ていますし、藍沢先輩存在はとても心強いです……でも、緊張だけはどうにもなりません」
――むしろダークサイドを探る普段の活動の方が緊張しそうなものだが。
これ以上刺激すると繭加がフリーズしそうなので言葉には出さなかったが、俊平は内心そんなことを考えていた。あれは素だからこそ緊張しないのかもしれない。
「藍沢先輩、私の緊張をどうにかしてください!」
「いや、そう言われてもな」
繭加の無茶振りに俊平はうろたえる。人一人の緊張を和らげるというのはそう簡単なものではない。
「分かったよ。緊張を解くお呪いを教えてやる」
「本当ですか」
「よく効くぞ。前髪を上げておでこを出してみろ」
「こうですか?」
繭加は素直に従い、右手で前髪をかき上げておでこを露わにする。俊平は繭加のおでこに右手を近づけると。
「痛い!」
繭加のおでこに、俊平が勢い良く放ったデコピンが炸裂した。
「何するんですか! 藍沢先輩」
「ほら、緊張なんで吹っ飛んだろ?」
「それはそうかもしれませんが、いきなり女の子にデコピンはないですよ。お呪いと言いながら、めちゃくちゃ物理的じゃないですか!」
「大丈夫。お前以外の女の子にはこんな真似はしない」
「だったら私にもやらないでくださいよ!」
「特別扱いだ」
「嫌ですよ。こんな特別扱い」
「もう一発お見舞いしようか? もっと緊張が消えるぜ」
「その時は華麗に回避し、カウンターで藍沢先輩にデコピンします」
「よし、その口ぶりなら緊張はもう大丈夫そうだな」
怒りのあまり繭加は急に饒舌になった。全ては俊平の計算通りだ。気を紛らわせるためには別のことに意識を向けさせることが一番だ。この場合はデコピンによる痛みと俊平に対する怒りがそれにあたる。
「緊張は確かに無くなりました。代わりに藍沢先輩に対する怒りの感情がふつふつと湧き上がってきましたが」
「その怒りを糧に頑張ってこい。俺は逃げも隠れもしない」
「登場の早すぎる強キャラみたいなセリフですね」
冗談に冗談で返す程度には、繭加も普段の調子を取り戻しつつあった。この様子なら大丈夫そうだ。
※※※
「初めまして。桜木先輩ですよね?」
「ええ、そうだけど」
生徒達が続々と下校していく夕暮れ時の校門前で、繭加は桜木志保に接触した。大よその行動パターンは調査済みなので、彼女の下校時間に合わせて校門で待ち構えることは容易だった。
「突然ごめんなさい。私は一年生の御影繭加と申します。実は桜木先輩にお話ししたいことがありまして」
「私に何の用?」
桜木は繭加の顔を見て小首を傾げた。同じ学校の生徒とはいえ、初対面の後輩に突然話があると言われたら、困惑するのも当然だ。
「藤枝燿一さんについてです」
「……藤枝の?」
藤枝の名前が出た瞬間、困惑気味だった桜木の表情に、怒りと悲しみが混在して複雑に歪んだ。
「桜木先輩は、藤枝さんとお付き合いされていたんですよね?」
「あなたには関係ないでしょう」
「無関係ではありません」
繭加の一言に桜木の眉尻が上がる。確実に興味を引いた。
「私も藤枝さんと交際していて……突然捨てられました」
桜木に思考する暇は与えない。繭加はすかさず話の確信を突き、一気に自分のペースへと持ち込む。
「あなたも被害者なの?」
「はい……だけど何股もかけられた末に捨てられたなんて、友達にも相談出来なくて。同じ経験をした桜木先輩にだったら話せるかなって」
「どうして私のことが分かったの? 藤枝と付き合ってたとは公言してなかったから、一部の友人を除いて、知ってる人は少ないはずだけど」
「それは……」
繭加は言葉に詰まる。これまでの会話は多少の差異はあれど、打ち合わせで想定してきたものばかりだったので、違和感無く進めることが出来ていた。だが、想定外の発言に対するアドリブが求められる場面の練習は十分ではない。
「御影さん?」
背中に冷や汗をかきつつ、繭加は紡ぐ言葉を必死に考える。間が空けば空くほど怪しまれる。そうなれば全てが水の泡だ。
「ふ、藤枝さん本人から聞いたんです」
考えるよりも先に、アドリブが口から飛び出していた。
――私の馬鹿! 流石にそれはないって。
声に出してしまってから、繭加は自分の発言の危うさに気づいた。いくらなんでも、振られた人間が、振った本人から過去に振った女のことを聞いたというのは無理がある。
――藍沢先輩ごめんなさい。私完全にやっちゃいました! デコピンでもなんでも好きにしてください!
心の中で号泣? しながら、繭加は桜木の次の言葉を待った。一瞬が十分にも一時間にも感じられる。指摘するのなら、ひと思いにやってほしい。
「それなら納得。本当に最低だよね。過去に振った女の子の名前、私も何度も藤枝に効かされたもの」
「……そ、そうですよね! 本当に最低ですあの人は」
まさかの展開に内心では激しく動揺しながらも、怪しまれないように繭加は話を桜木に合わせる。この偶然が幸いし、桜木の繭加に対する認識は初対面の後輩から、境遇の似た被害者同士へと変わり始めている。ある種の仲間意識が芽生えつつあった。
「学校でするような話じゃないし、場所を変えましょう。御影さんともっと話したくなってきた」
「もちろんです」
「私の行きつけの喫茶店があるから、そこに行きましょう」
繭加がコクリと頷くと、桜木は喫茶店に案内するために繭加の一歩を前を歩き始める。後に続く繭加は一度振り返ると、校門の方へと視線を送った。
「御影のやつ、どうにか乗り切ったな」
遠目に繭加と桜木のやり取りを見守っていた俊平は安堵のため息を漏らす。繭加のアドリブが失敗した時は偶然を装って話しかけ、繭加を回収する可能性もあったが、何とか第一関門を突破することが出来た。繭加と桜木を見失わない程度の距離を保ちつつ、俊平は尾行を開始した。
「こんにちはマスター」
「いらっしゃいませ」
繭加と桜木は学校から歩いて五分程の距離にあるレトロな喫茶店を訪れた。桜木は慣れた様子で壮年のマスターに挨拶をし、繭加も続けて会釈をする。常連である桜木に案内されて、一番奥の席に移動する。お客さんは少なく、内緒話をするにはうってつけの状況だ。
「私はアイスティーとサンドイッチを。御影さんは?」
「では、私はオレンジジュースとチーズケーキで」
「ご注文、承りました」
笑顔で注文を取ると、マスターは厨房へと消えた。
「それで御影さん、藤枝の話だけど」
桜木は思いのほか前のめりで、早速本題に入ろうとしている。まだ俊平が喫茶店に到着していないので、やり取りを始めてしまっていいのか繭加は少し悩む。
「いらっしゃいませ」
マスターの声が新たな来客を知らせた。繭加がさり気なく一瞥すると、入店したきのは俊平だった。直接の知り合いではないが、同じ学年の桜木に顔を覚えられている可能性を考慮して、制服のシャツを脱いで黒いパーカーを着て、伊達メガネもかけている。桜木の位置からは死角の席に座っているので、まず怪しまれることはないだろう。
「聞かせてください。桜木先輩」
俊平も到着したので、桜木から話を聞く準備は整った。
「思い返すと自分が馬鹿らしく思えるんだけどさ……藤枝には一目惚れで、私の方から告白したの。藤枝の人気は凄くてライバルは多かったから、正直ダメ元だったんだけど、あいつは二つ返事でOKしてくれて。あの時は嬉しかったな」
「私も似たような感じです。一目惚れして告白したまでは良かったんですけど……」
繭加はそれっぽく話を桜木に合わせる。相手の共感を得る、もしくは相手に共感して距離感を縮める。返しはアドリブだが、流れ自体は打ち合わせの通りだ。
「あいつ、イケメンだしおしゃれだし、普段の態度は好青年そのものだし。捨てられた私が言うのもなんだけど、モテるのは納得よ。だけど中身が最低」
「桜木さんと藤枝さんの間に、何があったんですか?」
「その口ぶりだと、御影さんは被害に遭わなくて済んだみたいね」
「被害ですか?」
何かあると感じた繭加は桜木にばれないよう、スカートのポケットに忍ばせていたボイスレコーダーのスイッチを入れた。
「……藤枝が女の子をとっかえひっかえして、気に入らないと直ぐに捨てるような男だってのは、あなたも経験済みだとは思うけど、あいつが何よりも最低なのは、自分に悪評が立たないように対策まで講じてるところ」
「対策ですか。それはどういった?」
「……関係の進んだ女の子のあられもない姿を、写真や映像で隠し撮りしておくのよ。別れ際はその存在をちらつかせて、自分の悪評を広めないように強要するの。もし余計な事を言ったら分かってるだろって」
「最低ですね……」
「本当に最低……弱みがあるのはお互い様だけど、藤枝ってどこか狂気じみたところがあってさ。誰も立ち向かおうとは思わない……あいつは怒らせたらいけないやつ」
「……なんてやつ」
繭加の言葉は桜木から情報を聞き出すための演技ではなく、一人の女性として本心から出た言葉だった。同時に、一部の女子を除き、藤枝の人気が継続していることにもこれで判明した。藤枝の悪質な工作により、彼の本性は露見していないのだ。被害者も本当に親しい友人くらいには相談したかもしれないが、心境を思えばそこが限界だろう。俊平が桜木の存在を知ることになったは奇跡的な確率だった。
「桜木さんも被害に?」
「……うん。別れ際に実物を見せられた。いつ撮られたのか、まったく分からなかったよ」
桜木は自虐的に笑い、うるんだ瞳には悲しみと悔しさが混在していた。情報を聞き出すためとはいえ、彼女を騙している繭加の心は痛む。
「それにしても、御影さんはよく大丈夫だったね」
「丁度、藤枝さんのお家に誘われた時期に悪い噂を耳にしたもので、そこまで深入りしないで別れることが出来ました」
実際のところ、繭加にはまだ藤枝と相対したことはないが、調査の過程でその顔は何度も目にしている。顔を思い浮かべて想像力をフルに働かせ、自然な口調で嘘を吐く。
「藤枝の被害者は、どれだけいるのでしょうか?」
「正確な人数は分からないけど、卒業した先輩とか、よその学校の生徒とかもいると思うし、相当数に上ると思う」
「一年生の頃の話は何か知りませんか?」
「一年生の頃って、藤枝の?」
「はい。女性関係とか」
橘芽衣に関する情報を得るために、繭加は一歩踏み込んだ質問をした。ピンポイントに一年生の頃と指定するのは、ひょっとしたら不自然かもしれない。それでも情報を聞けるチャンスを逃したくはない。
「急にどうしたの? 何だか怖い顔だよ」
桜木のその言葉に繭加はハッとなる。まったく自覚していなかったが、その表情は初対面の人間を威圧してしまう程度には追い詰められていた。役者の仮面が剥がれてきている。
「……後から知ったことですが、知り合いに、当時の藤枝から被害を受けた可能性のある女子生徒がいるんです。その子は決して話そうとはしませんが、私、どうしても放っておけなくて」
その言葉に嘘偽りはない。繭加の従姉である芽衣は恐らく、一年生の頃に藤枝から被害に遭っていた。そして決してそのことを話そうとはしない。もう話すことなど出来ない。
「御影さんも色々と訳ありなんだね。分かった。私の知っている限りのことは教えてあげる。ただしあまり期待はしないでね。藤枝が一年の頃ってことは、私が入学するよりも前の話だし」
「ありがとうございます」
打ち解けたとまでは言えないかもしれない。それでも藤枝に対する怒りによって、確かな連帯感が生まれていた。
「ほとんどが分かれた後で知ったことだけど、藤枝が変わったのは高校生になってからみたいよ。何でも一年の夏休み頃から女遊びが激しくなったとか。同じ学校の生徒はもちろん他校の子、果てには年上の社会人まで口説いて回ってたらしいから」
「夏休みからですか?」
「私の知る限りではね。それがどうかした?」
「い、いえ。迷惑な高校デビューだなと思っただけです」
「まったくだよね」
芽衣が転落死したのは一昨年のゴールデンウイーク明け。夏休みだと時期がずれる。表面化していなかっただけで、藤枝の女遊びはすでに始まっており。芽衣はその時期の被害者だったということなのだろうか。
「そういえば一回、藤枝が動揺したことがあったけな」
「何があったんですか?」
「私がまだ藤枝の本性を知らないで、普通に付き合ってた時の話なんだけど。学校行事の話の流れで、二年前に死んだ女子生徒の話題になったのよ。藤枝は同級生だったらしいから、興味本位でその女子生徒のことを聞いてみたら藤枝の奴、急に顔が青ざめて、気分が悪いって言って帰っちゃったの。不謹慎だと思って流石にそれ以上は追求しなかったけど、もしかしたら藤枝、その子の死に関わってたりして」
途端に繭加から表情が消えたが、記憶を思い起こすことに集中していた桜木はその変化には気づいていない。
「……って、いくら藤枝でもそこまではしないか」
「そうですね。流石にそれはないと思います」
表情を取り繕う余裕が無かった繭加は咄嗟に下を向いてストローでジュースを飲んだ。緊張感で喉が渇く。飲むペースが明らかに早いが、表情を不審に思われるよりはマシだ。
二人のやり取りに聞き耳を立てていた俊平もまた、感情を失ってしまったかのように無表情だった。水面のような表情とは裏腹に、心は大海の荒波のように乱れている。その波は怒りさえも飲み込み、海底へと引きずり込んでいく。
真実を確かめなくてはいけない。その真実が自分の望むものであるとは限らない。それでも確かめてなくてはいけない。真実なんてものは、優しくないことの方が多いのだから。
「そろそろ帰ろうか。明るい話題では無かったけど、会えて良かったわ。御影さん」
「私もです。桜木先輩」
お茶を終えた繭加と桜木が会計のために席を立った。俊平は顔を見られないように窓側を見やり、二人が通り過ぎるのを待った。